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前編
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「吉川流華さん、あなたとの婚約は否定します。僕は彼女と、野村紫さんと結婚します」
同じ会社の女子社員の人気ナンバーワンで、上司の覚えもめでたい成績トップのイケメン、橘聡。
結婚も考えていた恋人は、待ち合わせたカフェで流華が席につくなり、冒頭の台詞を放った。
彼の隣には、流華と同じデザイン課の後輩の野村紫。
二十四歳の野村は一見、大人しいが、その清楚な仮面の下で優越感に満ちた目付きでぺろりと舌を出したのが、流華には見えた気がした。
「夢…………」
目を覚ました流華は呟く。
夢だが、夢ではない。聡は流華を拒絶した。それは間違いなく昨日起きた出来事、現実だ。
流華は聡と結婚を前提に交際中だった。少なくとも、流華はそのつもりでいた。
しかし聡は野村を選び、流華はカフェを飛び出して友人達に飲みに誘うメールを送ったが、こんな時に限って誰もつかまらない。しかたなくお気に入りのレストランで一人やけ食いし、行きつけのバーでお気に入りのカクテルをあおっていたら――――
流華は上体を起こして横を見た。
見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上。
隣に若い男が一人、裸で眠っている。
流華自身もなにも着ていない。
なにがあったか言うまでもない。
(こっちも…………夢じゃない…………)
昨夜、いつものバーで飲んでいたら彼が、レンが現れたのだ。
人気の高級ブランド『シャルル』の男性用化粧品シリーズのイメージモデルを務める二十七歳の有名モデル、藍谷蓮。通称、『レン』。
もともと芸能人が来ることでも知られる店で、流華も何度かテレビや映画で見る俳優やアーティストを見かけたことがある。
だから昨夜も、彼が色の薄いサングラスをかけただけの姿で一人、入店してきた時も、そのこと自体には疑問を持たなかった。しかし。
レンは歩み寄ってきたのだ。流華へと。
じっと見てしまった彼女の視線に気づいたのか、流華の前に立つと話しかけてきた。
『なにか用?』と。
流華はとっさに言葉を放っていた。
『どこの化粧水を使ったら、そんなに美しい肌になるんですか!?』と――――
「もっと、他に言うことあったでしょ…………!?」
流華は頭を抱える。
けれどレンは不快や不審を返すどころか、小首をかしげて(すごく可愛らしい仕草だった)『面白い女性だな。最初にそれを訊いてきた女性はあなたが初めてですよ』と、笑ってくれたのである。
それが二人のはじまりだった――――
翌々週明け。流華は橘聡と野村紫を、会社の会議室の一室に呼び出していた。
早々に本題に入る。
「あなた達が結婚するのはご自由に。その件については、何も言わないわ。けど、それなら通すべき筋があるわよね?」
「筋、ですか?」
緊張しているのか、胸ポケットをいじる仕草を見せる聡に、流華は告げた。
「慰謝料を払って。少額でいいわ。私との婚約を破棄したと認めて、償いと謝罪の心を見せて」
流華は言った。彼女は聡に「自分が悪いことをした」と認めさせたかった。
ここで白黒はっきりさせねば、流華は前に進めない。
腕を組んで眉を吊りあげた流華に、聡は疲れたように肩をおとした。
「前にも言いました。僕は吉川さんと婚約したつもりはありません」
「婚約する気のない女に『面白い女性』だの『仕事に真剣な女性と結婚したい』だの、さんざん口説いたわけね」
「それは…………」
「あなたが女を若さで選ぶとは思わなかったわ、聡。『年齢差は気にしない』って、あなたの言葉を信じた私が馬鹿だったわけね」
「年齢差は気にしない、というのは事実です。僕は三十。紫より六歳上だけど、それが彼女と結婚しない理由にはなりません。年齢に関係なく、紫が好きです」
最後の台詞は隣の野村紫を見ながら言った。
紫は嬉しそうに恥じらい、いかにもあざといその反応が、ますます流華の神経を逆なでする。
流華はネイルサロンに行ったばかりの爪が手の平に食い込むほど、拳をにぎった。
取り乱してはいけない。自分は、ここで見苦しくわめき散らすような安い女ではない。
私は、このKIKKAWAコーポレーション、デザイン部のエース。
一流の女には、一流のふるまいがある。
そう己を鼓舞して平静をたもつ。
聡は淡々と語った。
「僕が吉川さんと結婚しない理由は簡単です。あなたが信用ならない人柄だからですよ」
「どういう意味?」
「ご自分の胸に訊いてみてはどうでしょう。少しは心当たりがあるのでは?」
「ないわ。いったい私が、なにをしたというの?」
「…………っ」
流華が堂々と胸を張ると、聡は一瞬ひるんだ。
が、すぐにぺらぺら話し出す。
「デザイン課でのあなたの態度ですよ。後輩や同僚を出身校を理由に馬鹿にしたり、自分の仕事を紫や他の人達に手伝ってもらっていながら、上司やクライアントには『自分一人でやった』と報告したり…………」
「言いがかりだわ! たしかに最後の簡単な調整やチェックを任せるくらいならあるけれど、それは誰もが頼むことよ。その程度で『手伝った』なんて大きな顔をしないで!」
流華は思わず野村をにらむ。聡が彼女をかばうように、紫の前に立つ。
「ですが、たとえば××会社の納期を破ったあなたを手伝ったのは、紫でしょう」
「違うわ」
流華は冷静に反論した。
「提出はたしかに遅れたけれど、それは仮の締切よ。どの締切にも『本当に超えてはならない期限』は別にあって、依頼の際は、その本当の締切より余裕を持った日にちを指定するの。私は経験上、その本当の締切がいつか、見当がつく。それに合わせて提出しただけ。少しでも良いものを提出するため、ギリギリまで粘る、それが私のポリシーなの」
「…………そうですか。では、他の社員達の出身校を馬鹿にした、というのは?」
「馬鹿にした覚えはないわ。デザイン専門校を出たと聞いて『大丈夫?』と訊いただけよ。営業のあなたは知らないかもしれないれけど、デザインで食べていける人間なんて、ほんの一握り。デザイン専門学校を出てデザインの道に入るのは、必ずしも良い選択ではないわ。それしかできないんだもの。それよりはちゃんとした大学を出て、デザインで行き詰っても、他の道を選べる可能性を残しておいたほうがいい。私はそうしている。そう言っただけよ」
「では、佐藤さんの件はどうなるんです?」
「佐藤? 誰?」
「佐藤千花さんですよ、去年、辞めた。――――まさか、覚えていないんですか?」
「ああ、その佐藤ね。うちは『さとう』が多いの。すぐには誰かわからないわ」
流華は納得と理解のため息をついた。
佐藤千花。昨年、うつ病を患って退職した新人。
彼女は『吉川先輩にパワハラされた』と訴えて辞めたのだ。
なるほど、聡は野村から彼女についてあることないこと吹き込まれ、流華を捨てたのか。
「その件なら誤解よ。ちゃんと社内で調査されて、彼女の思い込みと結論づけられているわ」
「佐藤千花は『吉川さんにデザインを盗まれた』と訴えていた、とも聞きましたが?」
「だから誤解よ。去年、私がローズベリー社に提出したデザインを佐藤が見て、自分のデザインだと主張してきたのは事実よ。でも、証拠を出せと言ったら、なにも出さなかったわ。彼女が使っていた社のパソコンにも、類似するデザインは保存されていなかった。あの時のデザインはその後、ローズベリー社を代表するキャラクターになって関連商品もたくさん出たから、佐藤にしてみれば羨ましかったんでしょうけど。あれは私のデザインだわ」
説明しながら、流華は疲労感が募ってきた。
こんな初歩的な事柄を、一から説明しなければならないなんて。橘聡という男は誰より輝いて有能な男と思っていたのに、ここまで知性のない男だったのか。
黙ったままの野村紫を、流華は刺すように凝視する。
(私は知っているわ。野村は特別、優れているわけじゃない。ただ、世渡りが上手くてあざといだけなのよ。おかげで、どれだけ苦労したことか…………私は言い方がきつくなりがちだから、いつも野村と比較されて『可愛げのない女』と思われて…………こんな風に、私の成果を野村の手柄と勘違いされるのも、しょっちゅう。でも、聡はそういう表面にだまされずに真実を見抜ける、優秀な男と信じていたのに…………とっくに決着がついた事柄をろくに調べもせず、一方的な話だけを鵜呑みにするほど馬鹿な男だったなんて…………)
流華は急速に聡への気持ちが冷めていくのを実感した。
「はあ」と、何度目かのため息をつく。
「もういいわ、聡。私はあなたのことは本当に優秀な、うちの会社を引っぱって行く男だと見込んでいた。私が佐藤や他の後輩達に厳しく接してきたのも、すべて彼女達のためを思ってのことよ。でも、あなたは謝るどころか、私をだました罪悪感すらないのね」
「ですから、それは」
「もういいわ!!」
流華は吐き捨てた。
たとえ野村との結婚が動かないにせよ、一言でいい、心から謝罪してくれれば、すべてを水に流して忘れよう。そう考えてすらいたというのに。
「よくわかったわ。あなたがそこまで私を邪魔者扱いするなら、私はこの会社を辞める。それがあなたの、いえ、あなた達二人の望みでしょう?」
会議室の扉が大きく開かれ、重々しい声が割り込んできた。
「辞める必要はない」
「社長!」
「社長!?」
聡が、野村が声をあげる。
入室してきたのはKIKKAWAコーポレーション社長、吉川剛だった。
「不作法だが、話は聞かせてもらった。あんまりではないかね? 橘君」
社長は流華を守るように聡と野村の前に立ち、厳しい口調で聡をにらみつけてくる。
「儂は君を見込んでいた。流華から交際の話を聞き、ゆくゆくは重役にも抜擢しよう、そう考えていたというのに」
「社長」
「流華のデザインを盗作と非難したな。その件なら、とっくにあちら側の誤解だと、流華の無実が証明されている。自分の心変わりを棚に上げ、終わった話を蒸し返してまで流華を非難するとは、とんだ卑劣漢だ。君のような男が我が社にいるというだけで、腹立たしい!」
「誤解です、社長。私は本当に…………」
「言い訳は無用! 君は娘を傷つけたことに対して、罪悪感はないのか!!」
社長の怒号が響いた。
聡は口をつぐみ、野村紫はびくっ、と肩をすくめる。
社長は流華の肩に手を置き、重々しく明かした。
「黙っていたが、流華は私の一人娘だ。公にしなかったのは、社長令嬢という立場に関係なく、公平に扱ってほしかったからだ」
流華は横から説明を足した。
「字では『吉川』流華だけれど、『吉川』は『きっかわ』とも『よしかわ』とも読むでしょ? むしろ『よしかわ』のほうが一般的ね。だから私は社内では『よしかわ』を名乗っていたの。お父様の七光りでなく、私自身の実力で評価されたかったから。お父様も理解してくださったわ」
「…………」
聡はぎゅっと、胸のあたりを押える。焦り出したのか、額が汗ばんでいる。
聡に寄り添っていた野村紫もぎゅっ、と彼の袖をつかみ、それでも流華達を見据えてきた。聡は紫の手に己の手を重ねる。「大丈夫だ」と言うように。
「娘が言うまでもなく、君との婚約は破棄させてもらう。娘には、もっとふさわしい相手を用意した。――――入りたまえ」
吉川社長が会議室の外に声をかけると、ふたたび扉が開いた。
劇的に空気が変化する。
レン――――モデルの藍谷蓮が三つ揃いのスーツを完璧に着こなし、艶やかな髪を上品にうしろになでつけて、いかにもスマートなビジネスマンらしさを演出し、360度、どの角度から見ても隙のない足どりで流華の隣までやって来る。
社長は娘の隣に立ったレンを紹介した。
「まあ、顔は知っているだろう。『シャルル』のCMにも出ているしな。紹介しよう、今度、我が社のイメージモデルに起用するモデルの『レン』君。流華の婚約者だ」
「初めまして。藍谷蓮です」
レンは、にこり、と完璧なほほ笑みを浮かべて聡と野村に会釈する。
営業スマイルだが、輝くようなその笑顔に野村が呆然とするのを見、流華は溜飲が下がった。
「見ての通り、流華は藍谷君と結婚する。君は安心してそこのお嬢さんと結婚するといい、橘君。ただし娘を根拠なく侮辱し、傷つけた責任はとってもらう。君は馘首だ。野村君と言ったかな、君も同罪だ。他人の恋人を略奪するような不埒者は、我が社には不要だ」
「本気ですか!? 社長。お嬢さんは…………!」
「それこそ言いがかりです、私達は…………」
「言い訳は無用!」
聡と紫の反論を吉川社長は一喝する。側に立つ秘書に二人の退職手続きを命じた。
「社長。一度だけでも、我々の話を聞いていただけませんか?」
「必要ない! 即刻、この部屋から、儂の会社から出ていけ!!」
落雷のごとき怒声だった。
聡はむっとした表情を見せたが紫に、くい、と袖を引かれて見つめ合うと、「ふう」とため息をついて落ち着きをとり戻し、「では」と紫と並んで頭をさげた。
「それでは私共は失礼します。お世話になりました」
「失礼します」
聡と紫は静かに述べてかるくおじぎすると、寄り添うように会議室の扉にむかう。
二人が会議室を出る寸前、流華は一言、追加しておいた。
「さよなら、野村さん。経理課の佐藤君とはきちんと話をつけておくのね」
閉じていく扉の向こうに、不思議そうに野村を見る聡の横顔が見えたが、流華は気にしない。
自分がされたことを思えば、この程度の嫌がらせは許されるはずだ。野村が最近、経理課の佐藤と仲がいいのは事実だし。
会議室の扉が閉じると、レンが肩をすくめた。
「大会社は大変だな。社員をたった二人、クビにするために社長が出ていくなんて」
「今回は特別よ。聡と野村のことを話したら、お父様が『絶対にクビだ』って聞かなくて」
「当然だ」と、吉川剛は即答する。
「ありがとう、お父様」
流華は父親にほほ笑むと、レンを見あげて言った。
「あなたにも、いずれその辺のことを勉強してもらうわ。私と結婚したら、このKIKKAWAコーポレーションの重役の一人だもの」
「オレは、モデルが天職だと思っているんだけどな」
「モデルは反対しないわ。是非、つづけてちょうだい。あなたには才能があるんだもの、私達KIKKAWAコーポレーションが全力でバックアップさせてもらうわ。ただ、いずれは私が社長になる以上、夫たるあなたにも多少の体裁は整えてほしいってこと」
「――――下手に、社長令嬢と結婚するものじゃないな」
「嫌なの?」
苦笑したレンの言葉に、流華は顔色を変える。
「まさか」
レンは朗らかに笑った。
「誰の娘でも、流華は流華だ」
レンは流華を抱き寄せ、流華はレンの胸にすがりつき、二人は熱く強く抱き合う。
社長の咳払いが二、三度、会議室に響いたが、秘書にうながされ、あきらめたように会議室を出て行った。
同じ会社の女子社員の人気ナンバーワンで、上司の覚えもめでたい成績トップのイケメン、橘聡。
結婚も考えていた恋人は、待ち合わせたカフェで流華が席につくなり、冒頭の台詞を放った。
彼の隣には、流華と同じデザイン課の後輩の野村紫。
二十四歳の野村は一見、大人しいが、その清楚な仮面の下で優越感に満ちた目付きでぺろりと舌を出したのが、流華には見えた気がした。
「夢…………」
目を覚ました流華は呟く。
夢だが、夢ではない。聡は流華を拒絶した。それは間違いなく昨日起きた出来事、現実だ。
流華は聡と結婚を前提に交際中だった。少なくとも、流華はそのつもりでいた。
しかし聡は野村を選び、流華はカフェを飛び出して友人達に飲みに誘うメールを送ったが、こんな時に限って誰もつかまらない。しかたなくお気に入りのレストランで一人やけ食いし、行きつけのバーでお気に入りのカクテルをあおっていたら――――
流華は上体を起こして横を見た。
見知らぬ部屋の見知らぬベッドの上。
隣に若い男が一人、裸で眠っている。
流華自身もなにも着ていない。
なにがあったか言うまでもない。
(こっちも…………夢じゃない…………)
昨夜、いつものバーで飲んでいたら彼が、レンが現れたのだ。
人気の高級ブランド『シャルル』の男性用化粧品シリーズのイメージモデルを務める二十七歳の有名モデル、藍谷蓮。通称、『レン』。
もともと芸能人が来ることでも知られる店で、流華も何度かテレビや映画で見る俳優やアーティストを見かけたことがある。
だから昨夜も、彼が色の薄いサングラスをかけただけの姿で一人、入店してきた時も、そのこと自体には疑問を持たなかった。しかし。
レンは歩み寄ってきたのだ。流華へと。
じっと見てしまった彼女の視線に気づいたのか、流華の前に立つと話しかけてきた。
『なにか用?』と。
流華はとっさに言葉を放っていた。
『どこの化粧水を使ったら、そんなに美しい肌になるんですか!?』と――――
「もっと、他に言うことあったでしょ…………!?」
流華は頭を抱える。
けれどレンは不快や不審を返すどころか、小首をかしげて(すごく可愛らしい仕草だった)『面白い女性だな。最初にそれを訊いてきた女性はあなたが初めてですよ』と、笑ってくれたのである。
それが二人のはじまりだった――――
翌々週明け。流華は橘聡と野村紫を、会社の会議室の一室に呼び出していた。
早々に本題に入る。
「あなた達が結婚するのはご自由に。その件については、何も言わないわ。けど、それなら通すべき筋があるわよね?」
「筋、ですか?」
緊張しているのか、胸ポケットをいじる仕草を見せる聡に、流華は告げた。
「慰謝料を払って。少額でいいわ。私との婚約を破棄したと認めて、償いと謝罪の心を見せて」
流華は言った。彼女は聡に「自分が悪いことをした」と認めさせたかった。
ここで白黒はっきりさせねば、流華は前に進めない。
腕を組んで眉を吊りあげた流華に、聡は疲れたように肩をおとした。
「前にも言いました。僕は吉川さんと婚約したつもりはありません」
「婚約する気のない女に『面白い女性』だの『仕事に真剣な女性と結婚したい』だの、さんざん口説いたわけね」
「それは…………」
「あなたが女を若さで選ぶとは思わなかったわ、聡。『年齢差は気にしない』って、あなたの言葉を信じた私が馬鹿だったわけね」
「年齢差は気にしない、というのは事実です。僕は三十。紫より六歳上だけど、それが彼女と結婚しない理由にはなりません。年齢に関係なく、紫が好きです」
最後の台詞は隣の野村紫を見ながら言った。
紫は嬉しそうに恥じらい、いかにもあざといその反応が、ますます流華の神経を逆なでする。
流華はネイルサロンに行ったばかりの爪が手の平に食い込むほど、拳をにぎった。
取り乱してはいけない。自分は、ここで見苦しくわめき散らすような安い女ではない。
私は、このKIKKAWAコーポレーション、デザイン部のエース。
一流の女には、一流のふるまいがある。
そう己を鼓舞して平静をたもつ。
聡は淡々と語った。
「僕が吉川さんと結婚しない理由は簡単です。あなたが信用ならない人柄だからですよ」
「どういう意味?」
「ご自分の胸に訊いてみてはどうでしょう。少しは心当たりがあるのでは?」
「ないわ。いったい私が、なにをしたというの?」
「…………っ」
流華が堂々と胸を張ると、聡は一瞬ひるんだ。
が、すぐにぺらぺら話し出す。
「デザイン課でのあなたの態度ですよ。後輩や同僚を出身校を理由に馬鹿にしたり、自分の仕事を紫や他の人達に手伝ってもらっていながら、上司やクライアントには『自分一人でやった』と報告したり…………」
「言いがかりだわ! たしかに最後の簡単な調整やチェックを任せるくらいならあるけれど、それは誰もが頼むことよ。その程度で『手伝った』なんて大きな顔をしないで!」
流華は思わず野村をにらむ。聡が彼女をかばうように、紫の前に立つ。
「ですが、たとえば××会社の納期を破ったあなたを手伝ったのは、紫でしょう」
「違うわ」
流華は冷静に反論した。
「提出はたしかに遅れたけれど、それは仮の締切よ。どの締切にも『本当に超えてはならない期限』は別にあって、依頼の際は、その本当の締切より余裕を持った日にちを指定するの。私は経験上、その本当の締切がいつか、見当がつく。それに合わせて提出しただけ。少しでも良いものを提出するため、ギリギリまで粘る、それが私のポリシーなの」
「…………そうですか。では、他の社員達の出身校を馬鹿にした、というのは?」
「馬鹿にした覚えはないわ。デザイン専門校を出たと聞いて『大丈夫?』と訊いただけよ。営業のあなたは知らないかもしれないれけど、デザインで食べていける人間なんて、ほんの一握り。デザイン専門学校を出てデザインの道に入るのは、必ずしも良い選択ではないわ。それしかできないんだもの。それよりはちゃんとした大学を出て、デザインで行き詰っても、他の道を選べる可能性を残しておいたほうがいい。私はそうしている。そう言っただけよ」
「では、佐藤さんの件はどうなるんです?」
「佐藤? 誰?」
「佐藤千花さんですよ、去年、辞めた。――――まさか、覚えていないんですか?」
「ああ、その佐藤ね。うちは『さとう』が多いの。すぐには誰かわからないわ」
流華は納得と理解のため息をついた。
佐藤千花。昨年、うつ病を患って退職した新人。
彼女は『吉川先輩にパワハラされた』と訴えて辞めたのだ。
なるほど、聡は野村から彼女についてあることないこと吹き込まれ、流華を捨てたのか。
「その件なら誤解よ。ちゃんと社内で調査されて、彼女の思い込みと結論づけられているわ」
「佐藤千花は『吉川さんにデザインを盗まれた』と訴えていた、とも聞きましたが?」
「だから誤解よ。去年、私がローズベリー社に提出したデザインを佐藤が見て、自分のデザインだと主張してきたのは事実よ。でも、証拠を出せと言ったら、なにも出さなかったわ。彼女が使っていた社のパソコンにも、類似するデザインは保存されていなかった。あの時のデザインはその後、ローズベリー社を代表するキャラクターになって関連商品もたくさん出たから、佐藤にしてみれば羨ましかったんでしょうけど。あれは私のデザインだわ」
説明しながら、流華は疲労感が募ってきた。
こんな初歩的な事柄を、一から説明しなければならないなんて。橘聡という男は誰より輝いて有能な男と思っていたのに、ここまで知性のない男だったのか。
黙ったままの野村紫を、流華は刺すように凝視する。
(私は知っているわ。野村は特別、優れているわけじゃない。ただ、世渡りが上手くてあざといだけなのよ。おかげで、どれだけ苦労したことか…………私は言い方がきつくなりがちだから、いつも野村と比較されて『可愛げのない女』と思われて…………こんな風に、私の成果を野村の手柄と勘違いされるのも、しょっちゅう。でも、聡はそういう表面にだまされずに真実を見抜ける、優秀な男と信じていたのに…………とっくに決着がついた事柄をろくに調べもせず、一方的な話だけを鵜呑みにするほど馬鹿な男だったなんて…………)
流華は急速に聡への気持ちが冷めていくのを実感した。
「はあ」と、何度目かのため息をつく。
「もういいわ、聡。私はあなたのことは本当に優秀な、うちの会社を引っぱって行く男だと見込んでいた。私が佐藤や他の後輩達に厳しく接してきたのも、すべて彼女達のためを思ってのことよ。でも、あなたは謝るどころか、私をだました罪悪感すらないのね」
「ですから、それは」
「もういいわ!!」
流華は吐き捨てた。
たとえ野村との結婚が動かないにせよ、一言でいい、心から謝罪してくれれば、すべてを水に流して忘れよう。そう考えてすらいたというのに。
「よくわかったわ。あなたがそこまで私を邪魔者扱いするなら、私はこの会社を辞める。それがあなたの、いえ、あなた達二人の望みでしょう?」
会議室の扉が大きく開かれ、重々しい声が割り込んできた。
「辞める必要はない」
「社長!」
「社長!?」
聡が、野村が声をあげる。
入室してきたのはKIKKAWAコーポレーション社長、吉川剛だった。
「不作法だが、話は聞かせてもらった。あんまりではないかね? 橘君」
社長は流華を守るように聡と野村の前に立ち、厳しい口調で聡をにらみつけてくる。
「儂は君を見込んでいた。流華から交際の話を聞き、ゆくゆくは重役にも抜擢しよう、そう考えていたというのに」
「社長」
「流華のデザインを盗作と非難したな。その件なら、とっくにあちら側の誤解だと、流華の無実が証明されている。自分の心変わりを棚に上げ、終わった話を蒸し返してまで流華を非難するとは、とんだ卑劣漢だ。君のような男が我が社にいるというだけで、腹立たしい!」
「誤解です、社長。私は本当に…………」
「言い訳は無用! 君は娘を傷つけたことに対して、罪悪感はないのか!!」
社長の怒号が響いた。
聡は口をつぐみ、野村紫はびくっ、と肩をすくめる。
社長は流華の肩に手を置き、重々しく明かした。
「黙っていたが、流華は私の一人娘だ。公にしなかったのは、社長令嬢という立場に関係なく、公平に扱ってほしかったからだ」
流華は横から説明を足した。
「字では『吉川』流華だけれど、『吉川』は『きっかわ』とも『よしかわ』とも読むでしょ? むしろ『よしかわ』のほうが一般的ね。だから私は社内では『よしかわ』を名乗っていたの。お父様の七光りでなく、私自身の実力で評価されたかったから。お父様も理解してくださったわ」
「…………」
聡はぎゅっと、胸のあたりを押える。焦り出したのか、額が汗ばんでいる。
聡に寄り添っていた野村紫もぎゅっ、と彼の袖をつかみ、それでも流華達を見据えてきた。聡は紫の手に己の手を重ねる。「大丈夫だ」と言うように。
「娘が言うまでもなく、君との婚約は破棄させてもらう。娘には、もっとふさわしい相手を用意した。――――入りたまえ」
吉川社長が会議室の外に声をかけると、ふたたび扉が開いた。
劇的に空気が変化する。
レン――――モデルの藍谷蓮が三つ揃いのスーツを完璧に着こなし、艶やかな髪を上品にうしろになでつけて、いかにもスマートなビジネスマンらしさを演出し、360度、どの角度から見ても隙のない足どりで流華の隣までやって来る。
社長は娘の隣に立ったレンを紹介した。
「まあ、顔は知っているだろう。『シャルル』のCMにも出ているしな。紹介しよう、今度、我が社のイメージモデルに起用するモデルの『レン』君。流華の婚約者だ」
「初めまして。藍谷蓮です」
レンは、にこり、と完璧なほほ笑みを浮かべて聡と野村に会釈する。
営業スマイルだが、輝くようなその笑顔に野村が呆然とするのを見、流華は溜飲が下がった。
「見ての通り、流華は藍谷君と結婚する。君は安心してそこのお嬢さんと結婚するといい、橘君。ただし娘を根拠なく侮辱し、傷つけた責任はとってもらう。君は馘首だ。野村君と言ったかな、君も同罪だ。他人の恋人を略奪するような不埒者は、我が社には不要だ」
「本気ですか!? 社長。お嬢さんは…………!」
「それこそ言いがかりです、私達は…………」
「言い訳は無用!」
聡と紫の反論を吉川社長は一喝する。側に立つ秘書に二人の退職手続きを命じた。
「社長。一度だけでも、我々の話を聞いていただけませんか?」
「必要ない! 即刻、この部屋から、儂の会社から出ていけ!!」
落雷のごとき怒声だった。
聡はむっとした表情を見せたが紫に、くい、と袖を引かれて見つめ合うと、「ふう」とため息をついて落ち着きをとり戻し、「では」と紫と並んで頭をさげた。
「それでは私共は失礼します。お世話になりました」
「失礼します」
聡と紫は静かに述べてかるくおじぎすると、寄り添うように会議室の扉にむかう。
二人が会議室を出る寸前、流華は一言、追加しておいた。
「さよなら、野村さん。経理課の佐藤君とはきちんと話をつけておくのね」
閉じていく扉の向こうに、不思議そうに野村を見る聡の横顔が見えたが、流華は気にしない。
自分がされたことを思えば、この程度の嫌がらせは許されるはずだ。野村が最近、経理課の佐藤と仲がいいのは事実だし。
会議室の扉が閉じると、レンが肩をすくめた。
「大会社は大変だな。社員をたった二人、クビにするために社長が出ていくなんて」
「今回は特別よ。聡と野村のことを話したら、お父様が『絶対にクビだ』って聞かなくて」
「当然だ」と、吉川剛は即答する。
「ありがとう、お父様」
流華は父親にほほ笑むと、レンを見あげて言った。
「あなたにも、いずれその辺のことを勉強してもらうわ。私と結婚したら、このKIKKAWAコーポレーションの重役の一人だもの」
「オレは、モデルが天職だと思っているんだけどな」
「モデルは反対しないわ。是非、つづけてちょうだい。あなたには才能があるんだもの、私達KIKKAWAコーポレーションが全力でバックアップさせてもらうわ。ただ、いずれは私が社長になる以上、夫たるあなたにも多少の体裁は整えてほしいってこと」
「――――下手に、社長令嬢と結婚するものじゃないな」
「嫌なの?」
苦笑したレンの言葉に、流華は顔色を変える。
「まさか」
レンは朗らかに笑った。
「誰の娘でも、流華は流華だ」
レンは流華を抱き寄せ、流華はレンの胸にすがりつき、二人は熱く強く抱き合う。
社長の咳払いが二、三度、会議室に響いたが、秘書にうながされ、あきらめたように会議室を出て行った。
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