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第二十五章

慌ただしく

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 ナディに続く様に天幕まで戻ってきたカーリャはざっと服は着ていた。下はズボンに乗馬靴。上はシャツ一枚だ。襟元や肘から先の肌はもちろん、顔も黒髪も濡れたままであざといくらいに悩ましい。
「こ、これでよろしいですか?」
 ナディは頬を赤くして言う。実際、荷物はほとんどまとまっていた。ナディが起きる前に騎士様がまとめていたのだろう。ナディは帽子をかぶり、幾つか自分の小物を革鞄に詰めただけで、あと残っているのは天幕とその中の敷物くらいだった。
「結構です。有り難うございました」
 騎士様は笑みで言い、最後の天幕の端を掴む。ぐいと引くとそれだけで嘘の様に布が剥がれた。そのまま敷物と一緒にぱたぱたと畳む。あっと言う間に一塊の荷物となった。
「はああ」
 ナディは口があんぐりである。なんと手慣れた事か。見事な野営術であった。
「あとは、ラージャ!」
 騎士様が猫を呼ぶ。低音の鳴き声が聞こえた。そちらを見ると二頭の馬の前に四肢をついているラージャの姿があった。まるで警護してたかの様だった。
「お前、ナディ殿についとけと言っただろうが」
 だが、騎士様は苦笑しながら言う。どうやら猫には淑女は馬より価値がないらしい。ひどい。今度、絶対に撫で回してやるとナディは強く決心する。
「ま、いいか。アンティオとウイッカは守ってくれた」
 良くない、わたしも守れと猫を睨みそうになるナディの前で、騎士様は手早く出発の準備を整えた。
 二頭の馬に鞍をつけ、荷物を担ぎ上げて馬体に固定する。すごい。『銀泉亭』の使用人が両手で抱えていた重さを騎士様は片手でひょいひょい放り投げている。あの華奢な、妖精か天使の様な身体の何処にあんな力が――また先程の光景を思い出してしまったナディは思わず頬を掌で挟んで身悶えした。
「どうかなされましたか?」
「いえ! 何も!」
 何故、絶叫するのだろうと騎士様は不思議そうな表情になったが、まさか説明も出来ない。
「さあ参りましょう」
 今日も黒馬を使うらしい。白馬には相応の荷と鞍にはちゃっかりラージャがもう乗っている。
「ナディ様」
 今日は黒馬の右側から騎士様が呼ぶ。急いでいるせいだろうか。左肩と腰の武装はいつものままだが、今朝は顔の覆いも帽子もマントもつけていない。薄いシャツで身体の線がよくわかる。
「は、はひ」
 ナディは頬の赤いままで騎士様も招いた処へ行く。いつも通りに組んだ掌に乗馬靴をかけて一気に鞍の上――あれ、騎士様が先に鞍を右手で掴んでいる。
「失礼」
 騎士様の身体が跳ね上がった。一息で鞍に跨がる。え? と声が出そうになったナディに手を伸ばす。襟首を掴まれた。ぐい! と一気に引き上げられる。
「あれぇ~~っ!」
 びっくりした。ふわっと身体が浮き、天地が斜めになって、その次には鞍の上にすとんとお尻から落ちた。
「か、カーリャさまあっ!」
 びっくりした。片手で引き上げられ、鞍の後ろに跨がらせられたのだ。すぐ目の前に騎士様の背中がある。
「今から駆けます」
 鞍は前後に長い意匠だ。女のナディと女と思われていた騎士様なら何とか収まる。もちろん腿もぴったり重なる程の余裕の無さだが。
「しっかり掴まっていて下さい」
 何処にいっ! とナディが叫ぶ前に馬は勢いよく駆け出したのだった。


 耳元に風が鳴り、光景が後ろに飛んでいく。駆ける馬に乗るなどナディには初めての体験だった。
「ひ、ひいいぃ」
 怖い。騎馬ってこんなに速いのか。馬車しか知らないナディには異次元であった。
「落ち着いて掴まって下さい」
 騎士様に言われる迄もない。ナディはしっかり――しがみついていた。速くて怖いし、落ちるのももっと怖い。馬術では両腿で馬体を挟むと知っているだけで出来もしないから、もう両手でしがみつくしかない。
「……そんなに締めなくても大丈夫ですよ」
 そんな事言っても鞍の上には騎士様の背中しかない。そこに胸から腰まで押し付け、腕は騎士様の胴体を締め付ける。怖さで右の頬まで騎士様の背中に押し付けている。帽子は顎紐のお陰で落ちていないが、半分潰れてぐしゃぐしゃだ。貸してくれた叔母が激怒するだろう。
「それでは息苦しいでしょう」
 困惑した様な騎士様の声である。ナディは気づいていないが、騎士様は薄着なのに、顔どころか胸から腿までぴったりと押し付け、さらにぐりぐりと力を入れられているのだ。泣き声みたいにずっと呻いているナディでなかったら別の誤解を受けそうである。
「揺れは抑えていますのでご安心を」
 実際、黒馬は側対歩で駆けていた。全力の疾走ではない。計四本あるの前足と後ろ足を左側一緒、右側一緒と交互に前に出して進む走法で、これだと馬体の上下が安定する。鞍上の人間が上下に揺れる事は少なく、滑る様に前進出来るのだ。
 騎士としての馬術で言えば花形の槍突撃より、騎上での弓射に適した走法だった。揺れが少ない分、騎乗者への負担も少ない。
「そ、そ、そうですかあっ」
 ナディは聞いていない。返事はするが意味はわかっていない。初めての経験であり、日頃の性格からすれば、もう嫌、下りる! と騒がないだけマシだろう。夢中になっているからだけなのだが。
 だから騎士様に必死でしがみついている事も意識していない。何故か身体も火照る程に熱くなっていく事も、それがどちらからなのかもわからないままに夢中で一つになっていた。


 北上する街道を二人と一匹が二頭の馬で駆けていく。
「か、カーリャ……さまぁ」
 馬の脚は少し緩められた。人の徒歩の三倍程度であろうか。騎士様の二頭はよく鍛えられ栄養状態も良いので、この速度で半刻は余裕で走れる。その後も休憩や速度を緩めるを適度に混ぜれば、一日で三十マイルは移動できる。この二頭のもきついだろうが、今日中に余裕でアルトバインに到着するだろう。
「ちょ、ちょっと……おぉ……」
 しかしよりきついのは乗っている方だった。ようやく四半刻が過ぎた辺りでナディに限界が見えてきたのだ。
「ナディ殿?」
 情けない声に騎士様が首を後ろに半分捻る。ナディの体力については最初から心配していた。何せ初めて旅をするお嬢様なのだから。
「大丈夫ですか? 脚? 腰ですか?」
「だいじょうぶ……じゃなぁい……」
 ナディは呻く様に言う。実はそれすらもきつい。無理して抑えているものが、もう口から――
「酔われましたか? 休みましょうか?」
 是非そうして下さいとすらももう言えずにナディは顔を騎士様の背中にこすりつける。もう駄目。限界。この口からもう……

 おい。やばいぞ。そいつ。

 慣れた態度で並走する白馬の鞍に居座っているラージャが物言いたげな表情になっているが、人間はそれどころではない。ナディはむかつきに限界だし、騎士様はとにかく心配で、馬の脚を緩め、止めた。
「どうぞ。ナディ殿」
 素早く飛び降りた騎士様の手を借りてナディも下馬する。街道からほんの少し離れた処だ。すぐ側に木があり、幸い他に人影は見えない。
「うっ……」 
 騎士様に抱き抱えられる様にその木の根元に運ばれたナディはそこで下向きに木に向かって――胃の中のモノを盛大に吐き出したのだった。

 うえええ
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