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13章:瓦礫の囚人
7話:出会いと想い(クラウル)
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リリアン・アドコックとその従者の刺傷事件は、発生十分後に騎士団員によって発見された。ゼロス捜索の為、事件現場からそれほど離れていない場所で夜警をしていた者が悲鳴を聞きつけたのだ。
騎士団の処置室へと走り込んだクラウルは、丁度出てきたエリオットを捉まえる事ができた。
「被疑者の一人が刺されたと聞いた」
「えぇ」
「容態は」
「重傷、ですね。二人とも一命は取り留めましたが、意識がいつ戻るかはわかりません。それを含めて報告会を行いますから、来て下さい」
焦る気持ちを押し堪えて、クラウルはエリオットに続いて小会議室へと入っていった。
小会議室にはランバートやファウストが揃っていたが、シウスは何故かいなかった。だがそれは織り込み済みなのだろう。構わずエリオットからの報告が始まった。
「リリアンの傷は腕の裂傷と、胸への刺し傷で重傷。命は取り留めました」
「胸を刺されてか?」
ファウストは驚いた顔をするが、エリオットは苦笑して頷いた。
「彼女は胸が豊かだったので、ナイフが臓器にまでは達していませんでした。刺した方も狙ったわけではなく、とにかく刺したという荒っぽい感じでしたから」
「そうか」
男だったら危なかったのかもしれない。
「ただ、傷は残るでしょう。刺したのは五センチほどの果物ナイフだろうと思いますが、刃ががたついているのか傷が歪でした。女性としてはとても辛い傷になるでしょうね」
エリオットは視線を僅かに伏せる。それでも出来うる限り綺麗に縫合はしたのだろう。相手が例え被疑者でも、後のことをちゃんと考えている優しい奴だ。
「彼女よりも従者の方が危険でした。傷は背中から一カ所。体当たりするように刺したのか、傷の周囲に痣まで出来ていました。刃の先端は肺に達して、しかも先端が折れて体に残っていました」
「重傷だな」
「一命は取り留めましたが、暫くは動く事もままならないだろうと思います。二人とも、意識が戻るのがいつかは分かりませんし、まともな尋問も暫くは許可できません」
そうなると、ゼロスの居場所を聞き出す事なんて無理だ。この事件の犯人がベアトリスと仮定すると、ゼロスは無事なのだろうか。今すぐ探し出したいのに、居場所が分からないのはもどかしい。
「モニカ・ウィンストンを尋問するしかありませんね」
ランバートの言葉にクラウルは頷く。だが、既に深夜だ。例え緊急事態でもこんな時間に貴族の邸宅を叩けば門前払い。余程強い令状を取り付ければ別だが、早くて明日の朝になってしまう。
だが一つ安心材料もある。おそらくベアトリスは今の今までゼロスの居場所を知らなかったのだろう。想定していた場所にいなかったからリリアンを襲ったに違いない。そうでなければ襲う理由がない。
それでも急がなければ。リリアンを襲って、ベアトリスが居場所を知ったかもしれない。自らの命が脅かされているのに喋らないなんて、そこまでの意志は彼女にはなかっただろう。
現場に落ちていたバスケットには水とパンが入っていた。そしてリリアンは隠しポケットに二つの鍵がついた鍵束を持っていた。
推測だが、あの水とパンはゼロスへ持っていこうとしていたんじゃないか? そうでなければ誰に渡すつもりだったという。そしてこの鍵は、監禁場所の鍵じゃないのか?
何にしてもモニカしか居場所を知っている可能性のある人物がいない。人海戦術で探してはいるが、限界がある。
「ベアトリスがゼロスの居場所を見つけていたら、明日では遅すぎます。この鍵がどこのものか、なんとしてでも突き止めないと」
「だが」
どうやって突き止める。家の名前も、番地も書いていないありふれた形の鍵だ。この鍵のでもとを探るのだって時間がかかりすぎる。
焦りが胸に焦げ付きそうな程に募っていく。その時、バンッ! と派手な音と共にシウスが肩を上下に喘がせながら入ってきた。
「シウス、どうし……」
「クラウル、行け!」
ドンと胸に拳を押し当てるようにするシウスの手には、一枚の封筒がある。それを恐る恐る受け取ったクラウルは、中を確かめて目を丸くした。
「お前、これ……」
「特別捜索令状じゃ。しかも、陛下の印じゃ。この時間にオスカルを使って陛下を起こして事情を説明など、クビ覚悟じゃ」
「当たり前だ!」
既に休んでいる王をたたき起こして事件の詳細を説明し、更に直筆の捜索令状書かせるなんて普通はその場で首切られる。
こんな無茶をしてくれたシウスに、なんて感謝すればいいか。シウスはニッと笑った。
「陛下からの伝言じゃ。『愛しい者一人守れない奴は、幼馴染み失格だからね』だそうじゃ。リリアンの事件が今起こった事もあっての令状じゃ、しっかり仕事してこい」
「感謝する!」
「ランバート、数人連れてクラウルについていけ。馬車も用意して、連行準備しておけ」
「分かりました。クラウル様、五分ほど時間をください。必要そうな人は集めてあるので、通達だけしたら俺は動けますから」
「分かった。ランバート、ファウスト、すまない」
素直に礼を言えば、ファウストは「気持ち悪い」と苦笑し、ランバートは素直に笑って一礼して出て行く。
そうしてきっちり五分後、クラウルはランバートを伴ってモニカの屋敷へと向かっていった。
案の定、深夜の来訪者は思いきり嫌な顔をされた。屋敷の執事はクラウルの事を礼儀知らずという顔で見たし、主人は令状を見せて渋々と言った様子でクラウルとランバートを室内に入れた。
そうしてモニカ本人と、彼女の従者が揃って応接室に来たのは三十分後の事だった。
「騎士団って、本当に礼儀知らずですわね。こんな夜中に呼び出すなんて、何事ですの?」
「リリアン・アドコックが何者かによって刺されました。腕や胸を刺され、重傷です」
とりあえず格好を整えてきたモニカにクラウルが伝えると、彼女の眠気は一気に覚めたのだろう。瞳が大きく見開かれ、顔が引きつるのが分かった。
「どうして、リリアンが」
「夜間、従者と二人で何処かへ向かう途中で何者かに襲われたようです」
「答えになっていませんわ! 誰がリリアンを襲ったというの!」
「……お分かりでは、ありませんか?」
言葉は丁寧に、だが鋭い視線で問いかけるクラウルに、モニカはグッと言葉を飲んだ。可愛らしい人形の様な顔に、今は苛立ちや焦りが見えている。随分いい顔だ。
「分かりませんわね」
「そうですか? 何となく分かっているからこそ、焦っているのでは? 次は自分が襲われる番かもしれないと」
「そんな事はありませんわよ」
強気に言うモニカだが、苛立ちは募っている。下手を打たない賢さはあっても動揺まで隠せるような女狐ではないということだろう。
クラウルは頷いて、懐から一枚の紙を取り出した。
「モニカさん、これはとある事件に関わったとみられる貸し馬車の履歴です」
モニカの前に出したのは代行屋がゼロスを攫った時に使ったとみられる馬車の貸し出し履歴だった。そこには利用したい日付と時間帯、予約者の名前と捺印がある。
これを見たモニカは意外と動揺はしなかった。
「貴方はこの馬車を、この日、この時間に利用しましたか?」
「いいえ。これは知り合いが馬車を使いたいけれど自分で借りたら旦那にバレるといわれ、私の名前で予約したものよ」
「ほぉ。ちなみに、貸した相手は?」
「ジャクリーン・アビントン」
なるほど、そうきたか。
つまり、知り合いのジャクリーンに頼まれてモニカが馬車を借りてあげた。その後その馬車をジャクリーンがどのように使ったかは知らない。そういう事だろう。
だが、言い逃れなんてさせない。彼女がゼロスに繋がる今唯一話せる相手なのだ。これを逃したらゼロスはベアトリスの手にかかってしまうかもしれない。
クラウルの目が険しくなっていく。
「では、ジャクリーンがこの馬車を利用し、事件を起こしたと?」
「そもそも、その事件を知りませんわ」
「では、こちらはどうでしょうか」
クラウルはもう一枚の紙をモニカとその従者の前に出した。そしてこれには、モニカも僅かに奥歯を噛んだ。
「これは、その事件の実行者でもある代行屋が持っていた、荷の受け取り完了の証明です。日付と、送迎者ゼロスを引き渡した旨が書かれ、そこに貴方の従者のサインがある。貴方は知らなくても、貴方の従者は確かに荷を受け取っている」
「私は関わりない事よ」
言い切ったモニカを見る従者の顔が引きつっている。明らかに何かを言いたげな顔だ。
「あくまでも、知らないと」
「えぇ」
「分かりました。では、貴方の従者はこちらで重要参考人として出頭していただきます」
「構わないわ」
「……それと、彼が事件で使ったと思われる馬車の内部も一応確認させていただきます」
「えぇ」
ランバートに目で合図をすると、ランバートは立ち上がり従者の男の手を引く。従者は慌ててモニカを呼んだが、モニカ本人はまったく応える気がないと目も合わそうとはしなかった。
「では、簡単な確認をさせて頂きます」
「まだですの?」
「えぇ。なにせ騎士団の者が姿を消し、それに関わっているとみられるリリアン嬢が襲われている。そこに多少なりとも貴方も関わっているのですから」
ふて腐れた子供のようなモニカに伝えると、クラウルは一つずつ事件当時のアリバイを確認していった。
「一昨日の夕方から夜にかけて、貴方はどこにいましたか?」
「家にいたわよ」
「誰か、それを証明出来る人は?」
「執事にでも聞いてみてくださる?」
「分かりました」
丁度戻ってきたランバートが隣りに座る。そして執事にアリバイ確認をと伝えると、無言で再び出て行った。
「ちなみに、従者の様子がおかしいなど気付いた点はありませんか?」
「特には」
「ゼロスとの関係は?」
「さぁ?」
「特別恨みに思う事もなく、犯罪に加担したとは考えられませんが」
「ジャクリーンにでも唆されたんじゃなくて? あの人、男に飢えていたし」
「……ゼロスに恨みを持っていたのは、貴方ではないのですか?」
ジロリと睨み付ける暗い瞳は、人形の様な彼女からは想像できない陰険な表情を作り出す。己を繕う事ができなかったのだろうか。
「貴方とゼロスとの間に、交際を巡るトラブルがあったことは聞いています。それで、恨みに思ったのでは?」
「恨み? そんなものありませんわよ。確かにゼロスとは昔交際していましたが、別れてもう何年も経ちました。今更ですわ」
「その割に、嫌な顔をしますね」
「思い出したくない事でしたので」
ツンと突っぱねるような態度を取るモニカを前に苛立ちは募る。が、ここで押してもおそらく状況は変わらない。いずれ彼女は引っ張れるだろう。今頃従者や執事から話を聞いている。特にあの従者は怯え、戸惑っていた。そのうち全部話す。
その時、席を外していたランバートが深刻そうな顔で戻って来た。
「クラウル様、話が聞けました」
「どうだった?」
「当日、モニカ嬢はこの屋敷にはいませんでした。従者の男と二人で夜間に外出し、そのまま翌日の朝まで戻らなかったそうです。時間的に、ゼロスの引渡がされた時間に彼女は従者の男と一緒にいたことになります」
「な!」
モニカは思わず腰を上げてランバートを睨む。そんなはずはないと言わんばかりの様子に、ランバートの冷静で冷たい青い瞳が射貫くように彼女を見た。
「執事が主人の前で、主人に問われて答えた事です。貴方のお父様も、度重なる娘の不良行動に頭を悩ませていたようですが、これで踏ん切りがついた、と。自らの行いの責任は自らが取るべきだと仰っていましたよ」
「嘘よ!」
「それと、従者の男からも話が聞けました。その日、確かにモニカ嬢を連れて西四〇三通りで男を馬車に乗せ、西五〇七番地の元飲食店へと、リリアン嬢の従者と二人で地下に運んで用意された足枷を嵌めて放置したと」
西五〇七は最初の受け渡しがされた四〇三通りから馬車で十五分程度奥へと入る、より奥まった場所だ。流石にそこまで捜索の範囲を広げてはいなかった。旧市街と呼ばれるくらい空き家の多い区画で、確かめられていない場所。このまま捜索していたらそこまで手が回るには数日かかっただろう。
モニカは可愛らしい仮面を完全に剥がされ、目は鋭くクラウルとランバートを睨み、口元はギリギリと食い締めている。
その前で、ランバートはハンカチに包んだ物をモニカに見せた。それを見たクラウルは、心臓をグッと掴まれた様な苦しさに息が出来なかった。
「従者の言っている事は事実でしょう。貴方の馬車にゼロスは乗っていた。そしてそこに、貴方もいた。このカフスには僅かに血がついている。同じく血の付いた毛布が、焼却用のバケツの中に残っていました。そして、貴方が履いていた靴の裏にも血痕が付着していました」
「それがゼロスの物だって誰が証明できますの! そのカフスは私の!」
「いい加減にしろ!!」
頭に血が上り、怒りが腹の底からわき上がってくる。ドクドクと血が加速していくのを感じ、クラウルは自らの左の耳の髪をかき上げた。
瞬間、モニカの目が丸く大きく見開かれた。
「これはこの世にただ一つ、俺があいつに贈ったものだ。唯一無二の、ゼロスの物だ!」
ジェームダルへと赴くあいつとの繋がりが欲しくて贈ったカフス。所有の印のようなそれを、ゼロスも大切にしてくれていた。
「ランバート、そいつを引っ張る。俺はこのまま西五〇七の飲食店跡へと向かう。こっちを頼む」
ハンカチに包まれたカフスをハンカチごと手に取る。キラキラと光るフレームの端に、僅かに血痕と思われる物がついていて、固まっている。怪我をしている。早く、助けにいかなければ。
「一人での行動は駄目です、クラウル様。何かあった時に人手がいるかもしれません」
「……分かった」
真剣な目をしているランバートはとても心配そうだった。見れば目の下に隈まで作って。
コイツもゼロスを案じてくれている。同時に、クラウルの事も。
応接室を出ると数人の隊員が動いていた。モニカの部屋を調べている奴や、馬車を調べている奴、容疑者を連行している奴だ。
「コンラッド」
「クラウル様、ゼロスの居場所が」
「分かっている。すまないがここを頼む。俺はこのままゼロスを迎えに行く。ランバート、レイバン、チェスターを借りる。それとすぐに宿舎に人を出してエリオットに例の住所に来るように言ってくれ。怪我をしている可能性が高い」
「分かりました」
すぐに動いてくれるコンラッドのおかげで、レイバンとチェスター、動きの速い奴等が揃った。そして四人連れだって、ゼロスの監禁場所へと向かう。
もう少し、あと少しの辛抱だ。どうか、無事でいてくれ。
カフスに一瞬触れたクラウルは、より速度を上げていくのだった。
▼ゼロス
体が熱い。足が痛んで、引きずっても先に進めない。頭が痛くて、僅かに気持ち悪いけれど吐き出す物は胃液しかない。
それでも進もうと、石の床に爪を立てる。ギギギギギッと床を滑る爪はボロボロになって、指先は血まみれになっている。いくつかの爪はもう剥げていた。
「……っ」
踏ん張る足にも力が思うように入らず、意識が遠くなったり、逆に近づいたりしている。心臓を打つそのタイミングで頭痛がしている。
喉が渇いて、意識が不意に遠のいて、ゼロスはズルズルと床に這いずった。そうしてぼんやりと思い出すのは、大事な人と過ごした事ばかりだった。
◇◆◇
『その目を忘れるな。そうすれば、お前は決して負けはしない』
真っ白なハンカチと共に掛けられた言葉を、忘れた事はない。伸べられた手を、忘れた事はない。
騎士団の入団試験の日、ゼロスは珍しく苛立っていた。目の前で一つの試合が終わった。小柄で非力な少年が、それよりもずっと大きい相手に必死に戦いを挑んで、負けたのだ。
ゼロスはその小柄な少年を称えていた。非力なりに頑張って挑んでいた。その気構えを称えたかった。
だが隣りにいる、次にゼロスと戦う相手はその少年を鼻で笑ったのだ。非力である事を馬鹿にし、身の程知らずだと言ったのだ。
あの子にも、騎士団に入りたい理由があるのだろう。そういう必死さだ。
ゼロスもまた兄達と不仲になり、仕事先でも問題が起こって居場所がなくてここにきた。
そういう諸々の事情全てを「分不相応」という言葉でバカにされた。そんな気がしたのだ。
だから、ムキになって向かっていって怪我をした。だが恐怖よりも負けたくないという気持ちが勝って、相手を打ち負かした。
クラウルはあの時、そうしたゼロスの気持ちも全部包むように、今後の気構えを示してくれたように思えた。
それからはずっと、二年も見続けた。最初は借りたハンカチを返そうと思っていた。でも相手は団長で、とても近づけない。手を触れる事などできない高みにいる人だった。
ふと廊下ですれ違う事はある。食堂で見る事はある。暗府執務室の前でばったり出会う事もあった。
だがどれも、声をかけるタイミングじゃない。何よりクラウルはゼロスの事を気に留めていなかった。
そのうち、思うようになった。所作が綺麗なこと。無駄がないこと。仲間と一緒にいる時は穏やかな表情をする事。厳しい顔をするけれど、時々とても優しい目をすること。
気付いたら目を離せなくなり、側に近づきたいと思うようになっていった。
だから二年目の新年、酔い潰れたクラウルに近づいて、忘れられないようにと必死にくいついたんだ。
「クラウル……さま……」
渇いた小さな声が彼の名を呼ぶ。呼ばずにはいられなかった。不安な気持ちに押し潰されてしまいそうでたまらない。意識が戻り、また遠のく。次に見たあの人は、秘密の屋敷で一緒に日記を探していた。
一緒に、彼の父親の日記を探していた。沢山の本の中にまみれるようにして見たクラウルは、真剣な顔をしていた。
そして、不意にあの人の過去に触れられた気がして嬉しかった。幼い時のクラウルの様子を日記という形で垣間見るのは、悪い事と思いながらも楽しい時間だった。
手料理も美味しかった。料理が出来るなんて思ってもみなかったから、驚いたのを覚えている。
そういえば、マッサージもしてくれたか。気持ちよくてたまらなかった。
無条件の信頼を感じた時だった。そして同じ目的を持って一緒に過ごした大事な時間だった。距離が縮まった、決定的な時だった。
「クラウル……さま……」
会いたい、今すぐに。こんな夢なのか記憶なのか、現かも曖昧なものじゃなくて、触れたい。声を、聞きたい……
初めて触れたのは、日記の件から程なくしてだった。食事をして、その後あの人の隠れ家に行ったんだ。
初めての男同士のセックスに、驚きや戸惑いはあった。それでも情けをかけられるのは癪だったのに、あの人は最後まではしなかった。
正直、少し怖かった。最後までしないのに気持ちよくて頭の中が真っ白だった。自分の弱い所なんて知らなかったから、恥ずかしかった。
それに、誰かに主導権を握られてのセックスは初めてだったんだ。
体を重ねる度に、溺れそうな程に気持ちよくなった。開発されて、乳首や腹を撫でられるだけでも痺れるような気持ちよさに疼く様になってしまった。
そして中も、あの人がしっかり開発した。おかげで今では尻だけで何度も高みに達するようになって、最後には訳が分からなくなってしまう。
一緒に、任務もこなした。恋人とは違う背中、戦う姿。それはやはり憧れだ。なんて強いのだろう。なんて、しなやかなのだろう。バロッサの時も、西の時も思った。あの背中を、追い続けていたい。いつまでも見つめていたい。あの背を守りたいなんて大きな事は言えないけれど、せめて置いて行かれないようにしたい。
そんな人が不意に可愛くなる事がある。本気で面倒だが、嫁自慢をするのだ。
恥ずかしいと思っていたし、最初はお仕置きみたいな感じであの人を抱いた事もある。それもよかったが、しっくりくるのはやはりゼロスが受けの時なんだろう。少し悔しい。
今では説教するとき、言わなくても床に正座するようになった。あんな姿、他の人には絶対に見せられない。
『遠く離れても、お前は俺のもので、俺はお前のものだ。そういう繋がりが欲しくなったんだ。らしくないだろ?』
ジェームダルへと向かう前、少し恥ずかしそうにはにかみながらつけてくれたカフス。あれに、何度も助けられた。挫けそうな時、負けそうな時、踏ん張らなければならない時。励ますように存在を示してくれたのはあのカフスだった。
恥ずかしかった所有の証は、離れていても心はここにあるという証でもあった。クラウルの恋人として、一人の騎士として、恥ずかしくない生き方をしたい。
そう思っていたのに、今はそれすらもなくなってしまった。
「く……ぅ……さ、ま……」
寂しい。貴方に見放されてしまったみたいだ。もう、必要ないのだと言われてしまっているみたいだ。
声が出ない。喉がくっついて、思うように音にならない。
このまま、死ぬのだろうか。今見ているこれは、走馬灯というやつなんだろうか。足が痛い。ジンジンと痛んで、ドクドクいっていて、そこが痛むと頭も痛む。体が熱い。
約束を、果たせないまま死ぬのか? 家族に会いたいと、言っていたのに。たったこれだけの事を嬉しそうにしていたのに。
『名を、呼んでくれないか?』
小さな事だった。ただ、ゼロスが逃げていた。いつか来るかもしれない別れを考えて、距離を置こうとした結果だった。
そのせいで悲しませてしまった。たったこれだけの願いを叶えてあげられないまま、クラウルを失うかもしれなかった。
あんなに、他人を憎んだ事はなかった。あんなに誰かを呪った事はなかった。あんなに……愛していたんだと自覚した瞬間はなかった。
『敬語もやめてくれ』
「あ……ぁ……クラ、ウル……」
アンタの声が聞きたい。触れて欲しい。どうして今、こんなに不安なのだろう。泣きたくても涙もでない。体が軋んで動かない。
こんなに短い間に沢山の思い出を見せられたら、会いたいじゃないか。愛していると、何度でも言いたいじゃないか。
不思議だ。もっと子供の頃の事とか、友人との事とかを見るのだと思っていたのに、全部がクラウルだ。心の中も全部があの人だと言わんばかりに、それだけなんだ。
深く、眠気が襲ってくる。今眠ったら起きられるだろうか。不安がこみ上げてくる。
次に起きたら、あの人の願いをちゃんと叶えたい。両親に会わせて、クラウルの母親にも会って……ご挨拶をしたい。
そうしたらきっと、プロポーズとか考えているのだろうか。それはそれで恥ずかしいが、きっと嬉しい。あの人の家族になる自分を想像出来ないけれど、きっと今とあまり変わらないんじゃないだろうか。
起きなきゃいけない。いや、眠ったらいけない。頭の芯が重くて、今も目が開いているのか分からないけれど、この思考を止めたらいけない。
本当はもうとっくに目は閉じていた。右の足首は青紫に腫れて、足枷の輪に締めつけられて熱を持っていた。発熱も合わさって進んだ脱水は、汗もかけずに意識を混濁させている。
そのゼロスの耳に、遠く遠くミシミシと、木製のドアを破壊する音が微かに聞こえていた。
騎士団の処置室へと走り込んだクラウルは、丁度出てきたエリオットを捉まえる事ができた。
「被疑者の一人が刺されたと聞いた」
「えぇ」
「容態は」
「重傷、ですね。二人とも一命は取り留めましたが、意識がいつ戻るかはわかりません。それを含めて報告会を行いますから、来て下さい」
焦る気持ちを押し堪えて、クラウルはエリオットに続いて小会議室へと入っていった。
小会議室にはランバートやファウストが揃っていたが、シウスは何故かいなかった。だがそれは織り込み済みなのだろう。構わずエリオットからの報告が始まった。
「リリアンの傷は腕の裂傷と、胸への刺し傷で重傷。命は取り留めました」
「胸を刺されてか?」
ファウストは驚いた顔をするが、エリオットは苦笑して頷いた。
「彼女は胸が豊かだったので、ナイフが臓器にまでは達していませんでした。刺した方も狙ったわけではなく、とにかく刺したという荒っぽい感じでしたから」
「そうか」
男だったら危なかったのかもしれない。
「ただ、傷は残るでしょう。刺したのは五センチほどの果物ナイフだろうと思いますが、刃ががたついているのか傷が歪でした。女性としてはとても辛い傷になるでしょうね」
エリオットは視線を僅かに伏せる。それでも出来うる限り綺麗に縫合はしたのだろう。相手が例え被疑者でも、後のことをちゃんと考えている優しい奴だ。
「彼女よりも従者の方が危険でした。傷は背中から一カ所。体当たりするように刺したのか、傷の周囲に痣まで出来ていました。刃の先端は肺に達して、しかも先端が折れて体に残っていました」
「重傷だな」
「一命は取り留めましたが、暫くは動く事もままならないだろうと思います。二人とも、意識が戻るのがいつかは分かりませんし、まともな尋問も暫くは許可できません」
そうなると、ゼロスの居場所を聞き出す事なんて無理だ。この事件の犯人がベアトリスと仮定すると、ゼロスは無事なのだろうか。今すぐ探し出したいのに、居場所が分からないのはもどかしい。
「モニカ・ウィンストンを尋問するしかありませんね」
ランバートの言葉にクラウルは頷く。だが、既に深夜だ。例え緊急事態でもこんな時間に貴族の邸宅を叩けば門前払い。余程強い令状を取り付ければ別だが、早くて明日の朝になってしまう。
だが一つ安心材料もある。おそらくベアトリスは今の今までゼロスの居場所を知らなかったのだろう。想定していた場所にいなかったからリリアンを襲ったに違いない。そうでなければ襲う理由がない。
それでも急がなければ。リリアンを襲って、ベアトリスが居場所を知ったかもしれない。自らの命が脅かされているのに喋らないなんて、そこまでの意志は彼女にはなかっただろう。
現場に落ちていたバスケットには水とパンが入っていた。そしてリリアンは隠しポケットに二つの鍵がついた鍵束を持っていた。
推測だが、あの水とパンはゼロスへ持っていこうとしていたんじゃないか? そうでなければ誰に渡すつもりだったという。そしてこの鍵は、監禁場所の鍵じゃないのか?
何にしてもモニカしか居場所を知っている可能性のある人物がいない。人海戦術で探してはいるが、限界がある。
「ベアトリスがゼロスの居場所を見つけていたら、明日では遅すぎます。この鍵がどこのものか、なんとしてでも突き止めないと」
「だが」
どうやって突き止める。家の名前も、番地も書いていないありふれた形の鍵だ。この鍵のでもとを探るのだって時間がかかりすぎる。
焦りが胸に焦げ付きそうな程に募っていく。その時、バンッ! と派手な音と共にシウスが肩を上下に喘がせながら入ってきた。
「シウス、どうし……」
「クラウル、行け!」
ドンと胸に拳を押し当てるようにするシウスの手には、一枚の封筒がある。それを恐る恐る受け取ったクラウルは、中を確かめて目を丸くした。
「お前、これ……」
「特別捜索令状じゃ。しかも、陛下の印じゃ。この時間にオスカルを使って陛下を起こして事情を説明など、クビ覚悟じゃ」
「当たり前だ!」
既に休んでいる王をたたき起こして事件の詳細を説明し、更に直筆の捜索令状書かせるなんて普通はその場で首切られる。
こんな無茶をしてくれたシウスに、なんて感謝すればいいか。シウスはニッと笑った。
「陛下からの伝言じゃ。『愛しい者一人守れない奴は、幼馴染み失格だからね』だそうじゃ。リリアンの事件が今起こった事もあっての令状じゃ、しっかり仕事してこい」
「感謝する!」
「ランバート、数人連れてクラウルについていけ。馬車も用意して、連行準備しておけ」
「分かりました。クラウル様、五分ほど時間をください。必要そうな人は集めてあるので、通達だけしたら俺は動けますから」
「分かった。ランバート、ファウスト、すまない」
素直に礼を言えば、ファウストは「気持ち悪い」と苦笑し、ランバートは素直に笑って一礼して出て行く。
そうしてきっちり五分後、クラウルはランバートを伴ってモニカの屋敷へと向かっていった。
案の定、深夜の来訪者は思いきり嫌な顔をされた。屋敷の執事はクラウルの事を礼儀知らずという顔で見たし、主人は令状を見せて渋々と言った様子でクラウルとランバートを室内に入れた。
そうしてモニカ本人と、彼女の従者が揃って応接室に来たのは三十分後の事だった。
「騎士団って、本当に礼儀知らずですわね。こんな夜中に呼び出すなんて、何事ですの?」
「リリアン・アドコックが何者かによって刺されました。腕や胸を刺され、重傷です」
とりあえず格好を整えてきたモニカにクラウルが伝えると、彼女の眠気は一気に覚めたのだろう。瞳が大きく見開かれ、顔が引きつるのが分かった。
「どうして、リリアンが」
「夜間、従者と二人で何処かへ向かう途中で何者かに襲われたようです」
「答えになっていませんわ! 誰がリリアンを襲ったというの!」
「……お分かりでは、ありませんか?」
言葉は丁寧に、だが鋭い視線で問いかけるクラウルに、モニカはグッと言葉を飲んだ。可愛らしい人形の様な顔に、今は苛立ちや焦りが見えている。随分いい顔だ。
「分かりませんわね」
「そうですか? 何となく分かっているからこそ、焦っているのでは? 次は自分が襲われる番かもしれないと」
「そんな事はありませんわよ」
強気に言うモニカだが、苛立ちは募っている。下手を打たない賢さはあっても動揺まで隠せるような女狐ではないということだろう。
クラウルは頷いて、懐から一枚の紙を取り出した。
「モニカさん、これはとある事件に関わったとみられる貸し馬車の履歴です」
モニカの前に出したのは代行屋がゼロスを攫った時に使ったとみられる馬車の貸し出し履歴だった。そこには利用したい日付と時間帯、予約者の名前と捺印がある。
これを見たモニカは意外と動揺はしなかった。
「貴方はこの馬車を、この日、この時間に利用しましたか?」
「いいえ。これは知り合いが馬車を使いたいけれど自分で借りたら旦那にバレるといわれ、私の名前で予約したものよ」
「ほぉ。ちなみに、貸した相手は?」
「ジャクリーン・アビントン」
なるほど、そうきたか。
つまり、知り合いのジャクリーンに頼まれてモニカが馬車を借りてあげた。その後その馬車をジャクリーンがどのように使ったかは知らない。そういう事だろう。
だが、言い逃れなんてさせない。彼女がゼロスに繋がる今唯一話せる相手なのだ。これを逃したらゼロスはベアトリスの手にかかってしまうかもしれない。
クラウルの目が険しくなっていく。
「では、ジャクリーンがこの馬車を利用し、事件を起こしたと?」
「そもそも、その事件を知りませんわ」
「では、こちらはどうでしょうか」
クラウルはもう一枚の紙をモニカとその従者の前に出した。そしてこれには、モニカも僅かに奥歯を噛んだ。
「これは、その事件の実行者でもある代行屋が持っていた、荷の受け取り完了の証明です。日付と、送迎者ゼロスを引き渡した旨が書かれ、そこに貴方の従者のサインがある。貴方は知らなくても、貴方の従者は確かに荷を受け取っている」
「私は関わりない事よ」
言い切ったモニカを見る従者の顔が引きつっている。明らかに何かを言いたげな顔だ。
「あくまでも、知らないと」
「えぇ」
「分かりました。では、貴方の従者はこちらで重要参考人として出頭していただきます」
「構わないわ」
「……それと、彼が事件で使ったと思われる馬車の内部も一応確認させていただきます」
「えぇ」
ランバートに目で合図をすると、ランバートは立ち上がり従者の男の手を引く。従者は慌ててモニカを呼んだが、モニカ本人はまったく応える気がないと目も合わそうとはしなかった。
「では、簡単な確認をさせて頂きます」
「まだですの?」
「えぇ。なにせ騎士団の者が姿を消し、それに関わっているとみられるリリアン嬢が襲われている。そこに多少なりとも貴方も関わっているのですから」
ふて腐れた子供のようなモニカに伝えると、クラウルは一つずつ事件当時のアリバイを確認していった。
「一昨日の夕方から夜にかけて、貴方はどこにいましたか?」
「家にいたわよ」
「誰か、それを証明出来る人は?」
「執事にでも聞いてみてくださる?」
「分かりました」
丁度戻ってきたランバートが隣りに座る。そして執事にアリバイ確認をと伝えると、無言で再び出て行った。
「ちなみに、従者の様子がおかしいなど気付いた点はありませんか?」
「特には」
「ゼロスとの関係は?」
「さぁ?」
「特別恨みに思う事もなく、犯罪に加担したとは考えられませんが」
「ジャクリーンにでも唆されたんじゃなくて? あの人、男に飢えていたし」
「……ゼロスに恨みを持っていたのは、貴方ではないのですか?」
ジロリと睨み付ける暗い瞳は、人形の様な彼女からは想像できない陰険な表情を作り出す。己を繕う事ができなかったのだろうか。
「貴方とゼロスとの間に、交際を巡るトラブルがあったことは聞いています。それで、恨みに思ったのでは?」
「恨み? そんなものありませんわよ。確かにゼロスとは昔交際していましたが、別れてもう何年も経ちました。今更ですわ」
「その割に、嫌な顔をしますね」
「思い出したくない事でしたので」
ツンと突っぱねるような態度を取るモニカを前に苛立ちは募る。が、ここで押してもおそらく状況は変わらない。いずれ彼女は引っ張れるだろう。今頃従者や執事から話を聞いている。特にあの従者は怯え、戸惑っていた。そのうち全部話す。
その時、席を外していたランバートが深刻そうな顔で戻って来た。
「クラウル様、話が聞けました」
「どうだった?」
「当日、モニカ嬢はこの屋敷にはいませんでした。従者の男と二人で夜間に外出し、そのまま翌日の朝まで戻らなかったそうです。時間的に、ゼロスの引渡がされた時間に彼女は従者の男と一緒にいたことになります」
「な!」
モニカは思わず腰を上げてランバートを睨む。そんなはずはないと言わんばかりの様子に、ランバートの冷静で冷たい青い瞳が射貫くように彼女を見た。
「執事が主人の前で、主人に問われて答えた事です。貴方のお父様も、度重なる娘の不良行動に頭を悩ませていたようですが、これで踏ん切りがついた、と。自らの行いの責任は自らが取るべきだと仰っていましたよ」
「嘘よ!」
「それと、従者の男からも話が聞けました。その日、確かにモニカ嬢を連れて西四〇三通りで男を馬車に乗せ、西五〇七番地の元飲食店へと、リリアン嬢の従者と二人で地下に運んで用意された足枷を嵌めて放置したと」
西五〇七は最初の受け渡しがされた四〇三通りから馬車で十五分程度奥へと入る、より奥まった場所だ。流石にそこまで捜索の範囲を広げてはいなかった。旧市街と呼ばれるくらい空き家の多い区画で、確かめられていない場所。このまま捜索していたらそこまで手が回るには数日かかっただろう。
モニカは可愛らしい仮面を完全に剥がされ、目は鋭くクラウルとランバートを睨み、口元はギリギリと食い締めている。
その前で、ランバートはハンカチに包んだ物をモニカに見せた。それを見たクラウルは、心臓をグッと掴まれた様な苦しさに息が出来なかった。
「従者の言っている事は事実でしょう。貴方の馬車にゼロスは乗っていた。そしてそこに、貴方もいた。このカフスには僅かに血がついている。同じく血の付いた毛布が、焼却用のバケツの中に残っていました。そして、貴方が履いていた靴の裏にも血痕が付着していました」
「それがゼロスの物だって誰が証明できますの! そのカフスは私の!」
「いい加減にしろ!!」
頭に血が上り、怒りが腹の底からわき上がってくる。ドクドクと血が加速していくのを感じ、クラウルは自らの左の耳の髪をかき上げた。
瞬間、モニカの目が丸く大きく見開かれた。
「これはこの世にただ一つ、俺があいつに贈ったものだ。唯一無二の、ゼロスの物だ!」
ジェームダルへと赴くあいつとの繋がりが欲しくて贈ったカフス。所有の印のようなそれを、ゼロスも大切にしてくれていた。
「ランバート、そいつを引っ張る。俺はこのまま西五〇七の飲食店跡へと向かう。こっちを頼む」
ハンカチに包まれたカフスをハンカチごと手に取る。キラキラと光るフレームの端に、僅かに血痕と思われる物がついていて、固まっている。怪我をしている。早く、助けにいかなければ。
「一人での行動は駄目です、クラウル様。何かあった時に人手がいるかもしれません」
「……分かった」
真剣な目をしているランバートはとても心配そうだった。見れば目の下に隈まで作って。
コイツもゼロスを案じてくれている。同時に、クラウルの事も。
応接室を出ると数人の隊員が動いていた。モニカの部屋を調べている奴や、馬車を調べている奴、容疑者を連行している奴だ。
「コンラッド」
「クラウル様、ゼロスの居場所が」
「分かっている。すまないがここを頼む。俺はこのままゼロスを迎えに行く。ランバート、レイバン、チェスターを借りる。それとすぐに宿舎に人を出してエリオットに例の住所に来るように言ってくれ。怪我をしている可能性が高い」
「分かりました」
すぐに動いてくれるコンラッドのおかげで、レイバンとチェスター、動きの速い奴等が揃った。そして四人連れだって、ゼロスの監禁場所へと向かう。
もう少し、あと少しの辛抱だ。どうか、無事でいてくれ。
カフスに一瞬触れたクラウルは、より速度を上げていくのだった。
▼ゼロス
体が熱い。足が痛んで、引きずっても先に進めない。頭が痛くて、僅かに気持ち悪いけれど吐き出す物は胃液しかない。
それでも進もうと、石の床に爪を立てる。ギギギギギッと床を滑る爪はボロボロになって、指先は血まみれになっている。いくつかの爪はもう剥げていた。
「……っ」
踏ん張る足にも力が思うように入らず、意識が遠くなったり、逆に近づいたりしている。心臓を打つそのタイミングで頭痛がしている。
喉が渇いて、意識が不意に遠のいて、ゼロスはズルズルと床に這いずった。そうしてぼんやりと思い出すのは、大事な人と過ごした事ばかりだった。
◇◆◇
『その目を忘れるな。そうすれば、お前は決して負けはしない』
真っ白なハンカチと共に掛けられた言葉を、忘れた事はない。伸べられた手を、忘れた事はない。
騎士団の入団試験の日、ゼロスは珍しく苛立っていた。目の前で一つの試合が終わった。小柄で非力な少年が、それよりもずっと大きい相手に必死に戦いを挑んで、負けたのだ。
ゼロスはその小柄な少年を称えていた。非力なりに頑張って挑んでいた。その気構えを称えたかった。
だが隣りにいる、次にゼロスと戦う相手はその少年を鼻で笑ったのだ。非力である事を馬鹿にし、身の程知らずだと言ったのだ。
あの子にも、騎士団に入りたい理由があるのだろう。そういう必死さだ。
ゼロスもまた兄達と不仲になり、仕事先でも問題が起こって居場所がなくてここにきた。
そういう諸々の事情全てを「分不相応」という言葉でバカにされた。そんな気がしたのだ。
だから、ムキになって向かっていって怪我をした。だが恐怖よりも負けたくないという気持ちが勝って、相手を打ち負かした。
クラウルはあの時、そうしたゼロスの気持ちも全部包むように、今後の気構えを示してくれたように思えた。
それからはずっと、二年も見続けた。最初は借りたハンカチを返そうと思っていた。でも相手は団長で、とても近づけない。手を触れる事などできない高みにいる人だった。
ふと廊下ですれ違う事はある。食堂で見る事はある。暗府執務室の前でばったり出会う事もあった。
だがどれも、声をかけるタイミングじゃない。何よりクラウルはゼロスの事を気に留めていなかった。
そのうち、思うようになった。所作が綺麗なこと。無駄がないこと。仲間と一緒にいる時は穏やかな表情をする事。厳しい顔をするけれど、時々とても優しい目をすること。
気付いたら目を離せなくなり、側に近づきたいと思うようになっていった。
だから二年目の新年、酔い潰れたクラウルに近づいて、忘れられないようにと必死にくいついたんだ。
「クラウル……さま……」
渇いた小さな声が彼の名を呼ぶ。呼ばずにはいられなかった。不安な気持ちに押し潰されてしまいそうでたまらない。意識が戻り、また遠のく。次に見たあの人は、秘密の屋敷で一緒に日記を探していた。
一緒に、彼の父親の日記を探していた。沢山の本の中にまみれるようにして見たクラウルは、真剣な顔をしていた。
そして、不意にあの人の過去に触れられた気がして嬉しかった。幼い時のクラウルの様子を日記という形で垣間見るのは、悪い事と思いながらも楽しい時間だった。
手料理も美味しかった。料理が出来るなんて思ってもみなかったから、驚いたのを覚えている。
そういえば、マッサージもしてくれたか。気持ちよくてたまらなかった。
無条件の信頼を感じた時だった。そして同じ目的を持って一緒に過ごした大事な時間だった。距離が縮まった、決定的な時だった。
「クラウル……さま……」
会いたい、今すぐに。こんな夢なのか記憶なのか、現かも曖昧なものじゃなくて、触れたい。声を、聞きたい……
初めて触れたのは、日記の件から程なくしてだった。食事をして、その後あの人の隠れ家に行ったんだ。
初めての男同士のセックスに、驚きや戸惑いはあった。それでも情けをかけられるのは癪だったのに、あの人は最後まではしなかった。
正直、少し怖かった。最後までしないのに気持ちよくて頭の中が真っ白だった。自分の弱い所なんて知らなかったから、恥ずかしかった。
それに、誰かに主導権を握られてのセックスは初めてだったんだ。
体を重ねる度に、溺れそうな程に気持ちよくなった。開発されて、乳首や腹を撫でられるだけでも痺れるような気持ちよさに疼く様になってしまった。
そして中も、あの人がしっかり開発した。おかげで今では尻だけで何度も高みに達するようになって、最後には訳が分からなくなってしまう。
一緒に、任務もこなした。恋人とは違う背中、戦う姿。それはやはり憧れだ。なんて強いのだろう。なんて、しなやかなのだろう。バロッサの時も、西の時も思った。あの背中を、追い続けていたい。いつまでも見つめていたい。あの背を守りたいなんて大きな事は言えないけれど、せめて置いて行かれないようにしたい。
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恥ずかしいと思っていたし、最初はお仕置きみたいな感じであの人を抱いた事もある。それもよかったが、しっくりくるのはやはりゼロスが受けの時なんだろう。少し悔しい。
今では説教するとき、言わなくても床に正座するようになった。あんな姿、他の人には絶対に見せられない。
『遠く離れても、お前は俺のもので、俺はお前のものだ。そういう繋がりが欲しくなったんだ。らしくないだろ?』
ジェームダルへと向かう前、少し恥ずかしそうにはにかみながらつけてくれたカフス。あれに、何度も助けられた。挫けそうな時、負けそうな時、踏ん張らなければならない時。励ますように存在を示してくれたのはあのカフスだった。
恥ずかしかった所有の証は、離れていても心はここにあるという証でもあった。クラウルの恋人として、一人の騎士として、恥ずかしくない生き方をしたい。
そう思っていたのに、今はそれすらもなくなってしまった。
「く……ぅ……さ、ま……」
寂しい。貴方に見放されてしまったみたいだ。もう、必要ないのだと言われてしまっているみたいだ。
声が出ない。喉がくっついて、思うように音にならない。
このまま、死ぬのだろうか。今見ているこれは、走馬灯というやつなんだろうか。足が痛い。ジンジンと痛んで、ドクドクいっていて、そこが痛むと頭も痛む。体が熱い。
約束を、果たせないまま死ぬのか? 家族に会いたいと、言っていたのに。たったこれだけの事を嬉しそうにしていたのに。
『名を、呼んでくれないか?』
小さな事だった。ただ、ゼロスが逃げていた。いつか来るかもしれない別れを考えて、距離を置こうとした結果だった。
そのせいで悲しませてしまった。たったこれだけの願いを叶えてあげられないまま、クラウルを失うかもしれなかった。
あんなに、他人を憎んだ事はなかった。あんなに誰かを呪った事はなかった。あんなに……愛していたんだと自覚した瞬間はなかった。
『敬語もやめてくれ』
「あ……ぁ……クラ、ウル……」
アンタの声が聞きたい。触れて欲しい。どうして今、こんなに不安なのだろう。泣きたくても涙もでない。体が軋んで動かない。
こんなに短い間に沢山の思い出を見せられたら、会いたいじゃないか。愛していると、何度でも言いたいじゃないか。
不思議だ。もっと子供の頃の事とか、友人との事とかを見るのだと思っていたのに、全部がクラウルだ。心の中も全部があの人だと言わんばかりに、それだけなんだ。
深く、眠気が襲ってくる。今眠ったら起きられるだろうか。不安がこみ上げてくる。
次に起きたら、あの人の願いをちゃんと叶えたい。両親に会わせて、クラウルの母親にも会って……ご挨拶をしたい。
そうしたらきっと、プロポーズとか考えているのだろうか。それはそれで恥ずかしいが、きっと嬉しい。あの人の家族になる自分を想像出来ないけれど、きっと今とあまり変わらないんじゃないだろうか。
起きなきゃいけない。いや、眠ったらいけない。頭の芯が重くて、今も目が開いているのか分からないけれど、この思考を止めたらいけない。
本当はもうとっくに目は閉じていた。右の足首は青紫に腫れて、足枷の輪に締めつけられて熱を持っていた。発熱も合わさって進んだ脱水は、汗もかけずに意識を混濁させている。
そのゼロスの耳に、遠く遠くミシミシと、木製のドアを破壊する音が微かに聞こえていた。
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