とある森の喫茶店セピア

御歳 逢生

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第一滴 始まりの森の喫茶店

第二話 店の外

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頭の鈍痛と、胸の奥で重くのしかかる得体の知れない不安感は、まだ消えてはいない。
しかし、呆然と窓の外を見つめ続けていた慎太郎は、やがて、少しずつ冷静さを取り戻そうと努めた。
いつまでもこのままではいられない。
なぜこんなことになったのか、どうすれば元に戻れるのか、今はまだ何も分からない。
だが、まずはこの状況で、どう生き延びるかを考えなければならない。
静子と二人で築き上げてきた喫茶店「セピア」が、今、全く未知の場所に存在している。
それを現実として受け入れなければ。


重い足取りで、慎太郎は店内の奥へと向かった。
壁に掛けられた古時計は、あの光の時を境に、再び止まっていた。

午後三時四十五分。

彼の世界が止まった、あの時刻に。
時計のガラスに映る自分の顔は、青ざめていて、まるで別人のようだ。
彼は大きく息を吐き、静子がいつも置いていた小さな花瓶に活けられた、枯れかけた花に目を留めた。
枯れていても、そこには確かに静子の痕跡がある。
それをそっと指でなぞった。

「……まずは、この店がどうなっているか、だな。」

店内の戸棚を開け、珈琲豆のストックを確認する。
普段使っている豆は、きちんと袋に収まっていた。
ドリッパーやサイフォンなどの器具も、全て無事だ。
水回りも異常はないように見える。

電気は……恐る恐る電気のスイッチを入れてみる。
照明がついた。
それに冷蔵庫のモーター音も聞こえる。
電気が通っていることに安心した。

一通り店内の確認を終えた慎太郎は、再び窓の外の森へと視線を向けた。
いつまでも店の中に閉じこもっていても仕方がない。
この状況の全てを理解することはできなくとも、少なくともこの「セピア」が今ある場所について、自分の目で確かめる必要がある。

意を決して、慎太郎は古びた木製のドアに手をかけた。
重いドアノブをひねり、ゆっくりと外へと押し開く。
軋むような音が、静かな森に響いた。


扉を開いた瞬間、鼻腔をくすぐったのは、これまでの人生で嗅いだことのない、清冽で複雑な匂いだった。
都会の排気ガスの匂いや、アスファルトの熱気は微塵もない。
代わりに、湿った土の香り、生命力に満ちた青々とした植物の匂い、そして、どこか甘く、しかし人工物ではない、自然が放つ独特の芳香が、彼の肺いっぱいに流れ込んできた。
深呼吸すると、まるで全身の細胞が浄化されるかのような感覚に襲われる。
ひんやりとした空気が、火照った体に心地よかった。

店の外へ一歩足を踏み出す。
彼の足が着地したのは、苔むした、巨大な切り株の表面だった。
フカフカとした苔の感触が、革靴越しにじんわりと伝わってくる。
微かに湿り気を帯びていて、朝露か、あるいは昨夜の雨の名残りだろうか。
切り株は店の土台になっているようで、その広大さに慎太郎は改めて驚いた。

視線を上げると、そこには息をのむような光景が広がっていた。

頭上を覆うのは、天高くそびえ立つ、見たこともないほど巨大な木々の群れだ。
幹は太く、その樹皮には深い皺が刻まれている。
葉は鮮やかな緑色で、陽の光を浴びてキラキラと輝いている。
東京の街路樹とは比較にならない、圧倒的な存在感だ。

陽の光は、木々の分厚い葉の隙間から細く、しかし生命力に満ちた輝きで店内に差し込み、店内の床に揺れる木漏れ日の斑点模様を作り出している。
その光は、都会のビル街が反射させる無機質な光とは全く異なり、瑞々しく、どこか神秘的な輝きを放っていた。

耳を澄ませば、都会の喧騒とは全く違う、自然の音が聞こえてくる。
風が葉を揺らす、ざわめくような音。
遠くからは、清らかな小鳥たちの澄んださえずりが響き渡る。
その音色は複雑で、まるで複数の楽器が同時に奏でられているかのようだ。
そして、時折、ザワザワ、と木の葉が揺れる音に混じって、どこか遠くで、得体の知れない動物の鳴き声が響いてくる。
それは、彼の知る動物の鳴き声とは異質で、警戒と、わずかな好奇心を同時に掻き立てられた。


慎太郎は、店の周りをゆっくりと歩いてみた。
切り株の縁には、見たこともない形状の、鮮やかな花々が咲き乱れている。深い青色、燃えるような赤、透明感のある紫色。
どれもこれも、彼が見たことのない、幻想的な色彩を放っていた。
足元には、巨大な蔦が絡みつき、奇妙な葉を持つ植物が地面を覆っている。
その全てが、彼の知る地球の植物とは異なっていた。
ここは、本当に別の世界なのだ。


この広大な森で、生きていくには何が必要か。
まず、真っ先に思い浮かんだのは、「水」だった。
幸いにも、店からさほど遠くない場所に、水の流れる音が聞こえる。
音を頼りに数歩進むと、そこには驚くほど澄み切った小川が流れていた。
川底の小石一つ一つが、肉眼ではっきりと見えるほどに透き通っている。

慎太郎は、小川のほとりに膝をついた。
冷たい水が、手のひらを伝ってひんやりと指先に染み渡る。
恐る恐る、掌ですくった水を口に含む。
清らかで、癖のない、まろやかな味がした。
生きる上で最も重要な要素の一つが確保できたことに、深い安堵が胸をよぎる。
この水ならば、珈琲を淹れることもできるだろう。
ふと、静子がこの川を見たら、どんなに喜んだだろうかと思った。
彼女は自然を愛し、澄んだ水を見るたびに、その美しさに目を細めていた。

小川のせせらぎが、彼の不安を少しだけ和らげてくれる。
しかし、視界の先には、どこまでも続く深い森。
この広大な未知の場所で、たった一人で生きていくことへの、漠然とした恐怖が、まだ彼の心を支配していた。
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