語り部旅譚─頁牢に眠る神話たち─

御歳 逢生

文字の大きさ
7 / 20
第1章 雨降る谷と沈黙の巨神

4 言祝ぎの村

しおりを挟む

霧は、静かに晴れつつあった。
薄青の空が、山肌の間に切れ目を作るように覗いている。
足元には湿った苔と、風に撫でられたような石畳の道。

ルカは地図の羊皮紙を見下ろしながら、何度も手で触れていた。
道はまるでそれをなぞるように正確で、しかしどこか夢の中のように不確かだ。

「もうすぐ、境界線を越えるわ。」

ハーリィがそう言った直後、突風が吹き抜けた。
だがそれは冷たくも荒々しくもなく、むしろ柔らかな指先で髪を撫でるようだった。

辺りの空気が変わる。風が音を持ち始め、葉の擦れる音に混じって、微かな囁きが耳に届いた。

「……これは、“結界”ね。」

ハーリィは立ち止まり、指先を空にかざす。
空間が、言葉で満たされていくような錯覚。
追跡者の視線も、記憶も、ここでは遮断されるのだと直感でわかった。

そして、ルカたちは「村」に足を踏み入れた。


 ***

言祝ことほぎの村”
──その名は地図にも記されていなかった。

石造りの家々は低く、屋根は苔むしている。
人々は静かに、しかし確かな眼差しでルカたちを見つめた。

村に足を踏み入れてすぐ、ルカは不思議な感覚に包まれた。
音がないわけではない。
だが、耳に届くものは木の葉のざわめき、湧き水のせせらぎ、そして──人々が奏でる音だった。

「……話さないんだな、誰も。」

ルカが小声で呟くと、隣のハーリィはわずかに頷いた。

「ここでは、言葉は贈り物なのよ。むやみに使わず、残すためにある。」

声は上げない。
代わりに、布に刺繍で思いを綴り、石に印を刻み、時には木片の笛で音を伝えていた。

そこへ、杖をついた老女が近づいてきた。
紺の衣に草花の刺繍があり、腰には小さな羊皮紙の巻物を提げていた。
皺の多い顔に宿る目だけが鋭く、しかしあたたかな光を宿している。

老女はハーリィを見て「風の底に触れし者」と呼び、深く頭を垂れた。
その仕草にルカは少しだけ驚く。続けてルカに視線を移した。

「……君が、“語る者”だね。」

「え?」

「クルタと申します。この村で“ことのは守り”をしております」

老女は静かに微笑んだ。
口調は緩やかで、言葉そのものが慎重に選ばれているのがわかった。

ルカが名乗ると、クルタはうなずき、ゆっくりと手招いた。

「……君は、“語られる前の者”を背負っている。あなたの中に“物語をほどく種”がある。」

彼女は目を細めながら、静かに言葉を紡ぐ。
どこか祖父にも似たぬくもりを感じさせる声。

「……ぼくが、語り手?」

思わず聞き返すと、クルタはうっすら笑いを浮かべた。

「この村では、語りは力です。声にすることは、神に触れること。
 だからこそ、慎重に、丁寧に言葉を使う。
 ……あなたが来ることは、ずっと昔の記録に記されておりました。」

「記録?」

「“頁牢の縫い目より来たりて、封じられし言葉を綴る者、祝詞を渡り、雷の神を起こす”
 ──そのような記述がね。」

ルカは思わず、背負った鞄にある日記帳の重みを意識した。
祖父が綴った綴言。そこに記されていた物語牢獄オルビトスの文字。

クルタは静かに歩き出した。

「あなたに見ていただきたいものがあります。村が守ってきた、語られなかった“物語の断片”です。」


 ***

その日の午後、クルタはルカを村の奥へと誘った。
石段を下りた先、小さな祠の中に、それはあった。

“語り布”
──古びた織物で、柔らかい羊毛の糸で紡がれた詩のような断章が、風にたゆたっていた。

語られていたのは、こうだった。

──風と雷を司る双子の神が、かつて人々の祝詞を糧に生きていた。
 けれど時が流れ、人が言葉を忘れると、神々もまた忘れ去られていった。
 雷の神は言葉を失い、風の神もまた沈黙に沈んだ。──

そして、布の物語は途中で終わっていた。

「途切れてる……。」

「語り手が、いなくなったからね。」

クルタは布に触れながら言った。

「これは物語牢獄オルビトスに封じられた神話の一つ。
 君のような者にしか、続きを綴ることはできないのさ。」

彼女はルカの目を見据えた。

「記すだけなら誰でもできる。けれど……“言葉を生む者”でなければ、神話は蘇らない。」


 ***

その夜、ルカは焚火の傍で詩を読み返していた。
声に出さずとも、言葉はルカの中で波のように響いていた。

「……まだ語られていない声が眠ってる。」

ハーリィが焚火越しに呟いた。
風が音を運ぶように、遠い神々の嘆きが聞こえた気がした。

詩を読み終えたルカの声が、布の上に吸い込まれるように消えた。
広間に、しんとした静けさが戻る。

風が、また一度、重く流れる。

だが、今度はただの風ではなかった。

どこかで、深い谷底から響くような低い唸りがあった。
地の底に眠る何かが、かすかに身じろぎしたような──そんな感覚。

「……これが、雷の神の封じられた声なのか。」

ルカは小さくつぶやいた。
けれど、自分の声さえ、広間の静寂に対しては異物のように感じられる。

「言葉を投じた以上、あなたは選ばれた者です。」

クルタが言った。

「この谷に満ちる雨と風は、神の夢の“なごり”。やがて、声を取り戻すときが来るでしょう。」

と言って、クルタは去って行った。
ルカは小さくうなずいた。
胸の奥に熱のようなものが残っていた。
言葉の重み、語ったことの余韻。
それが、眠りかけた何かを起こしてしまったような──恐ろしさと、希望。

ハーリィがルカのそばに歩み寄り、そっと肩に手を添える。

「大丈夫、ルカ。夜は深くなったけど……今はまだ“夢の底”。夜明けは、もう少し先。」

遠く、谷の風が木々の梢を揺らす音がした。
その音は、どこか“鼓動”のようでもあった。


 ***

翌朝、ルカたちは村を発とうとしていた。
そこにクルタが再び現れる。朝日の明かりで顔の皺が浮かぶ。

「この村の外じゃ、神話は物語ですらない。
 だけどね、君みたいな子がいれば……言葉はまた、神を起こすよ。」

彼女はそっとルカの手を取った。
そして小さな包みを手渡してくる。
クルタが手渡した小さな包みには、古びた織布が収められていた。
それは、かつて誰かが紡ぎかけたままの、言葉の断片。

──「風が雷を呼ぶとき、沈黙は終わりを告げる」という一節。

「この詩片は、“神が最後に残した夢の名残”です。
 風と雷が共鳴すれば、言葉は再び、世界を満たすでしょう。」

クルタの声は、朝靄のように優しく、けれど確かに響いた。

「そしてこれは、次の場所への手がかりになるでしょう。“スクレイプ街”を訪ねなさい。」

そう言って、クルタは微笑んだ。

ルカは織布を胸に抱くようにして受け取り、そっと頷いた。

「ぼくが……続きを語れるか、わからないけど。」

「いいのさ。語ることは、問いを重ねることでもある。
 答えは風の中にあるかもしれないし、君自身の中に育つかもしれない。」

村の人々が静かに集まり、手を振っていた。
口を開くことはないが、そのまなざしに込められた想いは、ひとつの祈りのようだった。


やがて、ルカとハーリィは村を後にする。
足元の道は、昨日よりもはっきりと輪郭を帯びている。

霧が晴れ、光が差し始めた山道を、彼らは再び歩き出す。
風が吹く。それは、背中を優しく押すような追い風だった。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

【魔女ローゼマリー伝説】~5歳で存在を忘れられた元王女の私だけど、自称美少女天才魔女として世界を救うために冒険したいと思います!~

ハムえっぐ
ファンタジー
かつて魔族が降臨し、7人の英雄によって平和がもたらされた大陸。その一国、ベルガー王国で物語は始まる。 王国の第一王女ローゼマリーは、5歳の誕生日の夜、幸せな時間のさなかに王宮を襲撃され、目の前で両親である国王夫妻を「漆黒の剣を持つ謎の黒髪の女」に殺害される。母が最後の力で放った転移魔法と「魔女ディルを頼れ」という遺言によりローゼマリーは辛くも死地を脱した。 15歳になったローゼは師ディルと別れ、両親の仇である黒髪の女を探し出すため、そして悪政により荒廃しつつある祖国の現状を確かめるため旅立つ。 国境の街ビオレールで冒険者として活動を始めたローゼは、運命的な出会いを果たす。因縁の仇と同じ黒髪と漆黒の剣を持つ少年傭兵リョウ。自由奔放で可愛いが、何か秘密を抱えていそうなエルフの美少女ベレニス。クセの強い仲間たちと共にローゼの新たな人生が動き出す。 これは王女の身分を失った最強天才魔女ローゼが、復讐の誓いを胸に仲間たちとの絆を育みながら、王国の闇や自らの運命に立ち向かう物語。友情、復讐、恋愛、魔法、剣戟、謀略が織りなす、ダークファンタジー英雄譚が、今、幕を開ける。  

つまらなかった乙女ゲームに転生しちゃったので、サクッと終わらすことにしました

蒼羽咲
ファンタジー
つまらなかった乙女ゲームに転生⁈ 絵に惚れ込み、一目惚れキャラのためにハードまで買ったが内容が超つまらなかった残念な乙女ゲームに転生してしまった。 絵は超好みだ。内容はご都合主義の聖女なお花畑主人公。攻略イケメンも顔は良いがちょろい対象ばかり。てこたぁ逆にめちゃくちゃ住み心地のいい場所になるのでは⁈と気づき、テンションが一気に上がる!! 聖女など面倒な事はする気はない!サクッと攻略終わらせてぐーたら生活をGETするぞ! ご都合主義ならチョロい!と、野望を胸に動き出す!! +++++ ・重複投稿・土曜配信 (たま~に水曜…不定期更新)

なぜ、最強の勇者は無一文で山に消えたのか? ──世界に忘れられ、ひび割れた心のまま始めたダークスローライフ。 そして、虹の種は静かに育ち始め

イニシ原
ファンタジー
ダークスローライフで癒しに耐えろ。 孤独になった勇者。 人と出会わないことで進む時間がスローになるのがダークスローライフ。 ベストな組み合わせだった。 たまに来る行商人が、唯一の接点だった。 言葉は少なく、距離はここちよかった。 でも、ある日、虹の種で作ったお茶を飲んだ。 それが、すべての始まりだった。 若者が来た。 食料を抱えて、笑顔で扉を叩く。 断っても、また来る。 石を渡せば帰るが、次はもっと持ってくる。 優しさは、静けさを壊す。 逃げても、追いつかれる。 それでも、ほんの少しだけ、 誰かと生きたいと思ってしまう。 これは、癒しに耐える者の物語。 *** 登場人物の紹介 ■ アセル 元勇者。年齢は40に近いが、見た目は16歳。森の奥でひとり暮らしている。 ■ アーサー 初老の男性。アセルが唯一接点を持つ人物。たまに森を訪れる。 ■ トリス 若者。20代前半。アーサー行方不明後、食料を抱えて森の家を訪れる。

春の雨はあたたかいー家出JKがオッサンの嫁になって女子大生になるまでのお話

登夢
恋愛
春の雨の夜に出会った訳あり家出JKと真面目な独身サラリーマンの1年間の同居生活を綴ったラブストーリーです。私は家出JKで春の雨の日の夜に駅前にいたところオッサンに拾われて家に連れ帰ってもらった。家出の訳を聞いたオッサンは、自分と同じに境遇に同情して私を同居させてくれた。同居の代わりに私は家事を引き受けることにしたが、真面目なオッサンは私を抱こうとしなかった。18歳になったときオッサンにプロポーズされる。

【完結】異世界で魔道具チートでのんびり商売生活

シマセイ
ファンタジー
大学生・誠也は工事現場の穴に落ちて異世界へ。 物体に魔力を付与できるチートスキルを見つけ、 能力を隠しつつ魔道具を作って商業ギルドで商売開始。 のんびりスローライフを目指す毎日が幕を開ける!

転生したらスキル転生って・・・!?

ノトア
ファンタジー
世界に危機が訪れて転生することに・・・。 〜あれ?ここは何処?〜 転生した場所は森の中・・・右も左も分からない状態ですが、天然?な女神にサポートされながらも何とか生きて行きます。 ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー 初めて書くので、誤字脱字や違和感はご了承ください。

冤罪で辺境に幽閉された第4王子

satomi
ファンタジー
主人公・アンドリュート=ラルラは冤罪で辺境に幽閉されることになったわけだが…。 「辺境に幽閉とは、辺境で生きている人間を何だと思っているんだ!辺境は不要な人間を送る場所じゃない!」と、辺境伯は怒っているし当然のことだろう。元から辺境で暮している方々は決して不要な方ではないし、‘辺境に幽閉’というのはなんとも辺境に暮らしている方々にしてみれば、喧嘩売ってんの?となる。 辺境伯の娘さんと婚約という話だから辺境伯の主人公へのあたりも結構なものだけど、娘さんは美人だから万事OK。

最低のEランクと追放されたけど、実はEXランクの無限増殖で最強でした。

MP
ファンタジー
高校2年の夏。 高木華音【男】は夏休みに入る前日のホームルーム中にクラスメイトと共に異世界にある帝国【ゼロムス】に魔王討伐の為に集団転移させれた。 地球人が異世界転移すると必ずDランクからAランクの固有スキルという世界に1人しか持てないレアスキルを授かるのだが、華音だけはEランク・【ムゲン】という存在しない最低ランクの固有スキルを授かったと、帝国により死の森へ捨てられる。 しかし、華音の授かった固有スキルはEXランクの無限増殖という最強のスキルだったが、本人は弱いと思い込み、死の森を生き抜く為に無双する。

処理中です...