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第二章 ツル

05.激情に駆られる白い羽

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 ピィに背中を向けて逃げるように仕事場へとかけこみ、後ろ手に扉を締めた。普段はかけない鍵をかけることも忘れない。
 そのまま、扉に羽ごと背中を預けてずるずると滑るように座り込む。腰が落ちるに従い羽は力なく開いた。


 やばいやばいやばいやばい。
 なんだ、あれは、なんだったんだ、あれは。


 クレインの頭は混乱を極めている。

 動悸も止まらなければ、なぜか瞳は潤み、涙腺は勝手に涙を押し出してくる。異様に体温が上がっていく感じすらするのに、その逆に頭は冷えていく。いや、冷えていくと思っているだけで、実際はそうじゃない。今まで味わったことの無い、高揚感や衝動、それから、叫び出したいような心をかき乱される感覚。それらを処理しきれずにいっぱいいっぱい過ぎて、流れが止まってしまったかのようだ。


 ごめん、と言っていた。


 なんか身体が変だ、と言っていた。


 お腹の奥から何かが迫り上がってきそうで、抑えないとと思うのに、もっとクレインの近くに行きたい、とも言っていた。


 全部、全部同じだ。クレインもピィと全く同じ事を思っていた。


 許しを乞いながらもそれでも触りたいという気持ちに、その抗えないような湧き上がる欲求に、全て負けそうになっていた。

 あのままピィの近くにいたら、何をしでかしていたか、何を口走っていたか、自分でもわからない。
 こんなの、生まれてはじめてだ。理由がわからず出続けている涙も止まらない。自分の身体はどうしてしまったんだろう。それも、わからない。
 ピィは、どうすれば良いか教えてと言っていたが、そんな事教えられるわけがない。だってクレインにも理解できていないのだから。
 わからないのにわかった事はたった一つ。
 あのままピィの側にいて、撫でられ続けたらお互いにとって良くないことが起こる、それだけだ。

 まるで、発情期が始まる寸前のような昂りだった。だけど、普通の発情期とは明らかに違う、もっともっと激しい、経験した事もないような暴力的な大きな波だ。

 そもそもクレインは元から淡白な質で、今の今まで発情期なんて数えるほどしか経験していない。羽の大きな、本能が強いはずの種なのに、クレインの本能はいつでも素っ気無いほどに表に出てこない。それなのに。

 あの激情に流されて発情してしまったら、ピィを痛めつけていたかもしれない。

 あんなに酷い怪我を負い、世間知らずで、恥ずかしげもなく精液出せないんですよ、なんて言う男だ。
 そんな男相手に乱暴な事をしなくて本当に良かった。

 長い長い溜息をつき、あふれる涙を服の袖で乱暴に拭く。

 どうしよう。
 ピィを、龍の部屋に閉じ込めてきてしまった。
 仕事場ではない、いつか見た龍の身体の色を思い出して記憶を頼りに布を織る為だけの部屋だ。

 ピィがきてから全く織れていなかったが、あれは自分の人生だ。

 そう思ったら、何も考えずに織る事に没頭したくなった。全てを投げ打ち没頭したい。
 でもあの部屋にはピィがいるし、今頼まれている仕事だって中途半端だ。続きをやるか、と無理やり顔を上げて、ピィがつい先ほどまで寝転んでいた床の布が視界に入ったらもうだめだった。
 背中が粟立つ感覚。同時に汗が吹き出してくる。

 なんだよもう。
 なんなんだよ。
 ただの布だろ、俺が自分で織ったただの布だよ。

 思わず声に出しながら立ち上がり、部屋を出る。
 落ち着かないと。こんな時どうすれば落ち着けるのかなんて、クレインにだってわからない。

 面倒がらずにもっと孵卵施設に通っていれば、正しい性教育でもしてもらえたのか。

 いや、そんなわけはない。あそこはそんな場所ではないはずだ。優秀な種を次世代へ残していくのがあそこの唯一の存在意義だ。
 それにピィはつい最近まで孵卵施設にいたかのような口ぶりで話していた。その上で、陰茎に貞操帯のようなものをつけられていたことを何でもない事のように話していたが、あれが正しい性のあり方だとは到底思えない。
 たいして広くもない家の中を歩き回りながら考える。

 正しい性のあり方なんて知らない。だけどわかる。正しい性とは、相手を思いやる事だ。
 誰かを好きになった事なんてない。だけどこれだって、わかる。好きとは、相手を縛りつける事ではないはずだ。

 風呂場に向かい頭から何度も水をかぶった。その冷たさと、羽を広げてバサバサと水を切る動きで、先程の激情は少し落ち着いた気がする。

 ――久しぶりに出かけてくるか。

 身体を拭きながら思う。ピィがきてからなんだかんだと忙しなくて出かけていなかった。久しぶりにパンも食べたい、もしかしたら新しい仕事も来ているかもしれない。

 出かけて、気分を変えて、家の中に色濃く漂う純粋な性欲に基づくような淫靡な気配を、全て無くしてしまいたい。
 次にあの感覚に飲み込まれたら、間違いなく正気ではいられないであろう自分自身が怖いクレインは、自分を律したい一心で出かけることを決めた。


 龍の部屋の前に立つ。
 中にはピィが居るはずだ。


「ピィ……俺、ちょっとでてくるから……帰りは夜になるかもだけど、果物ここに置いとくから腹減ったら食べろよ」


 程なくして、部屋の中から壁伝いにこちらに向かって歩いてくる音が聞こえてきた。


「……動かなくていいから」
「でも……クレイン、待って……!」
「いいから、動くなよ、扉も開けるな」
「ちが、ちがう」


 とん、と、扉に手が掛かる音がする。扉を一枚挟んだあちら側に、ピィがいる。
 たったそれだけの事なのに、考えただけでまた、クレインの体温が上がってきた。


「ちがうって、何。とにかく出かけてくるから」
「待って! だ、だめです! クレイン帰って来られなくなっちゃう、ちょっとでいいから触らせてください!」
「……は……?」
「あの、扉を開けてもいいですか……?」
「だめだ、このまま説明しろ、どういう事だ」


 しばらくの沈黙、クレインの身体はまだぞわぞわと落ち着かない。早くこの場を離れたいのに。


「この島に、魔術、を」
「え?」
「この島全体に、私がきてから……この島が外部から認識できなくなる魔術をかけ続けています……あの、だから、クレインがそのままこの島を出てしまったら……島の魔術を解かない限り、島を認識できないんです、なので……戻った時に島を認識できるように、クレイン自身にその魔術をかけさせてほしくて、だから触らせて、と……ごめんなさい……」


 にわかには信じられない言葉を聞いた。
 小さいとは言え、一つの島だ。その島一つに魔術をかけ続ける事ができるものか?
 ピィは今、私がきてから、と言った。およそ二十日の間、途切れる事なく島一つを隠す魔術を? 怪我人が、かけ続ける事ができるものか? そんなに強い魔力を持つ人間をクレインは知らない。そもそも、人間なのか……?


「ピィ、……お前……誰だ……? お前は一体、何だ……?」


 答えはない。


「おい!!! 答えろ!!!」


 ドン、と扉を拳で叩いた。


「言えな……」


 小さな声で応えがあったが、そんな返答は求めていない。


「良いから言え!」
「い、やだ、言ったら、知ったら、クレインに迷惑がかかる!」
「もうかかってんだろ!!」
「も、もっと! もっとかかる!! だから言えない!!!」
「てめぇそれ以上意地はるなら本気で怒るぞ……」


 基本的に従順だったピィが反抗してくるからか、自分の持ち物に知らないうちに勝手に魔術を施されていたからか、それとも、すでに精神的に相当揺らいでいる所に冷静に聞けないような話しをされたせいか、クレインは烈しく興奮する自分をとめられない。


「別に!! クレインが怒ったって怖くありませんからっ! だから怒られても平気です! 私は言いません!!!」
「この野郎……」


 ドアノブに手をかける。


「おい、開けるなっつったけどこっちから開けるぞ!」
「どうぞ! だいたいここ、あなたのお家じゃないですか、好きにしたらいいんですよ!」


 かわいくない。
 なんてかわいくない。心底かわいくない男だ。

 別にピィをかわいいなんて思った事は無かったはずだが、それにしたってかわいくない。態度も、言い方も、なんだってこんな意地をはり続けるんだ。

 くそっと小さく呟き、がちゃ、とノブを回した。
 苛つきすぎて、興奮しすぎて、手が滑る。自分でやってるそれにすら更に苛つく。
 ようやくにきちんと掴み、わざと乱暴に音を立てて扉を開けた。

 顔を見たら怒鳴りつけてでもその正体を喋らせるつもりだった。そんな勢いをつけて入ったのに、心の中で振り上げていたクレインの拳はそのまま止まる。

 綺麗な薄緑色の大きな瞳が涙で光る。それを上下に縁取る長く真っ白なまつ毛が、流れる涙を含み艷やかに輝く。その様子は夢のように美しいのに、それら全てをぶち壊すように、ひどい表情で唇をかみしめて耐えるその様子を見てしまったら。

 無様にもクレインの時は止まる。

 かわいかったんだ、ピィは最初から。
 人と関わりたくないと孤島を買って一人暮らす自分が、同情心を抜いたとしても置いてやってもいいと思うぐらいには。
 誰かといると面倒だと思う自分が、食べ物や風呂の世話をしてやってもいいと思うぐらいには。
 かわいかったんだ。

 治ったら出ていくことを条件に置いていたから、きちんと向き合おうとしていなかっただけで。

 クレインの心のなかで振り上げていた拳は、今や完全に下にだらりと落ちている。
 この目の前のひどくかわいい存在を感情のままに怒ることなんて、できなかった。




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