とある森の喫茶店セピア

御歳 逢生

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第一滴 始まりの森の喫茶店

第一話 現実の片隅で

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眩いばかりの光が収束した後、世界は再び、深い闇と不気味なほどの静寂に包まれた。
しかし、その状態は長くは続かない。意識がゆっくりと、まるで水面に泡が浮上するように、じわりと戻ってくるにつれて、まず慎太郎を襲ったのは、後頭部に走る鈍い、そしてずしりとした重さの痛みだった。
まるで硬い床に強く打ちつけられたかのような、嫌な感触。
全身の筋肉は強張り、まるで何日も眠り続けたかのように鉛が詰め込まれたような重さがある。
喉はカラカラに乾き、唾を飲み込もうとするたびに、砂を噛むような不快感が広がった。

耳の奥では、キーンという甲高い耳鳴りが、微かに、しかし執拗に響いている。
それは、あの全身を包み込んだ光の残響なのだろうか。
目を開こうと試みるが、瞼は張り付いたように重く、僅かな光も拒絶しているかのようだ。
深い眠りから覚めたばかりのような、しかしそれとは全く異なる、身体の芯からくる疲労感と、得体の知れない倦怠感が全身を支配していた。

自分が今、どこにいるのか。
何が起こったのか。断片的な記憶が、嵐のように脳裏を駆け巡る。
珈琲豆を挽く穏やかな音。
カウンターの向こうで微笑む静子の顔。
そして、止まっていたはずの古時計が放った、あの途方もない、全てを飲み込むような光――。

そうだ、あの光だ。

全身を包み込み、全てを白く染め上げた、あの眩い光。あれは、夢ではなかったのか?

重い体をなんとか動かそうと試みる。
指先が、ひんやりとした木材の感触を捉えた。
年季の入った、しかし丁寧に磨き上げられたカウンターの表面だ。
恐る恐る、指を滑らせる。
ざらりとした木の質感。
微かに残る珈琲の匂い。
間違いない、ここは紛れもなく、彼が毎日立っている喫茶店「セピア」の店内だ。

ゆっくりと、慎太郎は身を起こした。
全身の関節が軋むような音がする。
痛みとだるさに耐えながら、まずは周囲を確認しようと、ゆっくりと顔を上げた。
視界はまだぼやけているが、やがて、いつも見慣れた店内の光景が、徐々に焦点を結んでいく。

カウンターの向こうには、整然と並べられた珈琲カップが、いつもと同じように棚に収まっている。
磨き上げられたドリッパーやサイフォンも、彼の定位置に静かに佇んでいた。
壁には、静子が撮ったセピア色の家族写真。
そこには、まだ若かった頃の自分と、ひだまりのような笑顔の静子が並んで写っている。
どれもこれも、彼が毎日目にし、手入れをしている、見慣れた光景だった。

しかし、慎太郎の几帳面な性格からすれば、わずかながら、奇妙な違和感があった。

カウンターの上には、普段ならきっちりと揃えられているはずのシュガーポットとミルクピッチャーが、無造作に転がっている。
彼が愛用するガラスの珈琲カップは、幸い割れていないが、僅かにずれた位置で静止していた。
奥のテーブル席に目をやると、いつもは整然と並んだ椅子が、一つだけ、床に倒れかけている。
まるで、何かの強い衝撃に揺さぶられたかのように。

「……何が、あったんだ?」

掠れた声が、静まり返った店内に響く。
彼の問いに答える者は誰もいない。
店は深い沈黙の中にあり、いつも聞こえてくるはずの街の車の音や、人々の話し声も、全く聞こえない。

彼はゆっくりと立ち上がり、乱れた椅子を起こし、転がったシュガーポットを元に戻した。
その手つきは、どこか夢遊病者のように覚束ない。
指先に、埃が薄く積もっているのが見えた。
普段なら毎日丁寧に拭き上げているはずなのに、この埃は一体いつからだろうか。

不安が、じんわりと心臓を締め付け始める。

あの光景は、本当に夢ではなかったのか?
では、これは一体……。

彼は半ば無意識のうちに、大きな窓へと視線を向けた。
いつもの東京の景色が、そこにあるはずだ。
雑然とした隣のビル、行き交う車の音、夜には煌めく街の光。
彼の日常を彩る、ありふれた風景が。


しかし、窓の外に広がっていたのは、そんな彼の常識を根底から覆す、全くの異世界だった。

コンクリートの壁も、アスファルトの道も、どこにも見当たらない。
視界を埋め尽くすのは、高く、高く、どこまでもそびえ立つ木々の、途方もない緑だった。
幹は太く、彼が見たこともないほど高く伸びている。

太陽の光が、木々の隙間から細く、しかし生命力に満ちた輝きで店内に差し込んでいる。
その光は、東京のビル街が反射させる無機質な光とは全く異なり、瑞々しく、どこか神秘的な輝きを放っていた。店内の床には、木漏れ日が作る斑点模様が、ゆらゆらと揺れている。

耳を澄ませば、都会の喧騒とは全く違う音が聞こえてくる。
風が葉を揺らす、ざわめくような音。
どこか遠くから、清らかな小鳥たちのさえずりが響き渡る。
まるで、絵本に出てくるような、深い森の風景が、彼の目の前に広がっていた。

「……森?」

慎太郎の口から、呆然とした声が漏れた。
喫茶店「セピア」は、苔むした巨大な切り株の上に、まるで最初からそこにあったかのように、静かに佇んでいた。
古びた看板には、開店当時に静子が可愛らしい文字で書いてくれた「喫茶セピア」の文字が、今では色褪せていたが、その周りには、見たことのない形状の、鮮やかな花々が咲き乱れている。

彼は、窓に顔を近づけ、外の空気を吸い込んだ。
肺いっぱいに流れ込んできたのは、澄み切った、そしてどこか甘やかな土と木の香り。
ひんやりとした空気が、火照った体に心地よかった。
東京の重い、排気ガスの混じった空気とは全く違う、清浄な空気だ。


これは、夢ではない。
彼の常識が、音を立てて崩れていく。
ここは、彼が知る東京の片隅ではない。
それは、疑いようのない事実だった。

広大な、そして全くの未知の森。
その中に、ぽつんと取り残された喫茶店「セピア」。

手元に残された、まだ温かい珈琲のカップだけが、現実と非現実の狭間で、彼の唯一の拠り所のように感じられた。
彼はゆっくりと、そのカップを両手で包み込んだ。
温もりが、冷え切った指先にじんわりと染み渡る。

「静子……。」

ぽつりと、妻の名が唇からこぼれ落ちた。
もし静子がここにいたら、どんな顔をするだろうか。
この途方もない状況に、彼女ならどう反応するだろう。
あの太陽のような笑顔で、この状況すら楽しもうとするだろうか。
それとも、彼と同じように、ただ呆然とするだけだろうか。
彼は、ただ茫然と、窓の外の深い森を見つめ続けた。
森の緑が、彼の瞳に深く焼き付いていく。
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