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18章:お嬢様の恋愛事情
2話:市中案内(アリア)
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約束の日はとても良い天気だった。屋敷に迎えに来てくれたウルバスは変わらない笑みを見せてくれる。嬉しいのに、寂しくて、アリアは曖昧に笑ったような気がした。
「あれ? もしかして、疲れてる?」
「あっ、いえ!」
「本当?」
心配そうな表情と伸ばされた手。それが頬に触れて、アリアはドキリとした。
「それじゃあ、行こうか」
「はい!」
連れ出してくれる大きな手を取って、アリアは王都へと出て行った。
ウルバスに連れられて到着したのはラセーニョ通り。ここに日中来ることのないアリアは、営業を開始したばかりのお店をあちこちキラキラした目で見ていた。
「気になるお店はある?」
「え? えっと……どれも気になります!」
「あっはは! うん、分かるよ。どれも美味しそうだもんね」
白い首元の隠れるニットにラフな細身のズボン。それに明るいベージュの、お尻が隠れるくらいの薄いコートを羽織ったウルバスはとても爽やかでいて、秋から冬という感じがする。そんな人が隣にいて、屈託のない笑みを浮かべてくれる。アリアにとって経験のない、ちょっと照れてしまうようなシチュエーションだ。
「うーん、そうだな……。この先に、具だくさんスープと焼きたてパンの美味しいお店があるんだけど、どうかな?」
「焼きたてパンと、具だくさんのスープ」
想像してみる。暖かいスープの中に色んな野菜やお肉の入ったもの。焼きたてのパンもきっと暖かな湯気を上げているにちがいない。
考えただけで、お腹が素直に鳴った。恥ずかしくてパッとお腹を押さえて赤くなったアリアに、ウルバスは面白そうに笑って頭を撫でてくれた。
その手が大きくて、暖かくて……とても安心する。甘えていいよと、無言で教えてくれるみたいだ。
「そこにしようか」
「はい」
向けられる優しい目。これに、素直に甘えられたらどれだけ幸せなのだろう。
思って……でもできない自分がいる。アリアはウルバスに連れられるまま、店に入った。
小さなお店は素朴だけれど、店の中に焼きたてのパンの匂いがしてとても幸せな気分になる。持ち帰り用のパンも販売していて、そこの二階が小さなレストランになっていた。
二人でパンの食べ放題とスープ、メイン一品のセットをお願いすると、すぐに小さめのパンの入った籠が運ばれてきた。どれも手の平に収まるサイズだ。
「可愛い」
「美味しいよ。こっちはゴマ、クーペ、白パン、クロワッサン。あと、パンにつけるのとは違うけれど季節のデニッシュも美味しいよ」
「どれも美味しそうで迷います」
「本当にね」
向かい合って、それぞれパンを手にする。アリアが手に取ったのはリンゴのデニッシュ。ジャムとカスタード、その上にコンポートのリンゴが乗っている。
ウルバスが手に取ったのはクーペだった。小さな丸いフランスパンをちぎりながら、ウルバスはほっこりとした笑みを浮かべた。
「ハードパン、お好きなんですか?」
「ん? うん、好きだよ。少し皮の固いやつが好きなんだ、香ばしくて。ライ麦とかもいいよね。アリアちゃんは女の子だね」
「え?」
「甘いの好き?」
「はい。それにとても可愛くて美味しそうです」
「ここ、動物の形を模したパンもあるんだよ。テイクアウトだけど」
「え! 見たい……でも食べられないかもしれません」
「あはは、分かるかも。でも、中はここのお店特製のカスタードクリームなんだ」
「えぇ! あっ、えっと……残酷だけど食べたいです」
素直な事を言うと、ウルバスは笑って「買って帰ろうね」と言ってくれた。
そうこうしているとスープも到着した。
アリアはコーンとニンジンとブロッコリーのホワイトシチューと、メインはチキンとハーブのソテーにした。
ウルバスはミネストローネと、ヒラメのムニエルだ。
口に運んだスープは体の芯から温まる。最近寒くなってきたから、とても有り難い。具材は大きめにカットされていて、食べ応え十分だ。
焼きたての白パンと一緒に食べるとなおのこと美味しい。ふかふかの白パンのもっちりとした食感に、ホワイトシチューの優しい味わい。思わず笑みがこぼれてしまう。
「幸せそうな顔だね」
「はい、幸せです」
「そうだね」
ウルバスもライ麦パンにミネストローネを浸して食べている。それをじっと見ていると、不意に恥ずかしげにウルバスが笑った。
「行儀悪いかな?」
「え?」
「食べ方。癖なんだよね、スープにパンを浸して食べるの。でも、人によっては嫌がられるから、もしかして嫌かなって」
言われて、アリアはパッと視線を上げて首を大きく横に振った。
「違いますよ! あの、美味しそうに食べるから、なんだか目が離せなくなっただけなんです。私もスープが少なくなったらそういう食べ方しますし、気にしないでください」
「本当? よかった、君に恥ずかしい思いをさせたのかと思って」
苦笑するウルバスが、「それなら気兼ねなく」とスープにパンを浸す。そうして口に入れた後は、とても幸せそうな顔をした。
「うん、美味しい」
満足そうな顔をする人は少し少年っぽい印象もあり、見ていてほっこりとする。
こんな人と、毎日一緒にご飯を食べたらきっと、どんなご飯でも美味しく思えるんだろうな。
思って、ハッとして、アリアはこの思いを振り払って食事を続けるのだった。
お腹も満足して、テイクアウトのパンも少し買った。それらを持ってウルバスが案内したのは、中央関所だった。
そこには何やら荷物を乗せた、二人乗りの鞍をつけた立派な馬が用意されている。
「あの」
「あっ、もしかして馬に乗ると体調悪くなったりする?」
「いえ、そんな事はないと思いますが……」
実際は、馬に乗った事がない。でも馬車は大丈夫だし、幼少期は側に馬もいたから平気だとは思う。
ウルバスは「よかった」と心からの言葉と笑みを返してくれて、アリアの首に暖かな狐の毛皮のファーを巻いてくれた。
「あの!」
「これ、俺が仕留めたんだ。綺麗にして獣臭さも大分抜いてもらったんだけど、嫌かな?」
「そんな事はありませんが……」
「少しの間だけ。ちょっと寒いかもしれないから」
コートを着ているから今は寒くない。陽もあるからこの季節にしては暖かいと思う。雪もまだ根雪にはなっていないのだ。
ウルバスは先に馬に跨がると、自分の前にとアリアを誘う。その大きな手を、アリアは躊躇いながらも取った。途端、引き上げられる力強さと、抱き留められる安心感。グッと近づいた距離にドキリとして、頬が熱くなっていくのを感じる。
「前に座って。ちゃんと支えるから大丈夫だよ」
「あの、どこへ……」
「うん、ちょっとね。大丈夫、三十分くらいだから」
アリアを前の席に座らせたウルバスは、慣れたように手綱を取って馬をゆっくりと歩かせる。決して走らせたりはしない。
どんどんと王都が遠くなって、少しして自然の景色が広がっていく。ゆったりとした馬上の揺れは心地よく感じて、アリアは辺りを見回す事ができた。
「とても高いのですね」
「怖い?」
「最初は少し。でも、見たことのない景色です」
高い視界は普段見られない景色をアリアに見せてくれる。恐怖心よりもそちらが珍しくて……きっともうこんな景色見られないだろうと思って、目に焼き付けるように見てしまう。
そんなアリアを暖めるように体を近づけてウルバスは馬を進めた。
そうして到着したのは静かな草原だった。人の姿はなくて、少し遠くに山が見える。
「到着」
ウルバスは先に馬を下りて、アリアへと腕を伸ばす。そうして軽々とアリアを抱き下ろすと、馬の荷を解いた。
暖かな敷物と、スケッチの道具が出てくる。それを見て、アリアは少し泣きたくなった。嬉しくて、心が震えた。
「ここね、俺のとっておきの場所なんだ。静かで。気持ちが落ち込んだ時とか、ここにくると落ち着く事が出来る気がして」
苦笑したウルバスが敷物へとアリアを誘う。隣に腰を下ろすと、側にスケッチの道具が目に入った。
「あの、これ……」
「あぁ、うん。ランバートに聞いて、ちょっと用意してみたんだ。最近忙しいみたいだから、こういう時間もなかなか取れないかなって。お節介だって思ったんだけれど」
「お節介だなんて! とても嬉しいです」
勉強や社交界、体力作りなんかで一日が終わってしまう。アーサーは「安息日くらい休んでいい」と言うけれど、覚える事が多すぎてそんな気持ちにもならなかった。
でも……やっぱり、絵を描くことが好きだ。スケッチブックと鉛筆を手にしたアリアは早速真新しい紙に目の前の景色をスケッチし始めた。
筆が進む。こういう時間を求めていたんだと心から感じる。もっともっとと書いて……ふと隣の気配が静かなことに気がついた。
視線を隣へと向けると、ウルバスは座ったままじっとしている。顔を覗き込むように傾けると、目が閉じていた。
長い睫が閉じると、幼さを感じる。穏やかな寝息まで聞こえて、本当に眠っているのだと思った。
書きかけのスケッチをめくり、新しいページにして、アリアは隣のウルバスを書いていた。伏せられた睫、短い髪、鼻梁が通っていて、輪郭はシャープで。整った顔立ちをしている。
スケッチブックには、息づかいを感じるような穏やかな寝顔が描かれた。
「……ん?」
「!」
不意に睫が震え、瞳が薄らと開く。アリアは慌ててページを戻して景色を書いたけれど、気持ちはウルバスの寝顔に向けられてしまった。
「あ……ごめんね」
「いえ! あの、お疲れですか?」
「ん? んー、どうだろう? 昨日はウェインに誘われて遅くまで飲んでしまったから」
「ウェインさんって元気いっぱいで明るくて、小さい事を気にしてらっしゃる?」
「そうそう。でもとても強いんだよ。彼を見ていると身長差なんて大した事ないんだって思えてくる。それにね、とても元気を貰えるんだ。ちょっとくらい悩みがあっても、彼といると忘れてしまうんじゃないかな?」
そう、楽しそうに話すウルバスにアリアも笑う。手紙で知る印象そのままな感じだ。
「でも、酒乱なんですよね?」
「そうだね。でも昨日は大丈夫、側に彼氏がいたから。そっちに甘えていたよ。見せつけられるよね、こっちは寂しい独り身なのに」
独り身……なんだ。
そちらに気持ちは反応するが、アリアはそうとは見せず笑う事ができた。
「彼氏さんって、アシュレーさんでしたっけ? 真面目でちょっと毒舌で、ストイックな方ですよね?」
「うん、生真面目なんだよね。そしてウェイン溺愛。少し前に大怪我してからはそこに過保護も入って面白いよ」
「でも、素敵です。そんな一途に愛されるなんて」
自分は、どうなんだろうか。そんな相手に巡り会えるだろうか。そして自分も、相手に返せるだろうか。
ふとそんな風に思って……自信がなくて俯くと、その頭をふわりと撫でられた。
「君もとても素敵な女性だから、心配しなくてもいいよ」
「え? あの……」
「だから、ね? 顔を上げて。優しくて強い君は、きっと幸せになれるよ」
穏やかで優しい眼差し。撫でてくれる手。兄であるファウストにされるとなんだか悔しいこの行為も、ウルバスなら素直に受け入れられる自分がいる。もうそこから、違いを感じてしまう。
「それに、相手の男は全力でアリアちゃんを幸せにしないとね。そうじゃないと、君のお兄さんが怖いよ」
「ファウスト兄様は関係ありませんわ」
「ファウスト様だけじゃなくて、ランバートも許さないよ。二人とも過保護だと思う」
「もう、そんな所ばかり似て! 私、もう子供じゃありませんわ。ちゃんと幸せになりますわよ」
ぷいっとそっぽを向いたアリアの内心は、とても複雑だった。
アリアが心に決めた決断を、二人はどう見るのだろう。どう考えるのだろう。反対するだろうか。それとも、分かってくれるだろうか。
ウルバスは、どう感じるのだろう。
「アリアちゃん?」
「あ! ごめんなさい、ちょっと考え事をしてしまって」
少しぼーっとしていたかもしれない。繕うように顔を向けると、ふわりと頭を撫でられる。心配そうなウルバスの顔を見て、胸が苦しくなった。
「アリアちゃんこそ、疲れてる?」
「大丈夫ですよ」
「でも、無理はしないほうがいいね。そろそろ行こうか」
「あ……」
もう少し、こうしていたい。
心に響いた言葉を、アリアは飲み込んで立ち上がった。我が儘を言うべきではない。今日で最後にしようとしているのだから、困らせたりしたくない。
素直に立ち上がったアリアを、ウルバスは困ったような顔をして見ていた。
王都に戻ってからはどうするのだろう? 思っていると、ウルバスが連れて行ってくれたのは中央関所の中だった。
小さな一室からは、なんだか小さな鳴き声がしている。そのドアを開けると、とても心癒やされる光景が広がっていた。
「あれ? ウルバス……と、アリアちゃん!」
「やぁ、ウェイン。順調に里親決まってる?」
フラットな部屋には柵ができていて、その中に十数匹の子猫がみゃーみゃーと声を上げていた。
「あの、ここって……」
「あぁ、砦で生まれた子猫の譲渡会なんだ」
柵に近づくと数匹の子猫がとてとてとおぼつかない足取りで近づいてくる。そしてアリアの手に体をすり寄せてきた。
「わぁ、柔らかい! 可愛い!」
「でしょでしょ! シュトライザーのお屋敷に一匹どう?」
「う……」
正直に言えば欲しい。確か屋敷にもネズミ駆除用の猫がいたはずだが……最近仕事しなくなったって言ってた気がするが……でもそんな簡単にもらうわけには!
「あれ? アリアどうしたの?」
「え? ハムレット先生!」
不意に後ろから声を掛けられて見ると、そこには籠を持ったハムレットが立っていた。
「ハムレットさん、いらっしゃい! またもらってくれるの?」
ウェインが嬉しそうな顔をしている。蓋の閉まった籠を開けると、そこからひょっこりと毛並みのいい猫が顔を出した。
「ニアの弟分が欲しくてね。ニアも遊び相手が欲しそうだから」
リードをつけられていることに不満そうにしながらも、ニアは籠から出て子猫の前に立つ。すると二匹の猫が興味を引かれたのか近づいてきて、鼻を近づけてきた。
ニアもそれに気づいて側にいき、鼻を近づける。そして二匹の子猫の顔や体を柵越しに舐め始めた。
「あっ、相性良さそう」
「だね! でも、二匹もいるよ」
「二匹くらい平気。うちの猫くんもいるしね」
「チェルルも猫ならハムレットさんの屋敷、猫屋敷だね」
「いいの、僕は猫好きだから。猫好きが過ぎて、獣医の資格も取ったもんね」
「ハムレットさんって、凝り性ですよね」
ウェインが苦笑して、ハムレットは笑う。その間にも二匹の子猫はニアに甘えてゴロゴロ言っている。
「去年引き取った子はヒッテルスバッハの本邸で元気にネズミ駆除してるよ。いい子だって兄上褒めてた」
「よかった。この子達、引き取りますか?」
「うん、そうしたい。検診は自分でするから大丈夫だよ、このまま引き取るね」
ニアを籠に戻したハムレットが出て行き、戻ってきた時には新しい籠を持っている。中は柔らかいクッションが入っていて、ニアにじゃれていた二匹の子猫を大事にその中に入れた。
「じゃあ、元気で暮らせよ」
ウェインがお別れの挨拶をして、出て行くハムレットの背中を少し寂しそうな顔で見送った。
その表情が、なんとなく刺さるのはきっと、同じ顔を自分もしそうだからかもしれない。
「さて。アリアちゃんはどうする?」
「あの、私……っ」
指にすり寄りゴロゴロ言っている子猫をそっと抱き上げて、胸の前に抱いた。暖かくて、柔らかくて……なんだかいい匂いがする。大切な命を抱いている感じがして、アリアはグッと奥歯を噛んだ。
「あの……」
「いいんじゃないかな、引き取ってみても」
「え?」
隣のウルバスがひょいと子猫を抱き上げて笑う。大きな手の平一つで抱けてしまうほど小さいその子は、アリアに向かってみーみーと鳴いている。
「これから本邸も新しくなるんでしょ? それに、お世話はアリアちゃんだけがしなくても大丈夫。皆で育てていけばいいんだから、あまり気負わなくてもいいんだよ」
皆で、育てていく。
ウルバスの言葉に、アリアは勇気をもらった。そしてウェインに向かって確かに頷いた。
「あの、この子引き取ってもいいですか?」
「勿論! あっ、でも引き取りは少し待ってね。今ここにいる子はまだ引き渡し前の検診してないんだ。ちょっと妊娠してる馬とかの検診とかもしててさ」
「あぁ、ランバートが可愛がってる牝馬もだね。しかも相手がフリムだから、期待大だし」
「そうなんですか!」
思わぬ話にアリアは驚いて声を上げた。フリムはファウストの愛馬で、早く走るけれど気性が荒いとアーサーが話していた。そのフリムのお相手が、ランバートの愛馬だなんてなんだか素敵だ。
「フリムは種馬にしては気性が荒いしえり好みが激しかったんだけど、二人で遠乗りとかに頻繁に行ってる間になんだかそんなでさ。飼い主の方が思いっきり照れてたよね」
「ランバートの方は持ち込みじゃなくて騎士団の馬だから、他の奴も乗るんだけれどね。でも、ランバートとの相性がいいのは確かだから」
「仔馬、ちゃんと生まれてきて欲しいですね」
「もっちろん! そんな事で、今うちの獣医忙しくてさ。七日くらいしたら引き渡せるから」
「分かりました、お願いします」
引き取りの子猫は小さめの籠の中に入れられる。赤いリボンにアリアが名前を書いて、それを籠にしっかりと結びつけた。
最後に籠を開けて小さな頭を撫でると、白いほわほわの体を擦り付けて甘えてくれた。
中央砦を出ると、十一月の空はもう茜色に染まってしまっていた。もう少し抱け側にいたいと思うのに、終わろうとしている。
「すっかり夕方だね。そろそろ……」
「あの!」
「帰ろうか」という言葉よりも前に、アリアは必死の声でウルバスを止めた。腕を引き、顔を見て、まだ帰りたくないと目で訴えた。
「あの、最後にもう一つだけ行きたい場所があるんです」
「それは構わないけれど。どこ?」
「以前、雪だるまを作ったあの公園に」
お願いすると、ウルバスは頷いてくれた。連れだって歩き出す街は少しずつ、建国祭へと向かう賑やかな飾りが施され始めていた。
約束の公園で、前と同じようにベンチに座る。けれどあの時みたいに雪ではしゃぐ子供の姿はない。まだ、根雪になっていないから。
「今年は暖かいね。雪もまだだし」
「はい」
「……アリアちゃん、何をそんなに悩んでいるの?」
心配そうに少し低い声で問いかけられて、アリアはびくりと震えた。いや、鋭いウルバスならとっくの昔に気づいていたのだろう。真っ直ぐな目がアリアへと向けられて、アリアは膝の上に置いた手をギュッと握った。
「あの……ごめんなさい!」
「アリアちゃん?」
「私、もうウルバスさんとは会えません!」
ようやく出た言葉に安堵したのは、アリアだったのかもしれない。未練がましく飲み込んできたものが、やっとの思いで出たのだ。
ウルバスは驚いていて……でも真剣な目でアリアを見ている。先を促しているように感じ、アリアは更に言葉を並べた。
「ごめんなさい、沢山親切にして頂いて。今日もとても楽しかったのに」
「……理由を、聞いてもいい?」
「……はい。既にご存じだと思いますが、私を囲う環境は大きく変わりました。シュトライザーの当主として、共に家を守っていってくれる男性を探さなければならなくなりました」
アリアの言葉に、ウルバスはただ静かに頷いてくれる。無言で促される先に、心臓が僅かにキュッとする気がした。
「ウルバスさんの事は好きです。でも……私の求める男性ではないのだと思います。私、ウルバスさんの騎士のお仕事、応援しています。だからこそ、これ以上側にはいられません」
ウルバスの事が好きだ。手紙で言葉を交わせば交わすほど、こうして会えば会うほどに離れがたい気持ちが押し寄せてくる。嬉しくて…………嬉しすぎて少し泣きそうで、離れる時には悲しくなる。色々と諦めてきたアリアにとって、はっきりとこれが初恋なんだと言えるものだった。
だからこそ、この道を選んだのだ。ウルバスを好きになったら、もしも受け入れてもらえるならば、ウルバスには騎士団を辞めてもらわなければならない。あの人から大切なものを奪い取ってしまう。
なのにアリアがあげられるものはないのだ。
体が弱くて子供を産むこともできない。ウルバスはきっといい父親になれるだろうに、自分の実の子を抱かせてあげる事は一生無理だ。
それどころか普通の夫婦ならば当然ある夜の営みも十分には応えられない。体に負担のある事はあまりできない。
発作を起こせば心配をさせてしまう。それも生涯だ。長期の旅行なども配慮しなければならない。
なのにシュトライザーという家を共に背負ってもらわなければならない。アリアが当主でも、結婚したら爵位は伴侶に移る。何もあげられず、我慢が多くて、にもかかわらず背負わせてしまう。
そんなこと、この人にはできない。
「伴侶を探すのに周囲を男がうろついているのは、都合が悪いんだね?」
ウルバスの静かな声に、アリアは頑張って頷いた。本当はこの恋心がこれ以上募ってしまうのが怖くて逃げるのだ。
ウルバスはしばらく、とても静かだった。空が暗くなって、雪が降り始める。静かな世界に二人だけになってしまった。
「……分かったよ」
「ごめ……」
「ううん、もう謝らないで。君の事情は分かったから」
声が柔らかくなって、アリアはずっと俯けていた顔を僅かだがあげる事が出来た。ウルバスは変わらない穏やかな目で見ている。そして、冷えてしまったアリアの頬を暖めるように触れた。
「でも、俺の窓は開けておく。辛くなったり、会いたくなったらいつでも手紙ちょうだい」
「そんな、都合のいいこと……」
「いいんだよ、それで。あまり自分を追い込まないで。助けてって、叫んでいいんだからね」
優しく髪に積もる雪を払ったウルバスが、手を伸ばす。その手に掴まり立ち上がって、アリアは帰路についた。とてもとても長く感じる、苦しい帰り道だった。
「あれ? もしかして、疲れてる?」
「あっ、いえ!」
「本当?」
心配そうな表情と伸ばされた手。それが頬に触れて、アリアはドキリとした。
「それじゃあ、行こうか」
「はい!」
連れ出してくれる大きな手を取って、アリアは王都へと出て行った。
ウルバスに連れられて到着したのはラセーニョ通り。ここに日中来ることのないアリアは、営業を開始したばかりのお店をあちこちキラキラした目で見ていた。
「気になるお店はある?」
「え? えっと……どれも気になります!」
「あっはは! うん、分かるよ。どれも美味しそうだもんね」
白い首元の隠れるニットにラフな細身のズボン。それに明るいベージュの、お尻が隠れるくらいの薄いコートを羽織ったウルバスはとても爽やかでいて、秋から冬という感じがする。そんな人が隣にいて、屈託のない笑みを浮かべてくれる。アリアにとって経験のない、ちょっと照れてしまうようなシチュエーションだ。
「うーん、そうだな……。この先に、具だくさんスープと焼きたてパンの美味しいお店があるんだけど、どうかな?」
「焼きたてパンと、具だくさんのスープ」
想像してみる。暖かいスープの中に色んな野菜やお肉の入ったもの。焼きたてのパンもきっと暖かな湯気を上げているにちがいない。
考えただけで、お腹が素直に鳴った。恥ずかしくてパッとお腹を押さえて赤くなったアリアに、ウルバスは面白そうに笑って頭を撫でてくれた。
その手が大きくて、暖かくて……とても安心する。甘えていいよと、無言で教えてくれるみたいだ。
「そこにしようか」
「はい」
向けられる優しい目。これに、素直に甘えられたらどれだけ幸せなのだろう。
思って……でもできない自分がいる。アリアはウルバスに連れられるまま、店に入った。
小さなお店は素朴だけれど、店の中に焼きたてのパンの匂いがしてとても幸せな気分になる。持ち帰り用のパンも販売していて、そこの二階が小さなレストランになっていた。
二人でパンの食べ放題とスープ、メイン一品のセットをお願いすると、すぐに小さめのパンの入った籠が運ばれてきた。どれも手の平に収まるサイズだ。
「可愛い」
「美味しいよ。こっちはゴマ、クーペ、白パン、クロワッサン。あと、パンにつけるのとは違うけれど季節のデニッシュも美味しいよ」
「どれも美味しそうで迷います」
「本当にね」
向かい合って、それぞれパンを手にする。アリアが手に取ったのはリンゴのデニッシュ。ジャムとカスタード、その上にコンポートのリンゴが乗っている。
ウルバスが手に取ったのはクーペだった。小さな丸いフランスパンをちぎりながら、ウルバスはほっこりとした笑みを浮かべた。
「ハードパン、お好きなんですか?」
「ん? うん、好きだよ。少し皮の固いやつが好きなんだ、香ばしくて。ライ麦とかもいいよね。アリアちゃんは女の子だね」
「え?」
「甘いの好き?」
「はい。それにとても可愛くて美味しそうです」
「ここ、動物の形を模したパンもあるんだよ。テイクアウトだけど」
「え! 見たい……でも食べられないかもしれません」
「あはは、分かるかも。でも、中はここのお店特製のカスタードクリームなんだ」
「えぇ! あっ、えっと……残酷だけど食べたいです」
素直な事を言うと、ウルバスは笑って「買って帰ろうね」と言ってくれた。
そうこうしているとスープも到着した。
アリアはコーンとニンジンとブロッコリーのホワイトシチューと、メインはチキンとハーブのソテーにした。
ウルバスはミネストローネと、ヒラメのムニエルだ。
口に運んだスープは体の芯から温まる。最近寒くなってきたから、とても有り難い。具材は大きめにカットされていて、食べ応え十分だ。
焼きたての白パンと一緒に食べるとなおのこと美味しい。ふかふかの白パンのもっちりとした食感に、ホワイトシチューの優しい味わい。思わず笑みがこぼれてしまう。
「幸せそうな顔だね」
「はい、幸せです」
「そうだね」
ウルバスもライ麦パンにミネストローネを浸して食べている。それをじっと見ていると、不意に恥ずかしげにウルバスが笑った。
「行儀悪いかな?」
「え?」
「食べ方。癖なんだよね、スープにパンを浸して食べるの。でも、人によっては嫌がられるから、もしかして嫌かなって」
言われて、アリアはパッと視線を上げて首を大きく横に振った。
「違いますよ! あの、美味しそうに食べるから、なんだか目が離せなくなっただけなんです。私もスープが少なくなったらそういう食べ方しますし、気にしないでください」
「本当? よかった、君に恥ずかしい思いをさせたのかと思って」
苦笑するウルバスが、「それなら気兼ねなく」とスープにパンを浸す。そうして口に入れた後は、とても幸せそうな顔をした。
「うん、美味しい」
満足そうな顔をする人は少し少年っぽい印象もあり、見ていてほっこりとする。
こんな人と、毎日一緒にご飯を食べたらきっと、どんなご飯でも美味しく思えるんだろうな。
思って、ハッとして、アリアはこの思いを振り払って食事を続けるのだった。
お腹も満足して、テイクアウトのパンも少し買った。それらを持ってウルバスが案内したのは、中央関所だった。
そこには何やら荷物を乗せた、二人乗りの鞍をつけた立派な馬が用意されている。
「あの」
「あっ、もしかして馬に乗ると体調悪くなったりする?」
「いえ、そんな事はないと思いますが……」
実際は、馬に乗った事がない。でも馬車は大丈夫だし、幼少期は側に馬もいたから平気だとは思う。
ウルバスは「よかった」と心からの言葉と笑みを返してくれて、アリアの首に暖かな狐の毛皮のファーを巻いてくれた。
「あの!」
「これ、俺が仕留めたんだ。綺麗にして獣臭さも大分抜いてもらったんだけど、嫌かな?」
「そんな事はありませんが……」
「少しの間だけ。ちょっと寒いかもしれないから」
コートを着ているから今は寒くない。陽もあるからこの季節にしては暖かいと思う。雪もまだ根雪にはなっていないのだ。
ウルバスは先に馬に跨がると、自分の前にとアリアを誘う。その大きな手を、アリアは躊躇いながらも取った。途端、引き上げられる力強さと、抱き留められる安心感。グッと近づいた距離にドキリとして、頬が熱くなっていくのを感じる。
「前に座って。ちゃんと支えるから大丈夫だよ」
「あの、どこへ……」
「うん、ちょっとね。大丈夫、三十分くらいだから」
アリアを前の席に座らせたウルバスは、慣れたように手綱を取って馬をゆっくりと歩かせる。決して走らせたりはしない。
どんどんと王都が遠くなって、少しして自然の景色が広がっていく。ゆったりとした馬上の揺れは心地よく感じて、アリアは辺りを見回す事ができた。
「とても高いのですね」
「怖い?」
「最初は少し。でも、見たことのない景色です」
高い視界は普段見られない景色をアリアに見せてくれる。恐怖心よりもそちらが珍しくて……きっともうこんな景色見られないだろうと思って、目に焼き付けるように見てしまう。
そんなアリアを暖めるように体を近づけてウルバスは馬を進めた。
そうして到着したのは静かな草原だった。人の姿はなくて、少し遠くに山が見える。
「到着」
ウルバスは先に馬を下りて、アリアへと腕を伸ばす。そうして軽々とアリアを抱き下ろすと、馬の荷を解いた。
暖かな敷物と、スケッチの道具が出てくる。それを見て、アリアは少し泣きたくなった。嬉しくて、心が震えた。
「ここね、俺のとっておきの場所なんだ。静かで。気持ちが落ち込んだ時とか、ここにくると落ち着く事が出来る気がして」
苦笑したウルバスが敷物へとアリアを誘う。隣に腰を下ろすと、側にスケッチの道具が目に入った。
「あの、これ……」
「あぁ、うん。ランバートに聞いて、ちょっと用意してみたんだ。最近忙しいみたいだから、こういう時間もなかなか取れないかなって。お節介だって思ったんだけれど」
「お節介だなんて! とても嬉しいです」
勉強や社交界、体力作りなんかで一日が終わってしまう。アーサーは「安息日くらい休んでいい」と言うけれど、覚える事が多すぎてそんな気持ちにもならなかった。
でも……やっぱり、絵を描くことが好きだ。スケッチブックと鉛筆を手にしたアリアは早速真新しい紙に目の前の景色をスケッチし始めた。
筆が進む。こういう時間を求めていたんだと心から感じる。もっともっとと書いて……ふと隣の気配が静かなことに気がついた。
視線を隣へと向けると、ウルバスは座ったままじっとしている。顔を覗き込むように傾けると、目が閉じていた。
長い睫が閉じると、幼さを感じる。穏やかな寝息まで聞こえて、本当に眠っているのだと思った。
書きかけのスケッチをめくり、新しいページにして、アリアは隣のウルバスを書いていた。伏せられた睫、短い髪、鼻梁が通っていて、輪郭はシャープで。整った顔立ちをしている。
スケッチブックには、息づかいを感じるような穏やかな寝顔が描かれた。
「……ん?」
「!」
不意に睫が震え、瞳が薄らと開く。アリアは慌ててページを戻して景色を書いたけれど、気持ちはウルバスの寝顔に向けられてしまった。
「あ……ごめんね」
「いえ! あの、お疲れですか?」
「ん? んー、どうだろう? 昨日はウェインに誘われて遅くまで飲んでしまったから」
「ウェインさんって元気いっぱいで明るくて、小さい事を気にしてらっしゃる?」
「そうそう。でもとても強いんだよ。彼を見ていると身長差なんて大した事ないんだって思えてくる。それにね、とても元気を貰えるんだ。ちょっとくらい悩みがあっても、彼といると忘れてしまうんじゃないかな?」
そう、楽しそうに話すウルバスにアリアも笑う。手紙で知る印象そのままな感じだ。
「でも、酒乱なんですよね?」
「そうだね。でも昨日は大丈夫、側に彼氏がいたから。そっちに甘えていたよ。見せつけられるよね、こっちは寂しい独り身なのに」
独り身……なんだ。
そちらに気持ちは反応するが、アリアはそうとは見せず笑う事ができた。
「彼氏さんって、アシュレーさんでしたっけ? 真面目でちょっと毒舌で、ストイックな方ですよね?」
「うん、生真面目なんだよね。そしてウェイン溺愛。少し前に大怪我してからはそこに過保護も入って面白いよ」
「でも、素敵です。そんな一途に愛されるなんて」
自分は、どうなんだろうか。そんな相手に巡り会えるだろうか。そして自分も、相手に返せるだろうか。
ふとそんな風に思って……自信がなくて俯くと、その頭をふわりと撫でられた。
「君もとても素敵な女性だから、心配しなくてもいいよ」
「え? あの……」
「だから、ね? 顔を上げて。優しくて強い君は、きっと幸せになれるよ」
穏やかで優しい眼差し。撫でてくれる手。兄であるファウストにされるとなんだか悔しいこの行為も、ウルバスなら素直に受け入れられる自分がいる。もうそこから、違いを感じてしまう。
「それに、相手の男は全力でアリアちゃんを幸せにしないとね。そうじゃないと、君のお兄さんが怖いよ」
「ファウスト兄様は関係ありませんわ」
「ファウスト様だけじゃなくて、ランバートも許さないよ。二人とも過保護だと思う」
「もう、そんな所ばかり似て! 私、もう子供じゃありませんわ。ちゃんと幸せになりますわよ」
ぷいっとそっぽを向いたアリアの内心は、とても複雑だった。
アリアが心に決めた決断を、二人はどう見るのだろう。どう考えるのだろう。反対するだろうか。それとも、分かってくれるだろうか。
ウルバスは、どう感じるのだろう。
「アリアちゃん?」
「あ! ごめんなさい、ちょっと考え事をしてしまって」
少しぼーっとしていたかもしれない。繕うように顔を向けると、ふわりと頭を撫でられる。心配そうなウルバスの顔を見て、胸が苦しくなった。
「アリアちゃんこそ、疲れてる?」
「大丈夫ですよ」
「でも、無理はしないほうがいいね。そろそろ行こうか」
「あ……」
もう少し、こうしていたい。
心に響いた言葉を、アリアは飲み込んで立ち上がった。我が儘を言うべきではない。今日で最後にしようとしているのだから、困らせたりしたくない。
素直に立ち上がったアリアを、ウルバスは困ったような顔をして見ていた。
王都に戻ってからはどうするのだろう? 思っていると、ウルバスが連れて行ってくれたのは中央関所の中だった。
小さな一室からは、なんだか小さな鳴き声がしている。そのドアを開けると、とても心癒やされる光景が広がっていた。
「あれ? ウルバス……と、アリアちゃん!」
「やぁ、ウェイン。順調に里親決まってる?」
フラットな部屋には柵ができていて、その中に十数匹の子猫がみゃーみゃーと声を上げていた。
「あの、ここって……」
「あぁ、砦で生まれた子猫の譲渡会なんだ」
柵に近づくと数匹の子猫がとてとてとおぼつかない足取りで近づいてくる。そしてアリアの手に体をすり寄せてきた。
「わぁ、柔らかい! 可愛い!」
「でしょでしょ! シュトライザーのお屋敷に一匹どう?」
「う……」
正直に言えば欲しい。確か屋敷にもネズミ駆除用の猫がいたはずだが……最近仕事しなくなったって言ってた気がするが……でもそんな簡単にもらうわけには!
「あれ? アリアどうしたの?」
「え? ハムレット先生!」
不意に後ろから声を掛けられて見ると、そこには籠を持ったハムレットが立っていた。
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その表情が、なんとなく刺さるのはきっと、同じ顔を自分もしそうだからかもしれない。
「さて。アリアちゃんはどうする?」
「あの、私……っ」
指にすり寄りゴロゴロ言っている子猫をそっと抱き上げて、胸の前に抱いた。暖かくて、柔らかくて……なんだかいい匂いがする。大切な命を抱いている感じがして、アリアはグッと奥歯を噛んだ。
「あの……」
「いいんじゃないかな、引き取ってみても」
「え?」
隣のウルバスがひょいと子猫を抱き上げて笑う。大きな手の平一つで抱けてしまうほど小さいその子は、アリアに向かってみーみーと鳴いている。
「これから本邸も新しくなるんでしょ? それに、お世話はアリアちゃんだけがしなくても大丈夫。皆で育てていけばいいんだから、あまり気負わなくてもいいんだよ」
皆で、育てていく。
ウルバスの言葉に、アリアは勇気をもらった。そしてウェインに向かって確かに頷いた。
「あの、この子引き取ってもいいですか?」
「勿論! あっ、でも引き取りは少し待ってね。今ここにいる子はまだ引き渡し前の検診してないんだ。ちょっと妊娠してる馬とかの検診とかもしててさ」
「あぁ、ランバートが可愛がってる牝馬もだね。しかも相手がフリムだから、期待大だし」
「そうなんですか!」
思わぬ話にアリアは驚いて声を上げた。フリムはファウストの愛馬で、早く走るけれど気性が荒いとアーサーが話していた。そのフリムのお相手が、ランバートの愛馬だなんてなんだか素敵だ。
「フリムは種馬にしては気性が荒いしえり好みが激しかったんだけど、二人で遠乗りとかに頻繁に行ってる間になんだかそんなでさ。飼い主の方が思いっきり照れてたよね」
「ランバートの方は持ち込みじゃなくて騎士団の馬だから、他の奴も乗るんだけれどね。でも、ランバートとの相性がいいのは確かだから」
「仔馬、ちゃんと生まれてきて欲しいですね」
「もっちろん! そんな事で、今うちの獣医忙しくてさ。七日くらいしたら引き渡せるから」
「分かりました、お願いします」
引き取りの子猫は小さめの籠の中に入れられる。赤いリボンにアリアが名前を書いて、それを籠にしっかりと結びつけた。
最後に籠を開けて小さな頭を撫でると、白いほわほわの体を擦り付けて甘えてくれた。
中央砦を出ると、十一月の空はもう茜色に染まってしまっていた。もう少し抱け側にいたいと思うのに、終わろうとしている。
「すっかり夕方だね。そろそろ……」
「あの!」
「帰ろうか」という言葉よりも前に、アリアは必死の声でウルバスを止めた。腕を引き、顔を見て、まだ帰りたくないと目で訴えた。
「あの、最後にもう一つだけ行きたい場所があるんです」
「それは構わないけれど。どこ?」
「以前、雪だるまを作ったあの公園に」
お願いすると、ウルバスは頷いてくれた。連れだって歩き出す街は少しずつ、建国祭へと向かう賑やかな飾りが施され始めていた。
約束の公園で、前と同じようにベンチに座る。けれどあの時みたいに雪ではしゃぐ子供の姿はない。まだ、根雪になっていないから。
「今年は暖かいね。雪もまだだし」
「はい」
「……アリアちゃん、何をそんなに悩んでいるの?」
心配そうに少し低い声で問いかけられて、アリアはびくりと震えた。いや、鋭いウルバスならとっくの昔に気づいていたのだろう。真っ直ぐな目がアリアへと向けられて、アリアは膝の上に置いた手をギュッと握った。
「あの……ごめんなさい!」
「アリアちゃん?」
「私、もうウルバスさんとは会えません!」
ようやく出た言葉に安堵したのは、アリアだったのかもしれない。未練がましく飲み込んできたものが、やっとの思いで出たのだ。
ウルバスは驚いていて……でも真剣な目でアリアを見ている。先を促しているように感じ、アリアは更に言葉を並べた。
「ごめんなさい、沢山親切にして頂いて。今日もとても楽しかったのに」
「……理由を、聞いてもいい?」
「……はい。既にご存じだと思いますが、私を囲う環境は大きく変わりました。シュトライザーの当主として、共に家を守っていってくれる男性を探さなければならなくなりました」
アリアの言葉に、ウルバスはただ静かに頷いてくれる。無言で促される先に、心臓が僅かにキュッとする気がした。
「ウルバスさんの事は好きです。でも……私の求める男性ではないのだと思います。私、ウルバスさんの騎士のお仕事、応援しています。だからこそ、これ以上側にはいられません」
ウルバスの事が好きだ。手紙で言葉を交わせば交わすほど、こうして会えば会うほどに離れがたい気持ちが押し寄せてくる。嬉しくて…………嬉しすぎて少し泣きそうで、離れる時には悲しくなる。色々と諦めてきたアリアにとって、はっきりとこれが初恋なんだと言えるものだった。
だからこそ、この道を選んだのだ。ウルバスを好きになったら、もしも受け入れてもらえるならば、ウルバスには騎士団を辞めてもらわなければならない。あの人から大切なものを奪い取ってしまう。
なのにアリアがあげられるものはないのだ。
体が弱くて子供を産むこともできない。ウルバスはきっといい父親になれるだろうに、自分の実の子を抱かせてあげる事は一生無理だ。
それどころか普通の夫婦ならば当然ある夜の営みも十分には応えられない。体に負担のある事はあまりできない。
発作を起こせば心配をさせてしまう。それも生涯だ。長期の旅行なども配慮しなければならない。
なのにシュトライザーという家を共に背負ってもらわなければならない。アリアが当主でも、結婚したら爵位は伴侶に移る。何もあげられず、我慢が多くて、にもかかわらず背負わせてしまう。
そんなこと、この人にはできない。
「伴侶を探すのに周囲を男がうろついているのは、都合が悪いんだね?」
ウルバスの静かな声に、アリアは頑張って頷いた。本当はこの恋心がこれ以上募ってしまうのが怖くて逃げるのだ。
ウルバスはしばらく、とても静かだった。空が暗くなって、雪が降り始める。静かな世界に二人だけになってしまった。
「……分かったよ」
「ごめ……」
「ううん、もう謝らないで。君の事情は分かったから」
声が柔らかくなって、アリアはずっと俯けていた顔を僅かだがあげる事が出来た。ウルバスは変わらない穏やかな目で見ている。そして、冷えてしまったアリアの頬を暖めるように触れた。
「でも、俺の窓は開けておく。辛くなったり、会いたくなったらいつでも手紙ちょうだい」
「そんな、都合のいいこと……」
「いいんだよ、それで。あまり自分を追い込まないで。助けてって、叫んでいいんだからね」
優しく髪に積もる雪を払ったウルバスが、手を伸ばす。その手に掴まり立ち上がって、アリアは帰路についた。とてもとても長く感じる、苦しい帰り道だった。
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