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15章:王弟の落日

3話:とある宰相の転落劇・3(ナルサッハ)

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 姉を看取って、私は王都へと戻ってきた。ケユクスとウルズは城に行く前にエトリムの家に預けて、頭を下げてお願いをしてきた。
 そうして戻って来たのはもう遅い時間だったのに、アルブレヒト様は私を待ってくれていた。

「おかえり、ナルサッハ」

 穏やかに迎えてくれたその笑みを見た途端、張りつめていたものが一気に緩んだ。

「うっ……くっ、うぅ……」

 こみ上げる嗚咽が涙と一緒に溢れて止まらない。この人の前で泣かないようにと思っていたのに、醸し出す空気に触れた途端にどうにもならなくなった。
 そっと立ち上がった人が、柔らかく抱きしめてくれる。包まれる温かさと、柔らかな光。縋りたくなるその優しさに、私はワンワンと声を上げて泣いた。

「大丈夫ですよ、ナルサッハ。大丈夫」
「う……っ」
「辛い事も、苦しい事も、我慢しなくていいのですよ。私の大切な友よ、貴方の悲しみが私にはとても痛い」

 肩口に引き寄せられて、存分に泣いて、涙と一緒に胸の中の重いものが流れ出る。大切なものは流さないのに、苦しさだけを。

 私はその夜、沢山の話をした。ラン・カレイユでの事、母と姉の事、妹の事。
 アルブレヒト様に話すのをずっと躊躇っていた。知らせてもどうしようもなくて、醜さを晒すようでできなかった。重いものを押しつけてしまうようで言えなかった。
 けれどアルブレヒト様はずっと聞いてくれて、抱きしめてくれて、一緒に泣いてくれた。

 私はこの人の為に生きよう。この人の為に全てを捧げられる。清らかな人、優しい人。こんな私を受け入れてくれる場所。この場所を守る為なら、どんな苦しさも辛酸も舐める覚悟ができた。


 それから、私はひたすら学んだ。朝から晩まで勉強をして、エトリムから礼節を学んだ。
 臣になる。政治を動かす者になって、後に王となるアルブレヒト様を支えて行く。

 それというのも、アルブレヒト様とその父君である現王を囲む状況は、決して良いものではなかったのだ。
 現在国を動かしているのは古い時代からの家臣だが、それも二派に分かれている。権勢を振るっているのは、奸臣と呼ばれる部類の人々だった。
 彼らは古くからこの国に根を張り、王家とも癒着して私腹を肥やしている。仕事は自分達の腹を肥やす方向にばかり向かい、民は置き去りになっている現状だ。
 それでも国という形を保てているのは、穏健派と呼ばれる生真面目な勢力もあるからだった。

 この中で現王とアルブレヒト様は、民中心の国家へと移行しようと奮闘していた。一部の貴族や軍人に流れている富を民にも回るように法律などを変えようとしているのだ。
 当然上手くはいっていなくて、神経をすり減らしている。

 これを聞いたとき、私は宰相を目指す事に決めた。アルブレヒト様の世代になった時、私も宰相となってあの方を支えていけたら。そうしたら、アルブレヒト様を助けていけると。

 だが、私が直面したのは知力や誠実さ、能力という個人の努力ではどうにもならない問題だった。

「な……どうして失格なのです!!」

 国政に携わる為の登用試験に、私は落ちた。試験官をした男の服を掴んだ瞬間、流れ込んできた言葉は私を絶望に突き落とした。

『何を勘違いしてるんだ、この奴隷上がりが』
「え?」

 それは間違いのない、蔑みの声だった。

「あの……理由をお聞かせ頂けませんか?」
「理由? あぁ……」
『こいつを城に上げて、なんの旨味があるってんだ。金も落とせない卑しい生まれが』
「面接で不合格だと聞いているが、詳しい事は知らん」
『あの王も、王太子も、さっさと死ねば楽ができるってのになぁ』

 あぁ、腐っているんだ。根元から、ダメなんだ……

「……そう、ですか」

 私は絶望の中で手を離した。この国は今、死病にかかっているんだ。根元から腐っていっている。新芽を枯らし、侵食し、腐った根を更に張り巡らせようとしているんだ。

 どうする事もできなかった。奴隷上がり、否定できない。卑しい生まれ、そうかもしれない。帝国を逃れ、奴隷に落ちて、今はアルブレヒト様の側。でも、あの人の役に立つことができない。所詮は愛玩動物から脱していない。

 そのまま城を出た所で、一人の男が声をかけてきた。穏健派の、クヴァシルという男だったと思う。

「ナルサッハ、少しいいか?」
「……はい」

 私は呼ばれるままについていった。俯いたまま、トボトボと。
 そんな私が連れてこられたのは、古い書庫だった。

「登用試験、落ちたのか」
「……はい」
「……方法がないわけじゃない」
「え?」

 方法が、あるのか?

 クヴァシルは溜息をついて、この国の腐った部分を口にした。

「この国は最初は、帝国と呼ばれる国と対を張る先進国だった。だがそれも、最初だけだ。数代経たところで、王が国政を放り投げて遊びほうけた。その時国を支えて政治を行ってきたのが、現在の家臣団の起こりだ」

 知っている。怠惰な王が生まれ、家臣が国を支えた。そしてその後のジェームダルの王は、皆が何かしら怠惰だった。

「この時、味をしめた家臣がいた。王を誑かし、自らの娘を王妃に添えて、生まれた王子を次の王にして。そうして勢力を伸ばしたのが、今権勢を振るっている者達だ」

 では、もう随分と昔から狂っていたんだ。もうずっと、この国は毒に侵され殺されてきたんだ。

「当然これをおかしいと感じる王子も生まれたが、そうした者は淘汰された。事故や病気に見せかけられ、より堕落して傀儡になりそうな王子を擁護して、また王妃に身内をあてがい。そうして長く、この国は貪られていった」
「どうして、それを許していたのですか……」

 呟きは小さかった。けれど、力はあった。
 クヴァシルはやや、苦い顔をする。

「許したくはなかったが……国を人質に取られているようなものだ。我等負け組が仕事をしなければ、この国はあっという間に倒れる。奴等が倒れる分には構わんが、あのような輩こそ逃げ足が速い。割を食うのはいつも民だ」
「民だって」
「何度も反乱があったさ。だが、その度に鎮圧された。軍部もまた、甘い汁を吸っている。誰もまともに戦う事はない。反乱を起こした民は辺境地へと流され、そこから出る事が許されないらしい。他民族が攻め込んできた時の為、生け贄にされていると聞く」
「そんな事が許されるんですか!」

 思わず立ち上がってしまった。どうして、そんな外道な事ができるんだ! 同じ人なのに!

 けれど、これが間違いなんだ。奴等の中で一部の選ばれた人間以外は、虫けらと同じ。働いて、ダメになったら切り捨てても替えのきく存在なんだ。
 虚しくて、震えた。どこに、真っ当な世界はあるんだろう。アルブレヒト様も、国王陛下も頑張っているのにどうして邪魔をするんだ。どうして……

 クヴァシルはなんとも言えない顔をして、私の肩を叩いた。

「誰か、今の家臣団の主力の家に養子として入れ。そうすれば、政治の場に立てる」
「え?」
「穏健派はダメだ、負け組とみなされる。どんな末端でもいい、主力組だ。そこでしばらくの間、何食わぬ顔をして仕事をしろ。アルブレヒト様の治世になったら、お前の力を発揮するんだ。今のうちに地位を上げて、反旗を翻した時には誰も何も言えないくらいにしておけ。お前ならできる。何せ今年の登用試験、お前は論文も筆記も歴史も、全てが満点だったんだ」

 元気づけるように二度、クヴァシルは肩を叩いて出て行った。私は、悔しさと虚しさと絶望に拳を握った。
 誰が、養子になどしてくれるものか。目を付けられている今、誰が……


 城に戻ると、アルブレヒト様は寝台から体を起こして微笑んで迎えてくれた。
 最近、アルブレヒト様は体調を崩して伏せることが多くなっている。その原因は、予言だ。教会を通じて民を災厄から守る為に、この方は神に願い予言を行っている。
 でもこれは、無償ではない。対価を払っている。そのせいか、予言を行って少しして体調を崩す事が多くなっていた。

「おかえり、ナル」

 立ち上がろうとした人を、私は慌てて駆け寄って押しとどめ、寝台に戻した。

「無理をなさらないでください、我が君」
「大丈夫、もう体も楽になっていますから。季節の変わり目は嫌ですね」

 違う、違う! 貴方は命を削っている。教会は貴方の命を食い物にして、自らの権勢を強める事ばかりに邁進している。お布施が増えたとか、信者が増えたとか、そんな事ばかりで貴方を食い潰している。
 このままでは、この人は死んでしまう。かつて帝国建国の王に仕えた聖ユーミルもそうだったじゃないか。予言をして、民を導き、奇跡を起こして。でも最後には加護を使い果たして守ってきた民に裏切られ、傷つけられ、その傷から腐っていった。
 同じだ、この方も殺される。人を人とも思わないようなこの国に食い潰されて殺される。そうして後釜につくのは、あのろくでもない従兄弟のキルヒアイスだ。
 あいつは既に主流派に取り込まれ、幼い頃から甘言の中で生き、好き放題に勝手をしている。あんな男が国の王になったら、本当にこの国は腐ってしまう。

「ナル?」
「アルブレヒト様……我が君……」

 私は貴方に生きて欲しい。貴方の治める世を見たい。絶望に落ちそうな私の心を救い上げる貴方だからこそ、今度は私が支えたい。
 この日から、私は必死に自分を売り込んだ。どんな木っ端役人でもいいから、役人になることを目指した。振りたくない尾も振ってみせた。引きつりそうな心で愛想笑いをした。そうしてようやく、臨時の役人に取り上げられた。


 そして同じ頃、私に思ってもみない申し出があった。

「え? 養子、ですか? 私が?」

 私は現役の大臣をしているサルエンという若い男から、養子の話を受けるようになっていた。
 彼は仕事は真面目で、主流派にしては珍しく金銭欲のない男でこれといった汚い話も聞かない。周囲からは「生真面目」という声が聞かれる。
 最近妻子を亡くしたらしく、寂しい時を過ごしているというのも聞いた。

 一見、悪くない。だが私は彼が苦手だ。触れると流れる感情は読み取れない。けれど、ドロリと絡むようにまとわりついて気持ちが悪い。

 それでも私は自分の能力に自信をなくしていた。必要性が薄くなったのか、少し鈍感になっている気がしている。勘違いということもある。特にサルエンは言葉が聞こえるわけじゃない。あくまで印象なのだ。

「君は、宰相になりたいのだろ?」
「えぇ、まぁ……」
「だが、現宰相の息子がいると難しい……というか、君の後ろ盾ではほぼ不可能だ。能力はあっても、あの男が地位を手放すとは思えない」
「……」

 それは分かっているし、腹が立つ。現宰相の息子はバカだが、地位だけはある。いくら貢いでも私では足元にも及ばない。能力は私の方が高いはずなのに……

「私は君の才能が潰されていくのは、惜しいと思っているんだよ」
「私の、才能?」
「頭もよく、機転も利く。君は国を回すために生まれてきたような才児だ」

 まるで持ち上げるような言葉を疑うのは、私の醜さだろうか。どうにも疑いの目で他人を見てしまう。
 だがサルエンは次に表情を少し悲しげなものに変えた。

「それにもう一つ。私は妻子を亡くして、跡取りがない。君のような優秀な子が跡取りであったなら、安心できるんだが」
「……考えさせてください」

 悪い話じゃない。いずれは誰かの養子になって、足がかりにしなければと思っていた。そこに現役の大臣だ、渡りに船とも言える。
 だがその一方で、都合が良すぎないか? まるで測ったようなタイミングじゃないか。触れた時の絡みつくような印象も嫌いだ。
 ただ、嫌いだというだけで具体性がない。これで一言でも「抱きたい」とか「私のものだ」という声が聞こえたなら、躊躇い無く蹴りつけるのだけれど。

 どうするのが正解か、私の天秤は大きく揺れていた。


「ナル、庭に出ませんか?」

 休日、呼ばれた私はアルブレヒト様と一緒に中庭に出て、よく一緒に過ごした木の根元に腰を下ろした。
 キラキラキラキラ、木漏れ日が心地よく風が吹き抜けていく。
 顔色の良くなったアルブレヒト様がそこにゴロンと横になる。そして、私にも勧めてきた。
 草地に横になると感じる若葉の臭い、土の臭い。木の葉を透けて届く日の光。肌を撫でる心地よい風。瞳を閉じるとそこは、遠い故郷と錯覚するようだった。

「気持ちがいいですね」
「えぇ」
「……何を、悩んでいるのですか?」
「え?」

 驚いて目を開けると、顔をこちらに向けたアルブレヒト様がジッと見ている。静かなのに逃げを許さないその視線に、私は嘘をつけない。

「最近、無理をしていませんか? 辛いのに笑っている貴方の姿を見ると、心が痛みます」
「無理などしていませんよ、我が君。貴方こそ、お体は……」
「体ではなく、心が無理をしていませんか?」

 触れそうだった手を、ギュッと握られる。流れてくる、心配の感情。ここにきて一年以上が経ったんだろうと思う。あまりにあっという間で、もっと短いような気がしているけれど。
 その間に、二人とも少し大人になった。アルブレヒト様は王太子としての仕事が。私は役人になるための勉強が。
 それでも触れあう手は違う。初めて会ったあの頃と同じ、温かく包むような慈悲を見せてくれる。

「ナル、貴方が私の為に頑張ってくれているのは知っています。けれどその為に、貴方が苦しい思いをしているのであれば止めてください。私は貴方が側にいれば、それ以上は求めません」

 キュッと握られて、心の中のモヤモヤしたものが薄らぐ。同時に流れ込むものは、心からの心配だった。
 家臣達はこの人を「世界を知らないバカ王子」と心の中で罵る。けれど私からすると彼らこそ知らないのだ。これほどに人を想い、世を憂える方はいない。人の悲しみを知り、苦しみを癒やす人はいない。

「私は苦しくなどありません、我が君」

 私は笑う。この方に触れ、この方と言葉を交わすと心の奥底から希望が生まれる。そして、勇気がわいてくる。挫けそうなとき、心の中にこの人が宿る。温かな光を抱きしめるだけで、目の前の困難がちっぽけに思えてくる。

「ナル」
「平気です。私は私の見たい未来の為に、今を生きているのです。貴方の為ではありませんよ」

 そう、これは私の願い、私の希望。この方の治世を見たいという、私の押しつけなのだろう。それでも譲るつもりのない未来だ。

「それよりも陛下、辺境地へ赴くと聞きましたが……大丈夫ですか?」

 思い出して問いかけると、アルブレヒトは苦笑して頷いた。
 忘れられた地などと言われる国境の町へ、アルブレヒト様自身が赴かれて復興と救済をする事となった。王太子として、実際の復興に御自ら手を尽くされるのだ。
 だがこれは主流派の口実だろう。実際は王太子として力をつけてきたアルブレヒト様を邪魔に思って、一時的に遠ざけようとしているのだ。
 アルブレヒト様と現王陛下はどちらかと言えば穏健派と親和だから、上手く動かなくなっている。

「平気ですよ、体調もいいですしね。それに彼の地では自分達の生活を守ろうと辺境義勇兵なる民兵が頑張っているとも聞きます。彼らの事も救い上げてあげたい。ただ、時間はかかると思います」
「そう、ですね……」

 ズキリと少し痛むのは、この方の広い優しさを独り占めしたいという嫉妬だろうか。誰よりも側にいる私は今まで、この方の愛情を独り占めしていた。その目が他者に向くのが、面白くないのかもしれない。
 こんな時、心を知られなくて良かったと思う。もしもこの方に私のような心を読む能力があったら、こんな浅ましい考えも読まれてしまう。嫌われてしまうだろう。
 だからこそ、この方に私の能力を教えられずにいる。触れた相手の心を読むなんて、知られて気分の良い者はいないだろう。知られてしまったら今のように、触れてくれなくなるだろう。

「ナル、待っていてくださいね。出来るだけ早く戻ってきますから」
「はい、お待ち申し上げております。我が君」

 本当は、ついていきたい気持ちもある。この方の側を離れる事は、私が不安になるのだ。甘ったれている気もするが、辛い時の安らぎだから。どれだけ蔑みの声を浴びても、日の終わりにこの方と夕食を共にし、談話室でたわいない会話をし、笑い合う事で癒やされているのだから。
 だがついていっても、きっと迷惑をかける。この方は王太子だが同時に戦士でもある。アヌンド老将と剣の鍛錬をしているし、弓の腕は国でも秀でた才能を持っている。森の戦士としての才能も、この方にはある。
 それに比べ、私はてんでダメだ。こんな事なら嫌わずに、弓の腕でも磨いておけばよかった。そうすれば今、この方と共に行けたのに。

 そっと、温かな手が触れて目の前を見た。こちらに寝返りを打ったアルブレヒト様の手が、頬を撫でている。そしてそっと近づいて、柔らかな唇が額に触れた。

「ナル、自分を信じて、自分に正直に生きなさい」
「え?」
「影があります。貴方に災いがないように、呪いをかけました。ですが貴方の心次第で、呪いは弱まってしまう。貴方の感じるものを、心にあるものを信じるのですよ」

 不安そうに揺れる薄紫の瞳を見つめ、私は微笑んで頷いた。


 それから数日で、アルブレヒト様は辺境へと旅立たれた。妙に寂しくて、見送る時に何度も口を突きそうになった。「行かないで」「連れて行って」と。
 その言葉を飲み込んだ事が、地獄への入口だったのだろう。私が私ではなくなる、そんな地獄が大きな口を開けて待っているなんて、私は思っていなかったのだ。



 アルブレヒト様が旅立たれて、しばらく。突如宮中は騒がしくなった。現王陛下が、御倒れになったのだ。

 不安に思いながらも私は期待もした。この状態ならば、アルブレヒト様が戻される。そう思っていた。
 だが宰相は突如、その後がまにキルヒアイス様をと強引に押し上げて、アルブレヒト様には連絡すらしなかったのだ。
 政権乗っ取り。私の目にはそのように思えた。

「ナルサッハ、苦労させて申し訳ない」
「陛下、そのような事は。まずは御身を一番に考えてください」

 枕元に私を呼んだ陛下は、とても疲れた顔をしていた。
 髪色や瞳の色は違えど、面差しはアルブレヒト様に似ている。優しい瞳も同じで、温かな心も同じだ。
 一方のキルヒアイス様の目はどんよりと曇り、平時は無関心。王の代行だというのに眠そうに欠伸をして、報告には全て「良きに計らえ」としか言わない。
 こういう王を育てる事が、主流派の目的だったのだろうと思う。一方で女好きは見事なもので、メイドの尻を触ったり、胸を触ったりと苦情が酷い。今までは同じ敷地にある離宮にいたが、そこでも女性問題は常だったと聞く。

「アルブレヒトが戻るまで、この体が保てばいいのだがね」
「そんな弱気な事!」
「情けないが、事実だよ。あの子が王位につけば、この国はもう少し変わる。出奔していた意味があるというものだ」
「……それは、どういうことでしょうか?」

 不穏な空気にピクリと身を震わせると、陛下は苦笑して頷いた。

「元来研究好きであるのは、そうだよ。植物学を修めて、この国の民が苦しまぬように新しい薬草の研究と、こちらで栽培可能かを検証する。それは勿論目的だったけれど、もう一つはこの国に取り込まれる前に弟か私、どちらかが外に出て子を設け、害の無い世界で育てる。それが目的でもあったんだ」
「そんな……」

 諦めたように苦笑した陛下が、私の頭を撫でる。その手からはアルブレヒト様と同じ優しい温もりを感じる。同時に、諦めの感情も。

「弟は優しくてね、私を逃がしてくれた。そして決して、自分が王位に就くことがあっても家臣達に飲み込まれないと誓い合った。そして死ぬまで、それを貫いてくれた。だからこそ、邪魔だったのだろうね。可哀想な死に方をさせてしまった」
「戦死なさったと……」
「孤軍奮闘の末だ。援軍を求めたが、来なかった」
「そんな……っ」

 ではこの方の弟もまた、殺されたのと変わらないのか。

「遣いから話を聞いて、どれほど自らを責めたか分からない。アルブレヒトを連れて戻ってきて……再会した時には首から下は隠されていた。どれほどに詫びても、足りないほどだったよ」
「キルヒアイス様を引き取られたのですよね?」
「あぁ、そうだね。その頃既にあの子の母も亡くなっていたから。独りぼっちにするのは可哀想だったし、何よりアルには子が作れない。キルヒアイスを側に置く事に異論はなかった。けれどこの時、もうあの子は家臣達に取り込まれてしまっていた。私達兄弟の懐柔に失敗した奴等の行動は早かった」

 腐っている。真っ当な人間を排除して、自分達の傀儡を育てて。そうまでして甘い汁が吸いたいか。国という大樹にしがみつき食い尽くす害虫と何が違うんだ!

 憤慨する私の頬を包むように、陛下は触れる。憂いのある優しい笑みが、いっそう心に刺さった。

「ナルサッハ、苦労をかけるね。だが、無理をしなくていい。アルブレヒトがどんな選択をするかは分からないけれど、お前の道を進んでいいよ。なんなら、こんな国奴等に渡してもいい」
「そんな!」
「そうして、故郷へ帰ってもいいんだ」
「え?」

 故郷……帝国に?

「帝国は少しずつ変わっていくだろう。今の王太子は広く他国も見聞きし、人と交わる者と聞く。その子が王となれば、きっと世界は大きく動いていく。君たちエルの待遇も、変わるかもしれない。それに教会に助けを求めれば受け入れてくれる。聖ユーミルを柱とする教会だ、エルを迫害はしないと聞くよ」

 帝国が、助けてくれる? 教会はエルを迫害しない?
 知らない。そんな事、知らなかった。ではあの時、エルの悲劇が起こった時、もしも帝国の教会に助けを求めていれば母も姉も妹も、あんな悲惨な末路を歩まなくてもすんだのか?

 でも、今更だった。それに今は、あの時代を一概に憎んでいない。もしもあの時帝国へと逃れていたら、私はアルブレヒト様に出会えていなかった。穏やかな平穏はあったかもしれないが、この出会いがなければ私は心からの安らぎや希望、未来を描いてはいなかった。

「アルブレヒト様に、ついてゆきます」

 伝えると、陛下はどこか安堵したように微笑んでくれた。

 私はエトリムに頼んで、陛下の食事は勿論のこと、飲み水や寝所、香りまで怪しげなものが持ち込まれないかを監視してもらった。
 心労などはあるだろうが、こんなに急激に体調が変化したのは何かしらの毒を考えたのだ。主流派にとって陛下やアルブレヒト様が上に立たれる現状は好ましくない。我慢の限界なのだろうと思ったから。

 そうして数日で犯人は捕まった。メイドの一人が陛下の枕元に、毒の香を忍ばせていたのだ。
 そうして役人の一人も捕まり、その後釜に私が納まった。臨時から、正式な役人となったのだ。穏健派と陛下の後押しがあって、ようやくだった。

 私は気付かなかった。陛下暗殺をとりあえず阻止して、役人にもなれて、浮かれていた。気付くべきだった。奴等の目が、私へと本格的に向いた事に。


 役人として仕事を始めて少し。私はサルエンからディナーに誘われた。そこで、最後通告が行われたのだ。

「ナルサッハ、私の養子になる気はないかい?」

 私はこの誘いを、未だに保留にしたままだった。その後も私は積極的に売り込んでいたが、彼以外は申し込みがない。このまま役人として実績を上げる事も考えるが、陛下の状態がこのまま快方へと向かうとも限らない。毒の影響はあれど、長年の心労が根底にある事は変わらないのだから。

 出来るだけ早く、後ろ盾は欲しい。その時、サルエン以上の地位持ちもいなかった。

「実は数人、養子にと申し入れがあるんだ」
「え?」
「私も少し、迷っていてね。個人的には君の才能を埋もれさせたくはないのだが……」

 それは、早々に決めなければもう私にチャンスはないということか?

 迷った。この男から感じる印象は変わらない。だがそのバックは、あまりに魅力的だ。アルブレヒト様が戻られる前に少しでも力をつけておきたい。役人になったとはいえ、底辺だ。掃いて捨てられる部分だ。
 何処かで、警報は鳴っている気はした。アルブレヒト様の呼ぶ声も聞こえる気がした。けれど私は、焦っていたのだ。この国を、アルブレヒト様の帰る場所を守るのだと。

「分かりました。そのお話、謹んでお受けいたします」

 私は地獄へのドアを、自らの手で開けてしまったのだ。


 すんなりと養子となり、私はサルエンの屋敷に移った。そうして数ヶ月、私の仕事は驚く程に順調だった。地位も少し上げ、実力も発揮できている。
 サルエンは時間が合えばディナーを共にしたが、心配された事は何もない。日々の事を話して、それで終わる。

 全ては杞憂だった。やはり私のエルの能力は少し鈍っていたんだ。

 時々城から心配したエトリムが来て、私と他愛のない話をして、預けているケユクスとウルズの話を聞いて、「今度会いに行く」と約束をした。

 だから、油断していた。アルブレヒト様は私に何度も言ったのに。自分の感覚を信じるようにと……
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