林檎の蕾

八木反芻

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よん『重度の微熱と甘え下手な絆創膏』

7 吐き出した言葉、煙のように消える嘘

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 洗面室で着替えを済ませたハルは、鞄から取り出したノートパソコンを抱え、サキが座るソファと丸テーブルを挟んだ向かいのソファに腰を下ろした。
 邪魔になると思ったサキはテーブルの上に広げた小さなノートを片付けはじめる。
「ここにいろ」
 パソコンと繋いだ充電器を窓辺付近のコンセントに差し込みながらハルは言った。
「……お仕事ですか?」
「ああ」
 ハルはテーブルに置いたタバコの箱を取り、軽く押しながら振って飛び出た一本を、そのままくわえて抜きライターで火をつけた。
 昇る一筋の煙を眺めるサキは、ベッドの上に置かれた衣類へ目を向けた。脱いだワイシャツや下着、使ったタオルが綺麗に畳まれてある。
「あれは洗濯物ですか?」
「……ああ」
「洗濯しましょうか?」
「結構だ」
「でも」
「あとで俺が行く」
「……こだわりとか、ですか?」
「ない」
「それならやっぱりわたしが行きますよ」
「……ここにいたくないのか?」
「そういうわけでは……。なにかお手伝いしたくて」
「なにもしなくていい。看病してもらった上に、迷惑をかけるわけにはいかない」
「迷惑だなんて思いません」
「……俺が嫌なんだ」
 前屈みにパソコンを眺めキーボードを打ち込むハルを見つめた。
「だったら、友だちになりませんか?」
 タイピング音が途絶える。
「……は?」
 手元がピタリと止まってしまったハルは、サキに対して不可解な視線を向けた。
「他人じゃなく、友だちなら迷惑をかけたっていいと思います。度合いによりますけど……それを許せるのが友だちだと思うので」
「……洗濯のためにか?」
「それだけじゃないです。わたし、本当にハルさんと友だちになりたいと思っています」
「意味がわからないな」
 灰皿を手前に引き寄せ、タバコを指でトンと弾いて灰を落とした。
「わたし、ハルさんと一緒にいると安心するんです、楽しいんです。せっかく出会えたのに、終わりにしたくないんです。さよならしたくないんです」
「理解に苦しむ」
 パソコンから手を離したハルは背もたれに寄りかかり、考えるように目をつむった。
「……あんた、俺が好きなのか?」
 その言葉がどういう意味かはわからなかった。それでも選択肢が二択ならば、答えは一つしかない。
 サキは目を閉じたままのハルを見つめ、控え目に、でも力強く声を出す。
「好きです……!」
 そう答えるとハルはおもむろにまぶたを開き、サキを虚ろに見つめると、くわえたタバコを灰皿へ押し付け立ち上がった。
「こい」
 腕を引っ張り戸惑うサキを無理矢理立たせると、ベッドへ連れていきそのまま押し倒した。
「一度だけ抱いてやる。それで終わりにしろ」
 胸の鼓動が高鳴ったのは、突として転んだから。決して、吐き出されたタバコのにおいや言葉のせいではない。
 サキはそれらを打ち消すように、覆い被さるハルを見据える。
「ハルさんはそんなことしません」
「あんたは俺を知らない」
 ワイシャツの袖のボタンを外し、腕をまくる。サキの首もとに触れた。脈打つ細い首。少しだけ力を入れたがすぐに緩め、火照る頬をスルンと撫でる。
 ハルの手つきに、サキはわずかな息苦しさを感じたが怖くはなかった。
「だから友だちになるんです。教えてください。知りたいです。優しい以外を知りたいです」
 手は耳へ流れる。耳の縁をなぞり、もう片方の耳元へ顔をよせると、ハルは息を吹きかけるように話した。
「これ以上俺を求めないように、一回であんたを満足させる」
「友だちになってくれなきゃ満足しません」
 耳たぶをつまむ。ハルは少女の体が小刻みに震えたのを見逃さなかった。
「いつまでそんな戯言言えるか見ものだな」
 耳から顎のラインに沿って下へ滑らせ、赤みを帯びた唇にソッと触れる。強がっているのがわかるくらい熱を感じる。
 ハルは追い詰めるように、サキの目をクッと見つめた。それでも、今日の彼女はひるまない。
 指先で触れるサキの唇が動く。
「終わりは嫌です」
「そうか。それなら、もう二度と会いたくないと思わせようか」
 唇からさらに下へ、肌に緩く触れる指は首を通り、鎖骨のくぼみをなぞる。
 指は無論、視線も声も全てがくすぐったくて、何度も出てしまいそうになる吐息を我慢しながらサキは話す。
「しないこと、わかってます」
「今日はどうかな」
「前に言ってたじゃないですか。初めてはめんどくさいって」
「俺の言葉を信じるな」
 ハルは目をそらすように顔を胸元へうずめ、汗ばんだTシャツの裾をまくし上げながらゆっくりと中へ手を入れた。
 手のひらに伝わってくる鼓動が強まる。それでもサキはめげない。
「っ……それなら、傘は捨ててないんですね?」
 わき腹を這う手が止まる。
「……傘は捨てた」
「信じません。ハルさんは優しい人です」
 ハルが顔を上げるとサキは微笑んだ。
 非常に厄介だ。
「『優しい以外を知りたい』と言ったな……」
 Tシャツの中に入れた手を抜く。
 尚も笑顔を向けるサキの前髪を横へ流し、額にある治りかけの傷を親指でなぞった。
 サキは目を細める。
「今ここであんたに泣いてもらっても俺は構わない。嫌というほど思い知らせてあげよう」
「わたしはもう泣きません」
 ふたりはじっと見つめ合う。
 彼女の瞳はうるおっているが、涙ぐんではいない。
 泣いたときがやめどき。そう決めていた。またすぐに泣くだろうと思っていたが、少女の瞳は強かった。
 サキは、涙を誘うように目尻に触れるハルの手を両手でソッと包み込むと、柔らかく握った。
「わたしと友だちになってください」
 しっとり透き通った瞳が空虚な黒目へまっすぐと向けられる。
 見くびっていた。
 その言葉が真剣だと、そう思わざるを得ないほどしっかりとした眼差しに、打開策が見つからないハルは折れるしかなかった。
「負けた」
 目を背けたハルはゆっくりと起き上がり手を伸ばす。差し出された手をサキはしっかりと握った。
 ハルがサキの体を引っ張り起こすと、ふたりはもう一度向き直る。
「その願い、許可する」
「え! 友だちになってくれるんですか!?」
「ああ」
「やった!」
 サキは小さく拳を握る。
「ただし、“友だち”という関係が崩れたら、今度こそ終わりだ」
「はい!」
 その返事と表情、その意味をサキはおそらく理解していない。
 ベッドを降りたハルは手早くタバコを一本取り出しくわえた。すぐに火をつけようとライターを擦るが、なかなかつかない。風邪のせいか、調子が狂う。何回か擦りようやくついた火をタバコの先端へ寄せる。一度煙を吐き出すと、窓の外へ視線を移した。あどけなく笑う彼女を遠ざけるように。


「待て。洗濯の前に着替える服を買ってこい」
 洗濯物を抱え部屋を出ようとするサキへカードを差し出した。
「近くに洋服屋がある」
「……どんな洋服を買ったらいいですか?」
「あんたの好きな服を買えばいい」
「わたしの、ですか?」
「着替えがないだろ? しばらくの間ここにいるなら2、3枚は必要だ。これで買ってこい」
「……でしたらお金はいりません」
「遠慮するな、友だちだろ?」
 ハルはサキの手を取り有無を言わさず持たせた。
「ついでに野菜ジュースを買ってきてくれないか」
「あ……はい……」
 嬉しいはずの響きが、今は複雑に感じて、サキの心はモヤモヤ。
(いいように使われちゃったなぁ……)
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