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第四十章

告白

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 白と灰色の斑模様がナディの視界の端で動いた。え? と思う。ラージャだ。いや、何故に今ここで?

 そろそろ

 そのラージャがベッドの上を歩く。眠っているカーリャの顔を覗き込む様に顔を寄せる。
「あ、あの、ラージャ?」
 起こしちゃ駄目よ。眠っているんだからとナディは止めようと思うが、騒ぐのもあれなので手も出せず、結局、引き込まれる様に並んでカーリャの顔を覗き込んだ。
「……本当に綺麗な寝顔」
 つい漏れたナディの感想に、いや違うとラージャは尻尾を振った。

 起きろ。ご主人様。

「あれ?」
 そのままラージャはカーリャの寝顔をぺろぺろと舐め始めた。赤い舌で頬から首筋迄も舐める。羨ましいわたしもしたいとつい思ってしまったナディはともかく、雪豹の仔のラージャの舌は本気で舐められると刺激がかなり強い。ただの猫ではないのだ。

 見てられないんだよ。

「痛い。痛い。ラージャ」
 ひょいとカーリャの目が開いた。ナディの至近距離で顔が笑っている。起きた? はっとナディの頬と目元が赤くなる。
「わかったから、ラージャ。起きるから起きるから。きつく舐めるのは止めろ」
 カーリャは両手でラージャを押し、半身をベッドから起こした。起きたんだ。薬酒が効いているとかだったのに、目がはっきりと開き、口元が笑みで緩んで――
 まさか
「か、カーリャ様……」
「ナディ殿」
 カーリャは真っ直ぐにナディを見つめていた。口元がはっきりと笑っている。初めて見る様な悪戯っぽい笑みで――
「起きていたんですねえぇっ!」
 ナディは金切り声で叫び、全身で真っ赤になった。起きていた。起きていたんだ。ずっと? いや、何時から⁈
「いやあの、ラージャの舌が痛くて」
 カーリャが微笑む。違う。嘘! とナディは決めつける。その余裕が証拠。わたしはここに来るだけいるだけで、こんなにどきどきしているのに、なのにその余裕の笑顔が――
「嘘つきっ! 寝たふりしてわたしの……」
 あああああっとナディは身を起こしているカーリャに突っかかった。ベッドの脇で何を言ったか恥ずかしくて思い出す事も出来ないが、今が人生で一番恥ずかしい瞬間である事は間違いないと思う。
「寝たふりなんてしていませんよ。だからなにもかも聞いていません」
 カーリャが笑いながら言う。ここまであからさまな嘘はナディもまた人生初だった。
「ひどい! 意地悪! カーリャ様のばかあっ!」
 カーリャの寝着の襟首を両手で掴んでじたばたするナディ。興奮と恥じらいのあまりに自分がどれだけ大胆な事をしているかわかっていない。ベッドの上で揉み合う男と女に巻き込まれない様にラージャがさっと飛び退いた。

 痴話喧嘩は迷惑なんだよ。

「お見舞いに来てくれたのですね。ナディ殿。ありがとうございます」
 じたばたするナディをカーリャは優しくからめとった。体術も出来るのだろう。ナディの身体がやんわりと抱き締められ、動けなくなる。全然、痛くもない。あちこち打撲しているカーリャの方はナディに夢中でじたばたされて、決してそうではなかったろうが。
「カーリャ様……」
 ナディが気づいた時にはベッドに半身を起こしたカーリャの胸にぴったりと抱かれている状態だった。
「ありがとうございます。ナディ殿」
 カーリャが小さく囁く。その小声がはっきり聞こえるくらいにぴったりとナディはカーリャに抱かれている。
「短慮で未熟者のわたしですが、ナディ殿の援軍のお陰で命長らえる事が出来ました」
 いえいえと言うべきナディだが、カーリャの腕と胸の中で熱く固まっていた。父親以外の男にこんなに抱き締められたのも、最愛の男にこうされたのも初めてだった。
「援軍の作戦も布陣も、囮の恫喝も全てナディ様が成して頂けたとノーラ殿にうかがっています」
 カーリャの匂いがする。息も耳元にかかる。ナディは夢中で男の身体にしがみつく。嬉しい。この時間が終わらないでと心の底から思った。
「ありがとうございます。ナディ殿と知り合えたのも、ここ数日御一緒させていただいたのも、わたしには過ぎた程の幸せです」
 わたしだって、とナディは、わたしだってそうですとカーリャの胸に囁いた。
「そして幸いにもそのナディ殿がわたしの手の内におられる」
 カーリャの声が僅かに笑った。え? と思うナディの両肩が押される。身体がわずかに離れる。ナディの目の前にカーリャの目がある。
「ここで一つナディ殿にお願いがあります」
 カーリャの目は真剣でありながら暖かく――優しく微笑んでいた。

 わたしの妻となっていただきたい。

「は……ひぃ……」
 言われた意味はわかった。だがナディの頭は真っ白になっていた。
「如何?」
「あ……う……」
 目は素敵な笑顔から離せない。頭も動かない。『王立図書館の半分』と謳われた膨大な知識の一片もナディの中からは消し飛んでいた。
「で、でも……」
 それでも何とか言葉が出たのは、直前にベッド脇でここまでの思い出しと痛切な反省を一人でやっていたお陰であろう。
「わたし……最初に……御無礼にも……」
「はて? わたしがナディ殿に婚姻の申し込みをしたのは今が初めてのはずですが?」
 カーリャが不思議そうに言う。とぼけてくれるらしい。無礼も何もわかった上での悪戯っぽい笑みの口元だけでもナディはときめいてしまう。
「た、旅でも……色々と、不調法を……」
「楽しい旅でしたが、何か?」
 寛大なお言葉である。もしこれが本気ならこんなにナディの為の男はいまい。
「あ、あの……アンジェラの……」
「ノーラ殿にお聞きしました。わたしの早合点で無様に嫉妬していたようで」
 嫉妬? 嫉妬って言った。この騎士様がわたしに――そこで喜んでしまった分、ナディも邪であろう。
「でも……わたしの……顔には……」
 これだけは言わないといけない。生まれた時から一生つきまとうナディの負。これだけははっきり言わないと――醜い痣とそれから逃れられない心の僻み。
「何をおっしゃられる?」
 カーリャは笑った。抱き締める手を離す。代わりにナディの両頬を双つの掌で挟む。
「朝の清々しさのこちら」
 ナディの右半分を撫でる。
「黄昏の暖かさのこちら」 
 ナディの前髪をかきあげ、左半分を包む。
「髪は昼の陽射しの金色で、瞳は澄んだ空の青」
 カーリャの笑みが近づいてくる。
「ナディ殿は美しい」
 生まれて初めての賛辞を、この世で一番嬉しい人に言ってもらった。
「そして神が如きの叡智。さらに沈着冷静な勇気」
 カーリャの息がかかる。
「ナディ殿。わたしの妻になって下さい」
 再度、言われた。ナディは声も出ない。ただ迫ってくるカーリャの唇の前に、ただ両目を急いで閉じた。

 王国一の叡智とやらも、今はそれくらいで、そして今はそれだけで十分だった。

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