月は夜に抱かれて

凪瀬夜霧

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3章:雲外蒼天

6話:戦いの後

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▼ユリエル

 黒衣の背が見えなくなった。ユリエルは馬上から落ちそうなほどに、力が入らなかった。
 エトワールがルルエ王だとは知らなかった。知っていたなら、溺れたりはしなかった。ただ、もう遅い。こんなにも心が求め、すれ違った事に悲鳴を上げている。

「なぜ……」

 どうして、こんな酷い仕打ちをするのか。心が砕けてバラバラになってしまいそうだ。彼を前に、引き裂かれるような痛みが走った。あの温かな場所は、幸せはもうこの手にない。二度と手に入れる事はできないのだ。
 涙が出そうになった。けれどそれは、近づいてきた馬蹄によって引っ込んだ。

「ユリエル様」
「……グリフィス、状況は」

 近づいてきたグリフィスを前に、ユリエルは表情を引き締める。悲しみと苦しみを心の深くに沈めて、王の顔をした。取り繕うに必死だった。

「ルルエ側の砦に、白旗が上がりました。占拠が完了したのでしょう」
「……行きましょう」

 彼がいた砦。彼の気配が残る砦。それは悲しくもあり、嬉しくもある。少しでも触れられる事に僅かな喜びを感じている。こんな複雑な感情など知らない。それでも止まれずに、ユリエルは噛みしめるように踏み出した。
 砦の門の前には、レヴィンがいた。壁によりかかり、ユリエルを待っていた。その表情は苦痛と疲労に歪み、嫌な汗を流していた。

「レヴィン、どうしました!」
「やぁ、陛下……あっちには怖い暗殺者がいるよ」

 馬を降りて駆け寄ったユリエルに向かい、僅かに踏み出したレヴィンの膝が震えて落ちる。何とか踏みとどまろうとした、その瞬間に歪む表情と滴る血をユリエルは青ざめる思いで見た。

「レヴィン!」

 倒れそうなレヴィンの体を支え、ユリエルはゆっくりと彼を座らせる。押さえている脇腹からは未だ血が溢れていた。

「グリフィス、ロアールを連れてこい!」
「は!」

 グリフィスが愛馬を走らせる。その間に、ユリエルはレヴィンの体を担いで砦の中へと入っていった。

 砦の中は綺麗なものだった。入ってすぐの部屋にレヴィンを寝かせたユリエルは傷の周囲の衣服を剥ぐ。その心中は後悔と焦りで一杯だった。こんなにも彼に負担をかけてしまった事に不甲斐なさを感じて苦虫を嚙み潰している。
 レヴィンの傷は出血の割に浅かった。その出血も、止まる様子を見せている。傷ついたまま動き回ったせいで止まらなかったのだろう。ユリエルはすぐに綺麗な水で傷を洗い、真新しい布で傷を強く圧迫した。

「いっ、た……。陛下、もっと優しく」
「いくらなんでも装備が薄すぎます!」

 胸当てもつけず、布服の下にチェーンメールだけという軽装。頭も腕も守っていない。赤毛なんて目立つのに、一切構わず無防備なままだ。
 その時、部屋の外がにわかに騒がしくなる。そして、駆けつけてきたシリルが青い顔をして戸口に立っていた。
 目に見えて震えるシリルはその場から動けない様子だった。それを見るのは、ユリエルにとっても苦しいものだ。

「お、止血はしてそうだな。さすが陛下、手際が良くて助かる。どれ、診るから全員出て行きな」

 緊張感のない口調で言ったロアールが部屋の中に入り、問答無用で全員を追い出してしまう。出されたユリエルは未だ震えが止まらないシリルを前に掛ける言葉を探した。だが、上手く出てこない。

「……シリル、おいで」

 ユリエルの招きに、シリルは大人しくついてくる。その目はしっかりと据わっているように見える。これは、殴られるくらいでは済まないかもしれない。それでも、全てを受け入れるつもりだった。
 ユリエルは砦の二階にある落ち着いた一室を選んで入った。そして、シリルと向き合った。

「兄上」
「彼に命じたのは私です。私が憎いのなら、今のうちに好きなだけ殴るでも蹴るでもしなさい」

 シリルの手が、痛いくらいに握られるのが分かった。ただ、それだけだった。食いしばるような表情には悔しさが滲んで見える。そしてその目は、ユリエルを見据えた。

「兄上、お願いがあります」
「お願い?」

 思いがけない言葉に、ユリエルは問い返す。小さな体を震わせ、拳を握り、噛みしめる唇は跡がつきそうなくらいだ。そんな状態で、シリルは言葉を続けた。

「僕に、剣を教えてください。僕を守れるように」

 その言葉は、痛いくらい切なくて真剣だった。

「分かっています。レヴィンさんは兄上を守ろうとしたのでも、職務の為に無理をしたのでもない。レヴィンさんは、戦えない僕を守ろうとしてくれたんです。昨日の夜、守る理由が出来たって言っていました。僕が、レヴィンさんを殺してしまう所だったんです」

 シリルの瞳から、我慢できずに涙が落ちる。それでも強くなろうと踏み込んだシリルを、ユリエルは受け入れた。
 無力が悪いわけではない。シリルは今まで守られてきた。それが普通だった。そこから自らの意志で抜け出そうとするのは、勇気のいる行為だ。シリルにとって辛い日々になるだろうに。

「剣を握る事の意味を、理解していますか?」
「はい」
「……気持ちは、変らないのですね」
「守られたままでは、レヴィンさんの負担になります。あの人が死んでしまったら、僕は自分を呪います。分かったんです、本当に大切な人の傍にいる為には僕も強くならなければ」

 欲しい者を見つけた強さだろうか。新緑の瞳が真っ直ぐにユリエルを見ている。幼いとばかり思っていた少年は、いつしかこんなにも逞しく強い目をするようになっていた。

「ロアールに、話しをしておきます。ただ、彼の訓練は厳しいものですよ」
「はい、兄上」

 返ってくる返事はとても力強い。もう、子供ではないのだろ。弱くても良かったシリルは、自らその殻を破ろうとしている。戦う事の厳しさと残酷さをロアールは教えるだろう。だが、心配はしていない。今のシリルなら、乗り越えられると信じている。
 健気に、真剣に、幼かった弟は立ち上がった。ユリエルは手を伸ばし、その体を強く抱きしめる。縋ったのだ、不意に襲った苦しみを飲みこめなくて。情けないと自覚し、それでも苦しくてたまらなかった。

「兄上?」
「すみません、シリル……。すみません」

 戦う事がこんなにも苦しくて、こんなにも残酷な事だとは今の今まで知らなかった。人との出会いがこんなにも残酷だとは知らなかった。死ぬよりも辛い。心が潰れてしまいそうで、苦しくて息ができない。
 シリルは黙って、ユリエルに抱かれていた。受け止めてくれるような柔らかさと温かさで見ていてくれる。それが、有難かった。
 どうにか気持ちが落ち着いて、ユリエルは手を離す事が出来た。そして、不器用に笑う。

「レヴィンのお見舞いに、行ってあげなさい。意識はありましたから、少しだけなら話もできるでしょう。彼もきっと安心しますよ」
「はい、兄上」

 どこか心配そうな笑みを残して、シリルは駆けていく。その背を見送り、ユリエルは立ち上がった。そうして向かったのは、一番大きな扉の前。そこを開けると、どこか彼の気配があるように思えた。

「エトワール……」

 呼びかけても、それに応える声はなかった。


 その夜、タニス側はようやく落ち着いた。負傷兵の手当ても終わり、死んだ者の弔いも済ませた。
 既に深夜に近い時間。ユリエルは砦の中庭が見える場所に腰を下ろしていた。

「風邪引くぞ、ユリエル坊ちゃん」
「ロアール」

 投げ込まれるように上着が飛んでくる。それを受け取って、ユリエルは薄く笑った。ここで彼を待っていたのだ。

「兵達の様子は?」
「数人、峠を越えてくれた」
「レヴィンの容態は?」
「ありゃ簡単には死なないよ。多少熱があるが、明日には引いているだろう。今はシリル様が傍についてる。甲斐甲斐しいもんだよ」

 ユリエルの隣にどっかりと座るロアールは、ぼんやりと空を見ている。ユリエルも空を見ていた。憎らしいくらい綺麗な月を。

「あいつの事、知ってたのか?」
「本人に聞いてはいません。ですが、なんとなくは」
「ならいいか。分かってんなら何も言わない」

 ロアールが何を言いたいのか、ユリエルは分かっていた。ロアールも察したように、それ以上は言わない。その代り、ニッカと笑った。

「それにしても、シリル様は強くなったな。逃げないそうだ」
「大切な者を見つけたのですよ。ロアール、すみませんがあの子に剣を教えてあげてくれませんか?」
「俺、甘やかさないけれど?」
「当然です。命がかかっているのですから甘やかすなんてことしないでください」

 ユリエルの言葉は重い。それは、戦う事の非情さを知っているからだ。敵は剣を持たない人間に対しては寛容だ。下手な事をしなければ命まで奪われることはない。だが、剣を持った人間に対しては決して優しくはない。

 彼が、そんな非情な人間ではないと信じてはいるが。

 この期に及んでまだ彼を信じている。逢瀬を重ねた彼はそんな非情な人間ではない。慈悲深く、愛情深く、優しく包容力のある人だ。だから……。

「まぁ、俺のやり方についてくるってなら教えるさ。それが、シリル様がここにいる自分に課した条件ならな」
「大丈夫ですよ。あの子は強いから」

 溜息をつきつつ苦笑したロアールに、ユリエルも笑う。急速に強くなるシリルはきっと、持ち前の頑固さと芯の強さで乗り越えていく。そう、ユリエルは確信している。

「それにしても、まったく似てないと思っていたがやっぱ兄弟は似るもんだな」
「ん?」
「覚えてるかい? 貴方が俺に剣を教えてほしいと言った時の事を」
「覚えていますよ」
「今のシリル様は、あの時の貴方と同じ目をしている。ちょっと気力負けしそうな程、強くて強引な目だ。まるで歴戦の騎士のようでおっかないよ」

 その言葉に、ユリエルは苦笑した。
 覚えている。母が死に、城の中に味方はいなかった。強くならなければならなかった。そうでなければ城の中で死ぬのだと分かった。戦う力を、殺せる力を持たなかければ殺されるのは自分のほうだったのだ。

「平気か、ユリエル坊ちゃん」

 不意に声をかけられる。その声に、ユリエルは弾かれるように視線を向ける。ロアールは視線を合わせようとはしない。あえて、見ないようにしているのだろう。

「今の貴方は母親の墓前に立っていた時よりも酷い顔だ。何か、あったのか?」
「私の心配は無用です」
「……了解しました、陛下」

 ロアールという人物は人の深くを見る観察眼を持っている。ユリエルは追及を拒絶した。そしてロアールもそれを察して下がってくれた。

「では、これで失礼します。シリル殿下の事は明日から」
「頼みます」

 それだけを残して、ロアールは一礼して下がっていく。ユリエルもその背を見送って、席を立った。

 ユリエルは王の寝室へと戻った。ここは、エトワールの使っていた部屋。薄い服に着替え、体をベッドに埋める。僅かだが、香りが残っているように思えた。昨夜までここで彼は眠っていたのだろうか。

「っ!」

 こみ上げてくる嗚咽を抑えられなかった。涙が頬を伝った。声を大きく上げて泣くことはできなくて、枕に顔を埋めた。だがそれでも、僅かに漏れる声は心のままに痛かった。
 もう、彼との道は交わらないのだろうか。もう、寄り添う事はないのだろうか。幸せな時間は、場所は、戻ってこないのだろうか。あの人は、本当に遠い世界の人になってしまったのだろうか。
 僅かに残って、明日には消えてしまうかもしれない残り香だけがユリエルの傍にあった。

◆◇◆

▼ルーカス

 ルーカスはラインバール平原からさほど離れていない場所に野営を張っていた。一番大きなテントではルーカスとガレス、そしてキアがいる。体勢を整えればこのまま戦う事はできるだろう。だが、ルーカスはあえてそれをせずリゴット砦へと下がる事を提案した。

「頑張ればもう一戦できるよ、陛下!」
「頑張る必要はないと判断なさったのです。リゴット砦まで下がって態勢を整える事を考えれば、当然です」
「けど、追撃されないとも限らないだろ。それは痛手になるぞ」
「それはない」

 重いルーカスの言葉に、ガレスとキアは視線を向ける。ルーカスは先程から顔を伏せ、深く考え込んでいる。不審に思われたのかもしれない。

「陛下、何をお考えです?」

 キアの言葉に、ルーカスは苦笑して首を横に振った。言えるわけがない。敵国の王を、心より愛してしまった。全てを知った今もその想いに変わりがないなんて。

「タニスも痛手は同じだ。態勢を整えるのにそれなりに時間もかかるだろう。追撃の心配はしなくていい。一度しっかりと、こちらも立て直す」
「まぁ、陛下がそう言うなら」
「タニスは強いからね。僕が当たったタニスの密偵、あれは只者じゃないよ」

 戸口で声がして、ルーカスは弾かれたように視線を向けた。そこには包帯を巻いたヨハンが苦笑して立っていた。

「ヨハン、休んでいなくていいのか」
「もう十分。深い傷はなかったしね。ごめん、陛下。役立たずで」

 駆け寄ってヨハンの手を引いたルーカスは柔らかなラグの上に座らせる。それに、ヨハンは申し訳なさそうに笑った。

「お前、ボロボロにやられてたけどさ。そんなに強いのがいたの?」
「グリフィス将軍に見逃してもらったガレスに言われたくない。……強かったよ、怖いくらい。多分、僕も見逃されたんだと思うけれど」
「ガレス、グリフィス将軍はどうだった?」

 ルーカスの問いに、ガレスは腕を組んで考える。そして、ポンと自分の膝を叩いた。

「無理! あれは化物だよ。戦場で手ほどき受けてる感じだった。実力違いすぎる」
「タニス王とも斬り合ったのですよね? 王はどうですか?」

 キアが話を向けるのを、ルーカスは心臓が痛い思いで聞いた。たった一撃だったが、ぶつかったあの衝撃はまだ手に残っている。

「あの人、別の意味で怖いよ。なんていうかな……気迫とか覚悟とか、そういうのが怖い。自分の事なんて庇わない感じだし、剣も鋭いし」

 ルーカスは黙り込んだ。逢瀬を重ねた相手が、想いを繋いだ相手が、まさか敵国の王だなんて。裏切られた気持ちがないわけではない。だがそれ以上に、これまでの関係が作り物だったのかと苦しくなる。

「陛下?」
「あ……」

 深く考え込んでしまって、呼ばれている事に気付かなかったルーカスを幼馴染たちが心配そうに見ている。それに、ルーカスはぎこちなく笑った。

「疲れているのですよ、陛下。今日の所はこれでお暇します」
「……すまない」

 キアに促されるように他の二人も席を外してくれる。それを見送り、ルーカスは簡易の寝台に横になり頭から毛布をかぶった。
 頭の中は常に「彼が何故……」という想いで一杯だった。
 おそらく、あちらも知らなかったんだ。出会いは偶然だったはずだ。ただ偶然に知り合って、情を交わし、溺れてしまった。
 本気だったんだ、深く刻む程に。戦いを乗り切る目的にするくらい。だからこそ、こんなに苦しい。

「彼も」

 苦しんでいるだろうか。同じ気持ちで、いてくれているだろうか。今頃、想って涙を流してくれているだろうか?
 そうだとしたら幸せだ。たとえ叶えられない想いでも、心まで離れていないと思える。
 こんなにも絶望的なのに、それでも想いを捨てられない。思えば胸が温かく、熱く、苦しく思う。続けていくことはできない。だが、一目だけでも会いたい。
 外に目を向ける。そこには綺麗な月が浮かんでいた。出会ったあの日と同じ、綺麗な月が。
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