林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/なれる夏』

3 消えないメッセージ

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「そこっ、いい……もっとして……?」
 正直、セックスは嫌いじゃない。だからといって好きというわけでもない。ストレスを一時的に忘れさせてくれる行為の一つという認識を、初めて経験したときは持っていた。ランニングに近い感覚だっただろうか。
「それ……それ好きぃっ……」
 違うのは、目標が無ければ達成もしないこと。ゼンマイが切れるまで動き続けるブリキの玩具だ。
「きて……?」
 一度きりの関係ならば主導権は握っておきたいが、流れには逆らわず、相手の要求に応える方が楽だと知った。
 彼女が首に手を回す。
「ねぇ、愛してる?」
 それに応えるのは簡単なこと。
「愛してる」
「ふふっ、私も愛してる」
 こんな安い言葉で満足する関係が丁度良い。
「波瀬さんだぁいすき。もっかいしよぉ?」
 ハルは彼女の髪を撫でた。
 これは過ちを思い出させるための自戒行為。
 トラウマに近い罪悪感は日に日に和らいでいってしまったが、それでも強烈に襲ってくるときがある。
「少し休ませてください……」
 左手の薬指にはめた指輪にキスをする彼女をベッドに残し、ふらつく足でトイレへ向かう。
 便器の蓋を上げ、コホンと一つ咳をした。
 吐瀉物が水とともにグルグルと流れる様を、全て吸い込まれるまでぼんやりと眺めた……。

・・・

『付き合ってください』

 彼女に告白されたのは、彼女が入社して1年も経たない頃だった。
 告白されることには慣れていたから、いつも通り丁重に断った。

『それって、結婚してなかったら私と付き合ってもいいってことですか?』

『結婚しているから……』この言葉は断る理由として使いやすいが、時には仇となることも知る。

『勝手に好きでいてもいいですか?』

 連絡先を交換して、数日後。彼女から一言だけのメッセージが届いた。

『たすけて』

 気づけば彼女のマンションまで車を走らせ、部屋の前。ここまで来たのならインターホンを鳴らす。
 ドアを開けた彼女は、ぼうっと突っ立っている腕を掴み、玄関に引き入れると突然抱きついた。
『……メッセージ』
 彼女は見上げる。
『助けに来てくれたんでしょ……?』
 上手に潤ませる瞳を見つめ返す。
『私は、あなたを、助けることができますか?』
 そう聞くと彼女は頷き、ソッと目をつむる。返答を待つ彼女の背に腕を回し、そのまま乗った……。
『莉緒菜?』
 部屋の奥から見知らぬ男が出てくる。
『おい! テメェなにやってんだ!』
 男はハルの肩を掴み体から小松を引き離すと、その手でハルの頬を殴った。
『警察呼ぶぞ!』
『……呼べよ』
 思ってもみない返答と見据えるハルの黒い瞳に男は怯む。
『怖いのか?』
『やめて!』
 小松の叫び声は、振りかざす男の拳を止めた。
『お前、こいつとどういう関係なんだ!』
『見たままの関係よ! ……だから、いい加減私と別れて』
『……ふざけんなよ!』
 彼女に向けられた怒りの拳をハルは掴み止める。
『テメェ! 邪魔すんじゃねえ!』
 手をほどこうとするも全く動かず、掴まれた手首はむしろ、さらに、ギリギリと締め上げられていく。その痛みに男の顔が歪む。
『クッソ……! どいつもこいつもふざけやがって!』
 掴んだ手を緩めると胸ぐらを掴まれ、ハルは壁に強く押し付けられた。
『こんなクソ女くれてやるっ……』
 もう一発殴ると男はそのまま出ていった。
『波瀬さんっ……』
 殴られた頬を心配する小松。
 すぐに消える痛みなんて、どうでもよかった。
 よれた襟を正すハルは、小松に背を向けドアノブに手をかける。
『えっ、帰っちゃうの?』
『もう用は済んだでしょう?』
 出ていこうとするハルの腕を掴み、引き留めた小松。
 唇が触れると、血の味がした。
『……私、本気だよ?』
 二人は静かに見つめ合う。
『既婚者相手に本気も糞もない』
『私、結婚指輪をはめてる人が好きなの』
『は?』
『……あの男も元既婚者。わざわざ奥さんと別れてさ、結婚しようって言ってきたから私、冷めちゃった。それで別れてって言ったらこの有り様。あーあサイアク』
 彼女はおかしそうに笑う。
『あなたは私を好きにはならない』
 伸ばした手をハルの首に回し、おもむろに顔を近づける。
『本気の遊び』
『あんたは一生幸せになれない』
『幸せですよ? 今とっても……ね……?』
 小松の唇が、吐き出されようとしていた否定の言葉をふさぐ。

 流された。
 気持ちは元からない。
 ただ、流された。

 地獄行きの切符を片手に、今更なにができるというのか。

『私を……助けて……?』

 あの言葉が、首を絞めた。

・・・

 洗面所で顔を洗う。見上げた目の前の鏡には知らない男の顔が映っている。知らなくはないが顔見知り程度の相手だ。なにも知らない。名前も声も。いつもそこにいて、じっとこっちを見ている。
「あんたは誰だ」
 周りの人々は鏡に映る人を、自分だと言う。
「一体……」
 その男は手を伸ばす。目の前の男の顔を隠すように。
「誰なんだ……」
 もう一度聞くと、今度は誰も答えてくれなくなった。
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