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第1章 雨降る谷と沈黙の巨神
6 スクレイプ街~仮面市場~
しおりを挟むルカとハーリィは詩の解読を終え、次の鍵となる情報を求めて、消去された言葉の都の奥へと進む。
古びた石畳が濡れている。誰が落としたか分からない仮面が、雨のしずくを受けて傾いていた。
ルカとハーリィは、灰と声と嘘のにおいが混じった都市の入り口に立っていた。
「ここが……スクレイプ街?」
ルカの問いに、ハーリィは肩をすくめる。
「言葉を売って生きるやつらの墓場だよ。今はただの物真似市場だけどね。」
門をくぐると、景色が一変する。
屋根という屋根に仮面が吊るされ、路地には帳のように詩の断片がひらひらと風に舞っている。
人々は声を張り上げ、「神語に近い」と称する謎めいた語りや断章を競い合うように披露していた。
――だが、どれも妙に軽い。音だけが浮いていて、意味が追いついてこない。
ルカは、ふとした瞬間に聞こえた響きに足を止めた。
それはどこか懐かしいような、胸の奥が軋むような音だった。
「……今の、神語に似てた。」
「聞き覚えがあるって顔してるな。でも、残念。ここの“似てる”は全て“まがい物”さ。」
ハーリィは目線だけで仮面屋の方を指した。
そこでは猿芝居のように仮面を被った男が、奇妙な抑揚で詩を読み上げていた。
観客は笑い、金を投げる。
「本物が売られてると思うかい? ここは“真似すること”が全てなんだ。」
その言葉に、ルカの喉が詰まった。
本物が消え、偽物だけが消費される世界。
語ることすら、商品として劣化していくこの街で、自分は何を差し出せるのか。
「……それでも、確かめてみたい。」
ルカはそう呟き、仮面たちのざわめきへと足を踏み入れる。
目指すは、街の中心にあるという“仮面市場”。
そこでは、語ることに飢えた人々が、日々「声」を売り、「語り」を買っていた。
仮面市場は、まるで呼吸しているようだった。
屋根のない広場を囲むように、言葉の売人たちが仮面を掲げ、語りを売り込む。
無数の仮面が天幕から吊るされ、風に揺れては笑い、泣き、囁き、叫ぶ。
仮面を被った演者たちの声が、囁きとなって耳の裏にまで貼りつく。
誰かの夢、誰かの嘘、誰かの神話。全てが売られ、安く鳴っていた。
仮面市場は、夜の劇場のようだった。
「さあ見ていけ、“神の夢”を語るマスクド・ミューズ!」
「“雨を止めた男”の真似語り、三文銀貨だよぉ!」
――けれど、どれも耳をすり抜けていく。
ハーリィがぽつりと漏らす。
「“語り”じゃない。“模倣”だよ、ここにあるのは。あの神像に唾吐いてるようなもんだ。」
ルカは無言で見ていた。
まがい物ばかりが響き合い、騒がしく鳴っているこの市場で、なぜか空白を感じていた。
そのとき。
ルカはそのざわめきの中で、どこか引っかかるような感覚に足を止めた。
――音が、死んでいない。
誰も見ていない隅で、一人の仮面がルカを見ていた。
仮面は静かに揺れながら、周囲の音を食うようにして沈黙していた。
仮面は灰色。装飾も塗りも剥げかけており、ただの古道具にしか見えなかった。
だが、仮面の向こうから感じる目線は、ぞっとするほど鮮明だった。
「……足が止まったね。理由は聞かない。
けれど、君がこの場所で“黙って立っていられる”なら、ちょっとした逸材だ。」
仮面の男が、ルカに話しかけてきた。
声は低く、やや乾いていたが、耳に残る奇妙な重さを帯びていた。
「この市場じゃ、誰もが語りたがる。無理にでも叫び、泣き、笑いの仮面を被って生き延びようとする。
君は違う。君は、静けさを持ってる。」
ルカは、どう返していいか分からず首を傾げた。
「……誰?」
「名乗っても偽物扱いされるだけさ。だから、ただの商人でいい。
灰の仮面商ヴァイス、とでも呼べば足りるだろう。さて……語る気はあるかい、語り部の君?」
「……なぜ僕が語り部だって!?」
「響きさ。“言葉”よりも深く、“意味”よりも手前にあるものだよ。君は、それを持ってる。」
ルカは戸惑った。けれど気づく。
彼の仮面だけが、“音”を遮っていた。
まがい物たちの喧騒の中で、ヴァイスの周囲だけが無音だったのだ。
「……語ってもいい。でも、それは僕の言葉だ。」
「もちろん。誰かの借り物なら、興味はない。」
ヴァイスが手を鳴らすと、まるで舞台の幕が上がるように、広場の中央が静まり返った。
誰が呼んだでもないのに、周囲の喧騒が一瞬止まり、観衆が自然と集まり始める。
「今日は少しだけ変わり種をご紹介しよう。見ての通りの旅人、“語り部”らしい。だが、さて……。」
仮面の奥の目が、ルカを真っ直ぐに射抜いた。
「この市場において、語る者は“本物か否か”を試される。さて、君の語りは──売り物になるか?」
ルカの胸がざわついた。観衆がざわめく。
誰かが「やれよ」「タダで見れるんだろ?」と冷やかした。
「……無理だよ。こんな場所じゃ、何も……。」
「なら去れ。それもまた、観察には値する。だが、君の目は、まだ諦めていない。」
その言葉に、ルカの喉が乾いた。
雨に濡れた街の空気。ざらついた足元。
舞い散る仮面の裏にある、見えない“本物”を探す視線。
無言の圧がルカに向けられる。
――語らなければ、意味がなかった。
ルカは一歩、前に出た。
そしてゆっくりと口を開く。
雨の谷に、沈黙の巨神がいた――
彼は声を失い、雷を忘れ、ただ空を仰いでいた。
その前に、旅人が立った。
名もない者、けれど語りを持つ者。
巨神に届いたのは……声ではない。“語り”だった。
ルカの言葉が終わる頃、広場の仮面たちが静まり返った。
何かが、呼応したように。
静かに語られた一節。
それはどこか壊れかけた物語の断片で、誰も聞いたことのない詩だった。
その瞬間、市場の空気が凍り、閉じられていた“何か”が、ゆっくりと、目を開けた。
吊るされた仮面たちが、一斉にこちらを振り向いた。
「……おい、仮面が!?」
「なんだ、これ……。声が、染みてくる……?」
ルカの言葉が、空気に、土に、骨の奥にまで沁み込んでいく。
ヴァイスが、静かに口角を上げた。
「やはり、だったか……。」
仮面商はゆっくりとルカの前に歩み出た。
そして、こう言った。
「君は、“本物を語る”声を持っている。……売る気はあるか?」
ルカは答えなかった。
その代わりに、うつむいたまま、次の言葉を呟いた。
「売れないよ。……これは、僕のものじゃないから。」
ヴァイスは深く息をつき、仮面をほんの少し外して言う。
「……いいね。そう答えられるやつ、十年に一人もいない。」
そして仮面を戻し、観客に向かって淡々と宣言する。
静寂は長くは続かなかった。
「本日の語り、以上!これ以上の品は、しばらく入らない。」
「ふざけるな!」
「何が“語り”だ、あんなのただの……。」
誰かが叫び、誰かが怒鳴る。
市場の空気がざわめき、ねじれ、ざらついた嫉妬と苛立ちが広がる。
仮面たちがざわついていた。
吊るされた無数の顔が、どれも微かに震え、ルカの方を睨んでいる。
まるで、誰もが自分の居場所を奪われたと感じているように。
「おい仮面商! あんたが連れてきたのか? 客をバカにしてんのか?」
「なんだよ、あの声! あれが本物? 冗談だろ?」
ヴァイスは何も言わない。
ただ、黙って仮面を撫でる仕草をしながら、周囲の怒号を受け流すように立っていた。
「売らねえなら、壊してやるさ!」
一人の男が仮面を被ったまま、ルカに向かって駆けた。
足音が鳴る。砂埃が巻き上がる。
ルカは、動けなかった。
――ああ、まただ。
また、物語の重さに、追いつけない。
けれど、
「……待て。」
その声は、静かだったのに、地を打った。
ヴァイスが仮面を外していた。
その素顔を誰も見ないまま、彼の声だけが市場を制した。
「“偽物”は怒る。“本物”を前にすれば、必ず怒る。……それだけが、真理だ。」
男が立ち止まる。足元の地面が、まるで息を呑むように沈黙した。
ヴァイスは、灰の仮面を高く掲げる。
「……この声は、買い取らない。市場の外にある語りだからだ。」
彼はルカに背を向け、観衆に宣言する。
「これは商品ではない。飾りでもない。仮面でも、演技でもない。
だからお前たちはそれを“壊せない”。」
観衆は沈黙し、やがて、散っていく。
一部の者は舌打ちをし、仮面を地面に投げて去った。
ルカは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
ヴァイスが、ゆっくりと戻ってくる。
「……怖かったか?」
ルカは、正直にうなずいた。
「怖かった。でも、それより……。」
「それより?」
「……話したくて仕方なかったんだ。なんでだろう。」
ヴァイスは、少しだけ目を細めた。
それが微笑みだったのかどうか、ルカには分からない。
「語る者には、二種類いる。
一つは、語って“安心”したい者。もう一つは、語らずにいると“壊れて”しまう者。」
「……僕は、どっちなんだろう。」
「それを知るには、まだ物語の外すぎるな。」
ヴァイスはそう言って、背後の帳をくぐる。
そして、小さな巻物をルカに放った。
「……これは鍵だ。
次に道が塞がったとき、それを開け。たぶん、君にだけ読めるようになっている。」
ルカは、受け取った巻物を見つめる。
巻物には“語るな、記せ、伝えるな”という呪詛のような言葉が刻まれていた。
それを見た瞬間、初めて“語ることの代償”に怯えた。
「言葉には命が宿る。語りは、それを喰らう覚悟がなきゃできない。
君の語りが、いずれ“本物を語りたい”誰かを救う。……だから覚えておけ。」
ヴァイスは、最後にこう言った。
「語り部は、“声”を持つ前に、“目”を持つ者でなければならない。
街の地下にある旧神殿市場へと向かえ。」
このあとルカは巻物を胸にしまい、仮面市場を後にする。
霧雨のように冷たい風が吹き抜け、彼はひとつ息を吐く。
そして、小さな声で呟く。
「僕は……語りたいのか。……それとも、知りたいのか。」
その答えを探すように、ルカはまた歩き出す。
そして角を曲がると、そこに――
ハーリィがいた。
肩に仮面を一つ引っかけて、退屈そうに待っていた。
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