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第二章 極寒の王国~ハイランド王国編~
第三十一話 帰る場所と新たな家族
しおりを挟む丘を越えた先、霞む霧の中から、黒い影がゆっくりと姿を現した。
それは、ただの建造物ではなかった。
黒き石で築かれた巨大な門――奈落の門塔《カル=ヴァル=ネム》。
魔王城の入口にして、地底へと続く逆さの塔である。
「あれが……魔王城の入口か……。」
ヴァレックが呟いた声が、霧の中に吸い込まれていく。
塔は黙して立ち尽くし、空気すらも押し返すような威圧感を放っていた。
塔の表面には古代魔語の呪刻がびっしりと刻まれ、その一つ一つが微かに脈打っている。
誰からともなく足が止まり、全員がその存在に見入っていた。
「まるで……吸い込まれるようだな。」
ギムロックが額に汗を滲ませながら呟く。
「……でも、不思議だ。」
シヴァルが背負った子どもに手をやりながら続ける。
「この気配は、恐ろしいけれど……どこか懐かしい。」
子どもが彼女の背で小さく身じろぎ、モグラルが「モグ」と鼻を鳴らした。
そのとき――
塔の中央、無数の刻印が集まる扉が、音もなく開いた。
石がすれる気配さえない。
ただ空間が割れたかのように、漆黒の門が静かに開かれたのだ。
中から、揺らめく魔力が溢れ出す。
それは冷たく、それでいて深く温かい、魂を揺さぶる波だった。
「……来たか。」
ヤゴリの視線の先、門の奥から、二つの人影が歩み出てきた。
ひとりは、深い漆黒のローブを纏い、顔をフードで隠した存在。
その背からは、漆黒の魔力がゆるやかに揺れ、空間を歪ませている。
もうひとりは、骨ばった顔に気品を宿した、リッチのような風貌の男。
だが、その姿はもはやかつてのリッチではない。
瞳には生者のような熱が宿り、マントの裾からは、蒼白に光る鎖が幾重にも垂れていた。
「まさか……。お前が、本当に……。」
ギムロックが息を呑む。
「ルーデン……?」
その名が口から漏れた瞬間、仲間たちの目が見開かれる。
ヴァレックの翼が小さく震え、シヴァルの喉が鳴る。
「生きて……いや、存在していたのか……。」
門の前で、時が止まったような静寂が流れた。
そして、黒きローブの男――オべリスが、一歩前に出た。
「ようこそ、我が帰還者たちよ。」
その声は静かで、だが抗えぬ重みを持って響いた。
続いて、ルーデンが一礼し、微笑を浮かべながら言った。
「……久しいな。ギムロック、ベルデン、ラステン、モグラル。そして……ヴァレック、シヴァル。無事でいてくれて、本当に、ありがとう。」
「……ルーデン、あんた。……生きていたなんて……。」
ギムロックの声が震える。
鍛冶場の煙の中でも揺るがなかったその瞳に、熱が滲んでいた。
「ずっと、死んだと思ってた。あの砦の崩落のあと……。」
「私も……死んだはずだったさ。」
ルーデンの声はどこか乾いていた。
けれど、その奥には確かに、生者の響きがあった。
「だが、オべリス様に拾われ、生かされた。リッチだった私は、リヴレスへと進化した。
今は、オべリス様のもとで新たな道を歩んでいる。」
「リヴレス……?」
ベルデンが小さく息を呑んだ。
「魂を取り戻した死者……そんな存在が本当に……。」
「ただの奇跡さ。」
ルーデンが言う。
「けれど、それを信じさせてくれたのがこのお方だ。」
隣に立つ、漆黒のローブの男。
その瞳が、静かにルーデンに向けられていた。
「オべリス様……。」
シヴァルが、ゆっくりと跪いた。
背の子どもをかばいながらも、彼女は深く頭を下げる。
「命を、そして仲間を救っていただいたこと……言葉では尽くせぬ感謝を……。」
「俺からもだ。」
ヴァレックが、片膝をつく。
翼を折り畳み、重々しく頭を垂れた。
「もう一度……この空を飛べる日が来るとは思わなかった。
あなたの導きがなければ、今、ここに立つことはなかった。」
オべリスはしばし何も言わず、彼らの姿を見つめていた。
やがて、静かに手を伸ばすと、ヴァレックの傷んだ翼に触れる。
「痛みが残っているね。……少しだけ、力を貸そう。」
淡い青い光が指先から流れ出し、ヴァレックの羽根がわずかに発光する。
欠けていた羽根の輪郭が戻り、羽軸の間に光の繊維が織り成されていく。
「……これは……。」
「完全ではないけれど、これで風を感じられるはずだ。」
その言葉に、ヴァレックは感無量の面持ちで頭を垂れた。
ギムロックが一歩前に出る。
「……俺は、ドワーフのギムロック。あんたの武具くらいなら、もう一度魂込めて打てるぜ。
昔より腕も心も研いできたつもりだ。」
「同じくドワーフのベルデンです。」
ベルデンが小さく会釈しながら言った。
「戦う覚悟はとっくにできてます。今度は、負けません。俺たちはあんたのもとで、もう一度立ち上がる。」
「モグ!」
モグラルが元気よく跳ね上がり、両手をぶんぶんと振る。
オべリスの口元がほんの少し、緩んだ。
「小さなゴーレムさん。君は面白いね……よろしく頼むよ。」
ラステンは一言も発さない。
ただ、胸に埋め込まれた魔石コアが、ごぅ……と音を立てて脈動し、その輝きで誓いを示した。
オべリスは一同に視線を向ける。
奈落の門の奥へ、視線が向いた。
「さあ……案内するよ。ここから先が、新しい魔王城 ヴェルグラス・ドムハインだ。」
オべリスが奈落の門塔《カル=ヴァル=ネム》の内壁へ静かに手を添える。
次の瞬間、門の内側に刻まれた無数の魔紋が淡い蒼光を帯び、音もなく明滅を始めた。
光は脈打つように塔全体へ広がり、門の奥──まるで水面のようにゆらめく別の空間が口を開く。
空気が一変する。静寂が満ち、風が止まる。
誰かが無意識に息を呑んだ。
ヤゴリが一歩、門の内へと足を踏み入れる。
その瞬間、足元の感触が変わった。石ではない、何か柔らかく、そして深淵を思わせる冷たいもの。
後に続く仲間たちも、一人、また一人と門をくぐる。
まるで現実と夢の境を越えるように。
そして全員が門を越えた瞬間、周囲の景色が、音もなく反転した。
視界が揺らぎ、空間が歪み、重力の向きすら曖昧になる。
黒の深奥に引き込まれるように、一行は静かに地下八階層へと移されていく。
ただ足を踏み出しただけなのに、彼らはすでにこの世の理から遠ざかっていた。
魔王城《ヴェルグラス・ドムハイン》――その中枢、地下八階層の《環中宮》。
今、彼らはついにそこへ足を踏み入れたのだ。
足元に刻まれた呪印が、蒼く脈動している。
そこは、天井も壁も存在しない、ただ虚空が広がる神域のような空間だった。
地下八階層 《環中宮》。
それは魔王オべリスが座する核の間であり、力と記憶の交差点。
灰白の石柱が円環を描き、静寂の中に霊気が流れていた。
一行は中央の黒き王座を前に、しばし言葉を失った。
「ここが……魔王城の核……。」
ヴァレックが、思わず呟く。
ギムロックもまた、その眼差しを王座に向けながら、微かに頷いた。
「ただの玉座じゃないな……ここは、魂が帰ってくる場所だ。」
魔王オべリスは王座に背を向けたまま、しばらく虚空を見上げていた。
その肩越しに、穏やかな声が響く。
「君たちはよく帰ってきた。……ありがとう。」
たった一言だった。だがその声音は、深く、静かに、彼らの胸に染み入った。
シヴァルの背の子どもが、そっと顔を上げた。
虚空に浮かぶ光と王座の気配に、おびえではなく不思議な安堵を感じ取ったようだった。
オべリスの視線がゆっくりと子どもに向けられる。
「……その子は?」
声にとげはない。ただ真実を確かめるための問いだった。
シヴァルは、胸を張って答えた。
「私が救った子です。森で震えていたのを助けました。…たぶん仲間の人間とはぐれたのかと。」
オべリスは一拍おいて、さらに問いかけた。
「名はあるのか?」
子どもは、少し戸惑った顔でシヴァルの背から顔を覗かせる。
「……まだ、名前は……。」
シヴァルはわずかに視線を落とし、子どもの手をそっと包んだ。
「ずっと子どもと呼んでいました。でも……そろそろ、名を与えてもいいかもしれません。」
オべリスは微笑を浮かべ、言葉少なくうなずいた。
「ならば、君が名を与えるといい。」
少しの沈黙の後、シヴァルはそっと子どもの耳元に囁く。
そして、迷いのない声で言った。
「この子の名は……リネア。
それは、凍土に咲く小さな白い花という、私たち雪豹族の言葉です。」
リネアは、その名を反芻するように、小さな声で口にした。
「リネ……ア……?」
「ええ。今日からあなたは、リネアよ。」
オべリスは静かにその光景を見届けていた。
そして言葉を紡ぐ。
「名とは魂の核だ。
それを与える者には、守る覚悟が必要だ。……だが、それは何より尊い行為でもある。」
シヴァルは深く頷いた。
そしてリネアの目に、はっきりとした意志の火が宿った。
モグラルがぴょんと跳ねて「モグッ」と鳴く。
その声に、小さな笑いが広がる。張り詰めていた空気が、ふっと和らいだ。
「それぞれの居場所は、すでに用意してある。」
オべリスの言葉に、ラステンが静かに一歩踏み出す。
胸の魔石コアが、ごう…ごう…と低く鳴って脈動した。
彼は無言のまま頭を垂れた。
その仕草に、言葉以上の忠誠と信頼が込められていた。
「お前たちは、もう逃げる者ではない。
誰かの盾になるだけでも、捨て石でもない。
ここで、自らの意志で立ち、歩む者たちだ。」
オべリスの瞳が、一人ひとりに注がれる。
ヴァレックはその視線を真正面から受け止め、静かに言った。
「この翼がある限り、俺は貴方の空を守ります。」
「私も……リネアを、仲間を、未来を守るために、この地に立ちます。」
シヴァルがそれに続き、背の子をそっと抱き締める。
ギムロックとベルデンも、それぞれに胸を張って前に立つ。
「ここが、俺たちの鍛冶場であり、戦場だ。魂込めて働かせてもらうさ。」
「俺は、今度は誰も、失わない。」
オべリスはわずかに笑みを浮かべ、黒き王座の前に手を伸ばした。
「ようこそ、我が傍へ。ここが、君たちの帰る場所だ。」
虚空に小さく、光が咲いた。
それは歓迎の合図だった。まだ見ぬ旅の予兆でもあった。
環中宮に立ちこめる静寂のなかで、光の呪印が穏やかに脈動を続けていた。
だが先ほどまでの緊張は、もうここにはなかった。
空気はどこか和らぎ、かすかにぬくもりを孕んでいるようだった。
オべリスは視線を巡らせながら、まるで一人ひとりの心に触れるように、静かに言った。
「……あとは、君たちがどのように生きるかだ。
ここでは、強さだけが価値じゃない。
心ある者が心ある者を支え、守り合えるなら、それでいい。」
その言葉に、皆が一瞬黙り込んだ。
だがその沈黙は、確かな同意の証だった。
「では、案内しよう。
君たちには、居場所を用意した。それぞれに合った場所へと、移動しようか。」
ギムロックが手を腰に当てて唸るように言う。
「鍛冶場があるなら、ちょいと火をくべてやるぜ。」
「寝床と、まともな風呂があれば何とかなるさ。」
ベルデンが片眉を上げて笑った。
ラステンは無言で頷き、その背後ではモグラルが「モグ!」と元気よく跳ねていた。
皆の肩に、ようやく安堵が宿る。
その様子を見ながら、ルーデンが静かに言った。
「……かつてのこの城では、こんな光景は想像もできなかった。」
「だが、これからは違う。」
オべリスの目が、全員を包むように見渡す。
その声は静かでありながら、決して揺るがぬ意志を感じさせた。
「ここは、もう誰かの犠牲の上に成り立つ城ではない。
新たに生きる者たちの手で、再び築き直されるべき場所だ。
君たちと共に、私はそれを始める。」
誰ともなく、膝をついた。
そして、ゆっくりと頭を垂れた。
それは忠誠ではない。
共に歩む決意の、静かな誓いだった。
魔王城 ヴェルグラス・ドムハイン。
かつて絶望をもたらした城が、今、希望の拠点となる。
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