短編集

ミズキケイ

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 サァサ、お立ち寄りください。物語の形を作るのが語り手ならば、物語に命を与えるのは読み手の存在でございます。束の間、どうぞ目をお貸しくださいませ。
 愛とは、目に見えず、香りもなく、手に触れることもできないものでございます。そのようなもののために、多くの人は泣き、笑うのです。「ある」と信じることこそが、物理的質量のない愛を実在させる手段なのでございます。
 さて、本日はとある夫婦の物語でございます。
 些細なきっかけで出会い、ほどほどの月日を恋人として過ごしたのちに、生涯変わらぬ愛を誓い合い結婚した男女。老いて顔に深いしわが刻まれ、髪の毛が白くなるまで寄り添い支え合いながら生きていくものと互いに信じて疑わぬ2人でございます。
 しかし、世の中に星の数ほどある夫婦のうち、いくつかの夫婦には、共白髪を諦めなければならない大きな問題が起こりうるのです。夫婦の仲は、時に人の手によって、時に抗いがたい運命によって、揺さぶられ引き裂かれてしまうことがございます。
 この夫婦も、2人の絆を試すかのようなありふれた悲劇に目を付けられてしまいました。多くの人が数十年先まで思いを馳せる年齢でありながら、妻は、自身に残された時間が極めて少ないことを知らされたのでございます。その喪失感や恐怖、絶望、無力感は、我々には推し量ることができないものでございましょう。誰もが妻の短い命を憐れみ、いずれ妻に先立たれる夫に同情しました。
 君が死んでも再婚なんかしない。日に日に病状が悪くなる妻に夫は誓いました。一方の妻は、いずれ悲しみが癒えたら新しい幸せを見付けてほしい、と。すると夫は、君がいない人生に幸せなんかない、と答えるのです。いつかまた幸せになって、と言いながらも、彼女は夫の言葉を密かに嬉しく思っていました。
 夫婦が、残された時間を大切に大切に過ごしていたある日のことです。妻は、看護師と夫が話している様子を目にしました。病院での何気ない光景にもかかわらず、彼女はそれを見た瞬間、下腹部からふつふつと湧き上がるどろりとした液体が、胸の中を重苦しく渦巻き、ともすれば喉を通って溢れ出しそうになる感覚に包まれたのです。
 喪失の痛みは時と共に癒える。いずれ私を忘れた夫は誰かと再婚する。夫の甘い囁きを耳にして、夫の温もりに包まれて眠る、私ではない女性。
 渦巻き、荒れ狂い、体が内側から粉々なるのではないかと錯覚するほどの感情の混乱。病院にいることすら忘れて叫び出したいと思ったその時、彼女の脳裏にある考えが浮かんだのでございます。さながら、暴風雨の終わりを告げる太陽の光が雲の間から差し込むかのように。
 夫を連れて行こう。死者は再婚しない。幸か不幸か、子どもはいない。子どものために、と犯罪者になることをためらうことも、夫を生かしておく必要もない。早く。1日でも早く。体が動かなくなる前に。今のうちに、殺してしまわなければ。
 ここで、ひとつだけ大切なことがございます。それは、夫が状況を理解する前に息絶えるようにすること。殺人者は妻だと知れば、夫は彼女を怖れ、憎み、その愛は永遠に失われてしまうでしょう。自身の命を奪う人物の正体を知らぬまま、いえ、人生が終わったことにさえ気付かぬうちに穏やかに眠ることで、夫婦の永遠で完璧な愛が完成すると彼女は確信していたのでございます。
 では、いかにして夫を殺すか。病で弱った彼女の体では強い力が必要な方法は不可能です。事故に見せかけて悲劇の人になることも考えましたが、それは愛する人の命を他人に委ねるということでもあります。彼女は、静かな場所で、誰にも邪魔されず夫の最期に寄り添いたいと願いました。
  夫を先に逝かせた後は、病が私を殺してくれるのを待つだけ。穏やかな気持ちで。夫を奪われる不安もない。きっと、夫は笑顔で待ってくれている。結婚前にデートの待ち合わせをした時のように。また夫との幸せな未来が待っている。
 愛は実体を持たぬゆえに如何様にでも有り様を変えるものでございます。慈しむばかりが愛の姿ではありません。正義を食らい、理屈を食らい、倫理観を食らい、命さえ食らう。時には全てを破壊する凶暴な魔物にさえ変貌いたします。美しさも、醜さも、儚さも、力強さも、様々なものを内に秘めているのが愛なのでございます。
 さて、本日のお話はこれにてお終いに致しましょう。再びご縁が巡りくるその時まで、しばしのお別れでございます。
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