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第一章
来たりし者 1
しおりを挟むどうやって自室まで戻って来たのか、あまり記憶にない。ただゲオルグ殿下に抱き締められて、子供のように泣きじゃくってしまった後、ライドに連れられてグランディア城を出た事は何となく覚えている。
部屋に戻ってベッドへ促されて、前日までの旅の疲れも相俟ってすぐに寝入ったのだろう。
グランディア城で陛下と謁見したのがお昼頃だった。夕食は簡単なものを自室に運んでもらって、それをベッドの上で食した。
それからまたすぐに就寝して――気がつけば、翌日だった。
寝覚めは、あまり良くないものだった。
何時もの朝錬の時間に目覚めたものの、その日見た夢に憂鬱な気持ちになって、ため息ばかりを吐いていた。
ベッドサイドの調度にしまっていた自分の服。それから電源を切ったままの携帯。
それらをベッドの上に引き摺りだし、何となく眺めていた。
夢には、恐らく未来のティア達が出てきた。ルークさんとティアが可愛らしい、二、三歳の女の子を間に挟み、軽やかに笑い合いながら美しい薔薇の庭園を歩いていた。小さな女の子は、天使にしか見えなかった。その少女が、ルークさんを「お父様」、ティアを「お母様」と呼んではしゃいでいたのを覚えている。満ち足りた顔で少女を見つめるルークさんとティアは親の顔をしていた。
両親の手を引っ張るようにして少女が行き着いたのは、大きく開けた野原。風に棚引く草原の中心には円卓が鎮座し、陛下やゲオルグ殿下が優雅にお茶会を開いているようだった。そこではハンナさんや、ライドやシリウスさん、ウィリアムさんにアッシャー――俺がグランディアに来て出逢った人々が、国の垣根を越えて談笑していた。
だけどそこには、当然のように俺の姿は無かった。
楽しそうに笑う彼らを、俺は遠くから眺めているよう。すぐ近くでその様子を見ているようにも、遠く、空の上から窺ってでもいるようにも感じられる。
とてつもない疎外感に襲われて、俺は目を瞑りでもしたように思う。
一瞬景色が暗闇に切り替わった。
全ての音が消え、視界を真っ黒に染めた。
けれどそれは一瞬。
どこかから、声がした。皆の、笑いさざめく声だと思った。
けれど笑っていたのは、異世界の住人ではない。
――家族だった。
声の方向を振り返れば、まるでシアタールームのように、暗闇に浮いた四角い窓の向うに家族が居た。
常に陰気でしかない自宅の食事風景が、俺が居ないだけで笑顔に溢れたものに変っていた。弟の作った食事を、「美味しい」と満面の笑みで食べる父親。冗談を交わす次兄と弟。父親との不仲で家を出た筈の長男は、その父親とビール缶を突き合せて笑っていた。
最初から俺の席なんて用意されていないような小さな正方形のテーブルには、絶対に食卓に上らなかったような洋食がズラリ、何かのお祝いのように並んでいた。
何よりも衝撃だったのは、弟の笑顔だった。母親の出て行った家では、小学校に入った頃から家事の全般をまかせっきりになっていた弟は、何時も父親に小言を喰らいながらしかめっ面をしていた。俺が手伝おうとでもしようものなら弟自身に拒否されたし、何より父親に怒鳴られた。俺のするべき事は、一にも二にも剣道の鍛錬だけだったのだ。
才能が無い、と一蹴された長男も次男も、父親に反発するように剣道をさっさと止めたが、弟だけは誰よりも、剣道に固執していた。道場に通う術を断たれても、父親の目を盗んでは自室で竹刀を振るっているような弟だった。
俺が剣道を捨てて、家族唯一の女として家事を担えれば、良かったのかもしれない。兄達のように剣道に見切りをつけて、「剣道なんてくそくらえ」だと言えていれば、父親も残った弟に夢中になったかもしれない。
けれど俺は竹刀を捨てられなかった。父親の望むような、世界一の剣豪は目指せなくても、俺にはそれしかなかったのだ。
生き方を変える方法なんて知らなかった。
何もかも、今更だった。
その崩壊していた家族が、俺の居ない家で、屈託無く笑っている。何のしこりもなく――何の憂いもなく、幸せそうに。
まるで音の無い、上映会。
俺の戸惑いを無視して、場面は切り替わる。
視界が、歪んでいく。霞んで、像を震わす。
俺はきっと、泣いていた。苦しくて、悲しくて、切なくて。胸は痛みっぱなしだった。
たった一つの救いさえ、俺の手を滑り落ちていくのを感じた。
――見慣れた通学路を歩く笑顔の高志の隣に、居たのは俺じゃ無かった。
心臓が握りつぶされる、そう思った瞬間。
視界に飛び込んだのは高い天井だった。
早鐘を打つ心臓の音を聞きながら、深呼吸を繰り返す。
すぐに夢だと分かった。夢を見ていたのだと分かった。
それでも、良かったと安心出来やしなかった。
夢はどこまでも、現実めいていた。
異世界に召喚されて三ヶ月。もう、四ヶ月が経とうとする。
あっという間に過ぎ去ったその期間が、長いのか短いのかは分からない。
ただ日本は、もう春を迎えただろう。恐らく、新しい学年が始まっている筈だ。新しい出会い、新しい生活に、忙しなく時間は消化される。
俺の存在を、忘れてしまえる程に。
携帯の電源を入れてみても、当然のように新着メールなど入っているわけがない。電波は相変らず圏外マークだ。
嘲笑うかのような失笑が漏れた。
馬鹿げている。そう自分の行動を笑う。笑いながら、泣きたくなった。
キーを操作して、受信ボックスを開く。過去のメールを開いては閉じ、開いては閉じて――昔のやり取りを思う。意味の無い、ふざけたメールばかりだ。友人達は皆、くだらないメールを嬉々として送り合った。学校の事、部活の事、朝食べた焦げた食事や、新発売のお菓子や、流行の雑誌や漫画の批評、家族や彼氏彼女への愚痴。
データフォルダの写真は、全部、馬鹿げたポーズで映る友人達。
意味のあるものなんて無い。
無いと思っていた。
目から溢れた雫が、ディスプレイに滴り落ちる。
昨日決壊した涙腺は、今日も綻んだままだ。
頑張って、頑張って、頑張って生きて来た。
嘘なんて一つも無かったけれど。偽りだったとは思っていないけれど。
逃げたいと思った事は、何度だってあった。捨てたいと思ったことも、幾度もあった。やり直しがきくのなら、何時だって、戻りたかった。
だからこの世界に召喚された時、少しだけ安堵したのだ。
そして、少しだけ心が弾んだ。
俺に、誰かの幸福の手助けが出来るというなら――嬉しかったのだ。
突然泣き出したツカサを宥めながら、ゲオルグは少しだけ、その様子を訝しく思った。複雑な顔で佇むライディティルと視線を交わしてみるものの、ゲオルグの声の無い問い掛けに彼も頭を振る。
召喚してから三月余りの日々、二人はツカサという人間をそれなりに正しく理解しているつもりだった。年相応の溌剌さと、感情豊かな言動で、怒ったり笑ったりと忙しい。思った事が全て顔に出易いので、ツカサの思惑を読み解くのは簡単だった。男だと信じてやまなかったツカサが女だった事は想定外だったが、ツカサという人間を語るのに躊躇は無い。
けれどその瞳の奥の深い翳りだけは、理解が及ばない。
何を恐れているのか、その真意だけは掴めない。
何時もは潜んでいる翳がひょこりと姿を現す時、ツカサは突然、分厚い殻を被り出す。
それが、今だった。
ゲオルグには、ジャスティンを筆頭に四人の子供が居る。幼少期から泣いた姿など数える程度しか見た事がないジャスティンを除き、下の三人はよくゲオルグに縋っていた。三男に至っては十三になる今も良く泣く。多分に泣き真似ではあるのだが。母を亡くした後のティシアやエディアルドに対しても、多忙な兄王の変りにゲオルグは良く慰め役を買って出た。
故に、泣く人間を宥めるのは得意分野の筈だった。
ところがツカサに対しては、喉元まで出かかった慰め文句のどれ一つたりと、効果を発揮するとは思えなかった。
涙の理由が、どの言葉にも当て嵌まらない。
そもそも、ツカサの求めるものは慰めなどではけして無い。
ただ、殻に籠もる為の助動作として、泣いているかのようだった。
再びライディティルと視線を合わせて、ゲオルグはツカサの身体を離した。
結局核心に触れる言葉は発せられないまま、
「長旅も堪えたろう。今日はもう、寝てしまえ」
何時かライディティルがそうしたように、ツカサに休息を促した。
小さく頷いたツカサをライディティルに任せて、ゲオルグは二人を、見送った。
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