林檎の蕾

八木反芻

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いち『時は金に換えろ』

7 ベッドの一角に、涙の跡

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 少女はベッドの端に腰掛けておとなしく座って待っている。
 ハルはサキの目の前に腰を下ろし顔を見上げた。初めて、二人の目と目がはっきりと合った瞬間だった。
 男の瞳は渇いていて、少女の瞳はすでに涙ぐんでいるように見える。
 出会った時から今まで全く視線が合わなかったのに、いきなりこうもグッと見つめられると焦ってしまう。
 にじみ出る汗は手のひらや足の裏を濡らし、火照って赤らむ頬と、トクトクと速まる拍動に、脳はサキに、なにかと勘違いさせようとする。喉の渇きに唾を飲み込むとゴクリと音が鳴ってしまい、ますます追いつめられた。
 ハルがかもし出す独特の空気に引き込まれそうになり、サキは視線をそらした。
 ハルの表情は出会った時から一切変わらない。それでもサキは、出会った時より少しだけ柔らかいような気がして心が揺らいだ。
 あらためて見てもやはり綺麗だと、こんな時だというのにそう思ってしまう自分をサキは責めた。
 言葉もなく、ハルの右手は足元へ伸びる。足の甲に触れると少女の体はピクリと小さく反応をみせた。つま先から太ももに向かってまたゆっくりと滑らせる。
 バスローブがはだけていくと、隠れていたアザもあらわになった。ハルの視界に入っているはずなのに、気にする素振りもなく手は先へ進む。
 なにも聞かれなくてよかったと安堵するのもつかの間、興味と恐怖が入り交じったサキの頭の中では色んな思いが駆け巡る。
 徐々に近づいてくるハルの手が、小さな体をより熱くさせた。
 その手は脚の付け根で止まった。
 ハルは試すように、なにもせず、ただ少女の顔をじっと見つめる。
 無言の二人。
 サキはまた喉の渇きを感じた。どうしたらいいのかわからず、まばたきが増え目が泳ぐ。ハルの圧に、とどまっていた汗がタラタラと流れ落ちた。
 この後はなにをするのか、なにをされるのか、裏切り続ける男の行動は、知識も経験もない少女の頭では予想も想像もつかない。
 嫌な緊張感に呼吸が乱れ始める。
 本当はこのまま止めてほしいはずなのに、思いとは裏腹。その先を期待するパンツの奥をサキは恥じた。
 そんな少女の思いを知ってか知らずか、意地悪に見つめ続ける。その眼差しが痛く刺さり、なんだか責められているような気になってしまう。
 サキはハルの瞳にたえられず、顔を背け目をつぶった。それをきっかけにハルは一度止めた手を再び動した。
 微かに濡れた布のゴムと汗ばんだ肌の境目をなぞる指先。いたずらに当たる親指が少女の脳を刺激し、思わず口元に手を当て息を止めた。
(変な気分……嫌なのに……)もどかしいと感じて、唇を噛んだ。
 空調の音が静かに鳴る部屋の中、鼓動がバクバク音を立てて騒いでいる。
 何を思ったのか男はゆっくりと腰を上げ、今度は少女を見下ろした。
 動きがなくなり、サキはうっすらと目をあけ様子をうかがうと目の前にはハルの左手。その時サキは初めて気づいた。
(この人……結婚してるんだ……)
 薬指に銀色の指輪がはめられていた。そのデザインは派手なものではなくシンプルで控え目なものだった。
 それを見た瞬間一気に押し寄せてきたのは不快感。ゾッと血の気が引いた。胸がゾワゾワして苦しくて居たたまれない。
(……でも……指輪……してたかな……)
 今まで外していたのか、単に気がつかなかったのかそれとも、警戒心が薄まり心にゆとりができたのか……それにしたってこの人は。
 男はその左手を伸ばすと、考え込むサキの頬を手の甲でヒトリと触れた。
 サキはびっくりして上半身が引ける。
「隠すものが無くなればどうやって嘘をつく」
 意味のわからない問いかけに困惑するサキの背中に腕を回し、しゃがむと、もう片方の腕を膝下に潜らせグイと持ち上げた。
「ひゃっ!」
 それは生まれて初めてのお姫様だっこだった。
 トスンとベッドに落とされると、男は四つん這いで覆い被さった。少女の小さな体はいとも容易く隠れてしまう。
 少女の目には男の体が無機質な壁に見えた。壁は光を遮り影を生み出す。迫る影の中、胸を押し潰されるような圧迫感に息が苦しくなった。

 ──逃げられない。──

 おののく体、戸惑いが隠せない。
 苦渋し嫌悪する表情に、なんの感情も読み取れない顔。二人は再度見つめ合う。今度は目をそらさない。サキはジッと、反発するように見続けた。だがその目は弱々しいもので、抵抗もむなしく崩されていく。
 一気に顔が近づくと、押し付けるように唇が重ねられた。
 その感触が気持ち悪く、唇に力が入る。
 息を止めぎゅっと目をつぶったサキは、男を退けようと両手で胸元を強く押したが、びくともせず、顔を背けようとしたら手で押さえ込まれた。
 男は固く閉じられた口元に指を引っかけ、強引にこじ開けようとする。そして、小さく開いた歯の隙間に舌をねじ込んだ。
「かっ」
 口に侵入する異物。
「んぁっ」
 それは乱暴に絡む。
「ぅん」
 何が起きているのかわからない。
「はっ」
 ……わかりたくない。
「ぅくっ」
 とにかく、

 ──吐き気がする。──

 息ができない焦りから男の体を力一杯バシバシと叩くも、その手は無情にもベッドに押さえつけられた。
 頭が真っ白になりパニックを起こしかけた時、唇がパッと離れ、サキは激しく咳き込んだ。
 全身が小刻みに震え、呼吸は大きく浅い。
「おとなしくするのは得意だろ?」
 うつろで潤んだ瞳で訴えるも男には通じない。
 またも顔が近づき、サキは触れられる前にバッと顔を背け、小さくかすむ声で拒んだ。
「ゃめてっ……くださぃ……」
 その声が届いたのか、男はサキの体から離れベッドをおりた。
 サキは上体を起こし小さく身構え、男の行動を注意深く凝視する。
 男はソファの背もたれに重ねた脱け殻の中からネクタイを引っ取り出すと、怯える少女が待つベッドへ戻った。
 手に持っているそれで何をする気なのか、サキは恐怖と不安でたまらない。強ばる体を必死に動かし後退りする。男は逃げようとする少女の足首を掴んで引っ張ると、反動で倒れた少女の手をグイッと掴み慣れた手つきでその両手首をまとめネクタイで縛り上げた。
「イヤッ!」
 抵抗したが非力な少女では男の力に逆らうことはできない。自由がなくなっていくことの恐怖に震え上がった。
 男はサキの口に手のひらをあてがいグッと強く押さえつけた。
「騒ぐな。次はその口を塞ぐぞ」
 本当に殺されてしまうような気がした。
 ゆっくりと退ける手は、そのまま唇に触れ、感触を確かめるように中指で柔らかくなぞった。
「……やめてくださいっ……お願いです……やめてください……」
「やめない」
 サキは眉間にシワを寄せ困ったように睨みつけ、男はその瞳をただじっと見つめた。
「……嫌なら逃げればよかった。でもあんたはこの部屋を出なかった。だからやめない」
 サキは男を見据え、静かに一筋の涙を流した。
 そう。男が目の前からいなくなったあの時間、逃げようと思えば逃げられた絶好のチャンスだった。なのに、サキは迷ってしまった。時折見せる彼の温かさが少女のかたまった心にほころびを生じさせ、正しい選択の邪魔をした。
 このまま黙って出ていくのは後ろめたい。サキは一度、話してみようと考えた。この人なら自分の話を聞いてくれるような気がしていた。それなのに、話し出せずに流されためらってしまった自分が悪いと、サキはまた自分を責め続けた。
 次々こぼれ落ちる涙。
 かわいそうなまでにむせび泣く姿に気後れすることなく、男は静かに乾いた眼差しを向ける。
 止まらない涙を必死に拭う細い腕を掴み、少女の体をグルンと乱暴に反転させると、今度は後頭部を掴み枕に押しつけた。
「んんんっ……!」
 枕で口をふさがれ息が出来ず、サキは必死にもがく。
 とうとう殺されるんだと思った時、男の力が緩んだ。枕との隙間ができ、なんとか呼吸できるようになったが、あまりの恐怖に声が出なくなった。サキの体は完全に固まってしまった。
 男は無抵抗の背中に手を伸ばし、サキが唯一全身をまとっている布を剥ぎ取った。骨が浮き出るか細い背中が現れ、背骨のくぼみに人差し指を落とし、力なく一筋なぞる。
「ひぃぅっ……!」
 サキは思わず仰け反る。ゾクゾクと鳥肌が立ち虫唾が走った。
 涙でボロボロの瞳に、ぼやけた男の腕が映る。
 男は、少女の首もとを隠す長い髪を横へ流し、露になった汗で毛がへばりついたうなじに顔をうずめた。
「んくっ……」
 首筋に息がかかり、思わず首を引っ込める。
 嫌なくすぐったさに顔を歪め、自由のきかない手でシーツをキュッと握りしめた。歯を食い縛り小刻みに息を吐く。その息を殺すように、男は首に両手を回し軽く添えた。途端に息が苦しくなる。実際絞められているわけではないが、喉が潰されるような感覚に陥った。
 荒くなっていく呼吸。 
 浅はかな想像は自分を苦しめ、やり場のない後悔に枕はどんどん濡れていく。
 添えられていた手は首から肩、腕へ流れ、首筋に埋めた顔は背骨に添って這うように下る。
 男の生ぬるい体温が伝わり、いとわしく、ムズムズするくすぐったさに体が小刻みに揺れる。
 腰を軽く持ち上げながらパンツに手を掛けると、躊躇なくスルスルと脱がした。
 身ぐるみはがされた無防備な体はさらに小さく見える。筋肉のないふくらはぎに手を添え、毛を逆なでながら上部へ滑らせる。汗で濡れた肌はしっとりと手のひらに吸い付く。その体はとても冷えていて、氷のようだった。
 男は手を止めた。今度は膝立ちになり、震える背中を静かに見下ろす。
「……なさいっ……ごめっんなさい、許しってくだっさい……ごめんなさっいっ……」
 しゃくり上げながら小さくこぼす声。怖くて怖くて怖くて、どうしようもなく、サキはただただ謝り続けた。
 泣きじゃくる様子を傍観者のように眺めていた男は、いきなり肩に手をかけ、グデンと勢いよく仰向けにひっくり返した。
 突然のことに一瞬驚く表情を見せた少女は、すぐに手で顔を覆った。
 涙で汚れた顔を隠し「ごめんなさい」と、呪文のように何度も連発する少女。男はその手を掴み上げ、少女の真っ赤な目をジッと見つめた。
「あんた処女か?」
 何を聞かれたのかわからなかった。
「セックスをしたことはないのか?」
 ストレートな言葉に驚いてひるむサキに容赦なく迫る。
「答えろ」
「っ……」
 喉が詰まって声が出ない。それ以上に、頭が混乱して言葉がなにも思いつかない。
 黙り込んでいると、男は突然、指を三本揃え、アワアワする少女の口に拳銃を突っ込むように縦に噛ませた。
「口はなんのためにある。指を咥えるためか?」
 意味がわからず目を丸くする少女の涙はいつのまにか止まっていた。
「なにか言ったらどうだ」
 胃から込み上げて来るなにかが喉に突っかかって、サキに圧迫感を与えた。なにかわからない塊を押し戻すように唾を飲み込むと、舌が男の指に触れ、焦った。
「言え……言ってごらん。口に出してもらわないと、俺にはわからない」
 顎が外れそうな痛みと、切迫感から本格的に吐きそうになり再度唾を飲み込んだ。
「返事ぐらいできるだろ」
「っ……はえっ……」
 押し寄せる吐き気を我慢するのに必死で、言葉にならない声が精一杯の返答だった。
 口から指を抜くと、少女はえずきながら咳き込んだ。男は気にする素振りもなく、指に付着した唾液を拭う。
「もう一度聞く。セックスをしたことはあるか?」
 口を小さく開け、消えそうな声で答える。
「聞こえない」
「ふぅぅ……」
 驚いて一度止まった涙が、またボタボタ落ち始める。
「なぜ泣く? ……俺が怖いのか?」
 小刻みに何度もうなずく。
 男は繰り返す。
「怖いか?」
「……こわいです……」
「返事、できるじゃないか」
 目を離せないよう、男は少女の顔を両手で押さえる。
「はっきり言え。セックスしたことはあるか? ないか?」
 声のボリュームがわからなくなったサキは戸惑いながらもとにかく大きな声で答えようと強ばる喉から絞り出した。
「……ありませんっ……!」
「わかった」
 男は手首に巻いたネクタイを手早くほどき、少女の体から離れた。
「服を着なさい」
 キスはおろか、手さえもろくに握ったことがない。今日が初めてだった。なにもかも……。
(できなかった……自分で望んだことなのに……覚悟決めたのに、ダメだった……またわたしは逃げた……)
 サキは背中を丸め、また大粒の涙をしゃくり上げながら流した。その泣き声が男の耳に届くことはない。
 

 男はタバコを取り出し口にくわえ、淡々と火を点ける。吸った煙を一度吐き出してからワイシャツを着る。
 男に背を向けてベッドの端に小さく座るサキ。着替える力もなくバスローブを羽織ったままぼうっとしていた。
 男は長財布を手にすると手早く数枚のお札を取り出し、うつむく少女に近づくと、虚ろな横顔にスッと差し出した。
「時間分だ」
 驚いて男の手元を見つめたまま固まった。
「受け取れ」
 サキは首を横に振る。
「あんたの金だ」
 さっきより激しく拒んだ。
「不服か?」
「だってわたしっ……」
 声が詰まった。それ以降の言葉を続けようとすると、鼻の奥が痛くなってしかたがない。
「依頼はすべて破棄する」
 サキは思わず顔を上げた。
「それとも無理矢理にでもした方がよかったか……」
 見下ろす顔が問いかけるように傾く。ハッとするサキの目が泳ぎ、顔を伏せた。
「選択肢を与える。やめるか、続けるか、あんたが決めろ」
 もう迷いなどないはずなのに、すぐ答えることができない。
「やめることを選ぶなら受け取りなさい」
「でもこれは……わたし、貰えるようなこと、なにも、してません……」
「勘違いするな。俺はあんたの体を買ったんじゃない。あんたの時間を買った。どういう意味かわかるか? これはプライベートじゃない、商売だ。だから受け取ってもらわないと俺が困る」
 それでもサキはカーペットの柄を見つめたままで、受け取る素振りを見せない。
「……俺を馬鹿にしているのか?」
 思ってもないことを聞かれ動揺したサキは、あたふたと首を振った。
「覚えているか? 数日前の話だ。俺はあんたの時間を買うことで、あんたの依頼を承諾した。結果破棄はしたが、俺があんた時間を使ったのは事実。契約は成立しているため、あんたにはこの金を受け取る義務がある。そうだろ?」
 返答はない。男は仕方なく手に持った紙切れをベッドの上に放り、少女から離れた。
 サキは、放られた五枚のお札へチラリと目を向け、またカーペットへ視線を戻した。
 もちろん欲しくないわけではない。でも、手を伸ばすことはできなかった。男への不必要な思いがまた邪魔をする。
 先に着替えを済ませた男はテーブルに広げた小物を鞄に詰めながら、未だ微動だもしない少女に話しかけた。
「足りないなら正直に言いなさい。あんたが納得できる額をやる」
(お金の問題じゃない)と思ったが口に出す勇気はない。
 鞄のファスナーを閉め、ソファに置いてある小さく畳まれた少女の洋服を手に取ると、また少女の下へ近寄った。
「安易な考えはやめなさい。時間を無駄にするな」
「……はい……」
 洋服を手渡すと、少女が座っているベッドの反対側へ回り、同じようにベッドの端にゆっくりと腰を下ろした。
 気づかれないよう首をわずかに動かし様子を確認すると、男は背中を向けて座っている。渡された洋服を少し見つめ、気が変わらないうちに急いで着替えた。
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