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第十一章

準備

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 そこから豪勢な会食はただの酒盛りと化して延々と続き、終わった頃には用意と追加のワインは全て空になっていた。
「お二人とも大丈夫ですか?」
 玄関まで御客人を見送る途中で、さすがにナディも心配になる。主賓の騎士様もリンツ卿も上体の揺らぎが押さえきれないくらいに酔っていた。
「いえ、この程度は」
 ナディに顔を寄せられ心配げに言われて、騎士様は何とか身体を立て直す。真っ赤でもなお秀麗な美貌と、ゆるりと潤んで逆に色っぽい目元にナディはちょっとどきどきした。この人、やっぱり女だと思う。男装の姫騎士とか。なんか素敵。
「……」
 勝手な妄想でちょっと舞い上がっているナディは、その騎士様が何か言いたそうな表情でいる事には気付かない。このお嬢様。確かに自分よりたっぷりと飲んだはずなのに、何故こうも普通の顔なのだと驚いている事にももちろん。
「わ、わしも大丈夫……」
 リンツ卿は駄目だ。足元も覚束ない。この亡父の親友もそれなりの喜びと切なさで明らかに飲み過ぎていた。
「リンツ様は大丈夫ですね。お付きの方がおられるから」
 こちらも赤い頬ながらしゃんとしている叔母が玄関前で、くくくと忍び笑いながら言う。実際にそうでリンツ卿は従者を連れて来ており、今まで別室で男爵家から酒食を与えられてのんびり待機していたのだ。この者がリンツ卿の乗馬の轡を取って安全に帰宅させてくれるだろう。
「カーリャ様はお一人ですからねえ。酔いが覚める迄の部屋の準備をさせましょう」
「いえ、結構です」
「あら、御遠慮は水くさいですわ。もう他人でもないのに」
 叔母の攻撃はまだじわじわ続く。本当に恐ろしい。叔父が完全に酔いつぶれている以上、御客人の見送りは奥方の責任であるから、付きまとわれても騎士様は拒めない。
 そんな賑やかな感じで一行は玄関を出た。昼食と酒飲みで一刻以上は経過しているが、晩夏の日差しはまだ高い。すでにそこには四頭の馬が曳かれて待っていた。
「おお、アンティオ」
 騎士様がゆっくりと歩んでその内の一頭の顔を撫でる。青毛(黒)の大柄な牡馬だった。馬もすぐに騎士様へ顔を寄せる。愛馬らしい。その後ろには葦毛(白)の牝馬もいた。
「大丈夫ですか?」
 これは真面目にナディは言った。騎士様はかなり酔っている。馬術は知識だけでほとんど経験ないが、あんな大きな馬から落ちたら大変だろうに。
「大丈夫です。これでも騎士のはしくれですから」
 騎士様の声が意外に落ち着いていた。愛馬を前にして自信を取り戻したらしい。さらに馬の鞍の後ろにくくりつけられた荷物から、ぐるると声がした。それに気付いてナディがあらと声を上げる。
「猫ちゃん?」
「待たせたな。ラージャ」
 あの尻尾の大きな猫だった。ひょっこり顔を出している。今までそこにもぐり込んでいたらしい。
「お前、どうしたんだ? こちらのお嬢様方と遊んでいたんじゃないのか」
 不思議そうに言う騎士様だが、ナディにはわかった。逃げて隠れていたのだ。相手があの従妹達である。きっときゃあきゃあともみくちゃに撫で回されたのだろう。ここまで静かだと言う事は、噛みついたり引っ掻いたりしなかったのだろう。お利口だ。ああ、そのもふもふ尻尾に触りたい。
「今日は色々とお世話になりました。大層なおもてなしをいただき、まことにありがとうございます」
 最後に騎士様は見送りの一同へ深々と頭を下げてから、ふわりと一跳びで馬上の人になった。今までの酔いが嘘の様な身軽さである。おお、と回りから声があがった。ラージャがちゃっかりその鞍の前に身体を捩じ込んでいる。
「では、明日の五刻には参ります」
 そう言って手綱を引き、馬頭を翻す。そして顔だけもう一度向ける。
「よろしくお願いします――ナディ殿」
 ナディを真面目に見つめ、そう言い残して二頭の馬を軽く操って早々に去っていったのだった。


「奥様」
 客人らが門を出て完全に視界から消えるまで見送ったエロイーズは、使用人達に幾つかの指示を下してから一旦広間に戻る。男共がいなくなったそこでやれやれと手近な椅子に多少行儀悪く座った。
「御伺いたい事がございます」
 その時を待ち構えていたかの様に執事のモルガンが目の前に来る。やれやれとまた思ったが、有能な執事は水差しと木の杯を手にしており、まずはその用意していた柑橘果水を注いで差し出してくれた。ありがとうと言いながらエロイーズは飲み干す。冷たい甘さと爽やかさがワイン漬けになりそうだった身体中に心地好い。
「で、何よ。モルガン」
 改めて聞く。そのエロイーズの視界の端にポリーヌとカチャが足早に戻ってくるのも見える。御客人を見送ってから急に足元がふらつき出したナディを部屋に送る様に命じたはずだが、大急ぎで済ませてくれたらしい。
「ナディ様の事でございます」
 まあ、そうだろうねとエロイーズはうんうんとうなずく。今日のは自分でも意外な展開だった。結果はしてやったりの大成果だが、幸運と勢いに任せて突っ走った自覚はある。
「上手くいったでしょう?」
「とてもそうは思えません」
 茶化そうとする奥様に執事は怖い顔を見せつけた。
「縁談の申し込みのはずが、いきなり二人で旅行ですよ? いったいどんな破天荒な叙事時の真似事ですか」
 モルガンの顔に許しませんと書いている。その後ろにいるメイドらも似たような表情だ。
「交渉もしておりません。しかのナディ様は事前にはっきりお断りしたそうです。その経緯についいては当家側として無礼で不躾であったのは事実ですが、それへの謝罪も弁明もなさらずにいきなりあんな」
「未婚の娘が初対面の男と婚前旅行かあ」
 ずばりエロイーズは言い、モルガンはさらに渋い顔になる。メイド二人は何故か赤面していた。
「はしたない。ティンベル男爵家の子女としてなんと言う醜聞ですか」
「いやあ、女の子はたいてい密かにそう言うのに憧れるモノよ。モルガンみたいなおじさんにはわからないでしょうけれども」
 エロイーズがしれっと言い、ポリーヌとカチャが口を押さえる。声でも漏れそうだったのかも知れない。
「ましてすっごい美麗な騎士様じゃないの。あれ程の美形は王都歌劇団でも見た事はないわ。正直、初見では美女か美少女じゃないかと思ったもの」
「そう言う事はどうでもよろしい」
 モルガンは誤魔化されない。この奥様の破天荒にはいつも振り回されている。
「確かに最初のナディ様へのご対応と言い、会食時でのご態度と言い、中々に立派な若人とは思いますが、だからと言って、ろくに条件も詰めずにあそこまで決めてしまわれて……万が一ですが、あちらに邪な思惑無いとは言い切れないでしょう」
 モルガンはある意味侮辱された騎士が、なんの謝罪も受けないままに旅行まで受け入れた事にも不審を感じているらしい。なるほどとエロイーズはうなずく。そう言う意味では確かに怪しい。何か意趣返しを疑うのも自然かも。
「それに何よりも」
 そしてモルガンの主題はこちらである。
「ナディ様ご自身が今日の決着の意味を全く理解しておりませんよ」
「そうでしょうねえ」
 エロイーズはきゃらきゃらと笑い、執事に睨み付けられた。
「奥様」
「まあ、乙女が男と旅行してキズモノにされるとかはさっぱり考えてないだろうねえ」
「でしょうが」
 あの『図書館の魔女』は本の中の世界しか知らない。いいお嬢様だが、世間には致命的に疎い。だからこそ我々がちゃんと人生を補佐して差し上げねば――と執事の顔に書いてある。ポリーヌとカチャも同じだった。
「でも大丈夫よ」
 でもエロイーズはあっさり言った。
「あの騎士はそんなふしだらな悪戯はしないわ」
 きっぱり断言する。執事は更に顔をしかめる。ポリーヌとカチャは『ふしだら』と言う単語に何か妄想し、小さく叫んで執事に睨まれた。お前達、静かにしなさい。すみません。モルガン様。
「何故、そんな事がわかるんですか。奥様迄、旦那様が持って帰る本の読みすぎではないのですか」
 世の中と言うのはもっと下衆で不穏で、男と言うものも身勝手で獣なのですよと言いたいのだけはこらえる執事である。事実とは言え、屋敷内で淑女に聞かせるには不穏過ぎる。
「わかるわよ」
 その執事と同じ平民出身のエロイーズは言った。
「あの騎士には縁談とは別の目的があるのよ。間違いないわ」
 そうわかっているのなら尚更と執事は睨む。いや、その『目的』とやらは思い付きもしないが。
「そして、あの二人。似た者同士だもの」
 だからきっと上手くいくわとエロイーズは言うのである。執事にもメイドらにもさっぱりわからない。まあ、わたしを信じなさいとエロイーズはさらに言い切った。
「まあその……」
 執事としてはここまで奥様に言われては我慢するしかない。この平民ながら富商の家の出の夫人が見事に家計を切り盛りする手腕は知っている。子爵家との離婚歴もあって貴族社会にも通じているのもわかっている。人が良くてお人好しすぎる旦那様には有難い奥様である事は認めざるを得ない。
 それにもしあの騎士様がうちのお嬢様と似ているのなら、なんとなく牧歌的に行きそうな気は執事もメイドらも感じてしまった。
「わたしだって用心はしているわよ。騎士にはロドを尾行させてこれから何処で何をするかくらいは探らせているわ」
 ロドとは使用人の一人だ。カチャの兄で日頃は男爵家の馬の世話や馬車の馭者を務める。中々に気の聞いた若者で王都育ちと言う事もあり、こう言う融通が必要なお使いには重宝されていた。
「まあ、ロドなら」
 執事も渋々納得する。昨日、同種の事を任されて、上手くいかなかった記憶はある。あの時も探る必要があるのかと思ったが、見事にすかされた事でその必要性は奥様も言う通りだったとも言える。騎士様がその宿泊先を隠そうとしていたのは事実だったろうし。


 だが、このエロイーズの配慮もまた空振りに終わる。奥様の命令通りにひっそりと尾行けていたはずのロドは、慣れ親しんだはずの王都の雑踏で、酩酊状態のカーリャを連れた二頭の馬ごと見失ってしまったのだった。



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