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9章:大河を渡りて

4話:神子姫の願い

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 ラダの案内で森の中を進むと、やがて教会が見えた。とても古い外観だが、中からは明かりが漏れている。

「私でも、ドアくらいは開けられます。その隙にお願いします」

 コンラッドに下ろしてもらい、ハリーが持っていた水差しを受け取ったラダは震えそうな体を気力で立てているように見える。歩き出すその姿は凛と強く、弱っているとは思えないものだ。

 クリフに様子を聞いた。彼女の体は治療が必要だという。事例のない事だから何とも言えないけれど、急激に体が弱っているとしか思えない。呼吸が乱れて不整脈の症状が出ているから、循環器系の検査も早くしたい。
 けれど、そう言ったクリフの表情は晴れない。そして一言「悠長に船旅ができる体力はないかもしれない」と言った。


 ラダがドアを叩く。それに応じて中から声がした。名を伝えればドアが開き、特に警戒もしていない男が腕を伸ばした。
 その瞬間、闇に紛れたチェルルが腕を掴みだし、男を引きずり出すと共にその首を掻き切った。
 真っ赤になった壁や天井。それを被ったラダの目は意外にも冷ややかだった。

「行くぞ!」

 開いた扉へと駆け寄ったメンバーが押し入った事で、教会の内部は驚く程の混乱を起こした。

「地下への扉はこちらです!」

 ラダの誘導によって地下に降りる面々は急いだ。その間に、一階に残るメンバーは次々に敵を切り伏せていく。騎兵府では滅多に出ない命令『殲滅』だ。

「掃除しとくから、そっちよろしく!」
「退路の確保もしておく。全員、無事でいろよ」
「あんまりのんびりしてると増援きそうだから、その前にお願いね」
「こっちは任せてね」

 ハリー、コンラッド、ボリス、ラウルが敵へ向かって剣を構える。にじり寄るような時間もない速攻に恐れをなしたのは敵だ。混乱が充分にきいている。

 地下へと降りる階段にも数人がひしめくように登ってきていた。それを先頭で斬り倒していたゼロスに押され、敵は徐々に数を減らしている。

「ゼロスだけずるいの~」
「レイバン!」

 まるで軽業師。ゼロスの肩を踏み台にしたレイバンがこれから上って来ようという敵の上へと落ちて、あっという間に斬り倒していく。派手な戦闘に楽しげな笑みを見せるレイバンもまた、ここ最近のストレスをぶちまけているようだった。

「行ってこい、ランバート。ここから下には誰も行かせない」
「ということで、救出よろしく~」
「できれば早く頼むなー」

 ゼロス、レイバン、チェスターが手を振る。その横を通り抜けて、ランバート、チェルル、クリフ、ドゥーガルド、ラダは地下三階へと降りていった。

 地下三階はとても静かだった。ここにはあまり人はいないのだと言う。あるのはたった一つの牢だけ。その牢の中に、その人はいた。

 すっきりとショートにされた白髪はエルの証。瞳は菫を思わせる薄い紫色。色白で、儚げな印象を受ける綺麗な人はラダとチェルルを見て目を見開き、次には嬉しそうに瞳を和らげた。

「アルブレヒト様!!」
「チェルル、本当に貴方なのですね」

 鍵を開けたチェルルが側へと駆け寄る。ベッドに腰を下ろしたアルブレヒトの膝元に縋り付いたチェルルは隠す事なく子供みたいに泣いた。その黒髪を梳くように、アルブレヒトは慈愛の表情を見せていた。

「よかった、無事で。顔色もいいですね」
「ごめ、なさい……俺が無茶して、アルブレヒト様を苦しめ……」
「良いのですよ。私がしたくてしたのです。貴方達が大切だからした事ですよ」

 この様子を見ていた帝国の面々は動けなかった。
 まるで尊い一枚の絵画だ。慈悲を与える神子に縋る子の上に、光が差すように見える。美しく、儚い。そんな一場面を見せられているようだ。

 紫色の瞳が不意に上がり、ランバートを見る。艶も感じる瞳が和らぎ、とても自然な笑みが見える。

「金色の狼。確かに貴方は美しい女神の加護を受けている。愛情深く、そして強い」

 手を延べられ、近づいた。その後ろからクリフとドゥーガルドも近づいてくる。側に行き、丁寧に頭を下げた。

「帝国騎士団のランバートと申します。カール四世陛下と、シウス……セヴェルス様の命により貴方を探し、お救いするために来ました。どうか、同行をお願いします」

 伝えると、アルブレヒトは静かに頷く。だがその前にと、アルブレヒトは涙を流すラダを手招いた。

「この子は弱っています。無理をさせられません。どうか、少しでも治療できませんか?」

 目配せをすれば、クリフが「当然」と頷く。そしてアルブレヒトを含めて治療を開始した。

「ラダさんから聞いていたほどの身体的虚弱は、アルブレヒトさんにはありません。ラダさんのほうがずっと弱いです」

 アルブレヒトの触診をしていたクリフが首を傾げる。それに、アルブレヒトが悲しげに瞳を伏せた。

「ラダさんは絶対に安静です。アルブレヒトさんも筋力が落ちているみたいなので、無理はできないと思います。船で治療をしましょう」
「ドゥーガルド、アルブレヒトさんを。俺はラダを運ぶ。チェルル、先導頼む」
「任せて!」

 チェルルが先頭を走り、その次にドゥーガルドがアルブレヒトを背負って走る。その後ろをランバートが、最後をクリフが追いかけた。

 二階は大方終わっていた。ゼロス、レイバン、チェスターとも合流して更に上へ。一階へ到達すると、予想に反してまだ戦闘は続いている。

「ごめん、よくわかんないけど奥からゾロゾロ出て来て!」
「これ、周辺に居るって言ってた奴等も集まってきてた?」
「昨日、ここを離れた二人が帰らなかったから……」
「「あぁ……」」

 知った様子に、騎士団一行は溜息しか出ない。自業自得だ。

「とにかく出るぞ!」

 ボリスとゼロスが入口に向かい敵を斬りながら突破していく。殿はハリーとコンラッドが勤め、側にはラウルとチェルル、そしてチェスター、レイバンがついた。

 外はまだ夜の闇が包んでいる。まだ肌に寒いと感じる夜の森を、全員は船へと向かって走っていった。


▼アルブレヒト

 大きな背に揺られながら森の中を進んでいく。この道のりを、絶望なく進む日が来るとは思っていなかった。巻き込んでしまった大切な仲間達と再会出来る日など、来ないと思っていた。

「ラダちゃん大丈夫かな? なんか、凄い辛そう」

 ハリーの声に後ろを振り向く。ランバートの背にいるラダの光が消えてしまいそうなほどに弱まっている。
 でも、どうしてあげる事もできない。弱った自分ではあの子の命を肩代わりしてあげられない。そもそも、彼女の命を吸い上げたのは他ならぬアルブレヒトだ。

 人の怒号が聞こえる。教会の残りが追ってきたのだろう。

「このままだと船が危ない。ここで全滅させるのが得策かも」

 後ろへと下がったラウルが心配そうな声を上げる。副官らしいゼロスも同じ事を思うのだろう。
 だが、この隊の指揮を任されているランバートはとても冷静な判断を下した。

「アルブレヒトさんとラダを匿えて、かつある程度動ける視界を確保できる場所までは行く。木立ばかりの場所だと立ち回りができない」
「それならこっち」

 チェルルが先頭を走り、それに全員がついていく。いつの間にかこの中にも馴染んだチェルルは出会った頃の使命感も誇りも取りもどしたような輝きを放っていた。

 やがて場所が開けてくる。森の中にぽっかりとできたそこはわざと木を払ってある。ほんの僅か残った光の残滓が、ここが特別な祈りの場所だと臭わせている。

 アルブレヒトはその側にある大木の虚に下ろされた。人が一人入っても窮屈ではない。そして腕の中にラダを抱いた。

「片付けてきます。クリフもこの側に控えて。コンラッドも」
「うん、わかった。コンラッド、頑張るから」
「無理することないから、怪我しないようにだけ気をつけてくれ、クリフ。君に何かあると治療できる人がいなくなってしまう」

 ポンと頭を撫でるコンラッドを見上げるクリフは少し悔しそうでも、己の役割はわかっているのだろう。だから、彼は強い光を胸に秘めている。
 そしてそんな彼を、仲間を思うコンラッドの胸にも確かに柔らかな光が宿っている。

 彼らは皆、色や特性は違えど魂が光を放っている。強く、大きく、時に優しく。この光をしばし見ていなかった。ラダ以外、胸に光を宿すような者がいなかった。
 欲望にまみれ、他を追い落とし、貶める事で己の願望を満たすような者はどんどん光を失っていく。そして、醜悪な臭いを発する。そんな者達は死しても良い結果はない。穢れを落とさなければ魂は次に行かず、墜ちきれば煉獄を彷徨う。
 不思議だ。目の前の彼らの胸にも影はある。コンプレックス、罪悪感、過去や、憎しみ。必ず持つ人の負を持っている。それでもなお、輝きは絶えない。負すらも糧に命を燃やすようで、煌めいて見える。

「アルブレヒト様」

 腕の中の熱い体を抱きしめて、アルブレヒトは願う。煌めく太陽のような明るい光を放っていた命は腕の中で消えてしまいそうだ。この体に触れている事すらも彼女を弱らせるのではないか。そんな恐れに、震えている。

「大丈夫、一緒に帝国へ逃れましょう。そこで貴方は治療をして、また元気になってください」

 優しく髪を梳いて微笑んだ。少しでも安心してもらいたかった。否、安心したかったのはアルブレヒト本人だ。
 けれどラダは熱い手で触れて、首を横に振る。瞳は真っ直ぐに、強情に見える。僅かに命の光が強くなった。こんな時なのに、どうしてそれほどに頑張れるのか。神と人の子として生まれ、これで三度目。それでも人の強さの根底は未だにわからない。

「アルブレヒト様に、全部差し上げます」
「受け取れません。もう大丈夫。後は普通の治療で回復できますよ」

 言葉に嘘はない。ただ、それでも元の寿命を生きるだけ。後数年、長らえるだけだ。
 それを知っているように、ラダが首を横に振る。そして、そっと腕に触れた。

「私の全部を、受け取ってください」
「もらえませんよ」
「長生き、して欲しいです。アルブレヒト様には幸せになって欲しいです。私も貴方の一部になれれば、一緒にその幸せを感じられたなら……それは、私も幸せです」

 こんな時に、天使のように笑わないで欲しい。胸が締め付けられる。悲しみが溢れてくる。喉の辺りで引っかかっている苦しさは、今まで知らないものだった。

 剣を打ち鳴らす音が聞こえてくる。彼らは圧倒的に強いが、数がとにかく多い。それに敵は教会にいた者達ばかりではなかったようだ。四方から襲ってくるからか、取りこぼしが数人コンラッドの前にも立ち塞がっている。

 それでも彼は冷静で強い。一気に四~五人が襲っても冷静にいなして一人ずつ確実に倒していく。

 でも、感じている。悪意が押し寄せる。囲っている。

「っ! クリフ気をつけて!」

 背後から迫る悪意を感じる。大木の後ろ、そこからここを目指して。

 クリフは完全に死角になっていたのだろう。アルブレヒトの言葉で剣を向け、ギリギリで受け止めている。でも、彼は元々が騎士とは違うのだろう。力で負ける。押し込まれ、後ろに倒れたクリフへと剣が振り下ろされ、赤い血が顔の半分を汚し倒れたまま動けなくなった。

 視線がこちらに向けられる。血走った瞳が標的を見つけてニヤリと笑う。

 守らなければ。少なくとも、ラダだけでも。

 近づいた男が虚の中のアルブレヒトめがけ剣を振り上げる。腕の中のラダを抱きしめた、そのはずだった。

「ラダ!!」

 小さな体がすり抜けていく。小さな体で目一杯に腕を広げ虚の前に蓋をするように立ちはだかったのと、赤い血飛沫が上がったのはあっという間の事だった。

「ぐはぁ!」

 ラダの体を抱きとめた。小さな体は胸から脇腹にかけ、深く裂けて血を溢している。
 血を止めようと服を脱ぎ、傷に当てた。だがそこで、アルブレヒトは恐れに手を止めた。

 血に触れる、その指先から楽になる。命の最後の一滴まで吸い上げるように、体が楽になっていく。

「ア…………さま」

 光の消えた瞳が優しく笑い消えていく。鮮やかな太陽の光が、体から抜け落ちていく。

「ラダ……」

 迫っていた男を切り伏せたランバートが、辛そうな顔をして体に服を着せかけている。熱が消えていく体は、全てのしがらみから解き放たれたようだった。

 強く、抱きしめる。胸の奥がザワリと騒いで、冷たくなっていく。ドクドクと、心臓が煩い。
 初めて感じた。この感情は、憎しみだ。大切な者を奪われて、初めて憎くて涙を流した。許さない、許さない! 強すぎる感情が、悲しみがせめぎ合って忙しい。この心はもっと凪いでいたはずなのに。

 ふわりと抱きしめる腕がある。実態のない腕、無邪気な笑み。光に包まれたそれは、アルブレヒトにしか見えない姿で現れた。

『良かった、無事で。良かった、元気になれますね』
「なにも、よくない……」

 アルブレヒトにしか聞こえていない声。より強く、冷たくなった体を抱きしめた。その横で、浮かび上がるようなラダが笑っている。

『これでいいんです、アルブレヒト様。私、幸せです』
「何が幸せなのですか。貴方は、死んだのですよ」
『はい。もう、痛くも苦しくもありません』

 おかしそうな少女の笑い声。見つめると、少女の手が触れようとする。触れられないのが少し残念そうだ。

『アルブレヒト様、ラダは幸せです。何も知らずに死ぬはずだった私は、貴方から沢山の優しさをもらいました。貴方と知り合って、人を愛する事を知りました。貴方の側にいられて、私はとても嬉しかった』
「ラダ……」
『これからは、貴方の一部となって貴方の側にいます。大好きな方の一部ですよ? とても嬉しいです』

 その表情に嘘がない。瞳に、迷いがない。すり抜けるような光の粒がアルブレヒトの体に飛び込んで、中に消えていく。
 ドクドクと血が巡る。体の不安定さが消えていって、かわりに入り込む感情の波に攫われる。憎しみ、憤り、不愉快。朧気にはあった感情が如実になる。
 そのかわり、遠ざかるもの。父なる神の、その光……

「……大丈夫ですか?」

 ラダの体を抱きしめたまま泣き崩れていたアルブレヒトに、ランバートが声をかける。心配する青い瞳。その後ろには美しい女神がついている。
 全ての力を失ったわけじゃない。まだ……彼女の死を意味のあるものに変えられる。この命に、意味を与えられる。

「大丈夫です」

 不安定さもなく立ち上がれた。それでも、筋力が落ちているのだろう力しかない。
 これは、少し鍛え直さないといけない。

「クリフは、大丈夫ですか?」

 チェルルが倒れたクリフの手当をしている。大丈夫、光は消えないし弱っていない。

「大丈夫です」

 額に布を当てている。出血が多かったのだろう。

「とりあえず片づいた。クリフは俺が背負う。アルブレヒトさんは……」

 全部を本当に片付けたのだろう騎士団が戻ってくる。コンラッドが怪我をしたクリフを抱き上げ、荷物はボリスが持った。
 ドゥーガルドがアルブレヒトを背負おうとしたが、アルブレヒトはその背を軽く叩いて進んだ。

「大丈夫、歩けます」

 もう、甘えてはいられない。必要以上の優しさはいけない。自分の甘さが、慈悲と自己犠牲という愚かさがどれほどの悲劇を生んだんだ。
 時を戻せるなら、今の私はいけないと思いながらもキルヒアイスを殺した。あの子の中の黒い憎しみを知っていたのに、許した愚かな自分を叱責してやりたい。
 これが、人の感情。誰の中にもある、黒いもの。

「この子は、俺が連れていくよ」

 ハリーが冷たくなったラダを大切に抱き上げてくれる。その様子に、悲しいながらも感謝が沸き起こる。
 人はとても複雑で不安定な感情を持つ。これほどに人を憎み、恨み、殺してやりたいと黒い感情に飲み込まれるのに、ラダを大切にしてくれる彼らに対しては深い感謝に洗われる。
 持たざる感情を持つ。斬新な感覚の中で、アルブレヒトは真っ直ぐに前を見て胸元に手を置く。

 犠牲を、無駄にできない。生きろと言われた全てをもって、成すべき事を成さなければならない。
 この国をこの手に取りもどす。そして、この世界に和平を。
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