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第十二章

装い

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 翌朝、ナディは夜明けと共に――襲撃してきた従妹達にまた起こされた。
「ナディ御姉様! お早う!」
 元気な叫びと共に、容赦なくベッドに飛び込んでくる。避ける間も術もない。誰かの手が鼻に、誰かの頭が胃の辺りに直撃し、ナディは激痛でのたうつ。
「ちょ、ちょっと!」
 それでも毛布を蹴飛ばして起き上がる。痛さと苦しさにうずくまりたいが、止まっていたらヤられる。それに起きた瞬間から胸の辺りがムカムカして――ああ、昨日のワインのせいだわと記憶を取り戻した。
「ナディ御姉様。お早うございます」
 相変わらずにこやかにアレクサンドラがベッドの傍らに立っている。さすが長女だ。威厳がある。たまには、いやせめて今朝くらいは妹達を抑えてよとナディは思う。飲み過ぎたんだし。
「御姉様。どうぞ」
 アレクサンドラは両手に大きな杯を持って差し出していた。くれるらしい。受けとる。水か。それを見てナディは自分の喉が渇いている事を思いだし、有り難く口をつけた。酸っぱくて美味しい。香味入りだ。
「ありがとう。アレクサンドラ」
「うふふ。御姉様もワインを飲み過ぎるとお義父様と同じ事をおっしゃられますね」
 本当に八歳かといつも思わせられるあざとそうな笑顔でアレクサンドラは言い、顔を寄せてきた。その笑みに警戒してしまうナディ。
「聞きましたよ。御姉様。あの綺麗な騎士様とのお話」
 うふうふうふふと笑うアレクサンドラ。ああ、また変な期待をしているとナディは杯を返しながら思う。
「別になんて事はないわよ」
 言いながら昨日の記憶を確かめる。あの騎士様は縁談に来られて、でもナディが即決で断って、なんかその事で怒られて、昼食会に出席して、ワインを皆でたっぷり飲んで、その後、何故かアルトバインにあの騎士様と――
「婚前旅行をなさるのですってね。御姉様」
 水を全部飲み込んでいなかったらナディはここで噴き出したかも知れない。
「な、何を言ってんのよ!」
 さすがに声が裏返った。そう言う話ではないのよ――とナディは本気で思っていた。
「うふふ。御姉様ったら大胆。お会いしたその日にアルトバインまで二人きりの水入らず。それもあの綺麗で素敵なカーリャ様となんて。うふふふふふ」
 本当に八歳かと叫びたくなる様なアレクサンドラの笑みと言いようである。大人びているにも程があろう。なんだ、その女子の集いの噂話みたいな好奇の反応は。
「こんぜんりょこう~~」
「御姉様だいた~~ん」
 意味はわかっていないだろうエリザベト(六歳)とジゼル(四歳)も騒ぐ。全く教育に悪い。それからさっさとベッドから降りなさい。狭い。
「変な事を言い触らすんじゃないわよ。アレクサンドラ。ポリーヌ達に聞かれたら叔母様に言いつけられるわよ」
「ポリーヌとカチャから聞いたんですけど」 
 あのメイド二人か。昨日の昼食会にはいたはずなのに何を見ていたのよとナディは眉をしかめる。ましてこんな子供達に教えていいお話でもない。
「ああ、なんと言うか歌劇団の演目にでもありそうな、愛と衝撃と純情の――」
「変な事は言わないで。わたしはあの騎士様が偶然アルトバインに行かれるのにたまたま同行するだけの話よ」
 昨日はそうだったはずだ。旅をする。着いていく。それだけしかなかった。そのはずだ。あの騎士様だってそれで納得したはずだ。それ以外は条件とかはなかった。はずだ。
 なのに『婚前……』などとは。ナディは強く否定した。そんな意味はない。信じて貰わねば困る。頬も熱い。何故かはわからないが。
「またまた。またまたまた、御姉様」
 アレクサンドラは信じていない。悪企みをする淑女の様に口に右手をあててにやにや笑っている。左手で招くな。本当に八歳か。
「子供じゃあないんですからあ。騎士様も御姉様もぉ」
「あなたは子供よ」
 きっぱりと言ってやった。さすがあの叔母様の長女だ。こうも早熟なのは叔父が図書館から借りてくる本とかを読み聞かせているからだけではあるまい。
「あんまりませた下品な事は言うと、叔母様はともかくモルガンに叱られるわよ?」
「ああ、そうでした」
 ナディのおどろおどろしい声での忠告にアレクサンドラはぽんと手を叩いた。
「御母様がお呼びです。用意があるから御姉様を叩き起こして連れて来いって」
 それを先に言いなさい!


「遅い」
 昨日着せられた憶えのない寝着から急いで着替え、顔を洗い、口をそそぎ、髪を整え――いつもはメイドが介添えしてくれるその一連の淑女の日課を、呼んでも誰も来てくれなかったので、珍しく一人でやり終えてから、ナディは叔母の部屋に駆け込んだ。
「お、お早うございます。叔母様」
「挨拶よりこっち。あなたがいないと準備にならないでしょうが」
「すみません」
 ぺこぺこ謝るナディ。やっぱりこの女主人には頭が上がらない。
「お早うございます。ナディ様」
 部屋にはポリーヌとカチャもいた。ここにいたのか。なんか服とか何とかをまとめる作業をしている。叔母様の命令か。
「あなたの旅立ちの準備よ。荷物は何を持っていくのかと鞄の何処に何が入っているかを確認なさい」 
 もうそれらの取り纏めはほぼ済んでいた。大きな革造りの鞄一つとしっかりとした布でくるんだ包みが一つである。ナディはその前に呼ばれ、メイド二人が荷を開けて中身を説明する。
「アルトバインだから道のりで八十マイル。行く道によるけど片道三日は見ておいた方がいいわね」 
 叔母が人差し指を頬にあてながら言う。人生経験豊富な女性だから恐らく行った事があるのだろう。何時と言わないのは大抵、前の結婚時代だ。だから詳しくは訊かないナディである。
「奥様」
 ナディへの説明の為に、机二つに一度荷物を開いた辺りで部屋へ誰か入ってきた。若い男だ。帽子を脱いで手に握っている。
「あら。ロド」
 叔母が呼ばれて振り向く。男爵家に仕える青年だった。カチャの兄で父親は馬丁頭と言う家族ぐるみの使用人だ。見るからに健康そうな容姿で、気も効いていて周囲の大人達からの信頼も厚い。町娘らには人気だとカチャが自慢していた。ナディにはどうでもいいことではあるが。
「あの、あ、ナディ様。お早うございます」
 主の姪の顔に気づいて青年は挨拶をする。彼は屋敷では馭者を務める事が多く、ナディも外出時にはよく世話になっていた。
「どうしたの」
「すいません。少し御伺いしたくて。あの、ナディ様のご旅行には馬車を出さないとお聞きしましたが」
 叔母にロドが問うた。え? とナディが顔を向けた。
「ええ、そうよ。馬車は使わないわ」
 叔母がさらりと言う。何よりもナディが驚いた。馬車は駄目? じゃあどうやってアルトバイン迄行くの?
「北への道は悪いからねえ。うちの馬車の華奢な車輪と車軸じゃあすぐガタガタになるわ」
 道を知っているらしい叔母が断言する。
「うちには三台あるけど、二台は王都の石畳に合わせた貴族用。残る一台は古すぎるし」
「お、叔母様」
 慌てたのはナディである。いきなりそう言われても困る。叔母の言う通りなら三日はかかる道のりをどうすればいいのだ。まさか歩けとでも。
「馬車は駄目なんですか?」
「言ったでしょ。王都用に見栄張ったのしかないもの。土と泥の道なんか半日もいかずに壊れるか埋まるかよ」
 叔母は当たり前の用に言うが、だからって。
「一応、車輪のしっかりした荷馬車はご用意出来ますが」
 気の毒そうにロドが言ってくれた。確かに屋敷には荷物運搬目的の頑丈な荷馬車が何台かある。
「駄目よ。ロド」
 叔母がぴしゃりと言った。
「カーリャ様は騎士よ。荷馬車に乗せられるのは死体になってからと決まっているの」
 ああ、とナディは思い当たった。そう言うのは読んだ事がある。
「だよねえ。ナディ」
 ええ、とこれにはうなずけた。
「そうなんですか? ナディ様」
 不思議がるロドとメイド達に説明してあげた。
「西の島王国の騎士物語にあるのよ。高名な騎士が不倫相手の王妃の危機に駆けつけたんだけど、乗るものがなくて、そこらの荷馬車で行ったら、王妃に恥ずかしいと怒られたと言う章が」
 これは本当である。その騎士が可哀想なので舞台などでは無かった事にされるのが常だが、原本を原語で読んでいるナディはよく憶えていた。
 そもそも王妃(主君の妻)との不倫が駄目でしょうと印象的だったし。
「騎士は戦死したら愛馬か友人が運ぶの。荷馬車に遺体が乗せられるのはその余裕がない大敗戦の時だとかで縁起が悪いんだって」
 そんな騎士同士の正々堂々で信仰心溢れる正義の騎士譚も前世紀迄の出来事だ。まだ騎士階級はあるが、今ではもっと俗っぽいものだし、今更、そんな縁起担ぎはどうでもいいとは思うのだけれども。
「じゃあ、ナディ様はどうやってアルトバインへ?」
 ロドが心配そうに言う。ああ、そうだったとナディは思い出した。馬車が使えず、荷馬車も駄目ならわたしは一体何で?
「馬に乗せていくんじゃない? 騎士様だし」
 叔母はさらりと言った。他人事並みの無責任に聞こえた。
「馬に乗るんですか? わたしが? お、叔母様あっ!」
 冗談ではない。経験がない訳ではないが、それも亡き父の頃のほんの嗜みで習っただけで、ここ数年は馬車での外出しかしていないのに。
「うるさいわね。騎士様へ嫁ぐのなら、乗馬くらい当たり前の嗜みでしょうが」
「そ、そう言う話じゃないでしょう!」
 いきなり何て事を言うのだ。縁談は昨日の午前で既に終わっているはずだ。そんな事言い出したら本当に従妹達の騒ぐ『婚前旅行』になってしまうではないか。
「わたし、そんなはしたない事出来ません!」
「今更何よ。小さい頃からスカートで庭の木に登ってはしゃいで遊びまくって大変だったとジェルマとモルガンが言っていたわよ」
 おのれ叔父め。不届きな執事め。本当の事をこの叔母にばらすとは。
「とにかく乗馬用の衣装はわたしのを貸したげる。予備の着替えにもう一式荷物に入れているから、あなたは今日の準備にこっちにさっさと着替えなさい」


「うん。まあまあね」
 男のロドを追い出してから、ナディは叔母の指示の元、メイド二人がかりで部屋着をひん剥かれて、着替えさせられた。嫌も応もない。
「わああぁ」
 部屋の大きな姿見に驚いた顔の自分が写っている。ちょっと意外な程にすっきりしていた。
「お似合いですわ」
 ポリーヌとカチャも誉める。案外お世辞ではない。淑女の乗馬服など珍しくはあるが、言われた用にナディの背が高めで細身の身体の線には中々似合っていた。
「まるで歌劇団の殿方みたい」
 一見男装に見える。スカートではなく、腰から膝までややゆったり、そこからは締めた紺色のズボン。襟の広い白シャツに黒の薄い夏秋用のバックコート。短剣を吊るした幅広のベルトを締め、足元は革のしっかりした半長靴だ。さらに手には短めの乗馬鞭を持つ。
「丈はわたしと変わらないからまずまずね」
 着替えさせた叔母も上機嫌だ。ナディは珍しくて鏡の中で身体を様々に動かしていた。
「スカートと違ってしっかり身体に合うんですね」
「乗馬は馬車と違って身体を使うからね」
「靴が重いと言うかごついです」
「いつもの布靴で鐙はきついでしょう。歩く事もあるだろうし」
「肩がちょっと余りそう」
「そこはもう少し厚みを着けた方が着こなしにはいいのよ」
「あと腰とかお腹が緩くてベルトを」
「お黙り。小娘」
 これらに鍔広の帽子をかぶる。いつものように前髪で痣は隠しており、確かに鏡の中では男装の麗人に自分でも見えた。
「素敵ですわ。ナディ様。これでカーリャ様と並ぶとまるで一編の絵のよう」
「そ、そうお?」
 カチャにキラキラした目で賞賛された。外見を誉められた事がないナディはえへえへと照れる。いや、あの騎士様と一緒で言われるのは何なのだが。
「本当にナディ様は男装の麗人風で素敵ですが」
 同じく見とれていたポリーヌが、ああそう言えばと思い出す。
「あの騎士様は本当に男なんですかね」
 冗談に聞こえない声だった。彼女は昨日、ある意味、一番近くでカーリャの事を観察していたのだ。
「お化粧は一切せずにあのお顔はもちろんですが、肌も綺麗で声も男性とは言いきれず、喉元も女に見えましたし」
 よく見ているわねと叔母は声に出さずに笑う。話の流れによっては自分が養女にされてと危惧していたのかも知れない。この娘も年頃だし、何処に男爵家の養女として出しても恥ずかしくないくらいにしっかりしているし。
「身体付きも、その、騎士様には無礼かも知れませんが華奢に見受けられましたし。あの方もなんと言うか『男装の麗人』とやらではないかと」
 叔母はくすりと笑った。男装の麗人? 王都歌劇団の演目じゃあるまいし。うちのメイド達もしっかりしている様でしっかり乙女ね。まああの騎士様が出演するのなら売れそうな脚本だけど。
「まあ、そこはナディが旅から帰ってきてから教えてもらいなさいな」 
「え? ナディ様に」
 メイドだけでなく、言われたナディも驚いた。
「アルトバインまで二人きりなんだから色々見たり触ったりするでしょう?」
 きゃあっとポリーヌとカチャが黄色い声をあげる。
「それか覗くか脱がすか」
「な、何を」
そこまで言われてさすがに意味がわかったナディが動揺する。だからそう言う旅でもそう言う関係でも無いって!
「それとも脱いでみせるか」
「叔母様あっ!」

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