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第十章

提案

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「アルトバイン!」
 叔母が叫んだ。あまりの急な大声にメイドらはもちろん、酔っぱらい達と執事までぎょっとする。
「え、エロイーズ。なんだ。はしたなく騒いで」
 叔父が覚束ない口で言う。顔は程よくワインで茹で上がっている。
「カーリャ様ぁ。それはそれは」
 そんなものには構わず、叔母は強引に男女の会話に割って入った。その地名と意味を彼女は知っているのだ。
「アルトバインですか。北の港の大きな街の」
 うふふふとナディには悪企みにしか思えない顔で叔母が言う。
「カーリャ様には何の御用で?」
「あ、いや。訪問するのは初めてですが」
 騎士はきょとんとしている。何故、この奥方が急に元気になったのかさっぱりわかっていない顔だ。
「少し調べたい事がありまして」
「ほうほう。ご領地の関係ですか?」
「ええ、まあ。そう言えない事も」
「何か港でのお買い物ですか? カーリャ様のご領地はブレイブでしたからひょっとして毛織物?」
 叔母の問いに騎士様は目をぱちくりさせた。どっちかが当たったらしい。ナディには意味がわからないが、この叔母は富商の出だけに、図書館の魔女である姪にすら実感のさっぱりない商売や金銭に関してはやたら詳しいのだ。
「いずれは……今回はそのだいぶ手前の用件です」
 騎士の口がこもる。言いにくいのか恥ずかしいのか。
「わたくし、故あって多少は商いに通じております。そちらのお話しでしたら是非是非、御遠慮なくご相談下さいませ」
 叔母が胸を張って言いきる。少し口を開けて見ている騎士は男爵夫人の素性を知らなかったもかも知れない。一応、王立図書館付きの学究の家柄と言うのが世間の評判であったし。
「あ、ああ。どうも」
「リィフェルト卿のお役に立てれば幸いですわ」
 まるで身内のように言う。殊更に大振りな仕草は親戚の優しい叔母と言いたいのかも知れない。ナディはそこら辺の意味も叔母の作戦もわからずにぽかんと見ていた。ある意味、騎士と同じ顔だ。
 それを見て、あら、結構お似合いかもこの二人――叔母は内心だけで舌舐めずりをした。
「で、調べものとはどのような?」
「あ、道ですね。街道とか――あ、今のではなくて」
 何を言っているのよ、この騎士は――とは叔母は思わなかった。これだけで意味がほぼわかったのだ。
「それでしたらわたくしに妙案がございます!」
 叔母が一際得意そうな声で言い、さっと左掌を上にして――ナディに向けた。はい?
「明日からのアルトバインへの旅路には、是非このナディをお連れ下さいませ。きっとお役に立ちますわ」
「はいいぃっ!」
 思わずナディは叫んでしまった。他人の会話だと思って他人事の様に聞いていたらいきなりのご指名だ。同時に卓の下でまた脚を蹴っ飛ばされる。今度は悲鳴も出ないくらい本気の一撃だった。
「ご存じだと思いますが、わたくしどもの姪は王立図書館において女で初の司書に任ぜられた博覧強記。『歩く書架』と吟われる程のものでございます」
 嫌と言う程に聞かされた嫌な評価をナディは椅子の上で身体を伏せる程に曲げて聞いていた。痛い。蹴られた脛が悲鳴をあげている。叔母様の馬鹿力だ。きっと手加減抜きだった。
「それは伺っておりますが……」
 騎士としてはびっくりしたのだろう。いきなり何かを蹴飛ばした様な音がして目の前の席の長身少女が脚の辺りを押さえた様な姿勢で悶絶している。
 だから素直に喋ってしまっていた。
「ご存じでしたか。それはそれは名誉な事で」
 笑顔の叔母としては予想の内であり好都合でもあった。わざわざ地味で権勢もないティンベル男爵家の娘との縁談に来たのだ。お目当てが家格でも財産でもなく、ひょっとしてナディの特技ならばまだ望みはある。
「では是非是非。明日のお立ちですね? 急いで準備をさせましょう」
 まだうんうん呻いて脛を押さえているナディだったが、さすがに会話のやり取りは理解出来た。冗談ではない。先程に一方的に縁談を断り、強引にふった男と旅行などと。まったく悪ふざけにも程がある。
「お、叔母さ……あいたっ」
 痛いのを我慢して抗議しようと上げかけた頭を叔母に強引にまた押さえられた。
「どうしたの? ナディ。さっきからごちゃごちゃと」
 身体ごとかぶさる様に下を覗き込んでくる叔母。まるで心配しているかの様だが、卓の下ではナディの耳に口をつけて囁く。
(いいからわたしの言う通りにしなさい!)
(だって!)
(あなたのあの文通相手と会える好機なのよ!)
 あ、アンジェラ?――その名がナディに思い浮かぶ。胸が鳴り、身体の抵抗が止まった。まさか? 唯一の本の女友達。何年も前に一度だけ会えた親友。その人にまさか――
「おほほほ」
 説得は成功した。顔をあげて客人へ見せたのは社交的な笑みの叔母と信じられない気持ちがそのまま出ているナディだった。
「……」
 それをやや目を細めて見ている騎士は無言である。何か主人側であったのは確実だが、敢えて指摘しないのも礼儀の内なのだろう。
「ナディも喜んでおりますわ。よろしくお願い致します」
「あ、いや。お嬢様とご一緒は……」
 でもさすがにそこは拒む様である。当然であろう。縁談は既に破談している。ここの令嬢とこれ以上仲良くする必要もないし、そもそももう会う意味がない。今日の会食だけは用意されているのと関係各位の面子の為に渋々同席しているだけで、その後はきっと一生顔を見る事もないであろう。
 それがこの時代の常識である。
「まあ、御遠慮なさらずに。カーリャ様なら安心して姪をお任せしますわ」
 叔母の断言に騎士は自制を忘れてはっきり眉をしかめた。この令嬢が自分をきっぱりふった事を知らないのかと本気で疑っている。騎士本人はこの会食だけは仲介者であるリンツ卿の顔を立てる為だと我慢して参席していたのだ。
 なのにこの展開は――この有名な才媛がした返事はどうなっているんだ。あの庭園には他に誰かが潜む気配もしたはずなのに。
「それにナディならば王立図書館に秘蔵されている史書も地誌も諳じていますし」
 それが何なのよ? とナディは思う。確かにその分野も図書館にあるだけほとんど目のつく分は読み漁っている。叔母がその知識を質問する事も月に何度かはあった。でもそれがこの騎士にどういう意味があると言うのだろう。
「成る程……」
 なのに騎士は考え込んでしまった。それ以上は言わない。質問もない。叔母の説明で十分だったのだろう。これは同時に叔母に思考も、ひょっとしたらナディを求めた理由も見透かされているかもと迄はまだ気づいてはいないようだったが。
「わかりました」
 ややおいてから決断したらしい。騎士は椅子の上で居ずまいを正し、叔父の方に身体を向けた。
「ティンベル男爵閣下。わたくし今の奥方からのお申し出を有り難く受けさせて頂く事をお許し頂けますでしょうか」
 どんなに力関係や主導権がはっきり窺えても、公式には男爵家の主は叔父である。そこははっきり筋を通したのだ。
「あ? ああ、えっと」
 でも叔父は既に二本は一人で空けたワインに半分理性を奪われて、ここまでの会話を聞いていなかった。
「姪御殿を明日からのアルトバインへの旅路に御同行頂くと言うお願いです」
 騎士が重ねて丁寧に言う。何故か急に積極的になっていると何人かは感じた。
「あ、アルトバイン?」
「まあまあ『姪御殿』だなんて他人行儀な。名前で呼んで下さいな」
 会話を叔母が横取りした。ついでに方向も変えている。叔父はよくわからずに、でも妻が言っているからと、こくこくと頷いている。
「な、名前ですか?」
 それにすぐ釣られるのだから騎士も叔母の相手ではない。
「えっと……」
 騎士がこちらを見た。やや眉間に皺が寄っている。
「な、ナディージュ殿?」
 自信無さそうに言う。まあ合っている。ナディはほっとした。憶えていてくれたし、わざと間違う意地悪もなかった様だ。
「ナディ――です」
 叔母がにこやかに正す。いやその愛称で呼んでいいのか。呼ぶ程の関係でもないのにと騎士の顔に葛藤が浮かぶ。ついさっき手酷くふられたのですけれども。
「な・で・ぃ」
 その内心を恐らくわかった上で叔母がさらに推す。騎士は一瞬だけ真剣に悩んだ顔になって――折れた。こちらにも都合と思惑があるのだ。
「……ナディ殿」
 何故かナディもほっとした。悔しそうに呼ばれたらカチンとしたかも知れないが、騎士の困った風には同情する。はいはい、うちの叔母様はひどいですからね。わたしだって脛がまだじんじんします。
「では明日の二人の旅立ちを祝って、もう一度皆で乾杯しましょう」
 叔母がぱんぱんと手を打ち鳴らして宣言した。詳細は言葉にさせずに押し切るつもりだ。上手くいった。姪のあの最初の言語道断のしくじりからここまで持ち込んだのだから。
「待たれよ。男爵夫人」
 そう簡単にいかない人もいる。リンツ卿が酒杯を置いて声をあげたのだ。
「急にそう言われても、わたしにはさっぱりわからないのだが」
 具体的には言えない。ナディは亡き親友の娘であり、可愛い部下でもある。我が子の次くらいに気にかけている。だからこそ旧友の推薦で来たこの縁談を良きものとして仲介しようとしたのだが。
「今日、御挨拶に伺っただけなのに、何時の間にそ……そう言う話になったのだ?」
 大事な処を具体的に言いよどんだのはナディの身をはばかってである。未婚の男女が二人きりで旅行しようなどと言っているのだから、『ふしだら』とも言われかねない。
 ましてナディだ。この時代では結婚に相応しい年齢とは言え、あれが初めての縁談でそんなトントン拍子に、或いは軽々しく話が進むのかと驚いている。異性との浮いた話の一つもない初な少女なのだ。そんな男に手慣れた経験豊富みたいにあっさりとはどう考えても違和感があった。
「まあ、リンツ様」
 叔母はほほほと笑った。笑いながらどう誤魔化そうと知恵を絞る。リンツ卿の心配の通りだ。この若い男女は何もわかっていない。ナディはもちろん騎士も。だからこそ普通の大人が疑う様な事も理解できずに旅行までをも頷いたのだ。
「カーリャ様のように見目麗しい方であれば無理もない事でしょう」
 ここは全部男におしつけようと叔母は謀る。下手にナディを入れれば、この世間知らずの博識はとんでもない事を言い出しかねない。ここは全責任を男に取らせるのが最上手と判断した。
「加えてご誠実なお人柄。言葉の端々からも滲み出る御教養と聡明さ。凛々しい騎士様でもあらせられて。ええ、さすがリンツ様のお知り合いですわ」
 聞いている方が恥ずかしくなるくらいのべた褒めである。言われた騎士はすでにワインで染まった顔で斜め横に視線をずらしてしまった。そうなのかしらと覗き込む様に見ているナディの視線が恥ずかしかったからに違いない。
「先程、偶然、ナディとは庭園でお話し頂けたそうですわ。愛玩の猫も交えて親しく」
 ここら辺は作り話だが、リンツ卿にも真偽はわからない。そう言えばさっきそう言う話は二人でしていたなとは思ってはいる。
「と言う訳でめでたい次第でございます。リンツ様。本当にこの度は有り難うございました」
 リンツ卿としても男爵夫人が無理矢理話を押し通そうとしているのはわかる。だが、自分が持ってきた縁談にここまで誉めあげられては、『嘘つけ』とも言えない。この二人が上手くまとまってくれれば良いとは思っていたし。
「そ、そう言う事であるのなら」
 リンツ卿は隣席の騎士に向いた。
「カーリャ君もそれで?」
 旧友の弟子である。『自由騎士』と言うやや危ない肩書きでありながらも、礼儀正しい将来有望そうな若者。ナディに申し込んだ事には、それも先程会っただけでここまで決断したのには些か驚いた。その美少女か寵童かやっぱり姫騎士かもと間違われそうな外見にも寄らず、案外な剛の者であったか。
「は。リンツ卿」
 騎士は赤い顔のままで、でもきちんと一礼する。噂に聞こえた『王立図書館の魔女』と数日共に旅をするのだ。当初の予定は断られたが、旅行の間だけでもその博識知見に接する事が出来るのだから文句はない。
「ナディもいいのだな?」
 リンツ卿がナディにも言う。このよちよち歩きの頃から知っている少女。どこの妖精の悪戯か左半面の痣と言う女にはきつい運命ながら、利発で聡明で、ちょっと以上に世間知らずの可愛がっている娘であり部下。いくらあの美貌の騎士とは言え、会って半日で人生を決めるとは意外過ぎた。淑女としてははしたないと思うが、いやここは成長したなと亡き親友と喜ぶべきであろうか。
「は、はい。リンツ様」
 ナディもこくこく頷く。何かわからないが怒られてはいないらしい。それにアルトバインに行ける。この時代、そこそこの家柄の娘なら一人で旅行など許されない。文通相手との事は限られた人にしか言えないから、叔父にも頼めないでいた。
 それがこの騎士となら許されるらしい。なんて千載一遇の好機。王都から出ての旅と言うだけでの夢のようなのに、ましてアルトバイン。絶対に逃す訳にはいかない。御同行頂ける騎士にはさっきひどい事をしたらしいけど、どうやら怒っていないし、ならばご協力いただいても良いわよね? 
 その御礼にこれからは『騎士様』と心からお呼びしてもいい。
「そうか。それならばいい」
 リンツ卿は深々と言った。溜め息も漏れる。何か何もしない内にいきなり全部決まってしまった。文句は言えない。仲介者としては大成功のはずだ。自分は本当に何もしていないが。
「ここはわしも喜んで乾杯をさせてもらおう」
 リンツ卿はそう宣言して酒杯を掲げた。今日はいい酒が飲めそうだと笑みも作る。

 ――最近の若い者ははっきりしているのだなあとしみじみ感じながら。

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