最初の味見は、いつも君に

kokubo

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第8話「満ちる夏」

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 夏祭りまで、あと三日。
 蝉だけが元気で、喫茶店の中は、冷たい沈黙に沈んでいた。

 材料が足りない。予約は四十。容器は五十。
 外の猛暑のせい――だけじゃない。
 「言わなくても分かるだろう」を積み重ねた結果が、今、目に見える形で崩れている。

 秋穂が紙の端を握りしめたまま、私を見た。頼りない声で、でも逃げない目で。

「……美春」
「うん。考えよう。今度は、ちゃんと"二人で"」

 言い切ってから、私はスマホをテーブルに置いた。画面のメモには、備品の一覧が並んでいる。数字の列は、責めるみたいに整っていたけれど――今日だけは、味方にもなる。

 秋穂がペンを握り直す。
 ペン先が紙を擦る音が、妙に大きく聞こえた。

「……どうする」
 秋穂の声は小さい。
 いつもなら即座に解を作る彼女が、今、目の前で止まっている。

 私も、喉の奥が乾く。
 夏祭りは"成果報告"の材料になる。
 香織さんに、秋穂が"やり切れる"と示すための夏。
 そこで躓いたら――猶予が終わる。

「まず……」
 私は指を折る。
「材料を分けて、少しずつ売る、とか」
「……少しずつ?」
 秋穂が眉を寄せる。
「タルトカップを小さくして、数を増やす。予約分は守れる」

 秋穂はペンを持ったまま、しばらく黙っていた。
 それから、小さく首を振る。

「……味が落ちる」
「え」
「小さくしたら、バランスが崩れる。レモンの酸味と、タルト生地の厚みと、クリームの量。全部、今のサイズで成り立ってる」
 秋穂の声が、少しだけ強くなる。
「崩したくない」

 その"崩したくない"が、秋穂らしくて、私は胸が熱くなる。
 でも、同時に――壁にぶつかる音も聞こえた。

「じゃあ、予約を減らす?」
 私が言うと、秋穂の顔がさっと青くなる。
「……無理」
「でも、材料が――」
「無理。もう約束した。断ったら、信用を失う」

 信用。
 その言葉は、秋穂にとって命綱みたいに重い。

 私たちは、しばらく黙り込んだ。
 夏の蝉の声だけが、やけに元気に響いている。
 冷房の音が、コォ、と低く唸る。
 カウンターの奥で、氷が溶ける音がかすかに聞こえる。

「……私たちだけじゃ、限界かも」
 私が小さく言いかけた瞬間、カウンターから音がした。

 コツ。

 マスターが、指でカウンターを叩く。
 乾いた音。でも、合図みたいだった。

「限界、か」
 マスターが言う。
 責める声じゃない。でも、諦めを許さない声。

「お前ら、いい線まで来てる」
「……え?」
 秋穂が顔を上げる。
「材料が足りない。予約は守る。味は落とさない。――その三つ、全部正しい」
 マスターがカウンターに肘をつく。
「でも、"足りないもの"ばかり見てる」

 足りないもの。
 卵。牛乳。生クリーム。
 頭の中で、ずっとその三つが点滅していた。

「じゃあ、質問だ」
 マスターが言う。
「卵と牛乳が少ないなら――何が多い?」

 何が、多い。

 私は、厨房の棚を思い浮かべる。
 コーヒー豆。砂糖。寒天。果物。パン。
 秋穂も、同じように視線を泳がせている。

「……コーヒー、豆」
 秋穂が小さく言った。
「あと、寒天。果物」
「そうだ」
 マスターが頷く。
「卵と牛乳がないなら、それを使わないメニューを作ればいい」

 使わない、メニュー。

 私の頭の中で、何かが繋がり始める。
 予約分は、タルトカップとプリン。秋穂の看板。
 当日売りは――新しいもの。

「予約分と、当日分を分ける」
 私が言うと、秋穂が目を見開いた。
「タルトとプリンは予約だけ。当日は、卵と牛乳が少ないメニューに切り替える」
「……代替メニュー」
 秋穂が呟く。

 マスターが、ふっと笑う。

「いいねえ。そういう顔だ」
「……なにそれ」
 秋穂が小さく口の端を上げる。
「考える顔。職人の顔」

 秋穂の耳が少し赤くなる。
 でも、すぐにペンを握り直した。

「コーヒー寒天」
 秋穂が言う。
「卵いらない。クリームはトッピングで少量。うちのコーヒーを活かせる」
「いいじゃないか」
 マスターが頷く。
「もう一つは?」

 私は、近所のパン屋さんを思い出す。
 田中さんのところ。焼きたてのパンの匂い。

「フルーツサンド」
 私が言う。
「生クリーム少量で済むように、豆乳クリームとかヨーグルトを混ぜる。パンは田中さんに頼む」

 秋穂の目が光った。
 ああ、この子は、"工夫"という言葉が好きなんだ。
 努力じゃなく、工夫。理屈と手触りで未来を変えるやり方。

「豆乳……」
 秋穂が呟く。
「酸味と甘さのバランスで、軽くできる」
「固さは?」
 マスターが聞く。
「寒天は固さが命だぞ」
「……できる」
 秋穂が言い切る。
 その声に、自信が戻ってきている。

 マスターが腕を組む。

「よし。じゃあ、ここで大事なのは何だ?」
「……味を落とさないこと」
 秋穂が言う。
「そうだ。『代わり』じゃなくて、『限定』として成立させる」
 マスターが指を立てる。
「喫茶店の味にする。お前らの味にする」

 私は、スマホを持ち直す。
 指が震えない。さっきまでの"限界かも"が、嘘みたいに消えている。

「じゃ、出す」
 私は言った。
「この三日、連携強化。やることを全部"見える化"する」
「……見える化」
「秋穂、得意でしょ」
「……まあ」
 秋穂が照れたみたいに視線を逸らす。

 私はテーブルに紙を広げて、ざっくり線を引く。

 ・予約分(タルトカップ/プリン)
 ・当日売り分(コーヒー寒天/フルーツサンド)
 ・備品(容器/袋/スプーン/保冷/釣銭)
 ・仕入れ(卵・乳/寒天/果物/パン)
 ・当日の動線(列整理/受け渡し/補充)

「この五つ、毎日夜にチェック」
「……チェック、する」
 秋穂がペンを握り直す。
 ペン先が紙を擦る音が、少し強くなった。決意の音。

 マスターが、ポンとカウンターを叩く。

「よし。答えは、お前らが見つけた。俺は何もしてない」
「……嘘」
 秋穂が小さく笑う。
「質問、してくれた」
「質問は答えじゃない」
 マスターがニヤッと笑う。
「お前らが、自分で考えた。それが全部だ」

 その言葉に、胸が熱くなる。
 私たちは――自分たちで、舵を切った。

     ◇

 試作は、汗だくになりながら進んだ。

 寒天は一回目、固すぎた。
 スプーンが入る時、ぷるん、じゃなくて、ぎゅっ、と抵抗する。
 秋穂が眉を寄せ、量を0.2グラム単位で調整する。
 計量器のピッ、という音が、何度も鳴る。
 私はその横で、容器に貼る値札のデザインを考えた。黒糖の色、コーヒーの色、祭りの提灯の赤。
 「限定」の文字が、ちゃんと"限定"に見えるように。

「……もう一回」
 秋穂が呟く。
 二回目の寒天が、ボウルの中でゆっくり固まり始める。
 冷蔵庫の扉を開けると、冷気が顔に当たって、少しだけ目が覚める。

 三十分後。

 スプーンを差し込むと、ぷるん、と揺れた。
 抵抗じゃなく、弾力。
 秋穂の目が、ほんの少し光る。

「……いける」
「味見していい?」
 私が聞くと、秋穂が小さく頷く。

 スプーンで一口。
 コーヒーの苦味が、最初に舌に乗る。
 その後、黒糖の甘さが追いかけてくる。
 苦いのに、甘い。でも重くない。
 喉を通った後、ふっと爽やかさが残る。

「……おいしい」
 私が言うと、秋穂の口角がほんの少し上がる。
 最近、その"ほんの少し"が増えた。

 フルーツサンドは二回目で整った。
 豆乳クリームは少しざらつきが残る。でもヨーグルトを混ぜると、口当たりが軽くなって、酸味が夏っぽくなる。
 果物は、冷えてる方が甘くなる。
 桃とキウイと、少しだけ苺。色がきれいで、祭りの光に映えそうだった。

 秋穂がパンを切る。
 包丁がまな板に当たる音が、トン、トン、と静かに響く。
 切り口から、桃の果汁が少しだけ滲む。
 クリームが、断面に白い層を作る。

「……きれい」
 私が言うと、秋穂が小さく笑う。
「きれいじゃなくて、おいしい」
「両方」
「……両方」
 秋穂が頷く。

 マスターが味見をした。
 寒天を一口。
 フルーツサンドを一口。

「……うん」
 その"うん"は、いつもより長かった。
 そして、ニヤッと笑う。

「これなら、いける」

 秋穂の肩が、ふっと落ちた。
 息が吐ける音が、かすかに聞こえた。

「……よかった」
 秋穂が呟く。
 私は笑った。

「よかったね。味、守れた」
「……守ったの、美春」
「え?」
「私、材料がないって聞いた瞬間、終わったって思った」
 秋穂が視線を落とす。
「でも美春が、方針決めた。チェック表作った。……私、助かった」

 "助かった"という言葉に、胸が熱くなる。
 でも私は、そこで甘い顔をしたくなかった。

「じゃあ、今度は"二人で"守ろう」
 私は言った。
「確認不足は、もうしない。今日、痛いほど分かったから」

 秋穂が頷く。
 小さな頷き。
 でも、その小ささが、確かな約束に見えた。

     ◇

 祭りまで、あと一日。

 喫茶店の閉店後、私たちはチェック表を広げた。
 五つの項目に、すべてチェックが入っている。
 予約分の仕込み、完了。
 当日売り分の試作、完了。
 備品の確認、完了。
 釣り銭の準備、完了。
 動線の確認――これが最後。

「列の整理は、私がやる」
 私が言う。
「補充と受け渡しは?」
「……秋穂が補充。美春が受け渡し」
「トラブルが起きたら?」
「……マスターに連絡」
「よし」

 私はチェック表の最後の欄に、ペンを走らせる。
 チェックマークが、小さく音を立てる。

「……これで、全部」
 秋穂が言う。
 声が、少しだけ震えている。
「大丈夫」
 私は言う。今日は空気の言葉じゃない。
「チェック表、全部クリアした。材料も、数も。予約分は別で保冷してある。釣銭もある」
 言いながら、自分でも驚く。私はちゃんと"決めて"、ちゃんと"確認して"いる。

 秋穂が、私を見る。
 その目に、いつもと違う色が浮かんでいる。

「……美春」
「うん」
「一緒で、よかった」

 その一言が、胸の奥に沈む。
 重いのに、温かい。

 私は、笑った。
 空気を丸くする笑いじゃなく、本当に嬉しい笑い。

「私も」

     ◇

 夏祭り当日。

 夕方、空が橙から紺へ沈み始めるころ、町内の広場は一気に熱を帯びた。

 提灯が揺れる。
 赤い光が、人の頬に温度をつける。
 風が吹くたびに、提灯の紙が、カサ、カサ、と小さく鳴る。
 その音が、祭りの始まりを告げるベルみたいだった。

 太鼓の音が、どん、どん、と腹に響く。
 祭囃子の笛が、ピィ、ピィ、と高く鳴る。
 子どもの笑い声。おばあさんの「あら」という声。誰かが「暑いねえ」と言う声。
 音が混ざって、夏が"祭り"の形になる。

 焼きそばのソースの匂いが、風に乗って流れてくる。
 たこ焼きの油の匂い。
 かき氷の甘いシロップの匂い。
 汗の塩気。
 その全部が混ざって、祭りの匂いになる。

 喫茶店の屋台は、少し控えめな場所。
 それでも、看板はちゃんと立てた。
 マスターの字で「夏限定スイーツ」。
 透明ケースの中で、コーヒー寒天がライトに照らされてぷるん、と揺れる。
 フルーツサンドの断面は、色が鮮やかで、見るだけで涼しそうだった。

「……緊張する」
 秋穂が言った。
 こんな言い方、初めて聞いた気がする。
 秋穂の手が、エプロンの端を握っている。
 指が白い。

「大丈夫」
 私は言う。
「チェック表、全部クリアした。材料も、数も。予約分は別で保冷してある。釣銭もある」

 秋穂が、小さく息を吸う。
 それから、頷いた。

 最初の列ができたのは、提灯が全部点った直後だった。

「これ、コーヒー寒天ですか?」
 おばあさんが、ケースを覗き込む。
「はい。黒糖シロップかけてます。うちのコーヒーで作りました」
 私は袋に入れて渡す。
 袋の口を結ぶ指先が、少し震える。でも、震えを止める暇がないくらい、次の客が来る。

「フルーツサンド、二つください」
「はい」
 秋穂が受け答えする声が、少し弾んでいる。
 教室で聞いたことがない声。
 人前に出るのが苦手なはずなのに、"自分の作ったもの"の前では、ちゃんと立てている。

「秋穂ちゃん、頑張ってるねえ」
 常連のおばあさんが、笑いながら言う。
 秋穂の耳が、少し赤くなる。
「……はい」
 短い返事。でも、逃げない返事。

 途中で、小学生くらいの女の子がケースを覗き込んで言った。

「どっちがおいしい?」
 私は困りかけて、秋穂を見る。
 秋穂は一瞬迷って、でも小さく笑った。

「……どっちも。だけど、最初は寒天」
「なんで?」
「……夏は、まず冷たいのが正解」
 女の子が笑って、寒天を選んだ。
 秋穂の笑顔が、ほんの一瞬だけ大きくなる。
 その一瞬が、提灯の光より眩しく見えた。

 忙しさは、波みたいに来る。
 人が引いたと思ったら、また押し寄せる。

 その途中で、トラブルが起きた。

「あの、お釣り……」
 若い女性が、戸惑ったように言う。
「500円玉、ないですか?」

 私は釣り銭箱を開ける。
 100円玉と50円玉はある。
 でも、500円玉が――ない。

 一瞬、頭が真っ白になる。
 でも、次の瞬間、夏祭りの準備で作ったチェック表が頭に浮かぶ。
 "釣り銭が足りなくなったら、マスターに連絡"。

「少々お待ちください」
 私は笑顔を作って言う。
 声が震えない。震えないように、両足に力を入れる。

 秋穂が、小さく言った。
「……美春、すごい」
「え?」
「今、焦ってない」
「焦ってる。でも、止まらない」

 マスターが、すぐに500円玉を持ってきた。
 私は釣り銭を渡して、女性が笑顔で去っていく。

 秋穂が、小さく息を吐いた。

「……美春、ほんとにすごい」
「秋穂も」
 私は言う。
「さっき、女の子に笑ってた」

 秋穂の耳が、また赤くなる。
 でも、今度は逸らさなかった。

 忙しさが、また波になって押し寄せる。

「あと寒天、何個?」
「十!」
 秋穂が言う。
「補充する!」
 私は言って、保冷ボックスを開ける。冷気が顔に当たって、少しだけ目が覚める。
 補充しながら、ケースの中の揺れ方を見て、私は小さく息を吐いた。
 "崩れてない"。
 固さも、見た目も、守れている。

 花火が上がる直前、いちばんの波が来た。

「寒天、三つ!」
「サンド、二つ!」
「あと、寒天一つ!」

 声が重なる。
 私は、列の流れを見る。
 今、誰が何を頼んだか。
 どの順番で渡すか。
 釣り銭は足りるか。

 頭の中で、数字が回る。
 でも、混乱しない。
 "見える化"したから。
 チェック表を作ったから。

 秋穂が、隣で動く。
 補充。受け渡し。確認。
 二人の動きが、噛み合っている。

 ドン、と花火の一発目が上がった。
 音が腹に響いて、歓声が広場を揺らす。
 空が白く光って、人の顔が一瞬だけ昼みたいに明るくなる。

 その光の中で、私たちのケースは、ほとんど空になっていた。

「……あと、三つ」
 秋穂が呟く。
「二つ」
「一つ」
「――完売」

 秋穂の声が、かすれるみたいに細くなった。信じたいのに、信じきれない、みたいな。
 ケースの中は、ついさっきまで"揺れていた夏"が、いまはもう静かな空っぽになっている。
 ライトに照らされた透明な底が、やけにきれいで、逆に胸を突いた。

 私は、完売の札を手に取る。
 紙が少し湿っていて、指先にまとわりついた。汗のせいか、さっきからずっと触っていたからか――たぶん両方。
 札の端を、ケースの角に合わせる。テープを引く音が、花火の歓声の隙間で妙に鮮明に聞こえた。

 札をケースに貼った瞬間、胸の奥が一気に熱くなった。

 膝が、ふわっと力を失う。
 私は、カウンターに手をついて、息を吐いた。
 深く、深く。
 視界の端で、秋穂も同じように、テーブルに手をついている。
 二人とも、立っているのがやっとだった。

 熱さは、喜びだけじゃない。
 怖さも、焦りも、数字のプレッシャーも、全部まとめて押し込めてきたものが、いま「よくやった」と言われたみたいに溶け出してくる。
 
 喉の奥がじん、として、息を吸うだけで胸が痛い。
 なのに、口元だけは勝手に上がる。笑いたい、って体が先に決めてしまったみたいに。

 周りの屋台の呼び込みが遠くなる。太鼓の音も、笛も、ざわめきも――全部、薄い布一枚の向こう側。
 私の視界に残っているのは、ケースの「完売」と、隣で固まっている秋穂だけ。

 秋穂は、ケースを見たまま、瞬きを忘れている。
 その横顔が提灯に照らされて、少しだけ幼く見えた。
 次の瞬間、秋穂がゆっくり私を見て――目が合った。
 言葉は出てこないのに、目だけが「できた」と言っている。

 私は一度だけ、強く頷く。
 頷いた拍子に、肩の力が抜けて、身体の芯がふっと軽くなった。
 釣り銭箱の中の硬貨が、ちり、と小さく鳴った。さっきまで怖かった音が、いまは"終わった合図"みたいに優しい。

 すぐ後ろで、「あ、売り切れだって」「人気だったねえ」という声がして、誰かが残念そうに笑った。
 その"残念"が、私にはご褒美みたいに聞こえてしまって、胸がまた熱くなる。

 ――守れた。
 味も。約束も。今日という一日も。

 そう思った瞬間、秋穂の肩が小さく震えた。
 私は、次の言葉を探す前に、秋穂のほうへ体を向ける。

「……完売だよ」
 私は笑った。
 秋穂が、ちゃんと笑った。
 嬉しさが、顔の筋肉に追いつかなくて、ちょっと不器用な笑い。

 その笑いが、急に崩れた。

 秋穂が、私に飛びついてきた。

「美春!」

 名前が、花火の音より近いところで弾けた。
 次の瞬間、視界がぐらりと揺れる。エプロンの胸元を掴む指先の力が強くて、私は思わず一歩、たたらを踏んだ。

 驚きで息が止まる。
 ――え、ここ、外。祭り。人。提灯。
 頭の中で注意書きが一斉に点滅するのに、身体の方はもう遅い。

 私は反射で受け止める。
 腕の中に落ちてきた秋穂の重みが、ちゃんと"生きてる温度"で、心臓が一拍遅れて跳ねた。
 危ない、と思うより先に、離したくない、が出てしまうのが怖い。

 秋穂の匂いが近い。
 髪の匂い――レモンと、バターと、汗の匂いが混ざっている。
 今日一日の忙しさが、そのまま甘い香りに変わったみたいで、胸がきゅっとなる。

 秋穂の顔が、私の肩に埋まる。
 呼吸が、私の首元に当たる。
 温かい。熱い。

 私は固まったまま、空いている方の手を宙で迷わせる。
 抱き返していいのか。
 見られたらどうする。
 でも――

 秋穂の肩が小さく震えているのが分かった瞬間、そういう計算が全部、溶けた。
 震えは怖さじゃない。たぶん、こらえきれなかった嬉しさの震えだ。

「……秋穂、ちょ、まって……」
 言いながら、声が笑いに引っ張られる。
 私の頬が勝手にゆるんで、困る。隠そうとしても隠れない。

 私はそっと、秋穂の背中に手を置く。
 指先から伝わる熱が、じわじわと私の胸まで上がってきて、さっきまでの緊張の糸をほどいていく。

「……できたね」
 私が囁くと、秋穂が返事の代わりに、ぎゅっと腕に力を込めた。
 その力が、答えみたいで――私は、もう一度だけ驚いて、同じくらい嬉しくて、苦しくなる。

 こんなふうに抱きつかれて、困るのに。
 困るより先に、救われてしまう。
 ――私たち、ちゃんとやれたんだって。
 
「……ありがとう」
 秋穂の声が、泣きそうに震えている。
「美春がいなかったら、今日はなかった」

 私の胸が、一気に熱くなる。
 目の奥が、少しだけ熱い。
 泣きたいわけじゃない。
 嬉しすぎて、どうしたらいいか分からない。

「秋穂がいたから、私も頑張れた」
 私は言う。
 秋穂の背中に、手を回す。
 エプロンの生地が、少し湿っている。
 汗で。
 でも、気にならない。

 秋穂が、顔を上げる。
 頬が赤い。
 目が潤んでいる。
 唇が、少しだけ震えている。

 その顔が、提灯の光に照らされて、花火より眩しく見えた。

 マスターが、屋台の裏から顔を出して、私たちの姿を見て――何も言わずに笑った。
 見抜く笑い。
 でも追い詰める笑いじゃない。
 「まあ、そうだよな」と言ってくれているみたいな笑い。

 私たちは、しばらくそのまま立っていた。
 秋穂の手が、私のエプロンの端を握っている。
 離したくない、みたいに。

 私も、離したくなかった。

     ◇

 片付けが始まる。
 油の匂いが薄れ、提灯の光がゆっくり落ち着く。
 周りの屋台も、終わりの気配を出し始めていた。

 マスターが荷物をまとめながら、私たちに言った。

「よし、帰るぞ。報告もあるんだろ」
 秋穂の肩が、少しだけ強張った。
 香織さんへの成果報告。
 "夏休みの結果"として、今日の成功を見せなきゃいけない。

 私は秋穂の手を、そっと握った。
 秋穂が、驚いたように私を見る。

「伴走するよ」
 私は言う。
 秋穂が、同じ力で握り返す。

 帰り道。

 提灯の光が、ゆっくり遠ざかる。
 祭囃子の音が、風に乗って薄くなる。
 夜の匂いが、少しだけ秋に近づいている。

 私たちは、手をつないだまま歩いた。

 秋穂が、急に言った。

「……美春の手、温かい」
「秋穂も」
「汗、かいてる」
「秋穂も」
 私たちは笑った。

 秋穂が、少しだけ迷ってから――私の腕に、自分の腕を絡めた。

 密着する。
 肩が触れる。
 秋穂の髪が、風で揺れて、私の頬に触れる。
 レモンの匂いが、ふわっと広がる。

 私の心臓が、急に跳ねる。
 早い。うるさい。
 秋穂に聞こえてないか、心配になる。

 秋穂が、小さく言った。

「……美春がいなかったら、今日はなかった」
「もう、それ三回目」
「だって、本当だから」
 秋穂が少しだけ顔を上げる。
 月明かりに照らされて、秋穂の目が揺れている。

「秋穂がいたから、私も頑張れた」
 私は言う。
「それも、本当」

 秋穂が、私の肩に頭を預ける。
 重さが、温かい。

 私は、心の中で思う。

 ――秋穂のこと、好き。

 この気持ちは、友達以上だと思う。
 でもまだ、言葉にはできない。
 今日は"恋"じゃなく、"成果"の日だから。

 そう思って、自分を落ち着かせる。

 でも、秋穂の髪の匂いが、頭から離れない。
 秋穂の温もりが、肩から離れない。
 秋穂の声が、耳から離れない。

 私たちは、そのまましばらく歩いた。
 言葉は少ない。
 でも、言葉がなくても、分かる。

 ――今日、私たちは一緒に走った。

 それだけで、充分だった。

     ◇

 翌日、喫茶店はいつもより静かだった。
 夏祭りの熱が引いた分、店内の空気が涼しく感じる。
 コーヒーの香りが、落ち着いた"日常"を連れてくる。

 秋穂は、香織さんの前に出すための資料をまとめていた。
 売上の数字。予約の消化。お客さんの反応。写真。マスターの署名。
 そこに、"夏の成果"が詰まっている。

 私は、テーブルを拭きながら、昨日のことを反芻していた。

 客の流れを見て、「今、補充するタイミング」と判断したこと。
 売れ行きを見て、「寒天の方が人気。次はこっちを前に」と配置を変えたこと。
 釣り銭を確認して、「500円玉が減ってる。両替必要」と先読みしたこと。

 それって――何だったんだろう。

 マスターが、カウンターの奥から声をかけてきた。

「美春ちゃん」
「はい」
「昨日、いい目してたな」
「……いい目?」
「店を回す目」

 店を、回す。

 私は、手を止める。

「私がやったのは、確認と調整だけです」
「それが"回す"ってことだ」
 マスターがカップを拭きながら言う。
「秋穂ちゃんは味を作る。美春ちゃんは流れを作る。両方いて、店は成り立つ」

 両方いて。

 その言葉が、胸の奥に沈む。

「作る人と、回す人」
 マスターが続ける。
「どっちが偉いとか、どっちが主役とか、そういうのはない。両方いないと、店は回らない」

 私は、秋穂を見る。
 秋穂は資料をまとめながら、少しだけこちらを見た。

「昨日、ちゃんと回ってた。私、味しか見えてなかったけど、美春は全体を見てた」
 秋穂がぽつりと言う。
「え」

「――お店を、支える仕事?」
「そうだ」
 マスターが頷く。
「味だけじゃない。人を見て、流れを作って、信用を守る。美春ちゃん、才能あるよ」

 才能。

 その言葉が、嬉しいのに、少し怖い。
 私に、才能なんてあるんだろうか。

 でも――昨日、確かに私は"回して"いた。
 秋穂の味を、ちゃんとお客さんに届けていた。

 秋穂の夢を、横から支えられる。
 それが私の役割かもしれない。

「回す……」
 私は小さく呟く。

 マスターが笑う。

「まあ、今すぐ決めなくていい。でも、覚えとけ。お前は"回せる"」
「学校でも、イベントあるだろ。文化祭とか」
「……あります」
「お前たちなら、そこでも何かできるんじゃないか?」
 マスターは、それ以上言わず、笑った。

 回せる。

 その言葉が、胸の奥で小さく光る。

     ◇

 夕方、秋穂が資料を持って出かけた。
 背中が、ちゃんと"見せられる"姿勢だった。

「……行ってくる」
「うん」
 私は頷く。
「ここで待ってる?」
「待ってる」

 秋穂が出ていく。
 ベルが、カラン、と鳴った。
 その音が、昨日の花火より小さいのに、胸に残る。

 待つ時間は、長かった。
 でも、怖さだけじゃなく、信じる気持ちも一緒に増えていく。

     ◇

 二時間後。

 ベルが鳴った。
 カラン。
 秋穂が入ってくる。制服の襟が少しだけ乱れている。頬が赤い。泣いたのか、息を切らしたのか、分からない。

 私は立ち上がった。

「……どうだった?」

 秋穂は一瞬だけ黙って、それから、息を吐いた。

「……"次も出せるなら、出してみなさい"って」
「え」
「条件付き、だけど」
 秋穂が笑いかけて、また消しそうになって、でも今日は消さなかった。
「成績の報告は続く。勉強は落とさない。バイトも"無理な働き方をしない"。――それが守れるなら、続けていいって」

 胸が一気に熱くなる。
 私は、言葉より先に、秋穂の手を取った。

「……よかった」
 声が震える。
 震えてもいい。今日は震える日だ。

 秋穂が小さく頷く。

「……美春のおかげ、って言ったら怒る?」
「怒らない」
 私は首を振る。
「でも、"秋穂が決めた"も言う」
「……うん」
 秋穂が小さく笑う。
「それでいい」

 マスターがカウンターの奥から、ポットを持ってきた。

「はいはい。報告は終わり。二人とも、まずは紅茶だ」
 紅茶の香りが立ち上る。
 温かい蒸気が、昨日の祭りの熱とは違う形で頬を撫でる。

 私たちはカップを手に取って、目を合わせた。

 うまくいく日もある。
 噛み合わない日もある。
 でも今日、私たちは噛み合わなかったことを、ちゃんと直せた。

 それだけで、夏は充分に"成果"だった。

     ◇

 秋穂が資料を広げながら、話してくれた。

「お母さん、最初は無表情だった」
「……うん」
「数字を見て、眉が少し上がった。『ちゃんとやった』って顔」
「写真は?」
「写真を見て、私の顔に目が止まってた」
 秋穂が少し照れたように視線を落とす。
「それで、チェック表を見て、『これ、誰が作ったの?』って」
「何て答えたの?」
「美春が、って」
 秋穂が私を見る。
「そしたら、『……いい子ね』って」

 私の胸が、ふわっと軽くなる。
 香織さんに、認めてもらえた。

「それで、最後に言われた」
 秋穂が続ける。
「『次も出せるなら、出してみなさい。ただし条件は厳しい。成績、生活リズム、バイトの時間。全部守りなさい』って」

 条件は厳しい。
 でも、条件があるということは――道があるということ。

「守れる?」
 私が聞くと、秋穂が頷く。
「……守る。美春が、一緒なら」

 その言葉に、私は笑った。

「一緒だよ。ずっと」

     ◇

 秋穂がぽつりと言う。

「……次は、もっとちゃんと連携する」
「うん。チェック表、続けよう」
「……美春、そういうの好きだよね」
「好きじゃないけど、必要だと思った」
「……それが、すごい」
 秋穂の声が、少しだけ誇らしげだった。

 私はカップの縁に唇を当てて、紅茶を飲む。
 甘い。
 苦くない。
 そして、確かに温かい。

 この味を、忘れたくないと思った。

 マスターが、カウンターを拭きながら言った。

「二学期が始まったら、また忙しくなるぞ」
「文化祭、ですか」
 私が聞くと、マスターが笑う。
「そうだ。学校でも何かやるんだろ?」
「……まだ、決まってないです」
「決まったら、教えてくれ。協力できることがあるかもしれない」

 文化祭。

 その言葉が、頭の中で小さく光る。

 夏祭りで、私たちは"回せた"。
 秋穂の味を、ちゃんとお客さんに届けられた。

 それを――学校でも、できないだろうか。

 私は、その考えをまだ口に出さなかった。
 でも、胸の奥で、小さな種が芽生えている。

 秋穂を、もっと多くの人に知ってもらいたい。
 秋穂の味を、もっと広げたい。
 そして――私も、秋穂の横で、ちゃんと立ちたい。

 ベルが、もう一度、小さく鳴った。
 外ではまだ蝉が鳴いている。
 けれど、風の匂いは、ほんの少しだけ秋に近づいていた。

 私たちは、カップを置いて、目を合わせた。

「……次も、一緒」
 秋穂が言う。

 提灯の赤い光が遠ざかって、蝉の声だけが夜に残っているのに――その一言だけは、耳の奥に近い場所で鳴ったままだった。

「うん。次も、一緒」
 私は頷く。頷いた拍子に、胸のどこかがふっとほどける。

 "次"がある。
 今日で終わりじゃない。
 夏祭りの熱も、完売の札も、抱きつかれた驚きも、ぜんぶ「過去」になっていくのに、私たちの約束だけは未来の方へ伸びていく。

 秋穂の指が、私の指先を確かめるみたいに、ほんの少しだけ力を込めた。
 その小さな力が、言葉よりはっきりしていて――私は笑いそうになる。

 怖かった。
 足りないものばかり数えて、息が浅くなって、失敗の予感に押しつぶされそうで。
 それでも、逃げなかった。
 ちゃんと向き合って、ちゃんと直して、ちゃんと走り切った。

 その結果が、いま、手のひらに残っている。
 汗の温度と、秋穂の温度と、さっきまでの"必死"の名残。

 私は夜風に目を細める。
 遠くの屋台から流れてくる甘い匂いが、さっきまでの忙しさを、少しだけ優しいものに変えていく。

 ――次も、一緒。

 それは「頑張ろう」よりも静かで、
 「大丈夫」よりも確かで、
 私の胸の奥を、ゆっくりと灯す言葉だった。

 約束は、火花みたいに派手じゃない。
 でも、消えない。
 消えないまま、あたたかく残って、私の中で次の季節を待っている。

 私はもう一度だけ、秋穂の手を握り返した。
 返事の代わりに。

 その温もりを合図に、私たちは歩き出す。
 夏の終わりへじゃなく――次の"私たち"へ。
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