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第九章

会食

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「あなた。そろそろいただきましょうよ」
 叔母が巧妙なのはここでワインだけの無理強いをしなかった処だろう。弱点は把握したのだ。ここを搦め手にじっくり攻める作戦の様である。強引に押しすぎてはっきり断られても損ではないか。
「あ、ああ。そうだったな。では皆様。どうぞどうぞ」
 叔父は相変わらず気付いていない。これが良いのか悪いのか。
「待たせすぎてナディのお腹が鳴っていますわ」
 ひどい言い掛かりだ。子供じゃあるまいし。確かに言われたからか、ワインのせいか、皿のスープの香りに空腹を感じてしまったが。
「いただきます」
 ナディは卓上のナイフとスプーンを取る。あ、そう言えば騎士は? と思った。
 列席者にはそれぞれ同じ意匠のナイフとスプーンが与えられていた。男爵家のちょっとした自慢である。この時代、そこそこの豊かな家の宴席でも食器は持参が珍しくない。お揃いのナイフとスプーンの提供など中々に通な贅沢なのである。
 こう言う食器はある程度裕福な家でのまだ新しい習慣だ。ナディの知識では亜大陸で始まったのは数十年くらいの昔からで、発祥は南の古代アズーリア帝国があった辺りの小国家群からの流行だ。この時代でも上流か文化的かの生活層でなければ習慣化はなされていない。
 その主な理由は、この時代の亜大陸最大の宗教的権威である教会が『神より授かりし食べ物をモノを介して口に入れるとは!』と言うナディにはよくわからない、衛生的には恐らく間違っている主張をまだ強硬に行っているからである。
 お陰でこの王都ですらも平民の何割かは食事にナイフもスプーンも使わないと聞く。先代からの命令で、家族どころか使用人までもが皆食器を使うティンベル男爵家の姪からすれば信じがたい野蛮さだ。
 何でもまだ世間では基本手掴みで食べ、シチューやスープは壺や鍋から直に飲み、皿も使わず堅く焼いたパンが代わりだとか。まったく具体的に想像出来ない。犬や猫みたいな食べ方なのだろうか。
「……」
 だからナディは自分が食べるより前にカーリャの方を見てしまった。午前の無礼で顔も合わせられなかったはずなのに、この騎士はどうするかという学術的興味だと少女の好奇心は現金なものである。
「……」
 真っ正面から注視されているとは気付かずにカーリャは無言で卓上のスプーンを握った。その持ち方に、この人知っているとナディは思った。
 そのままカーリャは淡々とスープを掬って食べる。音も立てずにスープも具材の豆も鶏肉も静かに口に入れ、咀嚼らしいものもせずに飲み込む。たまにスプーンを置いてパンを取り、一口分づつ千切って口に入れる。まずここでは違和感のないマナーだ。少し緊張して頑張っている風ではあっても。
「ナディ」
 いつの間にかじいいっと客人を観察している姪に叔母が小さく言う。何ですかじろじろと無作法な。あなたもちゃんと行儀よくなさい――との意味を込めて卓の下で脚を蹴られた。痛い。
「は、はい」
 ナディも自分の手と口を動かし始めた。スープ美味しい。うちの料理長は一流だもの。なんとモルガンの奥さんだ。香草が効いている。パンもいい。白い分、いつもより甘く感じる。贅沢。幸せ。
 さして時間もかけずに誰もスープは終わった。具沢山だったし、パンもたっぷりあったからそこそこみんないい気分である。
「カーリャ様。ワインを」
「あ、はい」
 その間にも小まめに叔母がカーリャに勧める。カーリャはその度に酒杯に口はつけていた。が、最初のように一気には傾けない。如何にもおずおずとである。
「まだまだ用意させていただいています。どうぞどのワインも楽しまれて下さいませ」
「あ、いや、これが美味しいです……」
 恐縮と言うより怖がっているかの様なカーリャ。ここまでの反応で、この人ワインは苦手なんだとナディですら絶対的に確信した。
「おお、今日はいい日だ。たっぷり楽しみましょうぞ。リンツ卿」
 何も考えずにはしゃぐ叔父。いつも厳格過ぎるのにワインには目のないリンツ卿も口元がほころびかけている。
 あなた達の為じゃないのよ? と叔母は唇で微笑んだままでそっちを一睨みをする。それに気付く酒飲みどもでもないが。
 そこからモルガン達が料理を続々持ってくる。チーズと玉葱のパイ。柑橘系のソースをかけた焼き鱒。何れもモルガンが厳かに捌き、列席者の皿に配っていく。貴族にしては素朴だが、量は多いのがティンベル男爵家の流儀である。さらに味は執事のお墨付きで、ワインが進むと叔父やリンツ卿は大満足だ。
「美味しいっ」
 ナディはそれらも全部平らげた。本当に頬っぺた落ちそう。いつの間にか上機嫌になっている。結構な量なのに、ようやく自分を取り戻したわねと誰かが思った。
「お待たせしました」
 そしてポリーヌが押して来た台車が一同に見える様に上座に置かれる。子豚一匹の炙り焼きだった。今日の主役だろう。この大きさだとじっくり炭火で朝からかかったに違いない。腐っても男爵であるこの家でも滅多にお目にかかれない御馳走だ。
 続けてカチャが押して来た台車には人数分の水の入ったボウルと布巾が乗っている。指洗い用だ。
「では」
 このサイズであるからモルガンは二本のナイフを器用に使って肉を切り分ける。腿や背を小さい一塊づつ。胸は肋をつけて一本づつ。まず皆に見せている片面だけを捌いた。残る片面はお代わりだが、この人数には多すぎる。後で使用人達の御馳走になるのだろう。
「どうぞ」
 またポリーヌの押す台車で席を回りながら、モルガンは各自の皿に炙り肉を並べていった。出来るだけ肉の部位が片寄らない様にしている。普通、背中など良い部分を御客人に優先させる作法もあるが、ここは何らかの考えがあるのだろう。
「カーリャ様。杯が空いてませんか?」
「いえ、あの、もう……」
 その間にも叔母は小刻みにワインを勧める。そこそこの大きさの酒杯なのに、もう四杯か五杯か。ワインの方は大酒飲みがいるとは言え、もう五本は空いている。しかもいつの間にかあと五本追加されていた。
「あらあら。御遠慮なさらずに。殿方が楽しんで頂かないと、女は恐縮してしまいますわ」
 わざとのように華やかに言い、叔母は絶対にわざとにナディをちらりと見た。その仕草に え? とナディは驚く。なんかわたしが遠慮して飲めないような。まあ五杯は頂いたけど。
 あら、騎士がこちらを見ている。あれ、何故か右の眉が下がっていて――
「……頂きます」
「はいはい。モルガン。いや、ポリーヌ」
 叔母は台車の用が終わったメイドを呼んだ。
「モルガンはリンツ卿と主人のお相手で大変だから、貴女がカーリャ様の給仕をして」
 え? と声を漏らしたのは忠実なメイドだけではない。ナディも意外に思った。
「あ、あの奥様……」
 明らかにポリーヌは動揺している。
「後はスグリのお菓子で仕舞いでしょう? カチャに任せなさい」
「え、ええ……」
 ポリーヌの目が左右に動く。彼女はメイドである。主人とその家族の生活のお世話が主な職務だ。もちろん客人へのワインの酌などをやらせる家や雇い主もあろうが、ティンベル男爵家ではそう言ういささか不謹慎な命令はかってなかった。少なくともナディの知る限りにおいては。
「……よろしいので?」
 しかも相手は騎士だ。彼がなんの為にこの家に来て、何の為の会食かはもちろんポリーヌもわきまえている。
「いいの、いいの」
 しかし叔母は構わなかった。掌をひらひらと振っている。奥様がそう仰るならと覚悟を決めた風のポリーヌは騎士様の背後に移動する。途中、申し訳なさそうに今日のもう一人をちらりと見た。その視線には気づいたナディだが、よく意味はわかっていない。
「さてお客様。冷めてしまいますわ」
 叔母が笑顔で勧め、皆、炙り肉に取りかかった。スプーンで押さえ、肉をナイフで切る。良い程度に刻んだらナイフに刺すか、スプーンで掬って食べる。絶妙の炙り加減だった。
「うん、旨いですな!」
「うむ。ティンベル殿のご招待はいつも満足させられる。相変わらず料理人の腕が素晴らしい」
 叔父達は上機嫌である。ナディも食べながら同感だった。本当に美味しい。量もたっぷり。もう今日は太ってもいい。
「あれ?」
 だが気付く。皿に肋肉がない。肋骨とその回りの部分だ。あの骨側の部分が美味しいのに。
「あ」
 また気付いた。目の前の騎士様の皿に多めにその肋肉があった。あれ? お客様だからかしら。
「……」
 その炙り肉を騎士様は黙々と食べていた。頬がワインのせいかもう真っ赤である。それでも乱れないようにかゆっくりと肉を切り分け、ゆっくりと口に運ぶ。ナイフとスプーンだけでは食べにくい肋肉は右手で掴み、口を小さく開けて齧りつく。一本平らげてから汚れた指をボウルで洗い、フキンで拭う。手で食べる作法もちゃんとしていた。だが、何処かたどたどしい。
 ナディには一生懸命に頑張っている様にも見え、ちょっと可笑し味まで感じた。 
「さ、さあ。カーリャ様」
「……はい」 
 そしてポリーヌが瓶を持ってワインを勧める。そう命じられたのだから仕方がない。騎士は断る事も出来ずに酒杯にまた受ける。もう目元まで赤くなっていた。
「ナディ様も」 
 どうも気を使ったのかポリーヌは半分くらいで瓶を戻す。それからこっちに回ってきてナディにも注いでくれた。こちらは酒杯いっぱいにとくとくと。
「まあまあ。ナディもご機嫌のようねえ。いっぱい食べたみたいだし」
 叔母がおほほと笑い――同時に卓の下でナディの脚を蹴った。痛いっ。本気で蹴りあげている。ぎょっとして叔母を見ると牝の獅子が笑っている様な笑顔だった。
「せっかくだからお客様ともねえ。本物の騎士様とお話し出来るなんて滅多にないわよ」
 誰の為に豪勢にお金と手間かけてんのよ。馬鹿娘。一人で食事とワインを楽しんでいる場合? と言う叔母の真意であったが、ナディには伝わらない。ただ怒られているのだけはわかった。
「あ、えと」
 だがつまりお話ししろと? この目の前のお客様――つい一刻かそこら前に大変失礼な拒絶をしてしまった、この美少女みたいな方と?
「……」
 卓下の折檻はともかく、叔母姪の会話は聞こえている。騎士様は酒杯を卓に置いた。何となく気まずそうにナディを見ている。困っている自分を気遣ってくれているとナディは思わず、逆にその視線にさっきの事を忘れていないんだわと勝手に恐れた。
 ついでに傍のポリーヌも、向こうで酔っぱらいの相手をしているモルガンも拳を握り締める思いで見ている事にも気付いていない。
「さあ、ナディ」
 優しい叔母の声が怖い。でもなんて話しかければいいのだ。さっきはごめんなさいとでも? いや、あの事に触れるのは色々まずい気がする。モルガンの見解では敢えて別の事情だと誤魔化してくれた様だし。でもじゃあ何を言えば……
「な・で・ぃ?」
「ね、猫ちゃんはどうなさいました?」
 叔母の怖い催促に思わずそうナディは口走ってしまった。猫? そうあの尻尾の見事なふさふさの猫。騎士様との共通の話題なんてそれしか思い付かなかったのだ。
「はあ?」
 だがこの咄嗟の判断は半分当たった。叔母も、いや聞いている誰もが何の事かわからなかったのだ。これでは怒るも呆れるもない。
「……ラージャの事ですか?」
 唯一、騎士だけはわかった。良かった。わかってくれた。ナディはほっとする。今言うべき話題に相応しいかどうかはともかく。
「ええ、あの可愛い」
「……恐縮です」
 ナディは嘘は言っていない。嘘は。そして騎士が何故この話題が? と困惑しているのも事実である。
「ラージャは私が馬小屋でこちらのお嬢様方に捕まった時に気に入られたのか、もみくちゃにされまして」
 うわあ、その光景が想像出来るナディである。
「ここに逃げて来てないと言う事はまだご一緒ではないかと」
 そうか。従妹達が羨ましい。あの長い尻尾も毛ももふもふしたいとナディは勝手に思う。
「とっても可愛いですよね。ちょっと大きいけど」
「ありがとうございます。あれでもまだ一歳にはなっていない筈なのですが」
「賢そうだし」
「確かに利口ではありますね」
 全く今日の趣旨とは関係の無い内容で話し始めた姪に叔母は横目で戸惑っていた。もう一回蹴っ飛ばすかと思ったが、騎士の方は案外まともに相手をしてくれている。この世間知らずの姪にしてはマシ? いや、でももうちょっと男女っぽい話題に誘導すべきか? 叔母は笑顔を作ったままで考え込んでいる。
「餌は何が良いのでしょう?」
 ナディの方はなんだと言う気分になっていた。今までの経緯で緊張していたが、話してみると案外、騎士は柔らかい。自分が破談にした縁談の相手だから構えていただけで、実際にはちゃんと受け答えしてくれる。声が中性的なのに加えて外見がやっぱり美少女なので、いや、やっぱりこの方は珍しい姫騎士なのでは? と真面目に思う。それもあってか、ナディはいつの間にか同性の友人と喋っている気分になっていた。
 相手が努力して合わせてくれているとは全く気付いていない。
「ど、どうぞ」
 もう一人この場でどぎまぎしているのがポリーヌである。まだ縁談中のはずの男女の間でどうしようかと狼狽えている。口は挟めないが給仕はしないといけない。具体的にはワインだ。
「ありがとう。ポリーヌ」
 すぐ空くナディの酒杯に注ぐ。当然、騎士にも注がなければならない。うちのお嬢様だけが、ぱかぱか飲んでいると見られては困る。
「……どうも」
 でも騎士はどうみてもお酒は苦手の様だ。それでも女性に恥をかかせない為か無理しても飲んでくれる。なのにうちのナディ様ときたら。
「……どうぞ」
 もうすぐにも酒杯を空にして。ああ、もう。どうなっても知りませんよ。世間知らずのナディ様。そんなんじゃあ、この綺麗で素敵な騎士様に本当に呆れられますよ――と奥様の様に脚を蹴ってでも言いたい。
 自分が騎士につけられたもう一つの意味をポリーヌは意識しているだけに尚更に。
「ああ、それならば」
 だが神は世間知らずのお嬢様に味方した。叔母が勧め、ポリーヌが注ぎ続けたワインが奇跡を起こしたのだ。
「わたしも後で触ってもいいでしょうか 猫ちゃ……ラージャに」
 何気なく言ったナディの一言に騎士が素直に応えたのだ。
「あ、ああ。この後すぐなら……わたしは明日にも王都を発つ予定でして」
 ワインによる酔いのせいだろう。隠そうとも穏便にもせずに、ひょいと台詞が出た。うわ、やっぱり破談だ。もう二度とこの屋敷には来ないつもりだと何人かは思った。向こうでワインに夢中だったリンツ卿ですら反応したくらいだった。
「発つってどちらへ」
 唯一意味がわかっていないナディだけがちょっとだけ不満そうに言う。もちろんラージャと遊びたいだけだ。
「北の方へ。色々と調べたい事がありまして」
「お忙しいのですね」
「ええ、秋の収穫の前には領地に帰らないと行けませんので」
 騎士はすらすらと喋る。礼儀にもとらない様にと、ここに来てからずっと構えていたのに。さすがにあれだけ飲まされると固い口も緩み、舌も滑りが良くなったらしい。
「まずアルトバイン迄北上してから東に向けて領地に帰ります」
 その騎士様としては何気なく漏らした地名に反応した者がこの場にいた。二人だけだがはっきりといた。
「アルトバイン……」
 うわあと興奮したのはナディである。その地名はよく知っている。いつもの図書館の本の中ではない。実際に知っていた。そこには数少ない年上の友人がいるのだ。密かに文通している同好の淑女――

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