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序章 綴言の約束
1 祖父の書斎
しおりを挟む◇◆◇
昔々、まだ世界が言葉とともに形を変え始める前のこと。
神話生物たちは自由に大地を駆け巡り、空を舞い、海を泳いでいた。彼らは人々の目に映り、その存在は生きた伝説として息づいていた。
しかし、ある時代を境に奇妙な運命が彼らを待ち受けた。
神話生物が『物語として語られた瞬間』、その姿は現実の世界から溶けるように消え去ったのだ。
彼らの魂はこの世のどこにも属せず、見えぬ牢獄――物語牢獄に幽閉された。
そこは過去と未来、現実と虚構が入り混じる場所で、語られなかった真実の断片だけが静かに囁かれている。
語り部たちはこの牢獄に囚われた神話生物の断片を拾い集め、新たな物語を紡ぎ出そうとする。
その営みは世界に失われた光を取り戻すため、そして忘れ去られた魂に再び自由を与えるための戦いでもある。
語られることは、生の証であると同時に消失の契約。
神話生物たちは、自らの物語が語られることで、永遠に現実から姿を消す運命を背負いながらも、語られざる真実は時の彼方から届き、綴言の力を持つ者の手により紡がれ、再び光を取り戻すことを願いながら。
◇◆◇
それは私が幼い頃であった。辺境の小さな村。昔は語り部の里として知られていたが、今は忘れ去られつつある。家族は祖父のみで、両親はいない。そんな私、ルカの旅の物語である。
夕暮れの光が静かに祖父の書斎に満ちていた。
窓辺に置かれた古びた木製の机は、長い年月の重みを感じさせるひび割れた表面を持ち、その上に散らばる書物や紙片は、まるで時の流れを止めたかのように静止していた。
ルカは椅子にちょこんと腰掛け、祖父の膝の上に小さな手を重ねていた。
祖父の手は、長い人生の証のように皺が刻まれ、肌は硬くなっているが、触れると柔らかく暖かかった。
その温もりに、ルカの小さな心はじんわりと安心に包まれていく。
部屋には、古書特有の紙の匂いと、燻された木材の香りが混ざり合い、柔らかな夕陽の光とともに心地よい静寂が漂っていた。
外からは遠く、子どもたちの笑い声や、風に揺れる木の葉のざわめきがかすかに聞こえてくる。
祖父の目は深く澄み、遠くを見つめるように静かに語り始めた。
「ルカよ、言葉にはな……ただの伝達ではない力が宿っているのじゃ。」
その声は低く、重みがあり、まるでこの世の真実をひとつひとつ解き明かすように響いた。
ルカは祖父の顔を見上げる。柔らかい頬のしわや、白く薄くなった髪、そして目の奥に灯る深い光が、ただの老人ではなく、何か秘められた存在であることを感じさせた。
「言葉はただの音や文字じゃない。昔の人々は、言葉を使い世界を形作っていた。『綴言』と呼ばれるその力は、語られなかった物語や壊れた伝承を繋ぎ直し、現実に影響を及ぼすことができるのじゃ。」
ルカの胸は高鳴った。まだ幼いその心は、見えない力の存在に戸惑いながらも、どこか胸の奥で確かな予感が芽生えていた。
祖父はゆっくりと立ち上がり、棚から一冊の古ぼけた日記を取り出す。
その革表紙は年月のせいで固くなり、触れるだけでかすかな粉が手に付く。
ページをめくると、かすれた文字と、幾何学的な模様や神秘的な絵が散りばめられていた。
「これは、わしが生涯かけて集めた物語の断片じゃ。忘れ去られた神話、壊れた綴言、語られなかった真実が詰まっている。」
祖父の声には熱がこもり、その手つきは優しく、確かにこの書物に宿る力を感じているようだった。
ルカはそっとそのページに指を滑らせた。
かすれた文字がまるで生きているかのように揺らめき、空気がほんの少し震えた気がした。
「怖くはないか?」
祖父が優しく問いかける。
ルカは迷わずに答えた。
「怖くないよ。僕、これからのことを知りたいんだ。やってみたい。」
祖父はその言葉に満足したように小さく頷き、目に深い秘密を湛えた。
「よい返事じゃ。だが気をつけよ、綴言の力は光でもあるが影でもある。試練の道じゃ。お前が歩むべき道は、決して平坦ではないかもしれん。」
祖父はルカの肩に手を置き、その温もりを伝えた。
「物語の牢獄に囚われた神話たちの声を聴き、真実を紡ぎ直す旅に出るのだ。お前にしかできぬことじゃ」
部屋は夕陽が沈みゆくにつれ、ゆっくりと影が広がっていった。
だがルカの胸には、燃えるような決意の火が灯っていた。
外では、静かな風が窓を揺らし、紙が擦れるようなかすかな音が聞こえた。
まるで、語られなかった物語たちが目覚める合図のように響いていた。
その夜、ルカは祖父の話した言葉を反芻しながら眠りについた。
夢の中で、彼はまだ見ぬ世界の断片を手繰り寄せていた。
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