林檎の蕾

八木反芻

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さん『エンマ様が判決を下す日はお気に入りの傘を逆さにさして降ってきたキャンディを集めよう』

13 私は不要品

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 銀行を出たハルは足早に車に乗り込んだ。そして、1cmほどの厚みのある封筒を仁花に渡す。
「これでケリをつけなさい」
 封筒の中身を覗いた仁花は首を振った。
「あんたも受け取らない気か」
「……新妻さんも……?」
「金など、俺にはただの紙切れに過ぎない」
 ハルはハンドルに手をかけ、それを見つめていた仁花は封筒に目を落とした。
「納得してくれなかったら……?」
「あんたは相手が自分を好いていると、信じているんだな」
「え?」
「俺にはあんたのことを、都合のいい金づる、とでも思っているようにみえるが。その金を稼ぐために仕事を紹介するあたり、他にもあんたのような奴がいるんだろう。これは俺の憶測に過ぎない話だが……。あんたみたいに拒み続けるようなめんどうな女、金をもらって切り捨てた方が楽だと考えるはずだ」
 うつむく仁花は封筒を握った。
「どう使うかは自由だ。切り札として持っておいても損はないだろ」
「春彦さんも……このお金で、あたしを切り捨てるの……?」
「いいや。俺は初めから、あんたを必要とはしていない」
 徐に伸ばした手を、ハンドルを握るハルの手に重ね、仁花は身を乗り出した。顔を近づけ頬に唇が触れそうになったとき、口を押さえられた。
「結構」
 覆った手を放すと仁花は笑ってみせた。


 仁花を最寄りの駅まで送り届けたハルは迷っていた。電話をかけるべきか否か。
 男がしきりに電話をかけた理由はなんなのか。単なる報告や連絡ではないはず。なにかトラブルが起こったに違いない。
 胸ポケットからタバコを取り出し、火をつける。一度煙を吐き出すと、背もたれに深く寄りかかり目をつぶった。
 親しいわけでもないし、気にしているわけでもない。あの子がどうなろうと知ったことではない。ただ、5万が原因なのであれば放っておくわけにはいかない。
 少し開けた窓から、煙が窮屈そうに逃げていくのをうつろに眺めた。

『捨ててもかまいません』

 グローブボックスに目を向ける。
 タバコの灰を落とすと、ハルは携帯電話を手に取り、電話をかけた。

 ──プ、プ、プ、プルルルル、──

 発信音が鳴るなか、ハルは前方に停車しているトラックのナンバープレートを凝視していた。
『……はい』
 正直、サキが出るとは思わなかった。
「こんばんは、ハルです」
「こんばんは……」
「今どこにいる?」
『……家に、います』
「自分の家か?」
『え? はい……?』
「そこから月は見えるか?」
『月? ちょっと待ってください。……いえ、今は雲に隠れていて見えません』
「そうだな」
『あの、どうしたんですか?』
「……傘」
『あ、傘。次はいつですか?』
「次はない……」
『へ?』
「傘は捨てた」
 言葉が理解できないのかなにも返ってこない。無言のままのサキに、ハルはもう一度言う。
「傘を捨てたんだ」
『……えっ……え、でもっ、返すって……』
 案の定、戸惑う様子をみせた。
「あの傘は俺のものだ。どうしようと勝手だろ?」
『そんな……』
「だから、あんたと会う必要はなくなった。連絡先は消してくれ」
『……嫌です……』
「そうか。なら好きにしろ、俺は消す、これで終わりだ。さようなら」
 なにか言いたそうだったが、ハルは一方的に電話を切った。
 通話終了の画面を見つめ、削除した。

 こうして、男と少女の傘と金をめぐる不毛な攻防戦に、幕が下りた。


 短くなったタバコをドリンクホルダーに置いてある円筒形の灰皿にストンと落とし蓋をすると、シフトレバーに手をかけた。
「……念のため」
 ハルは車を走らせる。
 途中で公衆電話を見つけ、そこから仁花からもらった名刺に記載されている番号に電話をかけた。
 しかし、何度かけても番号の主が出ることは永遠になかった。



『エンマ様が判決を下す日はお気に入りの傘を逆さにさして降ってきたキャンディを集めよう』おわり。
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