五輪の遺志

洋夏晴崇(YOKA SEISHU)

文字の大きさ
2 / 3

疑惑の霊厳洞

しおりを挟む
 新免武蔵が、晩年熊本に向かい、彼の唯一となる兵法書『五輪書』を記したのは有名な逸話である。
 この書は国内のみならず、海外でも翻訳されており、前章で記述したとおり、

「我が道を伝えるに、入門誓約等を好まない」

 という武蔵の精神を400年近く経った現代日本どころか、さらに国境を越えて体現しているのだから驚きだ。
 それも武道家やスポーツマンならばともかく、むしろ世界を股にかけるビジネスマンに愛読されるという奇妙な側面を持つ。
 その理由は、不敗神話を持つ伝説的な兵法家の言葉であるのと同時に、

「時代を超えた普遍的な戦略・哲学」

 と解釈され、特に欧米のビジネス層に競争社会を生き抜く知恵として受け入れられたためである。

 そんなとんでもない兵法書を武蔵はどこで書いたのか……それは、熊本市の西方、金峰山きんぽうざん山麓にある雲巌禅寺れいがんぜんじの裏山に位置する洞窟の『霊厳洞れいがんどう』とされており、熊本市の公式サイトでもそのように紹介されている。
 その根拠は彼の記した五輪書にある以下の文に由来する。 

「寛永二十年(1643)の十月上旬頃、九州肥後の地にある岩戸山いわとのやまに登り、天を拜し、観音に礼をして仏前に向った」
「これから書を記すに仏法や儒道の古い言葉を借りたり、軍記軍法の古い事例を用いたりはせず、我が流派の思想や真実を明らかにし、天道と観世音を鑑みて、十月十日の夜、寅の一天に筆を執って書き始めた」

 これらの文中にある『岩戸山』という名称と霊厳洞内に安置されている観音像の『岩戸観音』から、

「武蔵は、霊厳洞で五輪書を記した」

 という説が定着したのだ。
 確かにこの場所は静謐な空気に満たされており、特に雲巌禅寺から霊巌洞に至る岩山を削った細道にある有名な五百羅漢ごひゃくらかんは、熊本の商人渕田屋儀平ふちだやぎへいが、24年の歳月をかけて奉納したと言われ、姿や表情が異なる石仏群が、より神秘的な世界を醸し出している。
 
 しかし、ここで私の捻くれたさががまた疼きだした。
 邪馬台国の所在や卑弥呼の真実、さらにはゴッホの死の真相など、世間で定説とされている事柄を疑い、真相を知りたがる癖である。

 武蔵が、岩戸山に登ったことに霊感インスピレーションを受け、五輪書を書いたということは事実だろう。
 但し、その後霊厳洞に籠ったという事柄はどこにも書かれていない。
 おそらく、これは武蔵が生前によく描いていた達磨の絵、つまり、『達磨大使だるまたいし』の逸話からの連想と思う。
 本来、達磨とは単なるマスコットではなく、5世紀後半から6世紀前半に実在した中国禅宗開祖のインド人仏教僧である。
 彼は、中国各地にて禅の精神を布教した後に揚子江を渡って崇山少林寺に辿り着き、その裏山の洞窟にて壁に向かい、なんと9年間坐禅を続け、悟りを開いたとされている。



 その際、あまりにも長い時間座禅を組み過ぎたため、手足が腐り落ち、我々が良く知る現代のダルマの形になったとされているのだが、おそらくこの逸話と武蔵を関連付けた結果、昨今の霊厳洞に籠り、五輪書を記したという逸話が完成したのだろう。



 こう考えた時、武蔵は本当に霊厳洞に来たことがあるのか……そんなことすら私は疑い始めてしまったのだ。

 執筆には当然長い時間がかかる。
 実際彼は、1643年10月10日から開始したのに、晩年となる1645年6月の時点でも五輪書は完成しておらず、草案の段階で愛弟子の寺尾孫之丞に渡されたのだから、こんな洞窟に延々と籠り続けていたはずがない。
 武蔵は、肥後熊本藩初代藩主である細川忠利に熊本城下の千葉城屋敷を与えられたとされているため、岩戸山に登った後は、当然そこに戻ってから執筆を開始したと思われるが、実のところ私が興味を持ったのは、彼がどこで五輪書を記したかではない。
 天衣無縫の武蔵に対し、地、水、火、風、空に準えた書を書かせるほどに霊感インスピレーションを与えた場所はどこなのか……という点である。

 五輪書によると、武蔵は長年修行したことを初めて書き記そうと思い立ち、そのために岩戸山に登ったとあるが、その視点からみると霊厳洞は、私にはイマイチ物足りないのだ。
 ちなみに前述の五百羅漢は、武蔵没後150年以上経ってからの産物であるため、五輪書とは無縁である。
 この他にも私がそのように考えた根拠として、彼は10月上旬に岩戸山に登り、数日経ってから10月10日に書き始めたという文がある。
 霊厳洞のある金峰山は、武蔵が住んでいた千葉城から約11キロメートルの場所であり、標高もせいぜい700メートル弱ということで、徒歩なら一般人でも宿泊して2日、馬などを使えば、1日で往復できてしまうだろう。
 そんな近場の緩やかな場所が、彼にそこまでの影響を与えたとは思えないし、登山後4~7日ほどかけてから執筆を開始したという記述についても、どうにも納得いかないのだ。

 この時点で私の中では、岩戸山=金峰山=霊厳洞とは考えられなくなり、彼のいう岩戸山は別にあるのではないかという考えが芽生えた。
 しかし、決定的な根拠はないため、悶々としながら過ごしていたのだが、そんな時に偶然にも熊本へ出張する仕事ができた。
 いつかは、武蔵終焉の地へ訪れたいと願っていた私は、興奮を抑えきれず、今一度五輪書を見返してみた結果、雷に打たれたように気づいてしまったのである。
 武蔵に五輪書を書かせるきっかけを与えた真の岩戸山とはどこなのか……
 その真実を次章に示す。
しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

同じアパートに住む年上未亡人美女は甘すぎる。

ピコサイクス
青春
大学生の翔太は、一人暮らしを始めたばかり。 真下の階に住むのは、落ち着いた色気と優しさを併せ持つ大人の女性・水無瀬紗夜。 引っ越しの挨拶で出会った瞬間、翔太は心を奪われてしまう。 偶然にもアルバイト先のスーパーで再会した彼女は、翔太をすぐに採用し、温かく仕事を教えてくれる存在だった。 ある日の仕事帰り、ふたりで過ごす時間が増えていき――そして気づけば紗夜の部屋でご飯をご馳走になるほど親密に。 優しくて穏やかで――その色気に触れるたび、翔太の心は揺れていく。 大人の女性と大学生、甘くちょっぴり刺激的な同居生活(?)がはじまる。

熟女教師に何度も迫られて…

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
二度と味わえない体験をした実話中心のショート・ショート集です

邪神の祭壇へ無垢な筋肉を生贄として捧ぐ

BL
鍛えられた肉体、高潔な魂―― それは選ばれし“供物”の条件。 山奥の男子校「平坂学園」で、新任教師・高尾雄一は静かに歪み始める。 見えない視線、執着する生徒、触れられる肉体。 誇り高き男は、何に屈し、何に縋るのか。 心と肉体が削がれていく“儀式”が、いま始まる。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

性別交換ノート

廣瀬純七
ファンタジー
性別を交換できるノートを手に入れた高校生の山本渚の物語

おじさん、女子高生になる

一宮 沙耶
大衆娯楽
だれからも振り向いてもらえないおじさん。 それが女子高生に向けて若返っていく。 そして政治闘争に巻き込まれていく。 その結末は?

処理中です...