林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/なれる夏』

11 おぞましいほどの静けさに、君と過ごす不思議な時間はまるで、神隠しにあったようだった

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『九鳴神社でお祭りがあるんですけど、行きませんか?』
『18時なら行けます。』
『わかりました! では、18時に、鳥居の前で待ってます!』

「ようし、行くかー!」
 背伸びする田儀の号令に、ハルは携帯電話をポケットへしまう。サキからの誘いは初めてで、少し体がざわついていた。
「波瀬さん? 行きましょ?」
 いつもと違う不快感に立ち尽くしたままのハルに、小松が声をかける。
 仕事を終え、田儀や後輩数人とともに居酒屋へ向かう。
「そんじゃ、負けちゃいねぇがカンパーイ!」
 田儀のくだらない掛け声で飲み会がスタートする。みな、他愛もない話で盛り上がる最中、ハルは物事を円滑に進めるための言葉を使い、会話を適当に済ませる。予定より早く店を出ようと、引き留める田儀の言葉を受け流していたが、いきなり腕を引っ張られた。
 田儀はハルの耳元でコッソリと言う。
「もう少しいいだろ? ……お前がいないと退屈だ……」
「今日は大切な予定が……」
「大切って? 奥さん?」
「いえ……友人です……」
「俺より大切な友人か……」
 何度も断ったが帰るに帰れず、サキへ連絡を入れた。
『すまない。30分遅れる。』
『大丈夫です、待ってます!』
 すぐに返ってきた返信を確認し、携帯電話をしまう。やはり謎のざわつきは収まらない。ウーロン茶を口にすると、どこからかゴロゴロという音が聞こえた。
「なんだ? 腹鳴った?」
「……雷ですね」
 田儀は障子を開け窓の外を確認する。
 空が一瞬青白く光った。遠くの方で雷鳴が聞こえ、雨がぱらつきはじめる。
「祭り、大丈夫っすかね?」
 後輩の誰かがつぶやく。
 窓に打ち付ける雨の音は徐々に激しさを増す。
「こりゃひどい……」
「んじゃあ花火は中止ですねー」
「中止か……俺の息子、花火楽しみにしてたのになぁ……」
 田儀は悔しさをぶつけるように、ビールをゴクゴクと飲み干す。
 時刻はかれこれ19時半を回ろうとしていた。
 連絡もなしにプラス1時間も。雨も降っているし、きっと、帰っているだろう。
「……そろそろ失礼します」
 ハルが田儀の手を払い、居酒屋を飛び出ると雨はもう止んでいた。
 道路には水溜まりができている。
 跳ねる泥も気にせずハルは走った。
 途中で携帯電話が震えているのに気づいてハルは立ち止まり、すぐさまポケットに手を突っ込み確認した。
『お祭り中止になっちゃったので、今日はもう帰ります。急なお誘いすみませんでした!』
 サキからのメッセージに、胸の辺りのモヤモヤとした違和感が強まる。
 それを払い除けるように、ハルは目の前の道に背を向け、居酒屋へ戻ろうと歩き出した。
「ん? 波瀬?」
 外でタバコを吸っていた田儀がハルに気づき声をかけた。
「予定がなくなりまして……最後までお供します」
「そうか。んじゃもう一軒行くか」 
「ごちそーさまでしたー」
「あ、波瀬さーん」
 後輩たちが居酒屋からゾロゾロと出てくると、田儀はタバコを携帯灰皿にしまい、パンパンとスーツをはたいた。
「ん?」
 一人が空を見上げる。
「やだぁ。また降ってきたぁ」
「えーあたし傘持ってないのにー」
 その話し声に、ハルは田儀に向かって軽く頭を下げる。
「すみません、やっぱり帰ります」
「ぉえっ!? ……気を付けろよー」
 ハルは再び走り出す。
「あんれ? 波瀬さん帰っちゃうんすか」
「……アイツ最近、やけに忙しいな」
 遠ざかる背中を見つめていた小松は、思い立って後を追いかけた。
 小松は急いで走ったがハルとは距離があり追い付けず、呼び止めようと叫んだ。
「波瀬さん!」
 声が届きハルは振り返り立ち止まる。ようやく追い付いた小松は、息を切らしながら傘を差し出した。
「これ……持ってってください……貸します……」
 だが、ハルは受け取らなかった。
「……もし小松さんが風邪を引いたら私が困ります。それに……傘は1つで十分ですから」

 ハルは神社の階段を駆け上がる。
 待ち合わせ場所の鳥居前にはいない。
 辺りは暗く人気もない。灯籠も提灯も明かりが消され、並ぶ屋台もそのまま。
 本来なら賑わいを見せているはずなのに、雨によって人々は消し去られ、残された装飾とこの神社の静けさが相反して、異空間であるかのような独特の雰囲気を放っていた。
 ハルが拝殿へ向かうと、また雨がパラつき始めた。
 強まる雨に、一度しまった猫柄の傘をさす。
 降りしきる雨のせいで砂利を歩く音が消される。
 拝殿の軒下、正面の階段を上がったところに人影が見えた。まるで座敷わらしのように、膝を抱えて突っ伏す浴衣姿の女の子は、紛れもなくサキ。
 彼女の姿を見つけたハルは息を整え、ゆっくりと近づいた。
「帰るんじゃなかったのか?」
 その声にソッと顔をあげたサキは驚いた。
「……帰ろうと思ったらまた雨が降ってきちゃいまして……帰りそびれました」
 傘を畳み拝殿に向かって一礼したハルは階段を上がり、はにかむサキの隣へ腰を下ろす。
「ハルさんはどうしてここに?」
 ハルの視線がサキの胸元へ移る。
「……ハルさん?」
 淡い水色の浴衣が雨に濡れて、肌が透けて見えていた。サキは慌てて隠したが、ハルに腕を掴まれ広げられた。
「ちょっ……」
「やっぱり」
「え?」
「衿が逆だ」
 サキは顔を下へ向けた。
「……あ……そっか、鏡だと逆なんだ……」
 鏡越しで見れば衿は右前だが、ハルから見ると左前になっている。
「みなオバケを見るような目で見ていただろう」
 すれ違う人たちにジロジロ見られているような気がしていたのは、浴衣が似合っているからではなく、衿のせいだったんだと、今さらながら恥ずかしく思うサキは、真っ赤になっていく顔を両手で覆い隠した。
「脱いで」
「へ?」
「直すから脱いで」
「えっ……いや、あの……」
「誰もいないし、いたとしても暗いから見えないだろう」
 サキは眉をひそめる。
「ほどいてもいいか?」
「ダメっ!」
「……これで歩くわけにはいかないだろ」
 ハルは傘を開いてサキへ持たせる。
(あれ? この傘……)
 真横になるように傘を傾けると、傘の布で体が隠れ、正面からは見えなくなった。
「どうだ?」
「……はい……」
 傘とサキの間に入ったハルは、濡れた浴衣の帯に手を掛けほどいていく。
「あ~れ~……」
「ういやつめ……よいではないか……」
 ハルの囁く声にサキは唇を噛んだ。恥ずかしさを打ち消すためにふざけて見せたのに、まさかハルが乗ってくるとは思わずサキは自滅する。
 帯を外し、衿を正す。
 ハンカチで一度体を拭いたが、雨に濡れて透けた浴衣はへばりつく。
 冷えた肌に冷えた指先が触れる。
 帯を巻き付け、後ろを向かせる。
 サキは傘を閉じた。
「綺麗だ……」
「……へ?」 
「綺麗な浴衣だ」
「あ、浴衣……」
 帯を結ぶハルの視線に慣れたはずのサキは、またも頬を赤らめた。服装に関して今までなにも言わなかったのに、シチュエーションも相まって調子が狂う。
「母のおさがりなんです。お祭りに行くって言ったらこの浴衣出してくれて……、なんか、わたしのためにとっておいてたそうです……」
「ひとりで着付けたのか?」
「はい……」
「大変だっただろう。頑張ったな」
 ハルはリボンの形に結んだ帯をギュッと締めた。
「よし、これでいい」
 出来を確認しようと、背を向けるサキの体をクルリとひるがえすと、向き直ったサキはポロポロと泣いていた。
 それを見た瞬間、時が止まったように感じたハル。気づけばサキの体を引き寄せていた。
 腕の中で目を丸くする彼女の小さな体はとても冷たい。
 無言の二人を隠すように降り続ける雨の、拝殿の屋根に打ち付ける音は騒がしい。
 彼女を抱きしめる正しい言い訳を考えるハルにとっては、その雨音が煩わしく思えた。
 ただ理由もなく、そうしたいから体が動いた。とても不十分な理由。意味を成さない行動に明確な理由をつけるのは困難で、もし彼女に「どうして?」と聞かれたら、なんと答えればいいのかわからない。
(どうして……なぜだろうか……)
 ハルはどうしても理由が欲しかったが結局なにも思い浮かばず、ソッと体を離し、うつむく彼女がキュッと握りしめる折り畳み傘を、ぎこちなく指差す。
「……傘、返す」

 涙の止まった少女が顔を上げて笑う。

『ウソつき』

 突然の風に体が煽られた。

「ハルさんが持っていてください。また迎えに来てもらえるように」
 仕方なく傘を受け取ると、サキは顔を歪ませクシャミをした。傘の代わりにハルは脱いだ上着を、腕を擦るサキの濡れた体へ羽織らせた。
 ハルの上着は雨と謎の焦げたにおいと、若干の汗が染み込んでいて心地よかった。
「風が冷たいですね」
「もうすぐ秋か」
 軒先からポタリポタリと滴り落ちる雨粒。雨が止み、肌寒い風がピュウと吹くと、彼女はまたクシャミをして、その体を温めようと背に伸ばしたもどかしい手を、ハルはソッと引っ込めた。
 軽快に階段を下りたサキは、夜空に手のひらを向けた。
 風が吹き、雲が流れ、その合間に星が光る。見つけてもらうための輝き。
 遠い宇宙を見上げるサキを、ハルは見つめた。
 彼女と会うたびに、彼女の体に貼られた絆創膏やアザの数が減っていく。新たにできた傷の場所は変わっても、その数は確実に少なくなった。それにともなって、彼女の表情も明るくなった。ぎこちなかった笑顔も変わった。たぶん、自然に笑えるようになったんだ。
 星を掴もうと手を伸ばす彼女を呼ぶと、嬉しそうに振り向いた。
「なにか温かいもの、食べて帰ろう」
「やきそばー!」
 二人は拝殿に向かって「お世話になりました」と礼をして、冷えた体を温めるために、神社を後にする。
 この澄んだ空気を棄てるのは惜しい。
 鳥居をくぐる手前でサキは立ち止まり、ハルは後ろを振り向いた。
「……行こうか」
 誰も存在しない二人だけの異空間を抜け出すと、秋の虫の羽音がどこからともなく聞こえてきた。
 二人は徐々に雑踏の街へと戻っていく。
 その街では、目的が違う人々はみな仮面を付け、ソレを悟られまいと上っ面で頭を下げる。胸に宿す思いと希望の見えない現実との葛藤が交差する。そんな、暴力的かつ、上品で繊細な街へと、二人は帰っていく。



ご『“友だち”の有効活用』夏おわり。
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