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第1章 雨降る谷と沈黙の巨神
3 綴言の芽生え
しおりを挟む夜がまだ完全に明けきらぬ林の道を、かすかな風がすり抜けていく。
ようやく朝の光が、影を縫うように滲み出していた。
ルカはしゃがみ込み、ハーリィの小さな体を抱えていた。
その柔らかな羽根には、薄く赤黒い痕が滲んでいた。
先ほどまでは気づかなかったが、どうやら旅の途中、木の枝か何かに傷つけられていたらしい。
「大丈夫……? ハーリィ。」
「ちょっと……立ち止まってもいい?」
そう言って、ハーリィは倒木の影に腰を下ろした。
肩で息をしながら、汗が頬を伝う。だが、顔は笑っていた。
「逃げ切れた、かな……今は。」
ルカは周囲を見渡した。書記官の追跡は今のところない。
風も止んでいる。だが、胸の奥はざわついていた。
けれども、その呼吸は荒く、羽根の先が小刻みに震えている。
小さな命が、何かに耐えるように沈黙のなかにあることが、痛いほどに伝わってくる。
ルカの喉元が詰まった。
この世界の何も知らないまま、祖父の書を頼りに逃げ出した自分に、何ができるというのか。
ハーリィが、苦しげに目を閉じた。
震える手で荷物を探り、祖父の日記を取り出す。
ページをめくる。どこかに、どこかに、癒しの詩が。
傷を癒す言葉――それらしき記述はあった。
しかし、どの言葉をどの順に使えばいいのか、その確信はなかった。
ルカは膝をつき、ハーリィの前に座る。
指先が止まったページに書かれていた一節を、ルカは声に出して読み上げた。
「“風よ、静かなる眠りを奏でて、痛みの羽根に囁け”……!」
……何も、起きなかった。
ただ、林の木々が風にざわめき、ハーリィは苦しげに目を閉じたままだった。
声は震えていた。だが、引き返すことはできない。
息が詰まる。
何もできないという現実が、胸を押し潰していく。
そのときだった。
ルカの胸の奥から、言葉ではないものが、かすかに泡のように浮かび上がってきた。
詩ではなく、知識でもなく、ただ「言いたい」という衝動だけが言葉をかたちづくっていく。
──やらなきゃ。僕の言葉で。
目を閉じて、言葉を探す。浮かぶのは――夜の帳。静けさのなかに宿る、小さな灯。
自分の内に芽生えた何かを、ただ信じて、語った。
「“綴り芽”……よどみなき流れよ。風の羽根よ、静けさの記憶に還れ!」
口にした瞬間、世界がかすかに共鳴した。
それは、誰かの痛みを癒そうとして語ったのではなく、ただ隣にいるこの者を思って溢れた、そんな言葉だった。
「今の……僕の言葉だったの?」
ハーリィは頷き、葉の擦れる音のような微かな風で告げる。
羽根の傷が、言葉の余韻が、空気に淡い光を帯びて広がっていく。
その光は波紋のように広がり、林の空気さえもしん、と澄んだものへと変えていった。
ルカは息を呑む。
次の瞬間、目の奥に“なにか”が差し込んだ。
──風に溶けた神の記憶。大空を裂いた羽音。忘れ去られた祝詞の残響。
一瞬だけ、視界が別の世界へ重なる。だがそれはすぐに霧散し、残されたのは静けさだけだった。
ルカは座り込んだまま、ただ呆然とその様子を見つめた。
「ハーリィ……?」
声が、震えながら空気にほどけていく。
その瞬間だった。
ハーリィの傷口から、ふっと柔らかな光が滲み出た。
淡く、触れれば消えそうな気配。
まるで誰かの記憶が、そっと撫でるように流れていった。
ハーリィの表情が、安らいでいく。眉間の皺がほどけ、呼吸も落ち着いていく。
「……あぁ……痛み、引いてる……。」
「……ほんとに?」
「うん……ルカ。それ、いま思いついたの?」
「うん。というか……出てきた、って感じ。」
「それは、“綴言”だ。だが、書に記されたものではない。君の心から生まれた、“芽吹いた綴言”。」
ルカは目を見開いた。
「……じゃあ、僕は、綴言を“芽吹かせる”ことができたってこと……?」
ハーリィはその問いに、静かに頷いた。
風がやさしく吹き抜けた。草が揺れ、朝露が光る。
「君は“記す語り部”ではないかもしれない。」
風音の中に、ハーリィの声があった。
「けれど、言葉を“芽吹かせる語り部”なのかもしれない。さっき君が言っていた“綴り芽”というやつさ。」
ルカは、そっと自分の手を見つめた。
何も知らない手。けれども、いま確かに誰かを癒したこの手を。
「……じいちゃんが昔言ってた。
『語り継がれるものは、書かれたことではなく、綴られた想いである』って。
……もしかしたら、これが、そうなのかもしれない。」
それは、祖父の書にも記されていない、けれどたしかに自分の心から芽吹いた言葉──“綴り芽”。
僕の想いは、確かにハーリィに届いた。芽吹いた綴言、“綴り芽”として。
夜が明ける。
林の奥に続く道が、朝日に照らされ、やわらかく姿を現した。
ルカは祖父の日記を胸にしまい、肩に小さな風の相棒を乗せる。
もう、祖父の背中を追いかけるだけではない。
自分の言葉が、確かに芽を出した。
それが何を意味するのかは、まだわからない。
けれど確かに――今、ここに。
「行こう、ハーリィ。沈黙の谷の先へ。」
風が背を押した。
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