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第1章 雨降る谷と沈黙の巨神
2 記憶の地図と詩の鍵
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夜が明けきる前、風の流れが変わった。
それは遠くで誰かが、古い扉を押し開いたときのような空気だった。
湿り気を帯びた空が、葉のざわめきを低く撫でていく。
「朝だね、ルカ。」
ハーリィがそう言ったとき、ルカはようやく夢から引き上げられた。
膝に抱えた手記のページが、眠っているあいだにひとりでにめくれていたらしい。
風の悪戯か、それとも――記された記憶が何かを呼んだのか。
「夢を見てた。灰の川と、谷の奥。誰かが歩いてた。」
「きっと、それが“鍵”になる。」
ハーリィは祠の隙間から射し込む朝の光を見つめながら言った。
彼女の髪に水気を含んだ風が絡み、白銀の糸がちらりと宙を滑る。
「鍵?」
「記された言葉の意味を開くためのね。
あの詩の構造はただの散文じゃない。ルカ、昨日の詩、もう一度読める?」
ルカはうなずき、革手帳を開く。
そこにあった詩は昨日と同じ文面で、だが今朝は確かに――何かが違って見えた。
風の影を踏みて進め
振り返るな、言葉は濁る
封じられし谷の唇が、
眠る神話を、雨に咲かせる
灰の川を越え、音のない峰を三つ数えよ
雨のしずくが落ちるたび、記憶はひとつ芽吹く
縫い合わされた口の巨人よ、声なき歌を響かせよ
語り継がれぬ神話は、谷に沈みて風となる
「これ、音としても構造されてる。響きが対になってる。進め/濁る、谷/咲かせる……。」
「“唇”が鍵かもな。」
ルカはぽつりと呟いた。
「じいちゃんが“封じられた谷”って書いたのは、閉じられた声を意味してるんだと思う。
神話が“語られなかった”んじゃなく、“語れなかった”んじゃないか?」
ハーリィがわずかに目を見開いた。
「記録を封じた理由がある……?」
「あるいは、“語る者”を封じられた、というほうが正しいのかも。」
「“語る者”を封じられたって、喋れなくされた……誰か?」
ルカの声がかすかに震えた。
「“灰の川”、“音のない峰”、“縫い合わされた口の巨人”……。」
ルカはひとつひとつ声に出しながら、言葉を確かめるように読んでいった。
「地形だ。これは地図になってる。いや、“記憶の地図”だ。」
ハーリィが静かに言う。
「しかも、ただ場所を示すだけじゃない。“雨のしずくが落ちるたび、記憶はひとつ芽吹く”……。
この旅路そのものが、過去と繋がっていくように設計されてるのかも。」
ハーリィは手帳のページを指先でなぞる。詩の最後の行を、声に出さずに読んでいるのがわかった。
――語り継がれぬ神話は、谷に沈みて風となる。
「記されなかった神話は、記憶にも残らない。でも風になるのなら――。」
「聞くことはできる。言葉じゃなくても。」
「風の声を“読む”には、詩を解読する必要がある。つまり、これは“音なき言葉”の言語体系だよ。」
ページのすみにある記号――円環に折り畳まれたような線の重なり。
ルカが指でなぞると、ふいにそれがかすかに光を帯びた。
「綴言が……応じた?」
「違う。これは“綴言もどき”だ。けど、十分に強い。“語り”の力と結びついてるからだ。」
ハーリィが荷物から小さな石版を取り出し、詩の構造を写し取る。
風の動きを記録するための儀式的な紋が、彼女の指先に淡く浮かぶ。
「この詩を解く鍵を集めるには……詩の“場所”に行くしかないわ。
灰の川、音のない峰、そして……谷に沈む風のもとへ。」
「じいちゃんが記録したのは、そのための“物語の断片”だったのか。」
ルカは手帳を閉じ、立ち上がる。
空は明るくなりつつあり、昨夜よりも森の音が増えてきていた。
小さな鳥の声、虫の羽音。風が枝をすべる音。
それは確かに、“現実”の音だった。
だがその中に、わずかに混じる、異質な気配がある。
「ついてきてるな、奴ら。」
ハーリィが低く呟く。ルカも気づいていた。
草を踏む音、規則正しすぎる枝の揺れ――あれは自然ではない。
「書記官?」
「あるいは、その予兆。直接動いてくるにはまだ早い。でも、探ってる。」
「逃げないと。」
「いいえ、進むの。書記官は“記録された動き”しか追えない。
私たちが“書かれていない道”を選ぶなら、まだ追いつけない。」
ルカは一瞬戸惑いながらも、手記を胸に抱えた。
「どこへ行けばいい?」
「東。風の流れが教えてくれる。そこに、言葉を知る者がいる。
……詩が示した“声の地形”の中で、まずは言葉を集めるの。谷に至る前に、鍵がもう一つ必要だから。」
ルカはその言葉にうなずき、荷物を背負った。森を抜けるには小さな丘を越える必要がある。
歩きながら、彼は振り返る。小さく見える祖父の家。
その屋根には、もう誰の気配も残っていなかった。
それでも、心の中にはあの書斎の匂い、背表紙の擦れた音が、まだ静かに残っていた。
「じいちゃんが、僕に旅をさせた理由……。少しだけ分かってきた気がする。」
「語られぬ神話は、語られるべき者を待っているのよ。」
ハーリィの声に背を押されるように、ルカは森の奥へと歩き出した。
その背後、風に運ばれてひとつの声が消えた。
書記官たちは、すでに“言葉の痕跡”を嗅ぎつけていた。
それは遠くで誰かが、古い扉を押し開いたときのような空気だった。
湿り気を帯びた空が、葉のざわめきを低く撫でていく。
「朝だね、ルカ。」
ハーリィがそう言ったとき、ルカはようやく夢から引き上げられた。
膝に抱えた手記のページが、眠っているあいだにひとりでにめくれていたらしい。
風の悪戯か、それとも――記された記憶が何かを呼んだのか。
「夢を見てた。灰の川と、谷の奥。誰かが歩いてた。」
「きっと、それが“鍵”になる。」
ハーリィは祠の隙間から射し込む朝の光を見つめながら言った。
彼女の髪に水気を含んだ風が絡み、白銀の糸がちらりと宙を滑る。
「鍵?」
「記された言葉の意味を開くためのね。
あの詩の構造はただの散文じゃない。ルカ、昨日の詩、もう一度読める?」
ルカはうなずき、革手帳を開く。
そこにあった詩は昨日と同じ文面で、だが今朝は確かに――何かが違って見えた。
風の影を踏みて進め
振り返るな、言葉は濁る
封じられし谷の唇が、
眠る神話を、雨に咲かせる
灰の川を越え、音のない峰を三つ数えよ
雨のしずくが落ちるたび、記憶はひとつ芽吹く
縫い合わされた口の巨人よ、声なき歌を響かせよ
語り継がれぬ神話は、谷に沈みて風となる
「これ、音としても構造されてる。響きが対になってる。進め/濁る、谷/咲かせる……。」
「“唇”が鍵かもな。」
ルカはぽつりと呟いた。
「じいちゃんが“封じられた谷”って書いたのは、閉じられた声を意味してるんだと思う。
神話が“語られなかった”んじゃなく、“語れなかった”んじゃないか?」
ハーリィがわずかに目を見開いた。
「記録を封じた理由がある……?」
「あるいは、“語る者”を封じられた、というほうが正しいのかも。」
「“語る者”を封じられたって、喋れなくされた……誰か?」
ルカの声がかすかに震えた。
「“灰の川”、“音のない峰”、“縫い合わされた口の巨人”……。」
ルカはひとつひとつ声に出しながら、言葉を確かめるように読んでいった。
「地形だ。これは地図になってる。いや、“記憶の地図”だ。」
ハーリィが静かに言う。
「しかも、ただ場所を示すだけじゃない。“雨のしずくが落ちるたび、記憶はひとつ芽吹く”……。
この旅路そのものが、過去と繋がっていくように設計されてるのかも。」
ハーリィは手帳のページを指先でなぞる。詩の最後の行を、声に出さずに読んでいるのがわかった。
――語り継がれぬ神話は、谷に沈みて風となる。
「記されなかった神話は、記憶にも残らない。でも風になるのなら――。」
「聞くことはできる。言葉じゃなくても。」
「風の声を“読む”には、詩を解読する必要がある。つまり、これは“音なき言葉”の言語体系だよ。」
ページのすみにある記号――円環に折り畳まれたような線の重なり。
ルカが指でなぞると、ふいにそれがかすかに光を帯びた。
「綴言が……応じた?」
「違う。これは“綴言もどき”だ。けど、十分に強い。“語り”の力と結びついてるからだ。」
ハーリィが荷物から小さな石版を取り出し、詩の構造を写し取る。
風の動きを記録するための儀式的な紋が、彼女の指先に淡く浮かぶ。
「この詩を解く鍵を集めるには……詩の“場所”に行くしかないわ。
灰の川、音のない峰、そして……谷に沈む風のもとへ。」
「じいちゃんが記録したのは、そのための“物語の断片”だったのか。」
ルカは手帳を閉じ、立ち上がる。
空は明るくなりつつあり、昨夜よりも森の音が増えてきていた。
小さな鳥の声、虫の羽音。風が枝をすべる音。
それは確かに、“現実”の音だった。
だがその中に、わずかに混じる、異質な気配がある。
「ついてきてるな、奴ら。」
ハーリィが低く呟く。ルカも気づいていた。
草を踏む音、規則正しすぎる枝の揺れ――あれは自然ではない。
「書記官?」
「あるいは、その予兆。直接動いてくるにはまだ早い。でも、探ってる。」
「逃げないと。」
「いいえ、進むの。書記官は“記録された動き”しか追えない。
私たちが“書かれていない道”を選ぶなら、まだ追いつけない。」
ルカは一瞬戸惑いながらも、手記を胸に抱えた。
「どこへ行けばいい?」
「東。風の流れが教えてくれる。そこに、言葉を知る者がいる。
……詩が示した“声の地形”の中で、まずは言葉を集めるの。谷に至る前に、鍵がもう一つ必要だから。」
ルカはその言葉にうなずき、荷物を背負った。森を抜けるには小さな丘を越える必要がある。
歩きながら、彼は振り返る。小さく見える祖父の家。
その屋根には、もう誰の気配も残っていなかった。
それでも、心の中にはあの書斎の匂い、背表紙の擦れた音が、まだ静かに残っていた。
「じいちゃんが、僕に旅をさせた理由……。少しだけ分かってきた気がする。」
「語られぬ神話は、語られるべき者を待っているのよ。」
ハーリィの声に背を押されるように、ルカは森の奥へと歩き出した。
その背後、風に運ばれてひとつの声が消えた。
書記官たちは、すでに“言葉の痕跡”を嗅ぎつけていた。
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