とある森の喫茶店セピア

御歳 逢生

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第一滴 始まりの森の喫茶店

第三話 珈琲の木

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澄み切った小川の水は、彼の喉の渇きを癒し、乾ききっていた心にわずかな潤いを与えてくれた。
これで、当面は水に困ることはないだろう。
しかし、生きていく上で必要なものは水だけではない。

食料はどうする?
そして、何より喫茶店を営む上で不可欠な、珈琲豆はどうする?

慎太郎は再び喫茶店「セピア」の前に戻り、開け放たれたドアから店内を見つめた。
静子が愛したこの場所が、今、全くの未知の森の中に佇んでいる。
まるで、時が止まったままの、奇妙な箱庭のようだ。
この店を、この場所で再び開くことができるのだろうか。

彼の思考は、自然と過去へと遡った。
静子と初めて喫茶店を開いた日のこと。
二人で珈琲豆を求めて、あちこちの業者を訪ね歩いた日々。
理想の味を求めて、夜遅くまで試行錯誤を繰り返した時間。
静子の嬉しそうな笑顔。

「あなた、この豆、香りがとっても優しいわ。きっと、お客さんも喜んでくれるわね!」

彼女の言葉が、今も鮮明に耳に蘇る。
あの頃の苦労が、今ではかけがえのない思い出だ。
そんな思い出に浸るうちに、彼の心に一つの強い決意が芽生え始めた。

ここで、喫茶店「セピア」を、再び開く。
静子との思い出が詰まったこの場所を、この異世界でも守り続ける。

そのためには、珈琲豆が絶対に必要だ。

慎太郎は、店に備え付けてあった小さなリュックサックを手に取った。
中には、非常用の水筒と、簡単な救急セット。
そして、静子が旅行の際に持たせてくれた、小さな方位磁石。
もしかしたら、この森で珈琲豆が手に入るかもしれない。
そんな淡い希望が、彼の心を突き動かした。

店の周囲を、さらに慎重に探索することにした。
小川に沿って少しだけ上流へ進んでみる。
地面は柔らかい土で、足跡がつきやすい。
獣道のように、細く踏み固められた場所も見えた。
動物が通っているのだろうか。
慎太郎は警戒しつつも、周囲の音に耳を傾け、ゆっくりと歩を進めた。


高くそびえ立つ木々は、どこまで行っても途切れる気配がない。
陽の光が届きにくい森の奥は、薄暗く、ひんやりとした空気が漂っている。
見慣れない植物が、彼の視界を埋め尽くす。
鮮やかな花々は、まるで宝石のように輝き、奇妙な形をしたキノコが苔むした倒木から生えている。
中には、見たことのない果実のようなものが実っている木もあったが、それが食べられるものなのか、毒があるのか、全く判断がつかない。

歩き続けていると、突然、遠くから「クゥー、クゥー」という、聞いたことのない鳥の鳴き声が響いてきた。
続いて、ガサガサと茂みが揺れる音。
慎太郎は思わず身を固め、周囲を見回す。
だが、姿は見えない。
警戒しながらも、彼の視線は、周囲の植物へと向けられていた。

その時だった。

目の前に、一際目を引く木が現れた。
幹は他の木々と同じように太いが、その枝には、見慣れないが、どこか見覚えのある、真っ赤な実が無数にぶら下がっている。
まるで、熟れたサクランボのようだ。

慎太郎は、思わず息を呑んだ。
心臓が大きく脈打つ。

恐る恐る、その木に近づいていく。
そして、枝に手を伸ばし、赤い実を一つ、そっともぎ取った。
手のひらに乗せると、ずっしりと重い。
触感は、彼が知る珈琲の実と酷似していた。
表面はなめらかで、少し弾力がある。

鼻腔に近づける。
すると、微かに、しかし確かに、焙煎前の珈琲豆が持つ、あの独特の青く、フレッシュな香りがした。
その香りは、彼の知る珈琲の記憶を呼び覚まし、絶望の中に差し込んだ、一筋の光のように感じられた。

信じられない思いで、慎太郎は実の皮を剥いてみた。
爪で丁寧に皮を剥がすと、現れたのは、彼の知る珈琲豆と全く同じ、二つの豆が重なり合った形。
表面には、あの独特の溝も見て取れる。
色は、僅かに緑がかった白だ。

「……珈琲、豆……なのか?」

彼の唇から、掠れた声が漏れた。
信じがたい奇跡が、今、目の前で起こっている。
こんな森の奥で、まさか、珈琲の木に出会えるとは。

その時、静子の笑顔が、再び脳裏に鮮明に浮かんだ。
彼女が珈琲豆を見つけた時の、あの無邪気なほど喜んだ顔。

「静子、見てくれ。こんな場所に、珈琲の木が……。」

心の中で、慎太郎は静子に語りかけた。
もし彼女がここにいたら、どんなに喜んだだろうか。
きっと目を輝かせ、この豆をどう焙煎しようかと、熱心に語り始めたに違いない。
彼女と共に、この森で、新しい珈琲の味を探求できたなら。

喪失感が再び胸を締め付け、瞳の奥が熱くなる。
だが、それと同時に、強い希望が胸に満ちていく。
この珈琲豆があれば、彼は静子との喫茶店を守り続けられる。
この異世界でも、「セピア」の珈琲を淹れ続けられる。

彼は、珈琲豆を握りしめた。
その感触が、彼に確かな現実と、生きる意味を与えてくれる。
この豆があれば、まだやれる。
まだ、この場所で、静子との夢を続けることができる。

森の奥から、再び得体の知れない動物の鳴き声が聞こえてきた。
それは、彼の心を不安にさせる音だが、もう、ただ怯えるだけではない。
この珈琲豆が、彼に新たな力を与えてくれたのだ。

慎太郎は、リュックサックに珈琲の実を慎重に集め始めた。
まだ、この豆が本当に使えるのか、この森で生きていけるのか、課題は山積している。
それでも、彼の心には、確かな希望の光が灯っていた。
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