月は夜に抱かれて

凪瀬夜霧

文字の大きさ
4 / 110
1章:落日の王都

1話:不遇の王太子

しおりを挟む
 荘厳な王宮の中庭に、ひっそりと建つ碑がある。名も刻まないその碑の前に一人の青年が膝を付き、一輪の百合を捧げた。
 背に流れる髪は銀糸の如く煌めき、瞳は深いジェード。天使のごとく美しい顔立ちは厳格な雰囲気と白い衣服と相まって、本当に舞い降りてきた使者のように思える。
 彼の名はユリエル。タニス国第一王子であり、王太子である。
 彼は碑の前に膝をついて礼をし、とても寂しい笑みを浮かべた。

「母上、この国は既に落ちるのを待つばかりかもしれません」

 静かな声が語りかけるように紡がれる。表情は冷たく、硬いものだった。
 胸元から小さな羊皮紙を取り出したユリエルは、再びその書面を目で追った。

『ユリエル・アデラ・ハーディング
 聖ローレンス砦への赴任を命ずる。速やかに任地へと赴き、職務を全うせよ』

 聖ローレンス砦は、王都より北東に位置する大陸行路の監視地だ。昔は戦も多くそれなりに活躍もした砦だが、今はそこまで踏み込まれる事もなくなり、もっぱら暇な監視と取り締まりが仕事となっている。
 そのような場所に、王太子であるユリエルを赴任させる理由は分かっている。ユリエルを嫌い、危険視する役人や大臣が多いからだ。
 現国王はその昔は立派な王であった。だが、ある時から意欲を失くし、年齢もあって力は衰えている。今や腐敗した大臣や役人の言いなり状態だ。

 ユリエルが憂えるのは、そうした者達がこれ以上力をつけ、財を溜め込み、腐敗していくことだった。彼の目から見れば既に王の弱体化は深刻なレベルにあるように思う。
 さっさと王位を譲ってもらうのが一番いいのだが、それもまごついて上手くゆかない。ユリエルが王となれば今までのような甘い蜜は吸えない。そればかりか身の危険となる。それを恐れる者達がユリエルを廃し、弟を王太子とすることを画策している。
 ユリエルは静かに瞳を閉じる。瞼の裏に浮かぶのは先程の王の姿だった。なんと小さく、弱く、頼りないものだったか。それを思い起こしていた。

◆◇◆

  政治の場である中央院にある王の執務室。ユリエルはその前に立ち、硬く扉を叩いた。

「ユリエル、参りました」
「入れ」

 すぐに声があり、ユリエルは従って中に入った。
 正面にある執務用の黒檀の机の奥に王はいた。年の頃は五十を過ぎ、少しくたびれている。心労の色も伺える。その王が、こちらを見て頷いた。

「ユリエル、ラインバール平原ではご苦労であった。見事な戦いだったと聞いている」
「運が良かっただけでございます」

 彼は軽やかに、歌うような声で告げて静かに頭を下げる。この姿を、人は慇懃無礼と言う事がある。華やかな出で立ちと声音は劣等感を刺激するらしい。
 だが、ユリエルはいつもこのように振る舞う。王もそれを咎める事はなかった。

 この日、ユリエルは一カ月ぶりに王都に帰還した。ここより二百キロほど離れたラインバールと呼ばれる前線へと赴いていたのだ。
 隣国ルルエとは、もう長く睨み合いが続いている。その最前線が、国境のラインバール平原だった。
 一カ月と少し前から、膠着状態だった両国が再び戦争へと転がりだした。ルルエの前王が病死し、新たな王が即位した事でタニス側が戦を仕掛けたのが原因だった。
 一時はタニス側が優勢で、ラインバールを平定しそうな勢いだった。だが、着任した新王がこれを知り、すぐに反撃。その結果、タニスは一気に危機に陥った。
 このままではラインバール平原の覇権を奪われる。この段階でようやくユリエルが呼ばれて指揮を執る事となったのだ。
 ユリエルは残された兵を再編成し、見事に劣勢を覆し、ルルエ軍を押し返した。結果、平原を手中に収めることはできなかったが、再び膠着状態に戻す事には成功したのだった。

 だが、ユリエルの危惧はこの戦とは違うものに向かっていた。
 一つは、王が軍の暴走を止める力を持てなかった事。今回の事は軍の上層部が勝手に判断した結果だ。これこそが、最も危惧すべき王の弱体化だ。これが横行すれば、一気に国は戦争へと向かっていく。無用な争いが増えればそれだけ、国が疲弊してしまう。
 更に言えばこの戦いを支持する諸侯や大臣の影が気になる。奴らは戦争を隠れ蓑に私腹を肥やすつもりだろう。これほど大きな目くらましもないだろうし、こうした嗅覚は鋭い奴等だ。
 更にもう一つ気になると言えば、あまりに手ごたえがなかった事だ。捕えた兵を尋問したが、新王に関する事は一切話さない。
 何か嫌な予感がしている。何か裏があり、その為にラインバールでの戦を利用したのではないか。そう勘ぐるのは、ユリエルの悪い癖だと思いたかった。

「して、陛下。私を呼んだ理由は労いの為ではないでしょう。用件は、どのようなものですか?」

 王の言葉をユリエルは待った。ジェードの瞳が王を見据える。それに、王は深く息を吐いた。

「お前には王都を離れ、聖ローレンス砦へと赴いてもらいたい」

 その命に、ユリエルは片眉を上げた。

「王太子たる私を、王都から地方へと移す。という事ですか?」

 これにも王は答えない。答えられないのだろう。

「つまり、私をお役御免にして遠ざけたいということですね?」

 鋭い視線を隠さず、ユリエルは問う。それに、王は何も言わなかった。

「弟の王位を確立したいが為に、私を追い払うのですね?」

 もう一度、重ねて問うた。それにすら、王は答えない。だがその理由を、ユリエルはよく知っていた。

 ユリエルの腹違いの弟シリルは、優しくて純粋で、色々な意味で無知だ。そして、ユリエルよりも母の位が高かった。
 王は正妃との間に子がなかなかできなかった。その為、貴族の娘を側室に迎えた。これがユリエルの母だ。
 王は長子を生んだユリエルの母に、この子を王位につける事を約束している。だがそれは、十年あまりで覆された。正妃との間に男児が生まれたのだ。
 これによってユリエルと母は城内で立場がなくなり、不遇の日々を送る事となった。そしてそれは今も続き、母は顧みられることもなく亡くなった。
 今も城の内部では身分が上の弟を王太子とし、後の王へと考える人間が多い。彼の方が扱いやすいと踏んだ輩が多い証拠だ。

「母との約束を、決定的に違えるのですね?」
「すまない」

 項垂れた王が言ったのは、たったそれだけだった。

「貴方を責めるつもりはございません。国の首座として決定した事ならば、一将兵に頭など下げる必要はありません。例えそれが、一度でも愛した女性との約束を違える結果でも、息子である私が相手でも」

 その言葉には、一欠けらの優しさもなかった。明らかな責めに王は言い訳をしなかった。これは既に決定されたことで、ユリエルの責めに間違いがないからだ。

「五百の兵を預ける。後は、聖ローレンス砦の首座として務めよ」
「それが貴方の精一杯の優しさですか。……いいでしょう、従います。ですが父上、私が何者かを知っていれば、貴方はこれも無駄な足掻きと知るでしょう」

 ジェードの瞳が危険な光を宿して王を見る。

「私は、王の子です」
「そうだ。だからこそ、私はお前が恐ろしい。お前の性は苛烈すぎる。このままお前が玉座に着けば、血の粛清が行われかねない」

 その言葉に、ユリエルは柔らかく微笑んだ。母に似た、とても美しい顔で。

「貴方のその配慮に、臣は感謝に涙するでしょうね。そして民は、血の涙を流すのです」

 それだけを残して、ユリエルは踵を返し部屋を出た。
しおりを挟む
感想 3

あなたにおすすめの小説

Take On Me

マン太
BL
 親父の借金を返済するため、ヤクザの若頭、岳(たける)の元でハウスキーパーとして働く事になった大和(やまと)。  初めは乗り気でなかったが、持ち前の前向きな性格により、次第に力を発揮していく。  岳とも次第に打ち解ける様になり…。    軽いノリのお話しを目指しています。  ※BLに分類していますが軽めです。  ※他サイトへも掲載しています。

後天性オメガは未亡人アルファの光

おもちDX
BL
ベータのミルファは侯爵家の未亡人に婚姻を申し出、駄目元だったのに受けてもらえた。オメガの奥さんがやってくる!と期待していたのに、いざやってきたのはアルファの逞しい男性、ルシアーノだった!? 大きな秘密を抱えるルシアーノと惹かれ合い、すれ違う。ミルファの体にも変化が訪れ、二次性が変わってしまった。ままならない体を抱え、どうしてもルシアーノのことを忘れられないミルファは、消えた彼を追いかける――! 後天性オメガをテーマにしたじれもだオメガバース。独自の設定です。 アルファ×ベータ(後天性オメガ)

完結・オメガバース・虐げられオメガ側妃が敵国に売られたら激甘ボイスのイケメン王から溺愛されました

美咲アリス
BL
虐げられオメガ側妃のシャルルは敵国への貢ぎ物にされた。敵国のアルベルト王は『人間を食べる』という恐ろしい噂があるアルファだ。けれども実際に会ったアルベルト王はものすごいイケメン。しかも「今日からそなたは国宝だ」とシャルルに激甘ボイスで囁いてくる。「もしかして僕は国宝級の『食材』ということ?」シャルルは恐怖に怯えるが、もちろんそれは大きな勘違いで⋯⋯? 虐げられオメガと敵国のイケメン王、ふたりのキュン&ハッピーな異世界恋愛オメガバースです!

やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。

毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。 そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。 彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。 「これでやっと安心して退場できる」 これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。 目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。 「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」 その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。 「あなた……Ωになっていますよ」 「へ?」 そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て―― オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。

皇帝に追放された騎士団長の試される忠義

大田ネクロマンサー
BL
若干24歳の若き皇帝が統治するベリニア帝国。『金獅子の双腕』の称号で騎士団長兼、宰相を務める皇帝の側近、レシオン・ド・ミゼル(レジー/ミゼル卿)が突如として国外追放を言い渡される。 帝国中に慕われていた金獅子の双腕に下された理不尽な断罪に、国民は様々な憶測を立てる。ーー金獅子の双腕の叔父に婚約破棄された皇紀リベリオが虎視眈々と復讐の機会を狙っていたのではないか? 国民の憶測に無言で帝国を去るレシオン・ド・ミゼル。船で知り合った少年ミオに懐かれ、なんとか不毛の大地で生きていくレジーだったが……彼には誰にも知られたくない秘密があった。

黒とオメガの騎士の子育て〜この子確かに俺とお前にそっくりだけど、産んだ覚えないんですけど!?〜

せるせ
BL
王都の騎士団に所属するオメガのセルジュは、ある日なぜか北の若き辺境伯クロードの城で目が覚めた。 しかも隣で泣いているのは、クロードと同じ目を持つ自分にそっくりな赤ん坊で……? 「お前が産んだ、俺の子供だ」 いや、そんなこと言われても、産んだ記憶もあんなことやこんなことをした記憶も無いんですけど!? クロードとは元々険悪な仲だったはずなのに、一体どうしてこんなことに? 一途な黒髪アルファの年下辺境伯×金髪オメガの年上騎士 ※一応オメガバース設定をお借りしています

僕と教授の秘密の遊び (終)

325号室の住人
BL
10年前、魔法学園の卒業式でやらかした元第二王子は、父親の魔法で二度と女遊びができない身体にされてしまった。 学生達が校内にいる時間帯には加齢魔法で老人姿の教授に、終業時間から翌朝の始業時間までは本来の容姿で居られるけれど陰茎は短く子種は出せない。 そんな教授の元に通うのは、教授がそんな魔法を掛けられる原因となった《過去のやらかし》である… 婚約破棄→王位継承権剥奪→新しい婚約発表と破局→王立学園(共学)に勤めて生徒の保護者である未亡人と致したのがバレて子種の出せない体にされる→美人局に引っかかって破産→加齢魔法で生徒を相手にしている時間帯のみ老人になり、貴族向けの魔法学院(全寮制男子校)に教授として勤める←今ここ を、全て見てきたと豪語する男爵子息。 卒業後も彼は自分が仕える伯爵家子息に付き添っては教授の元を訪れていた。 そんな彼と教授とのとある午後の話。

オメガ転生。

BL
残業三昧でヘトヘトになりながらの帰宅途中。乗り合わせたバスがまさかのトンネル内の火災事故に遭ってしまう。 そして………… 気がつけば、男児の姿に… 双子の妹は、まさかの悪役令嬢?それって一家破滅フラグだよね! 破滅回避の奮闘劇の幕開けだ!!

処理中です...