12 / 50
8 街
久し振りの街歩きに、ラシェルは上機嫌だった。
「ここが噂の、美味しい焼き物屋さん」
甘い香りが鼻腔をくすぐる。バターや蜂蜜の香りが堪らない。街遊びは慣れているため、外をうろつくのは楽しみの一つだ。
やっと休みをもらえたのだし、ここは買い物を楽しみたい。
貴族の好む高級街は避け、広場の方へ向かう。
公爵領は王弟に渡された領地であって、かなり栄えていた。王弟が早くに死んだため、噂ではあまり賑やかさはないと聞いていたのだが、噂に過ぎなかったようだ。
現公爵になってから、王宮とは一歩離れた付き合いをしているため、王宮に届く公爵領の話が古いのかもしれない。いや、王が病で表には出てこなくなったためだろう。最近の公爵領の噂は、良いものとは言えない。
田舎のままだとか、北部の山村と変わりがないとか、発展がまったくない、古臭い時代のままだとか、とにかくど田舎と称された。
引きこもりの公爵は、ほとんど公爵領から出てこない。両親が生きていた頃は違ったが、今は影すら見えない。
王宮で建国記念のパーティがあっても、出席はしなかったそうだ。ラシェルはその頃王宮にはいなかったので、クリストフから聞いたわけだが。
そのため、公爵像はまったくわからない。クリストフの一つか二つ年上だったはずなので、年齢で言えば若いのだが、婚約話の一つもなかった。後継者はおらず、妹は外国に嫁いでいるため、たった一人で公爵領を担っている。
公爵領に隣接した国へ逃げるのに、田舎だから通り抜けがしやすかろうと公爵領を選んだが、それは認識違いだったようだ。
王妃が絡んでいれば、納得の噂というところだろう。
王が死ねば、公爵領に何をするだろうか。今でさえおかしな噂が流れているのだから、公爵家の人間が王妃を警戒するのは当然だ。
「それにしても、これおいしいわあ」
甘い焼き菓子が心を緩やかにしてくれる。広場のベンチに座って、もしゃもしゃ食べながら人の流れを眺めた。
都の街の賑やかさが懐かしく感じる。こちらは思ったより人が多いが、都独特の雑踏はない。穏やかな雰囲気で歩いている人が多いので、平和なのだろう。間違っても小道にごろつきが座り込んでいたりしない。
「いい街なのね」
王妃に睨まれている割に、整備はしっかりしている。隣国との貿易があるため、王妃から弾かれても、問題ないのだろう。これは王妃が凄んでいる姿が目に浮かぶようだ。
のんびりと時間を過ごしていると、目端にうつった赤色のマントに、ラシェルはぎくりとした。咄嗟にそれを背にして、少し離れる。
外でビールを飲んでいる男たちもそれらに気付き、なにがあるのか怪訝な顔で見遣った。
派手な色のマントを羽織っているのだから、集団でいれば嫌でも目に入る。道を通る者たちも、怪訝な顔でマントの男たちを横目にした。
「最近見る、あの騎士たちはなんなんだ? 宿に泊まっているらしいが。食堂も貸し切りみたいになっていてよ」
「死体を探してるんだろ。ほら、橋で馬車が川に落ちたって」
「あの日の嵐じゃ、海まで流れてるだろ。川に残ってるとは思えないし、海を探すのは無理があるだろう」
「王子の婚約者候補だったらしいぜ。悪事を働いたとかなんとか。護送の途中だったらしい」
「それなのに探してるのか? 更迭された子爵令嬢なんてよ」
公爵領でも噂になっているのは知っていたが、街の者たちまで知っている。王妃の命令で、ここまでその噂が流れてきたのだろうか。王妃は随分と努力しているようだ。
赤色のマントを羽織った騎士たちは、男たちの声に気付き、ちらりとそちらに視線を送る。
あの視線に留まるわけにはいかない。ラシェルはフードを被り、脇道にそれる。赤色のマントの騎士の中に、知っている顔が見えたからだ。
クリストフの側近、アーロン。王妃の手は早々に引き上げたと思っていたが、アーロンが来たとなると、あの騎士の集まりの中に、王妃の手が混ざっていることだろう。うっかり子爵令嬢のなにかが見つかって、面倒にならないように、監視しているに違いない。
一瞬目が合ったかもしれない。アーロンが人を追うかのように走り出して、周囲を見回した。
こんなところで見つかるなんて、お断りだ。
ラシェルは人混みに紛れて、小走りになる。気付かれたか、アーロンがこちらに向かってきた。
勘が良すぎだろう。普段はぼうっとしているくせに。
クリストフと同じで、少々抜けたところのある男だが、さすがに王子の騎士として選ばれるだけあるか。
小走りで逃げようとすると、途端、腕を引かれた。
「ここが噂の、美味しい焼き物屋さん」
甘い香りが鼻腔をくすぐる。バターや蜂蜜の香りが堪らない。街遊びは慣れているため、外をうろつくのは楽しみの一つだ。
やっと休みをもらえたのだし、ここは買い物を楽しみたい。
貴族の好む高級街は避け、広場の方へ向かう。
公爵領は王弟に渡された領地であって、かなり栄えていた。王弟が早くに死んだため、噂ではあまり賑やかさはないと聞いていたのだが、噂に過ぎなかったようだ。
現公爵になってから、王宮とは一歩離れた付き合いをしているため、王宮に届く公爵領の話が古いのかもしれない。いや、王が病で表には出てこなくなったためだろう。最近の公爵領の噂は、良いものとは言えない。
田舎のままだとか、北部の山村と変わりがないとか、発展がまったくない、古臭い時代のままだとか、とにかくど田舎と称された。
引きこもりの公爵は、ほとんど公爵領から出てこない。両親が生きていた頃は違ったが、今は影すら見えない。
王宮で建国記念のパーティがあっても、出席はしなかったそうだ。ラシェルはその頃王宮にはいなかったので、クリストフから聞いたわけだが。
そのため、公爵像はまったくわからない。クリストフの一つか二つ年上だったはずなので、年齢で言えば若いのだが、婚約話の一つもなかった。後継者はおらず、妹は外国に嫁いでいるため、たった一人で公爵領を担っている。
公爵領に隣接した国へ逃げるのに、田舎だから通り抜けがしやすかろうと公爵領を選んだが、それは認識違いだったようだ。
王妃が絡んでいれば、納得の噂というところだろう。
王が死ねば、公爵領に何をするだろうか。今でさえおかしな噂が流れているのだから、公爵家の人間が王妃を警戒するのは当然だ。
「それにしても、これおいしいわあ」
甘い焼き菓子が心を緩やかにしてくれる。広場のベンチに座って、もしゃもしゃ食べながら人の流れを眺めた。
都の街の賑やかさが懐かしく感じる。こちらは思ったより人が多いが、都独特の雑踏はない。穏やかな雰囲気で歩いている人が多いので、平和なのだろう。間違っても小道にごろつきが座り込んでいたりしない。
「いい街なのね」
王妃に睨まれている割に、整備はしっかりしている。隣国との貿易があるため、王妃から弾かれても、問題ないのだろう。これは王妃が凄んでいる姿が目に浮かぶようだ。
のんびりと時間を過ごしていると、目端にうつった赤色のマントに、ラシェルはぎくりとした。咄嗟にそれを背にして、少し離れる。
外でビールを飲んでいる男たちもそれらに気付き、なにがあるのか怪訝な顔で見遣った。
派手な色のマントを羽織っているのだから、集団でいれば嫌でも目に入る。道を通る者たちも、怪訝な顔でマントの男たちを横目にした。
「最近見る、あの騎士たちはなんなんだ? 宿に泊まっているらしいが。食堂も貸し切りみたいになっていてよ」
「死体を探してるんだろ。ほら、橋で馬車が川に落ちたって」
「あの日の嵐じゃ、海まで流れてるだろ。川に残ってるとは思えないし、海を探すのは無理があるだろう」
「王子の婚約者候補だったらしいぜ。悪事を働いたとかなんとか。護送の途中だったらしい」
「それなのに探してるのか? 更迭された子爵令嬢なんてよ」
公爵領でも噂になっているのは知っていたが、街の者たちまで知っている。王妃の命令で、ここまでその噂が流れてきたのだろうか。王妃は随分と努力しているようだ。
赤色のマントを羽織った騎士たちは、男たちの声に気付き、ちらりとそちらに視線を送る。
あの視線に留まるわけにはいかない。ラシェルはフードを被り、脇道にそれる。赤色のマントの騎士の中に、知っている顔が見えたからだ。
クリストフの側近、アーロン。王妃の手は早々に引き上げたと思っていたが、アーロンが来たとなると、あの騎士の集まりの中に、王妃の手が混ざっていることだろう。うっかり子爵令嬢のなにかが見つかって、面倒にならないように、監視しているに違いない。
一瞬目が合ったかもしれない。アーロンが人を追うかのように走り出して、周囲を見回した。
こんなところで見つかるなんて、お断りだ。
ラシェルは人混みに紛れて、小走りになる。気付かれたか、アーロンがこちらに向かってきた。
勘が良すぎだろう。普段はぼうっとしているくせに。
クリストフと同じで、少々抜けたところのある男だが、さすがに王子の騎士として選ばれるだけあるか。
小走りで逃げようとすると、途端、腕を引かれた。
あなたにおすすめの小説
【完結】勘当されたい悪役は自由に生きる
雨野
恋愛
難病に罹り、15歳で人生を終えた私。
だが気がつくと、生前読んだ漫画の貴族で悪役に転生していた!?タイトルは忘れてしまったし、ラストまで読むことは出来なかったけど…確かこのキャラは、家を勘当され追放されたんじゃなかったっけ?
でも…手足は自由に動くし、ご飯は美味しく食べられる。すうっと深呼吸することだって出来る!!追放ったって殺される訳でもなし、貴族じゃなくなっても問題ないよね?むしろ私、庶民の生活のほうが大歓迎!!
ただ…私が転生したこのキャラ、セレスタン・ラサーニュ。悪役令息、男だったよね?どこからどう見ても女の身体なんですが。上に無いはずのモノがあり、下にあるはずのアレが無いんですが!?どうなってんのよ!!?
1話目はシリアスな感じですが、最終的にはほのぼの目指します。
ずっと病弱だったが故に、目に映る全てのものが輝いて見えるセレスタン。自分が変われば世界も変わる、私は…自由だ!!!
主人公は最初のうちは卑屈だったりしますが、次第に前向きに成長します。それまで見守っていただければと!
愛され主人公のつもりですが、逆ハーレムはありません。逆ハー風味はある。男装主人公なので、側から見るとBLカップルです。
予告なく痛々しい、残酷な描写あり。
サブタイトルに◼️が付いている話はシリアスになりがち。
小説家になろうさんでも掲載しております。そっちのほうが先行公開中。後書きなんかで、ちょいちょいネタ挟んでます。よろしければご覧ください。
こちらでは僅かに加筆&話が増えてたりします。
本編完結。番外編を順次公開していきます。
最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!
【完結】さようなら。毒親と毒姉に利用され、虐げられる人生はもう御免です 〜復讐として隣国の王家に嫁いだら、婚約者に溺愛されました〜
ゆうき
恋愛
父の一夜の過ちによって生を受け、聖女の力を持って生まれてしまったことで、姉に聖女の力を持って生まれてくることを望んでいた家族に虐げられて生きてきた王女セリアは、隣国との戦争を再び引き起こした大罪人として、処刑されてしまった。
しかし、それは現実で起こったことではなく、聖女の力による予知の力で見た、自分の破滅の未来だった。
生まれて初めてみた、自分の予知。しかも、予知を見てしまうと、もうその人の不幸は、内容が変えられても、不幸が起こることは変えられない。
それでも、このまま何もしなければ、身に覚えのないことで処刑されてしまう。日頃から、戦争で亡くなった母の元に早く行きたいと思っていたセリアだが、いざ破滅の未来を見たら、そんなのはまっぴら御免だと強く感じた。
幼い頃は、白馬に乗った王子様が助けに来てくれると夢見ていたが、未来は自分で勝ち取るものだと考えたセリアは、一つの疑問を口にする。
「……そもそも、どうして私がこんな仕打ちを受けなくちゃいけないの?」
初めて前向きになったセリアに浮かんだのは、疑問と――恨み。その瞬間、セリアは心に誓った。自分を虐げてきた家族と、母を奪った戦争の元凶である、隣国に復讐をしようと。
そんな彼女にとある情報が舞い込む。長年戦争をしていた隣国の王家が、友好の証として、王子の婚約者を探していると。
これは復讐に使えると思ったセリアは、その婚約者に立候補しようとするが……この時のセリアはまだ知らない。復讐をしようとしている隣国の王子が、運命の相手だということを。そして、彼に溺愛される未来が待っていることも。
これは、復讐を決意した一人の少女が、復讐と運命の相手との出会いを経て、幸せに至るまでの物語。
☆既に全話執筆、予約投稿済みです☆
お前など家族ではない!と叩き出されましたが、家族になってくれという奇特な騎士に拾われました
蒼衣翼
恋愛
アイメリアは今年十五歳になる少女だ。
家族に虐げられて召使いのように働かされて育ったアイメリアは、ある日突然、父親であった存在に「お前など家族ではない!」と追い出されてしまう。
アイメリアは養子であり、家族とは血の繋がりはなかったのだ。
閉じ込められたまま外を知らずに育ったアイメリアは窮地に陥るが、救ってくれた騎士の身の回りの世話をする仕事を得る。
養父母と義姉が自らの企みによって窮地に陥り、落ちぶれていく一方で、アイメリアはその秘められた才能を開花させ、救い主の騎士と心を通わせ、自らの居場所を作っていくのだった。
※小説家になろうさま・カクヨムさまにも掲載しています。
捨てられたなら 〜婚約破棄された私に出来ること〜
ちくわぶ(まるどらむぎ)
恋愛
長年の婚約者だった王太子殿下から婚約破棄を言い渡されたクリスティン。
彼女は婚約破棄を受け入れ、周りも処理に動き出します。
さて、どうなりますでしょうか……
別作品のボツネタ救済です(ヒロインの名前と設定のみ)。
突然のポイント数増加に驚いています。HOTランキングですか?
自分には縁のないものだと思っていたのでびっくりしました。
私の拙い作品をたくさんの方に読んでいただけて嬉しいです。
それに伴い、たくさんの方から感想をいただくようになりました。
ありがとうございます。
様々なご意見、真摯に受け止めさせていただきたいと思います。
ただ、皆様に楽しんでいただけたらと思いますので、中にはいただいたコメントを非公開とさせていただく場合がございます。
申し訳ありませんが、どうかご了承くださいませ。
もちろん、私は全て読ませていただきますし、削除はいたしません。
7/16 最終部がわかりにくいとのご指摘をいただき、訂正しました。
※この作品は小説家になろうさんでも公開しています。
「嫌われ者の公爵令嬢は神の愛し子でした。愛し子を追放したら国が傾いた!? 今更助けてと言われても知りません」連載版
まほりろ
恋愛
公爵令嬢のアデリナ・ブラウフォードの人生は実母の死後大きく変わった。
公爵は妻の葬儀が終わって間をあけず再婚。公爵と後妻の間には、再婚前に作った子供までいた。
アデリナは継母と異母妹に私物を奪われ、「離れ」と名ばかりの小屋に押し込められる。
腹違いの妹はアデリナを悪者に仕立て、周囲はそれを信じた。
本来ならアデリナの味方にならなくてはならない婚約者の王太子も、異母妹の魅力に骨抜きにされ全く頼りにならない。
学園の教師も、生徒も、生徒の保護者も王太子と異母妹の味方だ。
そんなアデリナにも唯一の味方がいる。それはトカゲのクヴェル。クヴェルは美少年に変身し、家事も炊事も裁縫も完璧にこなす不思議な存在だ。
実はクヴェルはこの国の建国に携わる水竜で、アデリナは三百年前に水竜を救った初代女王の生まれ変わりだったのだ。
アデリナを蔑ろにする国に嫌気がさしたクヴェルは、アデリナを連れて旅に出る。
神に去られた国は徐々に荒廃していき……。
一方その頃、祖国の荒廃を知らないアデリナはクヴェルとのグルメ旅を満喫していた。
「ん~~! このアップルパイは絶品! 紅茶も美味しい!!」
・人外×人間、竜×人間。
・短編版は小説家になろう、pixivにもアップしています。
・長編版を小説家になろうにも投稿しています。小説家になろう先行投稿。
「Copyright(C)2025-まほりろ」
※タイトル変更しました(2025/05/06)
✕「卒業パーティーで王太子から婚約破棄された公爵令嬢、親友のトカゲを連れて旅に出る〜私が国を出たあと井戸も湖も枯れたそうですが知りません」
✕「嫌われ者の公爵令嬢は国外追放を言い渡される。私が神の祝福持ちだと王家が気付いた時には国の崩壊が始まっていました」
◯新タイトル「嫌われ者の公爵令嬢は神の愛し子でした。愛し子を追放したら国が傾いた!? 今更助けてと言われても知りません」
・2025年5月16日HOTランキング2位!
ありがとうございます!
※表紙イラストは猫様からお借りしています。
悪役令嬢は大好きな絵を描いていたら大変な事になった件について!
naturalsoft
ファンタジー
『※タイトル変更するかも知れません』
シオン・バーニングハート公爵令嬢は、婚約破棄され辺境へと追放される。
そして失意の中、悲壮感漂う雰囲気で馬車で向かって─
「うふふ、計画通りですわ♪」
いなかった。
これは悪役令嬢として目覚めた転生少女が無駄に能天気で、好きな絵を描いていたら周囲がとんでもない事になっていったファンタジー(コメディ)小説である!
最初は幼少期から始まります。婚約破棄は後からの話になります。
「僕が望んだのは、あなたではありません」と婚約破棄をされたのに、どうしてそんなに大切にするのでしょう。【短編集】
長岡更紗
恋愛
異世界恋愛短編詰め合わせです。
気になったものだけでもおつまみください!
『君を買いたいと言われましたが、私は売り物ではありません』
『悪役令嬢は、友の多幸を望むのか』
『わたくしでは、お姉様の身代わりになりませんか?』
『婿に来るはずだった第五王子と婚約破棄します! その後にお見合いさせられた副騎士団長と結婚することになりましたが、溺愛されて幸せです。 』
『婚約破棄された悪役令嬢だけど、騎士団長に溺愛されるルートは可能ですか?』
他多数。
他サイトにも重複投稿しています。
婚約破棄されたトリノは、継母や姉たちや使用人からもいじめられているので、前世の記憶を思い出し、家から脱走して旅にでる!
山田 バルス
恋愛
この屋敷は、わたしの居場所じゃない。
薄明かりの差し込む天窓の下、トリノは古びた石床に敷かれた毛布の中で、静かに目を覚ました。肌寒さに身をすくめながら、昨日と変わらぬ粗末な日常が始まる。
かつては伯爵家の令嬢として、それなりに贅沢に暮らしていたはずだった。だけど、実の母が亡くなり、父が再婚してから、すべてが変わった。
「おい、灰かぶり。いつまで寝てんのよ、あんたは召使いのつもり?」
「ごめんなさい、すぐに……」
「ふーん、また寝癖ついてる。魔獣みたいな髪。鏡って知ってる?」
「……すみません」
トリノはペコリと頭を下げる。反論なんて、とうにあきらめた。
この世界は、魔法と剣が支配する王国《エルデラン》の北方領。名門リドグレイ伯爵家の屋敷には、魔道具や召使い、そして“偽りの家族”がそろっている。
彼女――トリノ・リドグレイは、この家の“戸籍上は三女”。けれど実態は、召使い以下の扱いだった。
「キッチン、昨日の灰がそのままだったわよ? ご主人様の食事を用意する手も、まるで泥人形ね」
「今朝の朝食、あなたの分はなし。ねえ、ミレイア? “灰かぶり令嬢”には、灰でも食べさせればいいのよ」
「賛成♪ ちょうど暖炉の掃除があるし、役立ててあげる」
三人がくすくすと笑うなか、トリノはただ小さくうなずいた。
夜。屋敷が静まり、誰もいない納戸で、トリノはひとり、こっそり木箱を開いた。中には小さな布包み。亡き母の形見――古びた銀のペンダントが眠っていた。
それだけが、彼女の“世界でただ一つの宝物”。
「……お母さま。わたし、がんばってるよ。ちゃんと、ひとりでも……」
声が震える。けれど、涙は流さなかった。
屋敷の誰にも必要とされない“灰かぶり令嬢”。
だけど、彼女の心だけは、まだ折れていない。
いつか、この冷たい塔を抜け出して、空の広い場所へ行くんだ。
そう、小さく、けれど確かに誓った。