語り部旅譚─頁牢に眠る神話たち─

御歳 逢生

文字の大きさ
5 / 20
第1章 雨降る谷と沈黙の巨神

2 記憶の地図と詩の鍵

しおりを挟む
夜が明けきる前、風の流れが変わった。

それは遠くで誰かが、古い扉を押し開いたときのような空気だった。
湿り気を帯びた空が、葉のざわめきを低く撫でていく。

「朝だね、ルカ。」

ハーリィがそう言ったとき、ルカはようやく夢から引き上げられた。
膝に抱えた手記のページが、眠っているあいだにひとりでにめくれていたらしい。
風の悪戯か、それとも――記された記憶が何かを呼んだのか。

「夢を見てた。灰の川と、谷の奥。誰かが歩いてた。」

「きっと、それが“鍵”になる。」

ハーリィは祠の隙間から射し込む朝の光を見つめながら言った。
彼女の髪に水気を含んだ風が絡み、白銀の糸がちらりと宙を滑る。

「鍵?」

「記された言葉の意味を開くためのね。
あの詩の構造はただの散文じゃない。ルカ、昨日の詩、もう一度読める?」

ルカはうなずき、革手帳を開く。
そこにあった詩は昨日と同じ文面で、だが今朝は確かに――何かが違って見えた。
 

   風の影を踏みて進め
   振り返るな、言葉は濁る
   封じられし谷の唇が、
   眠る神話を、雨に咲かせる

   灰の川を越え、音のない峰を三つ数えよ
   雨のしずくが落ちるたび、記憶はひとつ芽吹く
   縫い合わされた口の巨人よ、声なき歌を響かせよ
   語り継がれぬ神話は、谷に沈みて風となる


「これ、音としても構造されてる。響きが対になってる。進め/濁る、谷/咲かせる……。」
「“唇”が鍵かもな。」

ルカはぽつりと呟いた。

「じいちゃんが“封じられた谷”って書いたのは、閉じられた声を意味してるんだと思う。
神話が“語られなかった”んじゃなく、“語れなかった”んじゃないか?」

ハーリィがわずかに目を見開いた。

「記録を封じた理由がある……?」

「あるいは、“語る者”を封じられた、というほうが正しいのかも。」

「“語る者”を封じられたって、喋れなくされた……誰か?」

ルカの声がかすかに震えた。

「“灰の川”、“音のない峰”、“縫い合わされた口の巨人”……。」

ルカはひとつひとつ声に出しながら、言葉を確かめるように読んでいった。

「地形だ。これは地図になってる。いや、“記憶の地図”だ。」

ハーリィが静かに言う。

「しかも、ただ場所を示すだけじゃない。“雨のしずくが落ちるたび、記憶はひとつ芽吹く”……。
この旅路そのものが、過去と繋がっていくように設計されてるのかも。」

ハーリィは手帳のページを指先でなぞる。詩の最後の行を、声に出さずに読んでいるのがわかった。

――語り継がれぬ神話は、谷に沈みて風となる。

「記されなかった神話は、記憶にも残らない。でも風になるのなら――。」

「聞くことはできる。言葉じゃなくても。」

「風の声を“読む”には、詩を解読する必要がある。つまり、これは“音なき言葉”の言語体系だよ。」

ページのすみにある記号――円環に折り畳まれたような線の重なり。
ルカが指でなぞると、ふいにそれがかすかに光を帯びた。

「綴言が……応じた?」

「違う。これは“綴言もどき”だ。けど、十分に強い。“語り”の力と結びついてるからだ。」

ハーリィが荷物から小さな石版を取り出し、詩の構造を写し取る。
風の動きを記録するための儀式的な紋が、彼女の指先に淡く浮かぶ。

「この詩を解く鍵を集めるには……詩の“場所”に行くしかないわ。
灰の川、音のない峰、そして……谷に沈む風のもとへ。」

「じいちゃんが記録したのは、そのための“物語の断片”だったのか。」

ルカは手帳を閉じ、立ち上がる。
空は明るくなりつつあり、昨夜よりも森の音が増えてきていた。
小さな鳥の声、虫の羽音。風が枝をすべる音。

それは確かに、“現実”の音だった。

だがその中に、わずかに混じる、異質な気配がある。

「ついてきてるな、奴ら。」

ハーリィが低く呟く。ルカも気づいていた。
草を踏む音、規則正しすぎる枝の揺れ――あれは自然ではない。

書記官スクリブ?」

「あるいは、その予兆。直接動いてくるにはまだ早い。でも、探ってる。」

「逃げないと。」

「いいえ、進むの。書記官スクリブは“記録された動き”しか追えない。
私たちが“書かれていない道”を選ぶなら、まだ追いつけない。」

ルカは一瞬戸惑いながらも、手記を胸に抱えた。

「どこへ行けばいい?」

「東。風の流れが教えてくれる。そこに、言葉を知る者がいる。
……詩が示した“声の地形”の中で、まずは言葉を集めるの。谷に至る前に、鍵がもう一つ必要だから。」

ルカはその言葉にうなずき、荷物を背負った。森を抜けるには小さな丘を越える必要がある。
歩きながら、彼は振り返る。小さく見える祖父の家。
その屋根には、もう誰の気配も残っていなかった。

それでも、心の中にはあの書斎の匂い、背表紙の擦れた音が、まだ静かに残っていた。

「じいちゃんが、僕に旅をさせた理由……。少しだけ分かってきた気がする。」

「語られぬ神話は、語られるべき者を待っているのよ。」

ハーリィの声に背を押されるように、ルカは森の奥へと歩き出した。

その背後、風に運ばれてひとつの声が消えた。

書記官スクリブたちは、すでに“言葉の痕跡”を嗅ぎつけていた。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~

ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。 王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。 15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。 国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。 これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。  

なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始め

イニシ原
ファンタジー
ダークスローライフで癒しに耐えろ。 孤独になった勇者。 人と出会わないことで進む時間がスローになるのがダークスローライフ。 ベストな組み合わせだった。 たまに来る行商人が、唯一の接点だった。 言葉は少なく、距離はここちよかった。 でも、ある日、虹の種で作ったお茶を飲んだ。 それが、すべての始まりだった。 若者が来た。 食料を抱えて、笑顔で扉を叩く。 断っても、また来る。 石を渡せば帰るが、次はもっと持ってくる。 優しさは、静けさを壊す。 逃げても、追いつかれる。 それでも、ほんの少しだけ、 誰かと生きたいと思ってしまう。 これは、癒しに耐える者の物語。 *** 登場人物の紹介 ■ アセル 元勇者。年齢は40に近いが、見た目は16歳。森の奥でひとり暮らしている。 ■ アーサー 初老の男性。アセルが唯一接点を持つ人物。たまに森を訪れる。 ■ トリス 若者。20代前半。アーサー行方不明後、食料を抱えて森の家を訪れる。

悪役令息、前世の記憶により悪評が嵩んで死ぬことを悟り教会に出家しに行った結果、最強の聖騎士になり伝説になる

竜頭蛇
ファンタジー
ある日、前世の記憶を思い出したシド・カマッセイはこの世界がギャルゲー「ヒロイックキングダム」の世界であり、自分がギャルゲの悪役令息であると理解する。 評判が悪すぎて破滅する運命にあるが父親が毒親でシドの悪評を広げたり、関係を作ったものには危害を加えるので現状では何をやっても悪評に繋がるを悟り、家との関係を断って出家をすることを決意する。 身を寄せた教会で働くうちに評判が上がりすぎて、聖女や信者から崇められたり、女神から一目置かれ、やがて最強の聖騎士となり、伝説となる物語。

家ごと異世界転移〜異世界来ちゃったけど快適に暮らします〜

奥野細道
ファンタジー
都内の2LDKマンションで暮らす30代独身の会社員、田中健太はある夜突然家ごと広大な森と異世界の空が広がるファンタジー世界へと転移してしまう。 パニックに陥りながらも、彼は自身の平凡なマンションが異世界においてとんでもないチート能力を発揮することを発見する。冷蔵庫は地球上のあらゆる食材を無限に生成し、最高の鮮度を保つ「無限の食料庫」となり、リビングのテレビは異世界の情報をリアルタイムで受信・翻訳する「異世界情報端末」として機能。さらに、お風呂の湯はどんな傷も癒す「万能治癒の湯」となり、ベランダは瞬時に植物を成長させる「魔力活性化菜園」に。 健太はこれらの能力を駆使して、食料や情報を確保し、異世界の人たちを助けながら安全な拠点を築いていく。

【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活

シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!

最弱弓術士、全距離支配で最強へ

Y.
ファンタジー
「弓術士? ああ、あの器用貧乏な最弱職のことか」 剣と魔法が全てを決める世界において、弓は「射程は魔法に及ばず、威力は剣に劣る」不遇の武器と蔑まれていた。 若き冒険者リアンは、亡き叔父から譲り受けた一振りの弓「ストーム・ウィスパー」を手に、冒険者の門を叩く。周囲の嘲笑を余所に、彼が秘めていたのは、世界をナノ単位で解析する「化け物じみた集中力」だった。 リアンの放つ一矢は、もはや単なる遠距離攻撃ではない。 風を読み、空間を計算し、敵の急所をミリ単位で射抜く精密射撃。 弓本体に仕込まれたブレードを操り、剣士を圧倒する近接弓術。 そして、魔力の波長を読み取り、呪文そのものを撃ち落とす対魔法技術。 「近距離、中距離、遠距離……俺の射程に逃げ場はない」 孤独な修行の末に辿り着いた「全距離対応型弓術」は、次第に王道パーティやエリート冒険者たちの常識を塗り替えていく。 しかし、その弓には叔父が命を懸けて守り抜いた**「世界の理(ことわり)」を揺るがす秘密**が隠されていた――。 最弱と笑われた少年が、一張の弓で最強へと駆け上がる、至高の異世界アクションファンタジー、開幕!

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

処理中です...