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第十六章

街道

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「ご馳走さまでした」

 四半刻もせずに二人は昼食を終えた。パンの大きさと具材の多さからして結構な量だが、綺麗に食べきっている。騎士様がすごい。『くれ』とよってきたラージャにあげた分も足すと、なんとナディと同じくらいに食べたのだ。
「ありがとうございます」
 食べ終わると理性も戻ったらしいナディはせいぜい慎ましやかに礼を言った。
「お気に召されたのなら何よりです」 
 騎士様はにこにこと後片付けを始めている。いいなあとナディは思う。美味しいものをたくさん食べさせてくれて、しかも好きにしても小言も言わない。いい人だ。是非、うちの執事になってくれないかしら。
「まだお休み下さい。食べてすぐ動くのは身体に悪いです」
 騎士様が優しく言ってくれるので甘えさせてもらった。まさかお嬢様に手を出されても邪魔ですなんて思われてるとも気づかない。
「えっと」
 でもそこで他人の作業をぼうっと眺めているのもなんなのでナディは立ち上がった。高台のそこから景色を見る。ここからだと見下ろす形で街道を真ん中になだらかな景色が広がっている。
「うわあ」
 なかなかだった。下級でも貴族の屋敷で生まれ、王宮とその周辺で生きてきたナディには人生初の光景だったかも知れない。端から端まで眺めていても全然飽きない。新鮮だ。流れる風ですらそう感じる。
「ナディ殿にはお気に入りのようですね」
 手早く片付けを終えた騎士様が寄ってきて並んだ。同じ方向を見る。
「ええ、こんなに広い光景は初めてですの」
 そう答えて騎士様をちらりと見る。まだ帽子は被っていなく、あの素顔が風に吹かれ、前髪が流れていた。まさに一篇の美人画かのようである。自分よりやや低いその姿にナディはやっぱりと思う。
 絶対にこの人は女性よ。姫騎士様よ。公言しないのになんの事情があるのかは知れないけれども。
「今、下の右から左へ続いているのがアルトバインへの街道です」
 騎士様が指で指し示している。ナディもそっちに向き直った。
「ここから見ると小さいですね」
「私もアルトバイン迄の半分しか行った事はありませんが、友人に聞いた処、ずっと最後まであの規模だそうです」
 王都から北部一の都市を結ぶ街道にしては貧乏臭いのねとナディは思った。アルトバインは北海への玄関口でたいそう栄えていると文通相手は自慢していたのだけど。
「先のあの辺りで丘を登っていますよね?」
 この高台の下から二マイル程先で登り坂になっている。丘と言うより小ぶりな山で勾配が急なのだろうか。くねくねと街道が蛇行しているのも見えた。
「大丈夫ですよ。あのくらいならうちの馬は軽く登ります」
 騎士様は言った。ナディが心配したのかと思ったのだろう。半分あたっている。ただ心配の意味が違ったのだ。
「馬車ではきついのでは?」
「確かに。苦労はしそうですね」
 これも叔母が言っていた『街道は道が悪い』の一つだろう。よくわかった。そしてナディは風景を全部見ている。
「あの山の裾を回ればよろしいのでは?」
 すぐに指摘した。カーリャが、おやと風景を見直す。
「まあそうですね」
「ちょうど平たく開けているじゃありませんか」
 ここから見てもそこらは平坦に続いていた。山をぐるっと回っているのじゃないかしら。何故、あそこに道が無いの? と思ったナディはもう一度風景を見直す。同時に考える。
「ここはまだ国王陛下の直轄領ですよね?」
「はい」
「王都の北正門から馬で歩いてそろそろ一刻ほど。道は悪いですが徒歩よりやや早いとして道のりで五マイルくらい。そうすると」
 ナディは人差し指をこめかみに当てる。その脳裏には暗記している王都周辺の地図が鮮明に浮かんでいた。
「向こうのやや東に見える高めの山がアギーレ山でしょう?」
 騎士様は右の眉をやや揺らした。その通りだったのだ。
「確かにアギーレと言う名の山です。ナディ殿は――」
 何故、ご存じで? とまでも言わせない。
「山に清浄な水を湛えた有名な泉があり、それを引いた麓にミスルトと言う町があるのですよね?」
 これもその通りだ。ちなみに二人が昼食で楽しんだワインを割ったのはカーリャが買ってきたそのアギーレの水である。
「ミスルトは今夜の宿泊予定の町ですが、ご存知でしたか」
 地名くらいなら知っていてもおかしくはない。だが騎士様は真面目に驚いている。このナディの説明に興味を覚えたようだった。
「地誌で知っています」
 ナディはえっへんと薄い胸を張る。うん、聞き手の驚きが気持ちいい。蘊蓄の披露って素敵。
「地誌?」
 地図ではない。その地図も含むものだ。 
「わたし、図書館の地誌は全部読んでいますから」
 『地誌』とは王国や外国の各地方の事情をまとめた書籍である。好事家が私的に執筆する事もあるが、ナディが読んだのは王国の地方官や税役人、他国へ赴いた外交官等が報告として王へ提出したものだった。特に書式に決まりは無いので、手紙の延長程度から、地図や歴史まで記された重厚な物まで多彩である。
 別に読み手を楽しませる為の本ではないので、あまり好む人もいないが、図書館から世界を望んでいたナディには小さい頃からの大のお気に入りだったのだ。
「地誌……」
 騎士様はあんぐりと口を開けている。その顔が楽しくてナディはさらに続けた。
「でもそこはまだ新しい町です。ミスルトはずっと昔からありましたが、位置はもっと西です。周囲はだいぶ平坦な辺りに」
 ナディは鼻高々で言う。
「恐らくあの山を巻いての道のが、昔の街道でしょう。それが昔のミスルトへ通じていたはずです。今のミスルトは、かの『赤死疫』の際に特に病が流行したので民が街を捨てて、清潔な水を山から確保出来る今の場所へ移ったんじゃないかと」
 『赤死疫』とは二世紀も前に亜大陸に流行した疫災の事である。全土が罹災し、当時の人口の三分の二が死んだとされている大災害で、亜大陸の国や宗教、文化にすら忌まわしく大きすぎた影響を与えた史上屈指の大事件であった
「そんな事まで地誌には書かれているのですか」
 これは純粋に騎士様も驚いていた。そうだろう。王立図書館は資格のある者しか利用できない。田舎の騎士程度では地誌の存在は知っていても、読んだ事も見た事もないはずだ。
「地誌にはそこまで書いていませんよ」
 相手の驚きが心地好く、ナディはさらに自慢気に言った。
「古代アズリアの史書や当時の歌舞、劇、叙事詩なんかを読んでつなぎ合わせた知識です」
 すごい事を言っている。意味がわかるかしらと騎士様の表情を伺う。言い過ぎたかしらとも思ったのだ。
「アズリア。ああ、あの古代の!」
 だが、軽い興奮で言われた。知っているらしいとナディは嬉しくなった。
「そうでした。アズリアでは領域には縦横に街道を張り巡らせていたんでしたね」
 合格だった。教会の圧力でアズリアについては偏見を持っている者が多い。
「ええ。ベルガエはアズリアの植民地であり、幾つも都市が築かれていましたから」
 

 古代アズリアとは千年近くも昔の亜大陸南の大内海に面して隆盛を極めた大国である。その歴史は十世紀近く、最盛期には亜大陸の半ばを支配下においていた。
 この史上最大の大勢力は建国当初の王政から貴族政、共和政、寡頭政を経て最後は帝政として滅亡した為に、政体では呼ばれない。だが、この時代から見ても巨大な国家組織であり、文明としても秀でていた。今の亜大陸の各国家にも今なお多大な影響を与えている。
 宗教的には今の亜大陸とは違う為に教会は悪く言うが、それ以外の知識階級にはこの古代国家への憧れは根強く、ベルガエはもちろん西の大国のフランゼ王国ですらも、かってはアズリアの植民地としてその文明文化の影響を受けたと自慢しているくらいだった。

「覚えている地図と史書の記述とここの景色が一致します。千年以上前からの本来の街道はあちらだったのでしょう」
 ナディは自信満々で言う。読んで覚えた知識以上に、その知識を礎に考察する能力は自慢だった。これには亡き父もリンツ卿も無条件で降参するくらいに。
 その他の人達にはすごく嫌な顔で睨まれるのが常だったが。特に同僚の司書とか、王宮の官吏とか学者だとか名乗る大人の男達には。
「成る程。では昔はあちらへ。もっと広い道が」
 でもこの騎士様の反応は違った。もう見るからにわくわくして、声を弾ませている。
「アズリアの街道は馬車一台ずつが行き違える幅が最低の規模でしたから」
「旅は多い方なのであちこち知っています。不自然な道とか町とかもよく見るのですが、成る程、それなりの理由はあるのですね」
「えてして偶然と思えたものが実は必然であるものです。突き詰めれば、何にでも合理的な理由はあると思いますわ」
 相手の反応に気分も高まるナディはとくとくと知識を披露した。もう鼻高々である。
「さすがはナディ殿。噂に違わぬ――いや、噂以上の博識とご聡明」
 拍手でもしそうな騎士様である。ああ、もっと誉めてとナディはうっとりする。

 知識を披露し、考察を述べる――このナディだけが可能な無上の楽しみを誉められるなんて滅多にないのだから。

 女のせいもあるし、若年でもあるからだろう。この癖はだいたい悪く言われていた。嫌われてもいただろう。実際、家族以外に披露するのは司書になって初めてな気もする。
 家族でも喜んで聞いてくれたのは亡き母くらいで、父は感心しつつも「女としてどうか」と注意してきたし、忠実な執事も顔に同じ事を書いている。他の使用人達も似たようなもので、まあ困り者扱いだった。
 従妹や年齢の近いメイド達が聞いてくれる事はあっても、彼女らが喜ぶのは神話や恋愛の詩文、物語やそれに類似する伝承くらいだ。その手も好きでも、よりナディの大好きな歴史や世界の話はたいてい退屈そうな顔をされるのが常である。
 唯一、その手に付き合ってくれるのは叔母のエロイーズだけだったと思う。叔母は主に地方や社会の話を喜んで聞いてくれた。なんでもそれらが実家の商売には実に有益なんだそうで、聞かれた質問に答える度にご褒美までくれる。
 もちろん男爵夫人ではある叔母でも王立図書館に入る資格はないからでもあるし、同時にナディの考察を理解できるだけの聡明さを持ち合わせているからでもある。
 ナディがどんなに無茶を言われても叔母には逆らえないのは、今ではたった一人の完全な理解者だからだろう。


 そしてその二人目がここにいた。
「いやあ夢のようです。この様な淑女でありながら、これ程の賢者であらせられるとは。さすがは亜大陸唯一の女司書に任じられた事はありますね」
 騎士様の賛辞は洗練されたものとは言えない。だがそのナディへ向けられたきらきらな目は憧れそのものを感じさせ、生来の美貌と相成ってナディには至上の高揚を与えてくれたのだ。
「いえいえ、そんな」
 慣れぬ謙譲をしながらも頬が緩むのを止められない。
「わたし如きでよろしければ何でもお教えしますわ」
 ついにはそんな大見得まで切る始末であった。それを騎士様はもう崇拝の目で見ている。ああ、この人と旅に出て良かったとナディは浮き立つ心で思う。

 なんか理想的な理解者を得た気分であった。 

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