俺とあなたと指輪の事情

ぷぴれ

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5・逃げて、逃げて、逃げて

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    草薙が、会いたいと言った水曜日。

 午前中だけの授業が終わると、適は足早に帰宅した。

 普段なら買い物に行ったり、大学の図書館でレポートを仕上げたり、少し前なら川田と遊びに行ったりしただろう、週中の大切な

 今となってはそんな事が懐かしく感じる。

 草薙から何度もメールが来ていたが、どれも読まずに削除した。

 アドレスも変更してしまった。当たり前だが、これでは連絡の取りようは無い。

 次のバイトを探す気もおきない。やる気が全く出ない。

 昼下がりの電車は、いつもと違って少しだけ混雑していた。

 中高生くらいの女の子のグループや小学生くらいの子供が目に付いた。

(あぁ…夏休みか…)

 頭の片隅に浮かんだ言葉に、納得した。

 適も、もうじき夏休みを迎える。去年の夏休みは…などと考えてみるが、いまいちはっきりと思い出せない。

 だらけた格好でシートに座り、窓の向こうの空を眺める。

 目が痛いほど晴れ渡った青空に、大きな真っ白い雲が浮かんでいた。

 もしあの時、「はい」と言っていたら…。

 ―――好きです。適さん。

 彼の指を縛める指輪になんて気が付かない振りをして、黙って受け入れていたら…。

 そうしたら今頃、何をしていたのだろうか。

 あの男と、何処へ行ったのだろう。

 映画にでも行ったかもしれない。

 アクション、恋愛、ホラー、ミステリー。あの男なら、迷わず恋愛ものを選びそうだ。

 薄暗い館内で手でも握り合って、お決まりの感動シーンに迂闊に涙してしまう。きっと、すかさずハンカチが出てきて涙を拭ってくれる。

 終わった後は、次は予告のあれを見ようと、お茶でもしながらにこやかに話す。

 もしかしたらドライブにでも行ったかもしれない。

 今の時期だと海。海辺で二人隣りわせて座って、寄り添った肩は男の方が少し高くて、凭れかかると頬の辺りに肩が当たる。

 波の音を聞き、潮風を感じながら、たわいない話に笑い合う。

 そして、男は次の約束を取り付ける。

 ―――絶対にまた一緒に行きましょう。

 きっと、そんな事を言って微笑むのだ。



 見つめていた空の青さが目にしみて、うっすらと涙がにじむ。

 涙が溢れる前に、そっと瞼を閉じた。

「……夢だ…」

 会わなくてよかった。本当によかったと思う。

 もし、草薙にあっていたら…もう戻れなくなる。

 一緒にいたら弱くなって、甘えて、彼の家族の事などどうでもよくなってしまう。どんどん男に溺れていって、溺れきって、そして後悔する。

 馬鹿な事をしたと、後になって悔むに違いない。だからバイトを辞めて、男を振りきって正解だったのだ。

(これでよかったんだ…何もかも…)

 ふと立ち上がりかけたのは、花屋のある駅だった。もう降りる必要は無い駅なのに、すっかり習慣化されている事に苦笑しながら、座り直す。

 何度も乗り降りした馴染みのある駅だったが、今日はいやによそよそしく思えた。

 出発してゆっくりと動き出す景色を、視界の端で留める。

(………実家に、帰ろうかな…)

 唐突にそう思った。

 こっちでバイトを見つけてからは、長期の休みですら帰省していない。

 夏休みは田舎の空気を吸って、懐かしい山々の緑を眺めて過ごすのも悪くないかもしれない。

 戻ってきてから新しいバイトを探そう。いっそ、引っ越すのもいいかもしれない。金銭的な余裕はそんなに無いが、いい部屋を探して、新しい住処で新しいバイトを探そう。心機一転、やり直す。

 いつ帰省するか、引っ越しはどうするか、資金はなどと考え始めたら、降車駅に着いてしまった。駅前の本屋で住宅情報誌を見て帰るのも悪くない。

 帰宅したらネットでも探して、その前に帰省する事を実家に連絡しなければ、お土産はどうしよう、考えだしたらキリが無い。

 しばらくはこの駅も使わない。引っ越してしまったら、もう来る事も無い。

 少しだけ、寂しい気分に浸りながらホームを歩く。

 人は疎らだ。改札周辺も閑散としている。

 だから、すぐに目に飛び込んできた。

 見間違えようのない端整な男が、改札口を見張るようにして壁に凭れていた。

 自分の見ているものが信じられず瞬きを繰り返し、目を擦ってしまった。

 なんでこんな所に、彼がいるのだろうか。

 もしかしたら、これは夢なのかもしれない。

(夢に違いない…いや、夢でありますように……)

 信じられずその場に立ちすくんでしまう。

「適さんっ!」

 現実が鋭く呼びかけてきた。

 その声に弾かれたように、出てきた改札に戻ろうと試みたが、一方通行の改札は無情にも適の侵入を拒んだ。おまけに、硬直した足はもつれ、思うように動かない。

 まずい、と思った時には、草薙に行く手を阻まれていた。

「どこに、行く気なんですか?」

 手首を掴まれ、反射的に振り払う。しかし草薙は諦める事はせず、両手で適の腕を抑え込む。

 これみよがしに、左手の指輪が煌めいた。

 だんだんと腹が立ってきて、つい怒鳴ってしまう。

「離せっ!」

 さすがの草薙も怯み、腕を抑え込む力が緩んだ。

 その隙に草薙を振り払い、一目散に駅舎を飛び出した。

「待ちなさい!」

 叫ぶ草薙を振り返る事もせず、駅前を走り抜ける。

 まさか、大の大人が学生を本気で追いかけては来るまい。

 そんな考えは、一瞬で吹き飛んだ。

「適さん、待ちなさい!」

 ちらりと振り返えると、必死の形相の草薙が走ってくる。

(じょ、冗談じゃない!)

 追いかけっこ状態の男二人を、昼下がりの平和な商店街にいた通りすがりの人々は、目を丸くして見ていた。

 それもそうだ。自分だって当事者でなければ、興味津津で見てしまうと思う。

 変に冷静になっている頭で、今の状況を客観視してしまう。

「適さんっ!待って!」

「名前を呼ぶな!…は、恥ずかしい!」

 絶対に引っ越そう。そう強く決め、適は少しでも人の少ない方へと、商店街を逸れるように小道に入った。

 しかし、その先に児童公園があるのを思い出す。夏休みのこの時間に、子供たちがいないわけがない。

(…子供に、男同士の修羅場なんか見せられない!)

 もう一度、別の小道に入る。

 まだ草薙は追ってくる。

 突き当りを右へ。さらに左へ曲がる。

 次第に見覚えのある景色になってきて、適は気が付いた。

(……ヤバい…うちの近所だ……)

 いくら引っ越す事を決めたとはいえ、今住まいが草薙に知れるのは非常に困る。

 どうしたものか、と迷っているうちに、草薙に追いつかれてしまう。

「捕まえた!」

 肩を思い切り掴まれ、たたらを踏む。

 まだ逃げようとする適を拘束するように、草薙の腕が身体に回る。

「…離、せ……」

「離した、ら…また、逃げるでしょう!」

 息も絶え絶えという感じで、草薙は言った。

 心臓が破裂寸前のように激しく鼓動を刻んでいる。

 互いに息が上がり言葉が途切れ、荒い呼吸音だけが聞こえる。

 先に言葉を発したのは草薙だった。

「…逃げないで…」

 もう関わらないと決めた人間に追いかけられて、逃げない奴などいない。

「逃げないで、下さい」

 馬鹿らしい。じっとしていろとでも言うのか。大人しく待ってなどいられない。

 ―――草薙とその家族を、不幸につき落とす事などできない…。

「適さん」

 荒い息を整え、呼ばれる。

 瞼の裏が熱過ぎて、返事などできない。

「適さん、適さん…適さん」

 草薙のこの声に呼ばれる事を、こんなにも焦がれていた。

「適さん、どうして?」

 耳の後ろに囁かれる、切なく吐き出される声。

 膝が震えた。

 逃げ出したいのか、このまま彼に抱き付いてしまいたいのか分からない。

 背から胸に回された草薙の腕に、力が込められるのが分かった。

「どうして?どうして、私から逃げるんですか?」

「…くさ、なぎ」

 このままずっと彼に名を呼んで欲しい、離さないで欲しいと願ってしまう。

 求めてしまう。

 それを口にしたら、いつか彼を追い詰めてしまう。

「俺…」

 言葉が出てこない。こんな時、何と言っていいのか分からない。

「メール。返事もくれないし、そのうち送信もできなくなって…気になってお店に行ったらバイトは辞めたというし…酷いですよ」

 肩越しに甘く責められる。

 それを適は、食いしばるようにして耐えた。今ここで何か言えば、墓穴を掘るのが目に見えていたからだ。

「適さん!」

 強く肩を掴まれ、抵抗する間もなく向かい合わせに抱きすくめられる。

 きつく、その胸に抱かれた。

 男の微かな香りが鼻を掠め、身体の芯が熱くなる。

「…店長さんにあなたの住所を聞いたんです。もちろん教えてくれなくて…何度もお願いして、説き伏せ、最後は泣き落として、やっと…最寄り駅だけ、教えてもらいました。朝からずっと、あそこで待っていました」

 どんな状況だったのか想像もしたくないが、とにかく店長には申し訳なくなった。

(もうあの店に…顔出せないじゃん!)

 こちらのそんな思いも草薙はお構いなしで、続けた。

「あなたが好きだ、初めて見た時から。あなたも私を好きでいてくれている―――あの花を見たとき確信したんです」

 まつ毛の一本一本が、くっきり分かるほど近くに顔を寄せてくる。髪や瞳と同じ鳶色のまつ毛が、光を浴びて輝く。

 間近で見る彼は、息を飲むほど美しかった。あまりに綺麗で、ずっと見ていたくなる。瞬きする事すらおしい。

「私の思い上がりですか?」

 好きだ。

 この男が、草薙慎一が好きだ。

 死ぬほど、好きで、好きで、好きで…好きでたまらない。

 だからこそ、伝えてはいけない。

 彼を彼の周りの人を苦しめる事だけは、したくない。

「…好きなんかじゃ、ない」

 嘘を吐くのがこんなにも苦しいものだと、知らなかった。

 それでも、今はこの嘘を貫き通すしかないのだ。

 草薙が眉根を寄せるのを見て、胸が痛んだ。

「嘘だ…」

 嘘なんかじゃない。好きだからそれを認めるわけにはいかない。

 それが本当の気持ちだ。

 草薙を思い切り睨みつける。彼は一瞬目を伏せ、すぐに視線を合わせてくる。

「あなたを愛しています」

 指先が頬に触れる。指輪の嵌った手で。

「だからあなたの気持ちを見誤ったりしない。あの花があなたの本心なのに、なんでそんな嘘をつくの?」

 分かっていないくせに、分かったような事を言わないで欲しい。

 この左手に収まった銀輪は、今も存在を主張している。

 ―――既に所有者がいるのだ、と。

「…あの花は何となく…草薙に似合う気がしたからだ。深い意味なんか…無い」

 その指輪がある限り、傍にいることは許されない。

 想いを交わす事も、伝える事すらもできない。

 狂おしい程に積もった想いを、密かに伝えられれば十分だった。そして、いつか気が付いて欲しいと思った―――あなたを好きだった人間がいた事に。

 それだけで、満足だったのに。

 何でこんなに早く、気が付いたの…。

「草薙には普通の幸せを、今の幸せな人生のまま歩んでいって欲しい……」

 草薙はわずかに首を傾げた。何か言いたげに口を開きかけ、閉じる。

 息が止まりそうだ。苦しい。心が壊れてしまいそうだ。

「俺は…」

 自分の腕が手が指が、まるで鉛になったのかと思うほど重い。指先が震える。

 震える重い指を、自分の頬に伸ばす。

 頬に触れたままの草薙の左手に重ねる。

 そっと、その薬指を撫でてみた。つるりとして冷たい、白銀プラチナの感触が伝わってくる。

「草薙の幸せを壊す事はできない」

 あっ、と草薙は声も無く唇を開いた。

 そして、適の指を握り締めた。指輪の嵌った手で。

「もしかして、これのせいで…身を引こうとか考えていたんですか?」

 身を引くもなにも、付き合ってもいないのだが…とにかく適は黙って頷いた。

 草薙は痛みを堪えるような、苦しげな表情を浮かべ、目を伏せた。

「お話しようと思っていました。これの事も…今日会って」

「聞きたくない。お前の事なんか好きじゃない!別にどうでもいい!」

「適さん!」

 吐き出すように告げ、適は何とか腕から抜け出そうと身を捩る。だが、草薙はいきなり適の頭を押さえつけると、唇を重ねてきた。

 ほんの数秒。唇を重ねるだけの、触れ合うだけの短いキス。

 短いけれど、適の全身の力を奪うには十分な効果があった。

「私の話を聞いて下さい」

「っ…聞きたく、なんか…ない」

「なら、これで…聞いてくれますか?」

 草薙は苦笑いを浮かべると、適の目の前で薬指から指輪を外した。ゆっくりと、まるで見せつけるように。

 突然の事で為す術もなく見ていた適に、草薙は抜き取った指輪をかざして見せた。今まで指に嵌っていた、ちっぽけだけど大きな存在だった、銀の円環。

 そして草薙が次にとった行動は、適を驚愕させた。

 草薙はあろうことか、指輪を投げ捨てたのだ。煌めきながら美しい放物線を描いて、円環は排水路に落ちていった。

「おいっ!何してんだ!」

「もう必要の無いものですから」

 この男は何て事をしたのだ。狼狽する適に、草薙はにこやかに言い切った。

 草薙を振り払い、適は地面に膝を着き排水路を覗き込む。

 何とかして拾えないものか。

 しかし草薙は、適の行動を制した。

「いいんですよ。気にしなくて」

「いいわけない!だって…だって…」

 あれは証だ。草薙とその奥さんが、生涯を誓った証なのだ。

 それを易々と捨ててしまうなんて、正気では無い。

「必要無いものだ、って言ったでしょう?適さん、全部話します。だから聞いて下さい」

「必要無いなんて…そんなわけ無いだろ!そこまでして、なにを聞かせたいんだよ!」

 もう絶叫に近かった。

 自分のせいで、草薙は大切なものを捨ててしまった。償いようのない罪を、犯してしまった。

 涙があふれて止まらない。

 草薙は、適のあふれる涙を拭いながら言った。

「適さん、落ち着いて。今日、あなたに話したかった事…」

 とめどなくあふれる涙と、嗚咽で返事などできなかった。

 どうしたらいいのか、適には何一つ分からなかった。

 今は、この男の言葉など聞きたくない。

 愛する男の幸せを、壊してしまう。最も恐れていた事が、現実になってしまう。

 その事への罪悪感が、適の中に満ち溢れる。

「適さん、落ち着いて…よく聞いてください…」

 草薙は適の肩に手を添え、向かい合うと視線を合わせてきた。

「私は…結婚なんてしていません」

 分からない。この男が何を言っているのか、分からなかった。

(いま…なんて言った?)

「独身なんです。あの指輪は…小道具のようなもので…便利なので、ずっと使っていました」

「どく…し、ん……独身…?」

 そうです、と草薙は頷いた。

「でも…小道具って…」

「仕事柄、職場にも取引先にも女性が多いんです。…指輪をしていると既婚者だと思ってもらえるので、色々楽なんです。着けっぱなしにしているとつい存在を忘れてしまって…」

 思考停止していた脳が、少しずつ活動を再開し始める。

「…結婚…してない?」

「はい。独身です」

「……ほん、とに?」

「本当です」

 初めから、彼を独占して家で待っている奥さんなど、いなかったという事か…。

 彼を欲しいと望んで、それで不幸になってしまう人は、この世に存在していない。

「そっか……よかった…」

 露骨に安堵してしまった。

「分かってもらえましたか?」

 草薙も安心したのか、嬉しそうに瞳を輝かせていた。

 勘違いだったのだ、全てが。

 今までずっと勘違いしてきた適は、恥ずかしさに耐えられず、ふくれっ面で草薙に抗議した。

「…ずっと悩んでた…すっごい、悩んだ…諦めなきゃいけないって……ずっと、思ってたんだからな!」

「誤解させてしまってすいませんでした。あなたを苦しませていたなんて…」

 草薙の広い胸に、包みこまれるように抱きすくめられる。

 それに応えられる事が、適は最高に嬉しかった。躊躇わず草薙の背に腕を回せば、彼はきつく抱きしめてくれた。

 耳元で草薙が囁く。

「もう二度と、あなたを苦しめたり哀しませたりしない。愛しています、適さん」

「俺、も……愛してる」

 交わした愛の言葉に酔った。目眩がしそうな程の幸福感に包まれ、ここが真っ昼間の裏路地だという事すら忘れていた。

「ねぇ、適さん…この前の続きを……あなたが、欲しい」

「なっ!…ばっ、ばかっ!何言ってんだよ!」

「もちろん、こんな所でなんて無粋な事はしませんよ…家に、私の家に来ませんか?」

 抱きしめられたまま耳元で吐かれる言葉。

 男が何を意図しているか、分からない程の子供では無い。

 もう何も適の邪魔をするものは無いのだ、そう思うと自然に動いていた。

 適は、草薙の腕の中で静かに頷いた。
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