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第一章
来たりし者 6
しおりを挟むジェルダイン領から帰って二週間程。
俺は改めて自身の世界に還る事を切望していたけれど、事態は好転しないまま、気持ちだけを置き去りに日々は過ぎていた。
結局何が出来るでも無い俺はグランディアに留まるしか無く、気ばかりが焦る。けれど優しい人々に囲まれて繰り返される毎日に、安堵しているのも確かだった。
俺が望んでいるのは、帰るとか帰らないとか、そんな事ではないのだと――もう、気付いているのだ。
俺は相手ありきでしか自己を確立できない、弱い人間だ。自分の選んだ道を迷い無く歩いていけるような強さは無い。
ただ、俺を受け入れてくれる世界であれば――拒絶しないでいてくれるなら――どちらの世界で一生を過ごしても構わない。
だからこそ、この世界が俺を受け入れてくれている間は、立ち続けていける。
この世界が俺と繋がっていてくれる限りは、その細い糸を縁に、笑っていられる。
それだけの事、だった。
この日、グランディア城は慌しかった。
その理由は前夜俺の部屋を訪れたゲオルグ殿下から聞いてはいたけれど、俺が自室で鍛錬を始めた時間には、使用人の多くが忙しなく動き回っていた。
フィデブラジスタからグランディア城内に移された俺の居室からは、使用人たちが働く建物が良く見える。
そもそもが、俺の新しい部屋自体、使用人部屋のようなものなのだ。部屋の内部はフィデブラジスタの時と変らないものの、貴賓が通されるような場所ではない為、窓から見える景色などに風情の欠片もない。城の隅に追いやられた――と言っては聞こえが悪いけれど、俺の扱い自体が相応のものに変ったというだけの事。
ゆくゆくはティシアの結婚相手として紹介される筈だった俺だけど、今となってはそうもいかない。なにやら色んな目論見があっての事らしいけど、部屋を移された事に異存は無いので、多くは聞かなかった。
兎に角、そんな俺の部屋の窓からは、建物を繋ぐ渡り廊下が見えるわけなのだが、俺が鍛錬を始めるような早い時間から、使用人の行き来が激しかった。
城内に配置された兵士の数も何時もの倍に達し、俺の側近である筈のクリフも、警備に借り出されているという話だ。
俺が鍛錬を終えて朝食を採る時間にはハンナさんが顔を見せたが、何時もとは印象の違う服装に身を包んでいた。若草色のドレスは働くには不釣合いなボリュームがあり、装飾品や施された化粧でイメージを一新する。つまり、ハンナさんらしくない。気品溢れるレディにしか見えない彼女が艶のある唇で言葉を紡ぐまで、部屋に入って来た彼女をハンナさんだと気付かなかった位。
何時も通りの厳しい口調で俺の所作を咎めた後、彼女はすぐに退出してしまった。
それからやはり正装姿のライドとウィリアムさんが、最近習慣になった早朝の挨拶の為に顔を出し、すぐに帰っていった。
誰も彼もがそんな風に忙しないのは、正午の予定の為だ。
留学中のゲオルグ殿下の末子、ユージィン殿下と共に、バアル王国のラシーク・アル・シャイハンという王子を迎え入れ、夜には大規模な夜会も開催されるそうで、夕方には多くの貴族が登城する。
元々の予定では一ヶ月も先の話であったから、数日前から急ピッチで進められた準備は使用人達には酷であったようだ。
どちらにせよ俺には関係が無い事なので、我関せず、呑気に食後の紅茶を啜っている所だった。
最近では当たり前のように、ゲオルグ殿下はノック一つせず室内に現れる。
例に漏れず、本日は王族の正装着を着用している殿下。詰襟の学生服のような印象のある上着は丈が踝辺りまであり、両側にスリットが入って歩きやすいようになっている。白が基調のそれに、鮮やかな赤いストールのようなものを右側の肩にかけている。
装飾品を好まないゲオルグ殿下なのに、この日は右の中指にだけ、大振りの指輪を嵌めていた。一センチぐらい高さがありそうなダイヤ型の鉄板のようなものが、頂についている。表には何か絵のようなものが刻まれているが、遠目にはそれが何なのか、判別はつかない。随分年季の入った代物だった。
疲れた、というような事を数分愚痴った後、「ところで」と殿下は言う。
「お前は何時までのんびりしているのだ?」
怪訝そうに顰められた殿下の瞳を見つめ返しながら、俺は首を捻る。
「何時まで、って」
今日一日部屋から出るな、というハンナさんのお達しもあって、何かするような事も無い俺は部屋に籠もっているわけだけど。
普段着、というよりは、寝巻きに近い格好である事を咎められているのかとも思ったが、それは何時もの事だ。紳士化教育が不要となった今、ハンナさんも小うるさい事は言わないし、俺は用意された衣装の中でも比較的楽なものを好んで着ていた。
今更の事である。
不思議そうに瞬く俺に更に眉間に皺を寄せたゲオルグ殿下が言う。
「もう一時間もすれば、ユージィンらはやってくるだろう。王都に入ったと知らせがあったからな」
「……はあ」
「余もそろそろ表に向かわねばならん」
第十三王子とは言え、ラシーク王子は立派な国賓である。従って王族総出で出迎えるのだそうだ。だからゲオルグ殿下だけでなくリカルド二世陛下も、今日ばかりは政務の手を止め、ラシーク王子の歓待に勤めるのだそう。
でも実際は、ゲオルグ殿下による二人への説教時間になる。留学先を抜け出し、従者もつけずに国内をうろつくという王族にあるまじき暴挙を犯した二人に対しての、正当なお仕置きだ――等という事は国民に憚られる真実だ。
どこまで本気で、どこからが冗談なのか判断出来ないけれど、ユージィン殿下とラシーク王子は、兎角不真面目な一面を持った少年達のようである。それも毎度の事で両国王陛下が呆れるだけで済むので、国際問題にも発展しないという。
俺がバアルという国に対して持つ情報は、国の70%が砂漠で、戦闘民族で、一夫多妻制を敷いている、という事だけだ。王国の名前に冠している通り、戦神バアルを奉っている、というのもあったか。
あとはグランディアとはとても仲の良い国で、ユージィン殿下とラシーク王子は留学先を同じとしている程の親友。もっと小さい頃はグランディアに長期滞在していた事もあるようだから、ラシーク王子という人は他のどの王子よりもグランディアに馴染み深い。
なんて事をつらつら思い出していたら、
「だから、お前も早く準備をしたらどうだ」
「――は?」
何が『だから』なのか。素っ頓狂な声を上げる俺に構わず立ち上がった殿下は、何故か衣裳部屋に移動して、中身を物色し始める。
「お前はどうにも目立つからな、派手な色は控えるべきであろう。黒――は祝いには向かぬか。ふむ。シャツはこれ、上着はこれだな。ベストは灰色で、足元も同じ色がよかろう」
なにやら楽しげな声と共に、衣裳部屋から幾つかの着衣が放り出されている。
数秒遅れて衣裳部屋に飛び込んだ時には、殿下は全身鏡の位置をセットしている所だった。
事態が把握出来ずに、侍従の役目を厭わず嬉々として為さる殿下を見つめていると、殿下は顎をしゃくって床に投げ出された衣装を指した。
「早く着替えろ。時間がないぞ」
「……あの、殿下? ちょっと話が見えないんですが……」
衣服を拾い上げながらも、首を傾げるだけ。
そんな俺に焦れたように、殿下は俺の背を押して衣裳部屋に詰め込みながら、言う。
「お前も、二人を迎えに出るんだ。着替えて、共に行くぞ」
「……は?」
二人、というのはもしかしなくても?
目が点になる、というのは、こういう事なのだろうか。
でも振り返った時には扉が閉ざされ、殿下の姿はその向こうに掻き消される。
「あの、」
思わずノブに取り縋るものの、向うで押さえてでもいるのか、びくともしない。
っていうか、何故俺が着替えをして、二人を迎えに出なければいけないのか。ユージィン殿下とラシーク王子の出迎えは、王族のみならず、多くの貴族や使用人、兵士に囲まれての大々的なものとなる。彼らは城のエントランスに待機して迎えるようなのだが、今も城に向かっている一行を、市井では民が行列となって迎え入れている筈なのだ。俺には縁がない事だけれど、テレビやニュースで天皇陛下や皇后陛下が民衆に手を振りながら移動するような場面は何度となく目にしている為、様子の想像くらいは出来る。
民衆の中に紛れている分には構わないけれど、王族や名高い貴族達と一緒に並ぶには、俺には色んなものが足りない。ゲオルグ殿下の言動や選ばれた服を見る限り、使用人や兵士の蔭から様子を見る、程度の簡単な事態では無い筈だ。恐らくゲオルグ殿下の隣にでも立って、「あいつは誰だ」とか思われながら身を晒す羽目になる――だろう。
ゲオルグ殿下はティアの結婚問題が解決した今となっても、俺の扱いを変えない。それ所か前にも増して構ってくれるようになり、出掛ける際には俺を連れ歩く。当然の様に衆目に晒される機会は増え、その度に対等な立場で俺と相対するものだから、周りには一層奇異の目を向けられた。
だから俺は未だに、どこからかお忍びで遊びに来た貴人、ダ・ブラッドのままだ。それもゲオルグ殿下が気さくに話しかける所為もあって、他国の王族なのではなんて噂されている――というのは、クリフの奥さんから聞いた話。
一体俺をどうする気でいるのか疑問でしょうがないが、俺はみんなに従うしか他にない。
ハンナさんには部屋に籠もっているよう言われていたから、恐らくこれはゲオルグ殿下の独断なんだろう。まあだからと言って、ゲオルグ殿下のする事にハンナさんが否を唱えられる筈もないから、ハンナさんの命令に背く結果になっても怒られないだろう。
俺は大きくため息をついてから、着替えに手を伸ばした。
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