9 / 20
第1章 雨降る谷と沈黙の巨神
6 スクレイプ街~仮面市場~
しおりを挟むルカとハーリィは詩の解読を終え、次の鍵となる情報を求めて、消去された言葉の都の奥へと進む。
古びた石畳が濡れている。誰が落としたか分からない仮面が、雨のしずくを受けて傾いていた。
ルカとハーリィは、灰と声と嘘のにおいが混じった都市の入り口に立っていた。
「ここが……スクレイプ街?」
ルカの問いに、ハーリィは肩をすくめる。
「言葉を売って生きるやつらの墓場だよ。今はただの物真似市場だけどね。」
門をくぐると、景色が一変する。
屋根という屋根に仮面が吊るされ、路地には帳のように詩の断片がひらひらと風に舞っている。
人々は声を張り上げ、「神語に近い」と称する謎めいた語りや断章を競い合うように披露していた。
――だが、どれも妙に軽い。音だけが浮いていて、意味が追いついてこない。
ルカは、ふとした瞬間に聞こえた響きに足を止めた。
それはどこか懐かしいような、胸の奥が軋むような音だった。
「……今の、神語に似てた。」
「聞き覚えがあるって顔してるな。でも、残念。ここの“似てる”は全て“まがい物”さ。」
ハーリィは目線だけで仮面屋の方を指した。
そこでは猿芝居のように仮面を被った男が、奇妙な抑揚で詩を読み上げていた。
観客は笑い、金を投げる。
「本物が売られてると思うかい? ここは“真似すること”が全てなんだ。」
その言葉に、ルカの喉が詰まった。
本物が消え、偽物だけが消費される世界。
語ることすら、商品として劣化していくこの街で、自分は何を差し出せるのか。
「……それでも、確かめてみたい。」
ルカはそう呟き、仮面たちのざわめきへと足を踏み入れる。
目指すは、街の中心にあるという“仮面市場”。
そこでは、語ることに飢えた人々が、日々「声」を売り、「語り」を買っていた。
仮面市場は、まるで呼吸しているようだった。
屋根のない広場を囲むように、言葉の売人たちが仮面を掲げ、語りを売り込む。
無数の仮面が天幕から吊るされ、風に揺れては笑い、泣き、囁き、叫ぶ。
仮面を被った演者たちの声が、囁きとなって耳の裏にまで貼りつく。
誰かの夢、誰かの嘘、誰かの神話。全てが売られ、安く鳴っていた。
仮面市場は、夜の劇場のようだった。
「さあ見ていけ、“神の夢”を語るマスクド・ミューズ!」
「“雨を止めた男”の真似語り、三文銀貨だよぉ!」
――けれど、どれも耳をすり抜けていく。
ハーリィがぽつりと漏らす。
「“語り”じゃない。“模倣”だよ、ここにあるのは。あの神像に唾吐いてるようなもんだ。」
ルカは無言で見ていた。
まがい物ばかりが響き合い、騒がしく鳴っているこの市場で、なぜか空白を感じていた。
そのとき。
ルカはそのざわめきの中で、どこか引っかかるような感覚に足を止めた。
――音が、死んでいない。
誰も見ていない隅で、一人の仮面がルカを見ていた。
仮面は静かに揺れながら、周囲の音を食うようにして沈黙していた。
仮面は灰色。装飾も塗りも剥げかけており、ただの古道具にしか見えなかった。
だが、仮面の向こうから感じる目線は、ぞっとするほど鮮明だった。
「……足が止まったね。理由は聞かない。
けれど、君がこの場所で“黙って立っていられる”なら、ちょっとした逸材だ。」
仮面の男が、ルカに話しかけてきた。
声は低く、やや乾いていたが、耳に残る奇妙な重さを帯びていた。
「この市場じゃ、誰もが語りたがる。無理にでも叫び、泣き、笑いの仮面を被って生き延びようとする。
君は違う。君は、静けさを持ってる。」
ルカは、どう返していいか分からず首を傾げた。
「……誰?」
「名乗っても偽物扱いされるだけさ。だから、ただの商人でいい。
灰の仮面商ヴァイス、とでも呼べば足りるだろう。さて……語る気はあるかい、語り部の君?」
「……なぜ僕が語り部だって!?」
「響きさ。“言葉”よりも深く、“意味”よりも手前にあるものだよ。君は、それを持ってる。」
ルカは戸惑った。けれど気づく。
彼の仮面だけが、“音”を遮っていた。
まがい物たちの喧騒の中で、ヴァイスの周囲だけが無音だったのだ。
「……語ってもいい。でも、それは僕の言葉だ。」
「もちろん。誰かの借り物なら、興味はない。」
ヴァイスが手を鳴らすと、まるで舞台の幕が上がるように、広場の中央が静まり返った。
誰が呼んだでもないのに、周囲の喧騒が一瞬止まり、観衆が自然と集まり始める。
「今日は少しだけ変わり種をご紹介しよう。見ての通りの旅人、“語り部”らしい。だが、さて……。」
仮面の奥の目が、ルカを真っ直ぐに射抜いた。
「この市場において、語る者は“本物か否か”を試される。さて、君の語りは──売り物になるか?」
ルカの胸がざわついた。観衆がざわめく。
誰かが「やれよ」「タダで見れるんだろ?」と冷やかした。
「……無理だよ。こんな場所じゃ、何も……。」
「なら去れ。それもまた、観察には値する。だが、君の目は、まだ諦めていない。」
その言葉に、ルカの喉が乾いた。
雨に濡れた街の空気。ざらついた足元。
舞い散る仮面の裏にある、見えない“本物”を探す視線。
無言の圧がルカに向けられる。
――語らなければ、意味がなかった。
ルカは一歩、前に出た。
そしてゆっくりと口を開く。
雨の谷に、沈黙の巨神がいた――
彼は声を失い、雷を忘れ、ただ空を仰いでいた。
その前に、旅人が立った。
名もない者、けれど語りを持つ者。
巨神に届いたのは……声ではない。“語り”だった。
ルカの言葉が終わる頃、広場の仮面たちが静まり返った。
何かが、呼応したように。
静かに語られた一節。
それはどこか壊れかけた物語の断片で、誰も聞いたことのない詩だった。
その瞬間、市場の空気が凍り、閉じられていた“何か”が、ゆっくりと、目を開けた。
吊るされた仮面たちが、一斉にこちらを振り向いた。
「……おい、仮面が!?」
「なんだ、これ……。声が、染みてくる……?」
ルカの言葉が、空気に、土に、骨の奥にまで沁み込んでいく。
ヴァイスが、静かに口角を上げた。
「やはり、だったか……。」
仮面商はゆっくりとルカの前に歩み出た。
そして、こう言った。
「君は、“本物を語る”声を持っている。……売る気はあるか?」
ルカは答えなかった。
その代わりに、うつむいたまま、次の言葉を呟いた。
「売れないよ。……これは、僕のものじゃないから。」
ヴァイスは深く息をつき、仮面をほんの少し外して言う。
「……いいね。そう答えられるやつ、十年に一人もいない。」
そして仮面を戻し、観客に向かって淡々と宣言する。
静寂は長くは続かなかった。
「本日の語り、以上!これ以上の品は、しばらく入らない。」
「ふざけるな!」
「何が“語り”だ、あんなのただの……。」
誰かが叫び、誰かが怒鳴る。
市場の空気がざわめき、ねじれ、ざらついた嫉妬と苛立ちが広がる。
仮面たちがざわついていた。
吊るされた無数の顔が、どれも微かに震え、ルカの方を睨んでいる。
まるで、誰もが自分の居場所を奪われたと感じているように。
「おい仮面商! あんたが連れてきたのか? 客をバカにしてんのか?」
「なんだよ、あの声! あれが本物? 冗談だろ?」
ヴァイスは何も言わない。
ただ、黙って仮面を撫でる仕草をしながら、周囲の怒号を受け流すように立っていた。
「売らねえなら、壊してやるさ!」
一人の男が仮面を被ったまま、ルカに向かって駆けた。
足音が鳴る。砂埃が巻き上がる。
ルカは、動けなかった。
――ああ、まただ。
また、物語の重さに、追いつけない。
けれど、
「……待て。」
その声は、静かだったのに、地を打った。
ヴァイスが仮面を外していた。
その素顔を誰も見ないまま、彼の声だけが市場を制した。
「“偽物”は怒る。“本物”を前にすれば、必ず怒る。……それだけが、真理だ。」
男が立ち止まる。足元の地面が、まるで息を呑むように沈黙した。
ヴァイスは、灰の仮面を高く掲げる。
「……この声は、買い取らない。市場の外にある語りだからだ。」
彼はルカに背を向け、観衆に宣言する。
「これは商品ではない。飾りでもない。仮面でも、演技でもない。
だからお前たちはそれを“壊せない”。」
観衆は沈黙し、やがて、散っていく。
一部の者は舌打ちをし、仮面を地面に投げて去った。
ルカは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
ヴァイスが、ゆっくりと戻ってくる。
「……怖かったか?」
ルカは、正直にうなずいた。
「怖かった。でも、それより……。」
「それより?」
「……話したくて仕方なかったんだ。なんでだろう。」
ヴァイスは、少しだけ目を細めた。
それが微笑みだったのかどうか、ルカには分からない。
「語る者には、二種類いる。
一つは、語って“安心”したい者。もう一つは、語らずにいると“壊れて”しまう者。」
「……僕は、どっちなんだろう。」
「それを知るには、まだ物語の外すぎるな。」
ヴァイスはそう言って、背後の帳をくぐる。
そして、小さな巻物をルカに放った。
「……これは鍵だ。
次に道が塞がったとき、それを開け。たぶん、君にだけ読めるようになっている。」
ルカは、受け取った巻物を見つめる。
巻物には“語るな、記せ、伝えるな”という呪詛のような言葉が刻まれていた。
それを見た瞬間、初めて“語ることの代償”に怯えた。
「言葉には命が宿る。語りは、それを喰らう覚悟がなきゃできない。
君の語りが、いずれ“本物を語りたい”誰かを救う。……だから覚えておけ。」
ヴァイスは、最後にこう言った。
「語り部は、“声”を持つ前に、“目”を持つ者でなければならない。
街の地下にある旧神殿市場へと向かえ。」
このあとルカは巻物を胸にしまい、仮面市場を後にする。
霧雨のように冷たい風が吹き抜け、彼はひとつ息を吐く。
そして、小さな声で呟く。
「僕は……語りたいのか。……それとも、知りたいのか。」
その答えを探すように、ルカはまた歩き出す。
そして角を曲がると、そこに――
ハーリィがいた。
肩に仮面を一つ引っかけて、退屈そうに待っていた。
0
あなたにおすすめの小説
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
敗戦国の姫は、敵国将軍に掠奪される
clayclay
恋愛
架空の国アルバ国は、ブリタニア国に侵略され、国は壊滅状態となる。
状況を打破するため、アルバ国王は娘のソフィアに、ブリタニア国使者への「接待」を命じたが……。
JKメイドはご主人様のオモチャ 命令ひとつで脱がされて、触られて、好きにされて――
のぞみ
恋愛
「今日から、お前は俺のメイドだ。ベッドの上でもな」
高校二年生の蒼井ひなたは、借金に追われた家族の代わりに、ある大富豪の家で住み込みメイドとして働くことに。
そこは、まるでおとぎ話に出てきそうな大きな洋館。
でも、そこで待っていたのは、同じ高校に通うちょっと有名な男の子――完璧だけど性格が超ドSな御曹司、天城 蓮だった。
昼間は生徒会長、夜は…ご主人様?
しかも、彼の命令はちょっと普通じゃない。
「掃除だけじゃダメだろ? ご主人様の癒しも、メイドの大事な仕事だろ?」
手を握られるたび、耳元で囁かれるたび、心臓がバクバクする。
なのに、ひなたの体はどんどん反応してしまって…。
怒ったり照れたりしながらも、次第に蓮に惹かれていくひなた。
だけど、彼にはまだ知られていない秘密があって――
「…ほんとは、ずっと前から、私…」
ただのメイドなんかじゃ終わりたくない。
恋と欲望が交差する、ちょっぴり危険な主従ラブストーリー。
行き場を失った恋の終わらせ方
当麻月菜
恋愛
「君との婚約を白紙に戻してほしい」
自分の全てだったアイザックから別れを切り出されたエステルは、どうしてもこの恋を終わらすことができなかった。
避け続ける彼を求めて、復縁を願って、あの日聞けなかった答えを得るために、エステルは王城の夜会に出席する。
しかしやっと再会できた、そこには見たくない現実が待っていて……
恋の終わりを見届ける貴族青年と、行き場を失った恋の中をさ迷う令嬢の終わりと始まりの物語。
※他のサイトにも重複投稿しています。
後宮の胡蝶 ~皇帝陛下の秘密の妃~
菱沼あゆ
キャラ文芸
突然の譲位により、若き皇帝となった苑楊は封印されているはずの宮殿で女官らしき娘、洋蘭と出会う。
洋蘭はこの宮殿の牢に住む老人の世話をしているのだと言う。
天女のごとき外見と豊富な知識を持つ洋蘭に心惹かれはじめる苑楊だったが。
洋蘭はまったく思い通りにならないうえに、なにかが怪しい女だった――。
中華後宮ラブコメディ。
3歳で捨てられた件
玲羅
恋愛
前世の記憶を持つ者が1000人に1人は居る時代。
それゆえに変わった子供扱いをされ、疎まれて捨てられた少女、キャプシーヌ。拾ったのは宰相を務めるフェルナー侯爵。
キャプシーヌの運命が再度変わったのは貴族学院入学後だった。
敵に貞操を奪われて癒しの力を失うはずだった聖女ですが、なぜか前より漲っています
藤谷 要
恋愛
サルサン国の聖女たちは、隣国に征服される際に自国の王の命で殺されそうになった。ところが、侵略軍将帥のマトルヘル侯爵に助けられた。それから聖女たちは侵略国に仕えるようになったが、一か月後に筆頭聖女だったルミネラは命の恩人の侯爵へ嫁ぐように国王から命じられる。
結婚披露宴では、陛下に側妃として嫁いだ旧サルサン国王女が出席していたが、彼女は侯爵に腕を絡めて「陛下の手がつかなかったら一年後に妻にしてほしい」と頼んでいた。しかも、侯爵はその手を振り払いもしない。
聖女は愛のない交わりで神の加護を失うとされているので、当然白い結婚だと思っていたが、初夜に侯爵のメイアスから体の関係を迫られる。彼は命の恩人だったので、ルミネラはそのまま彼を受け入れた。
侯爵がかつての恋人に似ていたとはいえ、侯爵と孤児だった彼は全く別人。愛のない交わりだったので、当然力を失うと思っていたが、なぜか以前よりも力が漲っていた。
※全11話 2万字程度の話です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる