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ご『“友だち”の有効活用/ゆれる秋』
2 水面に反射する、揺れるおもかげ
しおりを挟む 残暑を吹き飛ばす爽やかな風に、黒髪を揺らす少女。涼しげな顔で振り返り、笑顔を向けた。
「今日はハルさんがしたいことをしましょう」
「俺のことはいい。行き先は任せる。俺はあんたについていく」
そう答えるとサキはムッとした。
「そんなの友達じゃありません」
「……友達じゃない?」
「ただの家来じゃないですか。私はハルさんのことが知りたいんです。ハルさんともっと仲良くなりたいから、今日はハルさんがやりたいことを、絶対にやります!」
「ない」
「え?」
「やりたいことはない」
「もう、ちゃんと考えてください!」
表情を見ると彼女は本気で怒っているようだった。コロコロと変化する顔は見ていて飽きない。ボーッと見つめていると、眉をひそめるサキが顔を覗き込む。
「考えてます?」
「え、ああ……そうだな……」
とはいえなにも思い付かない。向けられる期待の眼差しに応えようと、ハルは考え、考え、考え込む。
待てども返答が来ず、サキは眉間にシワを寄せた。
「……最初にパッと思い付いたことでいいんですよ?」
頭は空っぽで、引き出しを探ってもなにもない。ハルは目を移した。西の空に小さな雲の群れがある。
「……さかな……」
「魚?」
ハルの視線につられて、見上げた空にイワシ雲。時期に雨が降るだろう。
「魚が見たい」
「はい! 見に行きましょう! 魚がいるところといえば……」
「そうだな、」
「あ、待ってください。せーので言いましょ! せーの!」
二人は声を揃えて、
『「水族館!」「魚市場」』
揃わなかった。
「……死んでる魚がいいですか?」
「いや、生きている魚がいい。すまない、水族館は頭になかった」
サキは吹き出すように笑った。
「では水族館へ行きましょう! この近くの水族館といえば……せーので言いましょ! せーの!」
館内なのにカモメの鳴き声が聞こえてくる。その音に注目していると、柔らかな風が吹き抜ける音、遠くの方で波の音がかすかに聞こえた。まるで浜辺を散歩しているよう。
「ここの水族館、実は来たかったんですよね~!」
『アクアマリン・メロウパーク』は、陸にいながら海中遊泳を楽しんでもらうことをコンセプトに、訪れたゲストを心地よく海へと誘うための演出が随所でされている。
常に流れている館内のBGMは、浅瀬、中層、深海と、コーナーごとに変化し、川のせせらぎや打ち寄せる波の音、深海では、海底探査をする潜水艦の中にいるような電子音が聞こえたりと、バリエーションに富んでいる。
入り口から少し進むと、波の音が強まり、ポコポコという泡の音へと変わる。これから海の中へ潜っていくのかと、ワクワクさせられる。
ふと見上げた天井が、太陽に照らされた水面を、水中から眺めているかのように、キラキラと揺れていた。
薄暗い館内を照らしているこの青い照明も、BGM同様、コーナーごとに色の濃度が変わる。
水と光の万華鏡と異名付けられるだけあって、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「意外と混んでいるな」
「この時期ってほら、修学旅行ですよ」
周りを見ればサキの言う通り、客の大半が学生服の集団。よそ見をすれば迷子になってしまいそう。
人の少ない水槽へ駆け寄ったサキは手招きする。
「カニですよ、両手広げるくらい大きいですね!」
「本当だ」
嬉しそうに話す彼女の隣へ腰を下ろす。
どの水槽も興味深々な眼差しで、じっくりと観察する、青く照らされた横顔。
四方から覗ける小さな水槽の中を、カラフルな小さい熱帯魚が、ヒラヒラと泳いでいる。ハルはサキが見つめる水槽の裏へ回り、身を屈め、水槽をソッと覗く。視界を横切る熱帯魚やイソギンチャクがボヤけたのは、フォーカスが自然と、奥にいる彼女に合わせようとしていたから。
ふと目が合い、気づいた彼女が微笑む。
冷房で冷やされた館内は、目の前の冷たい水槽のようだった。
「わっ」
ぶつかりそうになったサキの声に振り向いたハルは、人混みではぐれそうになる小さな手を掴んだ。
「この方がいいだろう」
握られた手元を見つめるサキは、気まずそうな顔をしている。
「友だちとは手を繋ぐものではないか……」と、ハルが手を離すと、今度はなにか言いたそうな顔をして、サキは体をウズウズさせた。
「どっちがいい?」
ハルは手を差し出す。
サキは服の裾で手を軽く拭って、ハルの手をソッと握った。
「こっち……」
その手はしっとりと冷たかった。
ふたりはお互いがはぐれないようにと、手を繋ぎながら歩く。
アシカショーのアナウンスが流れ、人混みが緩和されてもふたりは手を繋いでいた。
汗ばむ手元ばかりを気にするサキは、鮮やかな青色に全身が包まれ、見上げた。
ドーム形の水槽。海のトンネルだ。頭の上を縦横無尽に泳ぐ多種多様な魚たちに目を輝かせた。
「本当に海のなかにいるみたいですね!」
周りに人がいないこともあってか、ふたりだけの静かな空間にサキははしゃぐ。
パッと手を離したサキはハルから少し離れ、両手を広げてクルリと回った。
今日は白いフリルスカート。裾がふわりと舞い、時折目を閉じ微笑みながらユッタリと踊る少女は漂うクラゲ。
天から差し込む白い光は波と共にユラユラ揺れ、クラゲは海の青さに包まれ、海の色に溶け込まれていく。
それを追うハルは、クラゲをエサとする魚だろうか。
優雅で可憐な柔らかいクラゲに魅入られた魚は、海の中を泳ぎながら共に散歩がしたいと手を伸ばす。
でも、近づけない。
触れたら麻痺してしまいそうで。
それならばいっそ、プランクトンになって補食されよう。
溶けて消えてしまう前に……。
腕を掴まれたサキは、いきなりグイッと引っ張られハルに抱き寄せられた。
「ひぇ!」
「すみません」と、会釈するハル。
その方に目を向けると、不機嫌な顔つきでこちらを見てくる若いカップルがいた。
「す、すみません……」
思わずドキドキしてしまったこの鼓動の理由をすぐにでも取り消したくて、サキはハルを払い退け、全速力で走った。
長い海のトンネルから脱出しても、サキは足を止めない。とにかく離れたかった。
わき目もふらず足早に歩くサキだったが、ポシェットの中が震えているのに気づいて足を止めた。
取り出した携帯電話。相手はハルから。
『いきなり走るな。危ないだろ』
「ごめんなさい……」
『……子供は、大人がしっかり見てあげないと、なにをしでかすかわからない』
「大人も……大人だってなにをするかわかりません……!」
サキはうつむき、ハルは手元の時計を見た。
『あんたはどうしたい? このまま帰るか?』
「……ハルさんは?」
『俺は……まだ地上へは戻りたくない……』
「え?」
『もう少し、見ていたい』
この深い海から抜け出したいけど、もう少しだけ君と、閉じ込められたこの小さな海の中をさ迷っていたい。
『あんたは?』
「わたしももう少しここに……いたい……あいたい……です……」
ふと漏れてしまったわずかな思い。伝わってほしいけど、聞こえていないといいなと願った。
『今どこにいる?』
サキは辺りを見渡し、目印になりそうなものを探して伝えた。
離れたくて自分から逃げだしたのに、声を聞くとまたすぐに会いたくなってしまうのは、どうしてだろう。
『すまない。電波が悪いみたいだ。もう一度……』
何も見えなくなるほど真っ暗な海底まで深く沈んで、それでもそばにいると、存在を確認できるように手を繋いで、君と、君を染めるこの深い青色に溶け込みたい。
「もう一度」
ここが水槽の中と知らず、この海がどこまでも続いていると錯覚する魚の様に、ぐるぐる回って旅をしたい。
なにも知らなくていい。
なにも知らないまま、世界を知った気になって、海底に座って、空想の話がしたい。
「わかった。すぐに行くから、そこで待っていなさい」
電話を切ったハルは、手のひらの上でユラユラと波打つ青い光を海へ返した。
「この大きい魚は……ピラクル!」
「ピラルク」
「ピラルク!」
即座に訂正するハル。サキはすぐに言い直した。
アマゾン川に生息する世界最大の淡水魚、ピラルクに釘付けのサキ。己の体を優に超える大きさに興奮している。その横顔をハルは見つめた。
不思議でしかたがない。無邪気な姿を見ていたいと思うと同時に、胸につっかえる嫌な玉をえぐられる感覚が押し寄せてくる。
ハルは、少女が熱い眼差しを送る巨大な魚に目を向けたが、すぐにめまいがして見ていられない。今になって水槽に酔うなんて、今までしっかり見ていなかったのかもしれない。水族館に来て、魚を見ずになにを見ていたのか。
ハルは疲れた目をつむる。
まぶたに差し込むわずかに揺らめく光の中で、残像を見た。
まだ幼い頃の、空を飛べたあの日の記憶。
天体望遠鏡を積んだ自転車を必死に漕いで、全速力で丘を登る。星を見るために。違う。丘の上で待っているあの子に会うために。
『こんなにも遠かったっけ……』
ペダルを漕ぐのに疲れた少年は足を止めた。暑くはないが、滴り落ちる汗が異常に多い。早く行かなければと思うものの、足が金属で固められた感覚に陥り、全く動かなくなった。顔を上げると、丘の上は陽炎のようにユラユラ揺らめき、消えかかっている。その淡く崩れそうな微々たる光の中に、あの子の姿が小さく映った。
『もう少し……もうすぐっ……』
全身に力を込め、動かない足で思いっきりペダルを蹴る。
丘の上のあの子は、こっちに向かってなにかを言っている。聞きたくない。その口の動きを読み取りたくない。
ハルは残像の中で耳をふさぎ、脳が勝手に作り出した幻を消すように目を開けた。
「あっ、すみません。長居してしまいましたね。次行きましょうか」
サキの声とともに、消えていた柔らかな雑音が戻る。
「トイレ行ってくる」
「あ、はい……!」
ついて来ようとするサキを止める。
「あんたはここで待ってろ」
戸惑い少し悲しそうな顔をするサキを置いて、ハルはトイレへ向かった。
日に日に大きくなっていくあの存在が、首を絞める。息ができるうちにまた上から塗りつぶさなくては……。
個室で乾いた咳をして、吐いたため息を水に流した。
戻ると、サキはアマゾンコーナー近くに設けられたベンチに、おとなしく座っていた。
ハルに気づいたサキが立ち上がる。
「……そろそろ帰りましょうか」
「今日は俺に付き合ってくれるんじゃないのか?」
「へ?」
ハルはゆっくりとサキの体に近づく。迫られたサキはたじろぎ、腰が抜けたようにベンチに座り込んだ。
見下ろすハルの瞳が少し怖い。怖かったけど、その表情はどこか寂しそうにも見える。
「俺たち、友だちだろ……?」
「はい……」
通行人に当たりそうなサキをハルがグッと引き寄せる。思わずドキドキしてしまうその胸の高鳴りは、恐怖に近かった。
(怖くない……怖くない……)
サキは隣を歩くハルの手を見つめ、思いきって握った。
「なんだ?」
向けられる視線が痛い。それでも逃げたくない。
「……はぐれないように、また握っていてください」
ギュと握る小さな手は震えていて、サキの目線に合わせるようにハルはしゃがんだ。
「すまない。俺は、あんたとどう接していいのか、わからないんだ……」
「楽しくないですか……?」
見慣れているはずの潤んだ瞳が向けられる。この涙も簡単な女の嘘だとしても、彼女の涙だけは直視できない。
うつむきソッと目を閉じたハル。サキが握りしめる手のひらにじんわりと汗を感じる。
「わたしといるの、楽しくないですか……?」
そう。もっと単純でいい。もっと単純だったんだ。この時を楽しめばいい。その単純なことができなくなっていた。違う。できないんだ。楽しんではいけないと、自分に言い付けていたことを思い出す。
ハルはサキの手を外し、腰を上げた。
「今日は帰ろう」
「あ!」
出口へ向かう途中の通路で、カプセルトイを見つけたサキは駆け寄った。ドーム型のカプセルトイが数台並んでいる。
「記念にやってみようかな。色々あるなぁ……魚コレクション……海洋動物……アザラシかわいい! ハッ、ピラクルがいる!」
「ピラルク」
一応訂正したが、目を輝かせながらカプセルトイを覗き込むサキには聞こえていない。
──ガランッガランッコロコロ~──
水色のスーパーボールの中に埋め込まれた海の生き物たち。
ドームの中をクルクル回って落ちてくる一つのボールを、ワクワクしながら目で追いかける。
サキはしゃがみ、落ちたボールを取り出した。
「イカだ、……イカ? イカかーい」
それを見ていたハルも財布を出す。
「ハルさんもやるんですか?」
「うん、記念に」
サキは微笑み、その様子を後ろから見守った。
(なにやるのかな?)
ハルが選んだのは『未知の深海生物たち』。
──ガランッガランッコロコロ~──
「なに出ました?」
しゃがむハルの手元を覗き込んだ。それは見たことのないカタチをした魚だった。ヒレが8つ付いた青い体に、白い斑点。そして退化した白い瞳が不気味に光っている。
「シーラカンス」
「えーと、古代魚でしたっけ?」
「ああ、ピラルクと同様、生きた化石と言われている」
「シーラカンス……」
サキはポシェットから小さなメモ帳を取り出し、その名前とカタチを忘れないように書き込んだ。
「お土産は見ますか?」
「いいや、俺はこれがあるから……」と、ハルは手の中のシーラカンスを見つめる。
「あんたは?」
「私もこれがあるので十分です」
サキはイカを自慢げに見せ、「にへへ」と照れ笑いした。
見上げれば、西の空を泳いでいたたくさんのイワシは、得たいの知れない灰色の大きな怪物に飲み込まれていた。
少女が開いたメモ帳に記されたシーラカンスが、一定のリズムで揺れる。深い海の底を、ゆっくりと歩くように。
おそよ4億年も、恐竜が誕生する時代よりも前から地球に存在する生物。
その姿、変わることなく。
急速に進化を遂げ、人は柔軟に適応していく。抗うものは切り捨て、忘れさられる。そして今、退化を求める地球で、これから4億年以上も、カタチを変えずに生き続けることができるだろうか。
心はあの日から止まったまま。
体だけが成長し、いらない知識を詰め込まれ、環境に順応させる器用さを身に付け、無駄に年と経験を重ねていく。
この街の流行色に染まらず、定められたそれぞれの時代のカタチに収まらず、自分という存在が確立された世界を歩めたら……。
少女は指を差し、車内アナウンスが別れを告げた。
・・・
丸い水の中に閉じ込められたシーラカンス。
デスクライトに照らし、眺めて引き出しにしまう。
渡せなかったあの日の手紙とともに。
今日の思い出を閉じ込めるように、鍵をかける。
『次からは交互に行きたい場所に行きましょう! ハルさん考えてきてくださいね、宿題ですよ!』
またも与えられた宿題に頭を悩ませる。
眼鏡を外し電気を消すと、待ち焦がれていた真っ暗な部屋が現れる。
なにもないのに重たい体、ベッドへ滑り込ませる。
隣のベッドは空いたまま。
月のないこんな夜にはちょうどいい雨の静寂。
向かい合う天井が落ちてくる。
布団を被り、まぶたを閉じると視界が揺れた。
波のさざめきが微かに聞こえてくる。
暗い水面に浮かぶ体は深く沈んでいく。
まっ逆さまに落下する体は無重力。
上も下も、右も左もわからない暗い海の中で、二つの光と出会った。
それは、漆黒の海中を漂う無力な体よりもはるかに大きな魚の瞳で、その巨大な口が開くと、強大な水流が生まれた。
吸い込まれる体。
身を任せ、抗うことなく静かに食べられよう。
誰かの糧となり、一体化することを心から望むなら。
巨大な深海魚は、寝返りを打つハルをベッドの底から、時が来るのを静かに待っている。
深海の月よ。
『こっちだよ』って、導いて。
まぶたを開いた布団の中は、目を閉じているようだ。
なにも見えない。だから目をつむる。
探していたあのクラゲが手招いている。
頭上で待ち構える巨大な深海魚に、このまま身を差し出すのはもったいない。
足下を漂うクラゲの伸びた触手に絡まって、太陽の光を知らずに過ごしたい。
まだ知らなくていい。
まだ知りたくないことがある。
子供の無邪気さと大人の器用さで、後悔に蓋をする。
無重力の体は深海の闇に溶けて、眠れずにまた朝を向かえるのだろう。
「今日はハルさんがしたいことをしましょう」
「俺のことはいい。行き先は任せる。俺はあんたについていく」
そう答えるとサキはムッとした。
「そんなの友達じゃありません」
「……友達じゃない?」
「ただの家来じゃないですか。私はハルさんのことが知りたいんです。ハルさんともっと仲良くなりたいから、今日はハルさんがやりたいことを、絶対にやります!」
「ない」
「え?」
「やりたいことはない」
「もう、ちゃんと考えてください!」
表情を見ると彼女は本気で怒っているようだった。コロコロと変化する顔は見ていて飽きない。ボーッと見つめていると、眉をひそめるサキが顔を覗き込む。
「考えてます?」
「え、ああ……そうだな……」
とはいえなにも思い付かない。向けられる期待の眼差しに応えようと、ハルは考え、考え、考え込む。
待てども返答が来ず、サキは眉間にシワを寄せた。
「……最初にパッと思い付いたことでいいんですよ?」
頭は空っぽで、引き出しを探ってもなにもない。ハルは目を移した。西の空に小さな雲の群れがある。
「……さかな……」
「魚?」
ハルの視線につられて、見上げた空にイワシ雲。時期に雨が降るだろう。
「魚が見たい」
「はい! 見に行きましょう! 魚がいるところといえば……」
「そうだな、」
「あ、待ってください。せーので言いましょ! せーの!」
二人は声を揃えて、
『「水族館!」「魚市場」』
揃わなかった。
「……死んでる魚がいいですか?」
「いや、生きている魚がいい。すまない、水族館は頭になかった」
サキは吹き出すように笑った。
「では水族館へ行きましょう! この近くの水族館といえば……せーので言いましょ! せーの!」
館内なのにカモメの鳴き声が聞こえてくる。その音に注目していると、柔らかな風が吹き抜ける音、遠くの方で波の音がかすかに聞こえた。まるで浜辺を散歩しているよう。
「ここの水族館、実は来たかったんですよね~!」
『アクアマリン・メロウパーク』は、陸にいながら海中遊泳を楽しんでもらうことをコンセプトに、訪れたゲストを心地よく海へと誘うための演出が随所でされている。
常に流れている館内のBGMは、浅瀬、中層、深海と、コーナーごとに変化し、川のせせらぎや打ち寄せる波の音、深海では、海底探査をする潜水艦の中にいるような電子音が聞こえたりと、バリエーションに富んでいる。
入り口から少し進むと、波の音が強まり、ポコポコという泡の音へと変わる。これから海の中へ潜っていくのかと、ワクワクさせられる。
ふと見上げた天井が、太陽に照らされた水面を、水中から眺めているかのように、キラキラと揺れていた。
薄暗い館内を照らしているこの青い照明も、BGM同様、コーナーごとに色の濃度が変わる。
水と光の万華鏡と異名付けられるだけあって、幻想的な雰囲気を醸し出している。
「意外と混んでいるな」
「この時期ってほら、修学旅行ですよ」
周りを見ればサキの言う通り、客の大半が学生服の集団。よそ見をすれば迷子になってしまいそう。
人の少ない水槽へ駆け寄ったサキは手招きする。
「カニですよ、両手広げるくらい大きいですね!」
「本当だ」
嬉しそうに話す彼女の隣へ腰を下ろす。
どの水槽も興味深々な眼差しで、じっくりと観察する、青く照らされた横顔。
四方から覗ける小さな水槽の中を、カラフルな小さい熱帯魚が、ヒラヒラと泳いでいる。ハルはサキが見つめる水槽の裏へ回り、身を屈め、水槽をソッと覗く。視界を横切る熱帯魚やイソギンチャクがボヤけたのは、フォーカスが自然と、奥にいる彼女に合わせようとしていたから。
ふと目が合い、気づいた彼女が微笑む。
冷房で冷やされた館内は、目の前の冷たい水槽のようだった。
「わっ」
ぶつかりそうになったサキの声に振り向いたハルは、人混みではぐれそうになる小さな手を掴んだ。
「この方がいいだろう」
握られた手元を見つめるサキは、気まずそうな顔をしている。
「友だちとは手を繋ぐものではないか……」と、ハルが手を離すと、今度はなにか言いたそうな顔をして、サキは体をウズウズさせた。
「どっちがいい?」
ハルは手を差し出す。
サキは服の裾で手を軽く拭って、ハルの手をソッと握った。
「こっち……」
その手はしっとりと冷たかった。
ふたりはお互いがはぐれないようにと、手を繋ぎながら歩く。
アシカショーのアナウンスが流れ、人混みが緩和されてもふたりは手を繋いでいた。
汗ばむ手元ばかりを気にするサキは、鮮やかな青色に全身が包まれ、見上げた。
ドーム形の水槽。海のトンネルだ。頭の上を縦横無尽に泳ぐ多種多様な魚たちに目を輝かせた。
「本当に海のなかにいるみたいですね!」
周りに人がいないこともあってか、ふたりだけの静かな空間にサキははしゃぐ。
パッと手を離したサキはハルから少し離れ、両手を広げてクルリと回った。
今日は白いフリルスカート。裾がふわりと舞い、時折目を閉じ微笑みながらユッタリと踊る少女は漂うクラゲ。
天から差し込む白い光は波と共にユラユラ揺れ、クラゲは海の青さに包まれ、海の色に溶け込まれていく。
それを追うハルは、クラゲをエサとする魚だろうか。
優雅で可憐な柔らかいクラゲに魅入られた魚は、海の中を泳ぎながら共に散歩がしたいと手を伸ばす。
でも、近づけない。
触れたら麻痺してしまいそうで。
それならばいっそ、プランクトンになって補食されよう。
溶けて消えてしまう前に……。
腕を掴まれたサキは、いきなりグイッと引っ張られハルに抱き寄せられた。
「ひぇ!」
「すみません」と、会釈するハル。
その方に目を向けると、不機嫌な顔つきでこちらを見てくる若いカップルがいた。
「す、すみません……」
思わずドキドキしてしまったこの鼓動の理由をすぐにでも取り消したくて、サキはハルを払い退け、全速力で走った。
長い海のトンネルから脱出しても、サキは足を止めない。とにかく離れたかった。
わき目もふらず足早に歩くサキだったが、ポシェットの中が震えているのに気づいて足を止めた。
取り出した携帯電話。相手はハルから。
『いきなり走るな。危ないだろ』
「ごめんなさい……」
『……子供は、大人がしっかり見てあげないと、なにをしでかすかわからない』
「大人も……大人だってなにをするかわかりません……!」
サキはうつむき、ハルは手元の時計を見た。
『あんたはどうしたい? このまま帰るか?』
「……ハルさんは?」
『俺は……まだ地上へは戻りたくない……』
「え?」
『もう少し、見ていたい』
この深い海から抜け出したいけど、もう少しだけ君と、閉じ込められたこの小さな海の中をさ迷っていたい。
『あんたは?』
「わたしももう少しここに……いたい……あいたい……です……」
ふと漏れてしまったわずかな思い。伝わってほしいけど、聞こえていないといいなと願った。
『今どこにいる?』
サキは辺りを見渡し、目印になりそうなものを探して伝えた。
離れたくて自分から逃げだしたのに、声を聞くとまたすぐに会いたくなってしまうのは、どうしてだろう。
『すまない。電波が悪いみたいだ。もう一度……』
何も見えなくなるほど真っ暗な海底まで深く沈んで、それでもそばにいると、存在を確認できるように手を繋いで、君と、君を染めるこの深い青色に溶け込みたい。
「もう一度」
ここが水槽の中と知らず、この海がどこまでも続いていると錯覚する魚の様に、ぐるぐる回って旅をしたい。
なにも知らなくていい。
なにも知らないまま、世界を知った気になって、海底に座って、空想の話がしたい。
「わかった。すぐに行くから、そこで待っていなさい」
電話を切ったハルは、手のひらの上でユラユラと波打つ青い光を海へ返した。
「この大きい魚は……ピラクル!」
「ピラルク」
「ピラルク!」
即座に訂正するハル。サキはすぐに言い直した。
アマゾン川に生息する世界最大の淡水魚、ピラルクに釘付けのサキ。己の体を優に超える大きさに興奮している。その横顔をハルは見つめた。
不思議でしかたがない。無邪気な姿を見ていたいと思うと同時に、胸につっかえる嫌な玉をえぐられる感覚が押し寄せてくる。
ハルは、少女が熱い眼差しを送る巨大な魚に目を向けたが、すぐにめまいがして見ていられない。今になって水槽に酔うなんて、今までしっかり見ていなかったのかもしれない。水族館に来て、魚を見ずになにを見ていたのか。
ハルは疲れた目をつむる。
まぶたに差し込むわずかに揺らめく光の中で、残像を見た。
まだ幼い頃の、空を飛べたあの日の記憶。
天体望遠鏡を積んだ自転車を必死に漕いで、全速力で丘を登る。星を見るために。違う。丘の上で待っているあの子に会うために。
『こんなにも遠かったっけ……』
ペダルを漕ぐのに疲れた少年は足を止めた。暑くはないが、滴り落ちる汗が異常に多い。早く行かなければと思うものの、足が金属で固められた感覚に陥り、全く動かなくなった。顔を上げると、丘の上は陽炎のようにユラユラ揺らめき、消えかかっている。その淡く崩れそうな微々たる光の中に、あの子の姿が小さく映った。
『もう少し……もうすぐっ……』
全身に力を込め、動かない足で思いっきりペダルを蹴る。
丘の上のあの子は、こっちに向かってなにかを言っている。聞きたくない。その口の動きを読み取りたくない。
ハルは残像の中で耳をふさぎ、脳が勝手に作り出した幻を消すように目を開けた。
「あっ、すみません。長居してしまいましたね。次行きましょうか」
サキの声とともに、消えていた柔らかな雑音が戻る。
「トイレ行ってくる」
「あ、はい……!」
ついて来ようとするサキを止める。
「あんたはここで待ってろ」
戸惑い少し悲しそうな顔をするサキを置いて、ハルはトイレへ向かった。
日に日に大きくなっていくあの存在が、首を絞める。息ができるうちにまた上から塗りつぶさなくては……。
個室で乾いた咳をして、吐いたため息を水に流した。
戻ると、サキはアマゾンコーナー近くに設けられたベンチに、おとなしく座っていた。
ハルに気づいたサキが立ち上がる。
「……そろそろ帰りましょうか」
「今日は俺に付き合ってくれるんじゃないのか?」
「へ?」
ハルはゆっくりとサキの体に近づく。迫られたサキはたじろぎ、腰が抜けたようにベンチに座り込んだ。
見下ろすハルの瞳が少し怖い。怖かったけど、その表情はどこか寂しそうにも見える。
「俺たち、友だちだろ……?」
「はい……」
通行人に当たりそうなサキをハルがグッと引き寄せる。思わずドキドキしてしまうその胸の高鳴りは、恐怖に近かった。
(怖くない……怖くない……)
サキは隣を歩くハルの手を見つめ、思いきって握った。
「なんだ?」
向けられる視線が痛い。それでも逃げたくない。
「……はぐれないように、また握っていてください」
ギュと握る小さな手は震えていて、サキの目線に合わせるようにハルはしゃがんだ。
「すまない。俺は、あんたとどう接していいのか、わからないんだ……」
「楽しくないですか……?」
見慣れているはずの潤んだ瞳が向けられる。この涙も簡単な女の嘘だとしても、彼女の涙だけは直視できない。
うつむきソッと目を閉じたハル。サキが握りしめる手のひらにじんわりと汗を感じる。
「わたしといるの、楽しくないですか……?」
そう。もっと単純でいい。もっと単純だったんだ。この時を楽しめばいい。その単純なことができなくなっていた。違う。できないんだ。楽しんではいけないと、自分に言い付けていたことを思い出す。
ハルはサキの手を外し、腰を上げた。
「今日は帰ろう」
「あ!」
出口へ向かう途中の通路で、カプセルトイを見つけたサキは駆け寄った。ドーム型のカプセルトイが数台並んでいる。
「記念にやってみようかな。色々あるなぁ……魚コレクション……海洋動物……アザラシかわいい! ハッ、ピラクルがいる!」
「ピラルク」
一応訂正したが、目を輝かせながらカプセルトイを覗き込むサキには聞こえていない。
──ガランッガランッコロコロ~──
水色のスーパーボールの中に埋め込まれた海の生き物たち。
ドームの中をクルクル回って落ちてくる一つのボールを、ワクワクしながら目で追いかける。
サキはしゃがみ、落ちたボールを取り出した。
「イカだ、……イカ? イカかーい」
それを見ていたハルも財布を出す。
「ハルさんもやるんですか?」
「うん、記念に」
サキは微笑み、その様子を後ろから見守った。
(なにやるのかな?)
ハルが選んだのは『未知の深海生物たち』。
──ガランッガランッコロコロ~──
「なに出ました?」
しゃがむハルの手元を覗き込んだ。それは見たことのないカタチをした魚だった。ヒレが8つ付いた青い体に、白い斑点。そして退化した白い瞳が不気味に光っている。
「シーラカンス」
「えーと、古代魚でしたっけ?」
「ああ、ピラルクと同様、生きた化石と言われている」
「シーラカンス……」
サキはポシェットから小さなメモ帳を取り出し、その名前とカタチを忘れないように書き込んだ。
「お土産は見ますか?」
「いいや、俺はこれがあるから……」と、ハルは手の中のシーラカンスを見つめる。
「あんたは?」
「私もこれがあるので十分です」
サキはイカを自慢げに見せ、「にへへ」と照れ笑いした。
見上げれば、西の空を泳いでいたたくさんのイワシは、得たいの知れない灰色の大きな怪物に飲み込まれていた。
少女が開いたメモ帳に記されたシーラカンスが、一定のリズムで揺れる。深い海の底を、ゆっくりと歩くように。
おそよ4億年も、恐竜が誕生する時代よりも前から地球に存在する生物。
その姿、変わることなく。
急速に進化を遂げ、人は柔軟に適応していく。抗うものは切り捨て、忘れさられる。そして今、退化を求める地球で、これから4億年以上も、カタチを変えずに生き続けることができるだろうか。
心はあの日から止まったまま。
体だけが成長し、いらない知識を詰め込まれ、環境に順応させる器用さを身に付け、無駄に年と経験を重ねていく。
この街の流行色に染まらず、定められたそれぞれの時代のカタチに収まらず、自分という存在が確立された世界を歩めたら……。
少女は指を差し、車内アナウンスが別れを告げた。
・・・
丸い水の中に閉じ込められたシーラカンス。
デスクライトに照らし、眺めて引き出しにしまう。
渡せなかったあの日の手紙とともに。
今日の思い出を閉じ込めるように、鍵をかける。
『次からは交互に行きたい場所に行きましょう! ハルさん考えてきてくださいね、宿題ですよ!』
またも与えられた宿題に頭を悩ませる。
眼鏡を外し電気を消すと、待ち焦がれていた真っ暗な部屋が現れる。
なにもないのに重たい体、ベッドへ滑り込ませる。
隣のベッドは空いたまま。
月のないこんな夜にはちょうどいい雨の静寂。
向かい合う天井が落ちてくる。
布団を被り、まぶたを閉じると視界が揺れた。
波のさざめきが微かに聞こえてくる。
暗い水面に浮かぶ体は深く沈んでいく。
まっ逆さまに落下する体は無重力。
上も下も、右も左もわからない暗い海の中で、二つの光と出会った。
それは、漆黒の海中を漂う無力な体よりもはるかに大きな魚の瞳で、その巨大な口が開くと、強大な水流が生まれた。
吸い込まれる体。
身を任せ、抗うことなく静かに食べられよう。
誰かの糧となり、一体化することを心から望むなら。
巨大な深海魚は、寝返りを打つハルをベッドの底から、時が来るのを静かに待っている。
深海の月よ。
『こっちだよ』って、導いて。
まぶたを開いた布団の中は、目を閉じているようだ。
なにも見えない。だから目をつむる。
探していたあのクラゲが手招いている。
頭上で待ち構える巨大な深海魚に、このまま身を差し出すのはもったいない。
足下を漂うクラゲの伸びた触手に絡まって、太陽の光を知らずに過ごしたい。
まだ知らなくていい。
まだ知りたくないことがある。
子供の無邪気さと大人の器用さで、後悔に蓋をする。
無重力の体は深海の闇に溶けて、眠れずにまた朝を向かえるのだろう。
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