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第三十一章

姫様

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 はあ?

 と口が開いたナディの目の前で重々しく扉は開かれた。中はサロンにでも使えそうな広い部屋で豪華な椅子とテーブルが並べられている。その一番奥の辺りで一人が立ち上がった。
「あ……アンジェラ――」
 背中にまで広がる豪勢な赤い髪。大きな緑の目と笑みが似合う大きめの口元。間違いない。七年前から七年分成長して、それ以上に魅力的になったナディの親友。
「アンジェラ・アーレグレイ様。アーレグレイ侯爵様の一人娘にして、我らがお仕えする姫様にて――ナディージュティングレイお嬢様のお友達でございます」
 ノーラの声を真横で聞きながら、ナディは大きく口を開けたままに固まっていた。


「ナディ! 会いたかったわあっ!」
 アンジェラ・アーレグレイ――ナディの親友はドレスの裾を蹴り上げる様に突進してきた。姫様の威厳も奥ゆかしさもあったものではない。ここの執事が見たらさぞ嘆くであろう。
「アンジェラ? アンジェラなの?」
 ナディも我にかえって叫んだ。びっくりした。今朝、騎士様の裸を見た時くらいの驚きだった。
「そうよ! アンジェラよ!」
 その姫様から抱きつかれた。ぶんぶん振り回される。興奮と喜びでナディは訳もわからずにしがみついた。
「ああ、七年もたったのね? 手紙はいつも心待ちにしていたわ。全部とっているわよ。それから司書になれておめでとう! ナディならやると思ったわ。わたしの言った通りでしょう!」
 散々に振り回された後は、がしがしと頭を撫でられる。七年前と扱いが変わらない。ナディはラージャの気持ちがちょっとだけわかった気がした。
「いや、ちょっと待って」
 かと言ってこのまま猫扱いで終われない。ナディは全力でアンジェラを引き離し、とにかく両肩を押さえた。
「アンジェラ。どういう事なのよ? お姫様って?」
 急に言われても半信半疑である。いや、七年前のこの親友の性格ならこれが全て悪戯の可能性もありそうだ。
「ええ。そう呼ばれているわ」
 アンジェラはにんまりと笑った。七年前に一緒に王立図書館を探検した時と同じ顔だ。
「え。じゃあアーレグレイの侯爵様の……」
「一人娘ね」
「あ、アルトバインの図書館で働いているって言ってたのにぃっ!」
 ナディは本気で信じていた。ほぼ唯一の同性の司書志望だと。
「ほら、ノーラさんだって図書館で働いているって……」
「姫様は侯爵家の図書館の運営責任者でもあらせられます」
 すかさずノーラが言う。嘘は言っていないと言う事だろう。
「えへへ。びっくりした?」
 七年越しの悪戯が大当たりしてアンジェラは上機嫌だった。
「びっくりしたわよ!」
 大声で返すナディ。言ってから、あれ? とも気づいた。つまりアンジェラは侯爵家令嬢で、一人娘だからひょっとしたら跡取りで――
「ご、ご無礼をぉっ!」
 ナディは大慌てで飛び退こうとした。しかしアンジェラの手ががっちり肩を掴んで離さない。ならばせめてとその場に両膝を無理矢理ついた。
「申し訳ありません! ふつつか者が姫様に馴れ馴れしく大変なご無礼を。お許し下さいませっ!」
 侯爵と言うだけで大貴族であるが、さらにベルガエは七つの侯爵家(当初は辺境伯)の連合によって建国したと言う歴史がある。よって王家と侯爵家間では通婚も定期的になされており、その結果、王位継承順位が普通に各侯爵家の当主にはあるのだ。
 それも確か現在のアーレグレイ家は三本の指に入るくらいに上位のはずだった。
「あらあら。ナディらしくもない」
 アンジェラは艶やかに笑った。そのままナディの身体を軽々お引き上げ、無理矢理に立たせる。七年前にもこうして本の山に埋もれた処を助けてくれたのをナディは思い出した。
「わたしとナディは親友じゃないの。そんな他人行儀はよしてよ」
「し、しかし」
 身長はさして変わらない。でも爵位でも一番下の男爵家の者がこんなに気安くされていいはずがない。無礼討ちにされても文句は言えないのだ。
「それにこの部屋はわたしの友人しか入れないの。気楽にしていってよ」 
「で、でも」 
「ここではノーラもブリッタもオクタビアもわたしの大事なお友達よ。面倒な作法は無し。それにお客様でもあるナディがそんなに畏まったらみんなも息苦しくなるわ」  
 アンジェラの主張は本当の様だった。ノーラが無表情のままでうんうんとうなずいている。長身の二人のメイドもいつの間に部屋に入ってきて、こちらも無表情で控えていた。
「だ、だけど」
「わたくしは姫様のメイド長でただの姫騎士です。男爵家のご令嬢のナディージュ様がその様に卑下されては、わたくし共はどう振る舞えばよろしいのでしょうか?」
 ノーラが淡々と無表情に言う。彼女としては気を使っているのだろう。これにはナディも困ってしまう。
 あとさらりと言ったが、本物の『姫騎士様』だそうだ。驚くべき希少価値だが、カーリャに慣れたせいか今のナディには気にならない。
 それよりも
「さあ、ナディの歓迎よ。ノーラ。飛びっきりのお菓子と飲み物を用意してちょうだい」
 結局、流される様にしてナディは改まる。
この様にして親友と再会したのだった。


「黙っていたのは悪かったわね。七年前に王都に行ったのはお忍びだったのよ」
 ナディはアンジェラと並んでテーブルにつかされた。文字通りに手の届く距離だ。侯爵家ご令嬢相手と思うと恐縮して椅子の上で縮こまりそうな気分だった。
「だから他人に知られる訳にはいかず、こっそりよ。王立図書館へも内緒で忍び込んだの。一度行ってみたくてどうしてもね」
 この姫様が七年前の図書館でこそこそしていた記憶はある。そうか。あの時は訳ありだったのか。
「お忍びって何故?」
「いやあ、あの頃にちょっとあって、最初の婚約者を追い出しちゃって。その後始末」
 ……あれか。聞いているけど本人には聞きにくい話だった。ナディは次の言葉に詰まってしまう。
「ナディージュ様。どうぞ」
 良い呼吸でノーラがナディの前に杯を差し出してくれた。緑色の何かが入っている。湯気も立っているから温かい飲み物なのだろう。ナディの知らない良い香りがした。
「東洋より取り寄せた『茶』でございます」
「これが……」
 ナディも知識では知っていた。酒や果汁とは違う飲み物で健康にいいらしい。ただかなり高価で男爵家くらいでは見た事もない。
「お肌にいいし、頭もすっきりするわ」
 アンジェラも勧めてくれる。ノーラはその茶の杯をテーブルに五つ並べた。姫様とお客人とメイド達の分だろう。椅子もちゃんと人数分ある。本当にこの部屋では上下の区別はつけないらしい。
 すぐにもブリッタが焼き菓子を大皿に大量に載せて持ってくる。オクタビアは大きめのナイフでいくつもの梨と林檎の皮をくるくると剥いて切り分け、これも皿に盛って皆の前に並べた。
「さあさあ。女だけの宴よ」
 準備が終わり、メイドらも席につくとアンジェラが杯を高々と掲げた。茶を飲む時の作法だろうか。酒宴の乾杯みたいねと思いながらナディも倣う。
「ナディとの再会を祝い、皆の健康と幸せと繁栄と勝利を祈って――乾杯!」
 アンジェラの音頭で皆も唱和する。いささか希望が多いなとナディは思うがこれがアルトバインの作法なのかも知れない。
「……」
 生まれて初めて飲んだ茶は苦かった。顔を微妙にしかめるナディに黙ってノーラが小ぶりの壺を差し出す。砂糖だ。贅沢なと感じたが、これも侯爵家の財力なのだろう。気づいたらブリッタとオクタビアはスプーンで何倍も茶に入れていた。
「ナディ。積もる話もいっぱいあるけれど、まずは急によくアルトバイン迄来れたわね。ティンベル男爵が公用で来るとかは聞いていないけれど。まさか一人じゃないんでしょう」
 アンジェラがまずそう切り出す。当然の質問なのでナディも最初から話した。焼き菓子を食べ、林檎と梨をかじり、砂糖たっぷりの茶での女の祝宴が始まったのだ。
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