五輪の遺志

洋夏晴崇(YOKA SEISHU)

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 私がこれまで解明してきた邪馬台国や卑弥呼の秘密であれ、ゴッホの死の真相であれ、真実に迫るきっかけは、一部の研究者しか見ることを許されない特別な資料……というわけではなかった。
 そして、今回も例外なく、謎を解く鍵は、既に何度も読んだはずの五輪書の中にあったのである。

「これから書を記すに仏法や儒道の古い言葉を借りたり、軍記軍法の古い事例を用いたりはせず、我が流派の思想や真実を明らかにし、天道と観世音を鑑みて、十月十日の夜、とらの一天に筆を執って書き始めた」

 これは前章でも書いた五輪書の序文。
 この一文にそんな謎を解く鍵があるのか疑われると思うが、重要なのは以下の部分である。
 
「十月十日の夜、に筆を執って書き始めた」

 これの従来的な翻訳は、

「10月10日の夜、に筆を取って書き始めた」

 とされている。
 数百年前の日本では、年と時刻を「十二支」にて数えるものであったため、そのルールに従うと、

 寅の一天=午前4時頃

 と解されているわけだ。
 しかし、よく見ると前文に「十月十日の夜」と書かれている。
 おかしいと思わないだろうか?
 既に「夜」と時間帯を示す文字があるのに、さらに時間帯を示す「寅」が書かれ、重複していること以上に、この箇所は「午前4時頃」と訳されている。
 実際の寅の時間帯は、午前3時から午前5時までの間を指す。
 普通に考えれば、この時間帯は夜ではなく、あかつきというような夜明け前を示す言葉を使うのが自然なのだ。
 それに「一天」という表現も意味不明である。
 これについて、武蔵研究者の多くも様々な説を唱えているのだが、

「本来は、寅の一てんと書くべきところを、一てんとしてしまった誤記である」

 という安易なものから

「寅の刻には宗教的に特別な意味があり、聖なる時間である。そこで、武蔵は一点を一天と詩的に変換して表現したのだ」

 などという深堀し過ぎな説もある。
 しかし、私に言わせれば、そのどれも本質を掴んでいないのだ。
 そもそも武蔵は、先ほども述べたとおり、

「仏法や儒道の古い言葉を借りたり、軍記軍法の古い事例を用いたりはせず」

 とおっしゃっているではないか。
 ダ・ヴィンチ・コードのような宗教的謎かけ表現などするはずがなく、かといって書き間違えるような文字でもない。
 結論をいうと、先ほど十二支は年と時刻を示すと述べたが、もう一つ、「方角」を意味するのである。
 そうするとこれまでとはまるで異なる真実が見えてくる。

「十月十日の夜、に筆を執って書き始めた」

 彼は、岩戸山に登った後、下山して千葉城屋敷に戻ってきた。
 そして、その際に得た強い霊感インスピレーション、あるいは深い感動が忘れられず、思わず庭に出て、寅の方角にある岩戸山の空を眺め、執筆を開始した……こう考えれば、「寅の一天」と表現したことに何の違和感もないのだ。

 さて、これが正しいとなると大問題である。
 件の霊厳洞のある金峰山は、千葉城屋敷から見て、西から西北西にあるため、これは十二支でいうととりの方角だ。
 寅は東から東北東の方角であるから、これではほぼ正反対となる。
 つまり、

「五輪書にある岩戸山は、霊厳洞のある金峰山ではない」

 という疑念が、確信に変わってしまったのだ。
 私は早速地図を広げ、東の方角を調べた。 
 最強の兵法家に五輪書を書かせるほどの衝撃を与えた山とは一体どこなのか……私は驚愕した。
 そう。それは九州最高の霊峰、『阿蘇山』である。



 阿蘇山は、武蔵の住んでいた千葉城屋敷から東北東、つまり寅の方角であり、約45~50キロメートル先に位置している。
 徒歩や馬で移動したとすれば、往復4~7日間の所要日数にも納得がいく。
 だが、多くの方々は、これだけでは納得しないだろう。
 岩戸山=阿蘇山などと提唱する武蔵研究者は、私以外皆無である。
 しかし、かくいう私もすぐにそんな結論に達したわけでない。

 阿蘇山は古くから自然神として崇められており、山岳仏教の一大霊場であるが、その山頂にはかつて、『西厳殿寺さいがんでんじ』と呼ばれる寺院があった(現在は、阿蘇山本堂西巌殿寺奥之院)。



 事の起こりは、神亀3年(726年)に遡る。
 当時、阿蘇信仰の中心は「阿蘇のお池」と呼ばれる噴火口の湯溜まりであり、人々は崇拝していた。
 ある時、神の住む阿蘇の湯溜まりのもとで修行するため、天竺てんじく(インド)から最栄読師さいえいどくしという僧侶がやってきた。彼が火口から中を覗き込むと、地獄のような世界が広がっており、鬼に責められ、または互いを殴り合い、互いに肉を食らい合う亡者達の姿があった。
 あまりに恐ろしい光景に読師はすぐさま下山しようとしたが、突然九つの頭を持つ大きな龍が天空に現れた。
 その龍は阿蘇神社の祭神、健磐龍命たけいわたつのみことであった。
 読師が再び火口の中を見ると、先ほどの亡者達を仲裁したり、あるいは鬼から庇う十一面観世音菩薩の姿があり、その尊い姿に感動した彼は、登山途中見つけた霊木で十一面観世音菩薩の姿を一心不乱に彫った。
 そして、火口の西の洞窟(巌殿いわどの)にそれを安置するとご本尊として祀り、毎日法華経を読んで修行に励み、人々はそこを西の巌殿の寺と呼んで崇めた……以上が、西巌殿寺の由来である。
 
 読者の中には既にご存じの方もいるかもしれないが、現存する五輪書はすべて写本であり、武蔵本人による原本は存在していない。
 資料の中には、『岩戸山いわどのやま』という文字を、『巌殿山いわどのやま』と記しているものも存在する。
 つまり、武蔵が五輪書を書くために訪れた真の場所とは、金峰山の馬頭観音(岩戸観音)が納められた霊厳洞ではなく、阿蘇山火口の西にある十一面観世音菩薩が納められた『厳殿』だった……というのが私の結論である。
 彼は阿蘇山に向かうことをあまり公にはしなかったのだろう。 
 そして、数十年以上後世の人々が、武蔵の噂や伝聞を取りまとめ、探し当てた場所が偶然にも霊厳洞だった。あるいは、有名になった武蔵にあやかり、町興しの一環として強引にそこへ結びつけられた可能性すら考えられる。
 
 最強の兵法家たる宮本武蔵が、地、水、火、風、空に準えた五輪書に相応しいのは、緩やかで静謐な金峰山の霊厳洞か、あるいは険しく荒々しい阿蘇山の厳殿か……邪馬台国の場所と同じく、最終的な判断は、読者の方々にお任せしよう。


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