林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/ゆれる秋』

3 出ない

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 まさか、出先で遭遇するとは思わなかった。
 財布を出しながらその方へと、導かれるようにハルの足は向かっていく。
 ハルはしゃがみ、小銭を入れ、ノズルをひねった。

 ──ガラン、ガラン……──

 取り出したカプセルの色は黄色。それをポケットにしまい、もう一度回す。今度は緑色だった。ハルはありったけの金を投入し、何度も何度も回した。
 彼が夢中になって回しているカプセルトイは、ミィナのフィギュアストラップ。全6種で1つはシークレット。
 あと1つが当たらない。
 ハルは横から中を覗いた。残っているのは、持っているカプセルと同色ばかり。ここにはないと推測し、場所を変えようと立ち上がると、後ろに小さな女の子がいた。その子はハルの顔を不思議そうにジッと見つめている。
 ソッと退けると、女の子は不審な男を警戒しながら、その男が回していたカプセルトイを回した。
「あーまたおんなじの……」
 その様子を見ていたハルは、パンパンに膨らんだポケットに手を入れ、「よければこれ、もらってください……」と、両手にたくさんのカプセルを抱えながら声をかけたが、女の子は顔色一つ変えずに走って逃げた。
「お、変質者」
 トイレから戻ってきた田儀がからかう。
「……田儀さんには言われたくありません」
「俺のどこが変質者なんだ」
「昔、子供に話しかけて警察に捕まったでしょう?」
「人聞きの悪い! ひとりで泣いてる子どもがいたら、ほっとけないだろ? で、付き添ってたら親がお巡りさん連れて戻って来たんだよ。ひどいよな~」
「誰でもそうしますよ。厳つい顔した知らないおじさんが、自分の子どもに話しかけていたら……」
「お前のこと通報していい?」
「なぜですか」
「侮辱罪だよ」
「なんでしょう……田儀さんに通報されても、勝てる気がします」
「まあまあまあ、今日はこの辺にしといてやるよ」
 田儀は袖口からチラリとのぞく腕時計で時間を確認する。
「今日はピースだからな」
 田儀の言う“ピース”とは、直帰のことだ。おそらく、ジャンケンにおける手の形“チョキ”とかけていると思われる。
「さて、これからどうする? 早めの飯行くか?」
「私は寄るところがあるので、ここで失礼します」
「残念だなぁ。あ、すぐ済む用なら俺も」
「いえ、田儀さんを長い間お待たせするわけにはいきません。相当時間がかかる用事なので」
「あ? ……ハッハ~ン、いい年したおっさんがガチャガチャか? 俺もやりたい」
「田儀さんは帰ってください」
「遠慮すんなよ」
「遠慮とかではなく……」
「いいから、俺に任せろ」
 田儀はハルの肩に腕を回し、スーツの胸ポケットに入れていた、ボストン型の淡い紫色のサングラスをかける。
「ブツが大量に置いてある店、教えてやらぁ」

「こんなにあるとは……」
「二児のパパちゃん舐めんなよぉ?」
 電車を乗り換え、田儀に案内されたのは、最寄り駅から少し離れた大型家電量販店だった。色々な種類のカプセルトイがズラリと並ぶ様に圧倒される。どこに需要があるのか理解不能な物まである。
「俺はおもちゃ見てくるから、またな」
「おもちゃ?」
「そ。覆面ライダーパトランの変身ベルトと、魔女っ子ルルちゃんのぬいぐるみ、それと、ログモンのバトルフィギュアとカードが欲しいんだと」
「奥さんに怒られますよ」
「……サンタの予行練習だよ」
「クリスマスには随分と早い」
「今から吟味しないとな~」
 田儀と別れたハルは、一人、ミィナのカプセルトイの前で仁王立ち。
 中を覗くと、見たことのない青色のカプセルがあった。

 ──ガラン、ガラン……──

 ──ガラン、ガラン……──

 ──ガラン、ガラン…………──

 田儀が大きな紙袋を引っ提げ現れた。
「お、まだここにいた。なにを熱心にやってんのかと思ったらミィナかい」
「田儀さん、知っているんですか?」
「おうよ、絵本で有名だぞ。確か、アニメ化するとかしないとかって情報聞いたなぁ。で、どれが欲しいんだ?」
「青色です」
「そいつがシークレットか?」
「いえ、シークレットは紫です。3つ持っているんですが、青だけがなかなか手に入らなくて」
「運がいいのか悪いのか……」
 田儀はカプセルトイの中を覗く。数は残り少ない。
「あと二、三回やりゃ落ちそうだな」
「それが、こっちの方がなくなりまして……。下ろしに行っている間に取られたらと思うと動けなくて、どうしようかと考えていました」
「救世主あらわる、だな」
 田儀は財布から出した小銭をハルに渡した。
「こいつでやっちまえ」
「恩に着ます」
 大の大人二人が、へばりつくようにカプセルトイを回す。
「俺にも一回やらして」
 金に物を言わせ意地でもコンプリートさせようとしている姿に、通りすがりの人たちは怪訝そうな顔で距離をとる。

 ──ガラン、ガラン……──

「この感覚、結構気持ちいいな」
 田儀は取り出し口に手を突っ込む。
「ほらよ」
 隣で見守るハルへ渡した。
 青いカプセル。
 何度も、何回も回したのに手に入れられなかった青いカプセルを、田儀は一発で当てた。
 確かに残り少なかったとはいえ、こうも簡単に当てられると……。
「ありがとうございます」
 礼を言って、青いカプセルをモヤモヤした気分と一緒にポケットにしまった。

・・・

「サングラスやめな? マジでヤクザだと思われるから」
「会っていきなりそれかよ、かっこいいだろ~?」
 電話で田儀に呼び出されたのどかは、面倒くさそうな顔をする。
「で? なに奢ってくれんの? ステーキ? 伊勢海老? A5ランクの国産黒毛和牛?」
「そんなら鉄板焼き行くか?」
 寿司屋に行こうとしていた田儀だったが予定変更。のどかの要望に答え、近場の別の店へと案内した。
 連れてこられたのどかが見上げた看板には、大きく『もんじゃ』と書かれている。
「もんじゃじゃん」
「なんじゃもんじゃに文句あんのか?」
「……ないけど、ステーキと伊勢海老の口になってたし……」
「伊勢海老はねぇけど、海老はあるだろ。あと肉も」
 のどかは文句を言いつつも、二人の後に続いて店に入る。
 店員に案内されたのは掘りごたつの個室。ハルの隣に座ろうとしたのどかは、田儀が両手に抱える謎の大荷物に目をやり、その紙袋の中を覗いた。
「クリスマスプレゼント?」
「おうよ、大収穫よ」
「慌てん坊より慌てたサンタクロースだねー。あたしにもちょうだい?」
「なにが欲しい」
 メニューを眺める田儀は、のどかが悩んでいる間に、ハルと相談しながら適当に注文する。その間にリクエストが来ると思っていたが、待てど返答がない。
「なんだ、欲しいものないのか~?」
 ポケットから自然と取り出したタバコを銜える田儀に気づいたハルは、田儀の手元のオイルライターを手でふさいだ。
「ここ禁煙です」
「おお、あぶねぇー! 無意識ー! いや~わりぃわりぃ、世知辛いねぇ。持ってるからいけねんだな。そうだ、プレゼントこれでいいか?」
 田儀はタバコとオイルライターを、のどかの前に置いた。
「いらんし吸わんし」
「じゃあなにが欲しいんだ?」
 のどかは考えを巡らせるが、結局なにも思い付かなかった。
「……考えとく」
「せっかくだからクリスマスっぽいプレゼントで頼むぜ」
「……赤いブーツに色んなお菓子入ってるやつ?」
「よっしゃ安上がり!」
「いや決めたわけじゃないから」
 プレゼントで思い出したハルは、鞄から大量のストラップを出してテーブルに広げた。
「ミィナ!? どうしたんですかこれ……」
「よければ、どれかもらってくれませんか?」
「いいんですか? ってかすっごい量……。ミィナって流行ってんの?」 
「え、流行ってんの?」と、田儀は聞き返す。
「最近ソリローとかフラッシュで、ミィナの画像超流れてくるからさぁ、何気に知識入っちゃって」
 ソリロー、フラッシュとは、不特定多数の人に自分の意思を伝えたり、色々な情報を発信、提供、共有できるネット上のコミュニケーションサービスである。ソリローは、主に自由なコメントを投稿するツールで、他者との会話や趣味での繋がりなど、人と人との気軽な交流を目的としている。フラッシュは、写真や動画の投稿をメインとしたツール。どちらも最新情報の収集には最適だが、デマには気を付けたい。
「波瀬さんミィナ好きなんですか? 意外すぎるというか可愛い」
「こいつじゃなくてサキちゃんだろ?」
「あ! なるほどね、ストラップつけてたね。ガチャだしなかなか揃えられないって言ってた。てか、あたしもミィナの絵本持ってたよー、なっつかしー……。あの頃からシアンが一番人気でさぁ」
「シアンってどれ? これか?」
 田儀は剣士の姿をしたフィギュアを手に取る。
「それはマイナ。ミィナが戦うときの格好」
「男の子みたいだな」
「そう、正体バレないように男装してんの」
「そんなら……これか!」と、 黄い髪色の猫の男の子を持つ。
「その子はシアンの相方のベン」
「相方? お笑いコンビか?」
「違うし、二人はアイドルですぅ」
 のどかは青色と黄色のフィギュアを取って説明する。
「青の子がシアンで、黄色の子がベン。超人気なんだから覚えといて。ソリロー見ててもこの二人の絡み絵が一番多いし、擬人化させたりとかねー」
「からみえ?」
「シアンがクール系で、ベンがワイルド系かなー。波瀬さんと田儀さんって感じ? ……うわっ、自分で言ってすっごいヤダ……ちょっと今のなし」
「からみえってなんだ?」
「なんかさー、今思うとミィナにハマったら色々拗らせそうでヤバイよねー」
「辛味噌のことか? ラーメン食いたくなってきた」
 のどかに無視され続ける田儀だが、いつものことだから気にしない。
「あ。この前うちの店に3人組の若い女の子が来てさ、話してたんだけど、今度その作者のサイン会やるらしい」
「おじさんのオアシスに女の子?」
「ねー珍しいっしょー? なんか流行ってんだって、古いのが」
「おー、俺たちの時代が来たか」

「ただいま到着しましたー。お疲れ様でーす」
 少し開いていた個室の引き戸から顔を覗かせる足立を、田儀は手招きして中へ入れた。
「遅かったな」
「いきなり呼び出すんすもーん。早い方じゃないっすかぁ?」
 のどかを一目見た足立は目を見開き、突然姿勢を正すと勢い良くお辞儀した。
「足立勝伍です! よろしくお願いします! 俺のこと覚えてます?」
「知らねーよ」
 足立は見向きもしないのどかへ近寄り、ウーロンハイに伸ばす手を取る。握られたその瞬間虫酸が走ったのどかは、素早く手を振り払った。
「触んな」
「俺は覚えてますよ! あれは、夕暮れの風に肌寒さを覚えた頃のこと……」
「その話長くなるー?」
「若干の儚さを感じる夏の終わりは、そんな心許ない心境も気に留めず、悠々と秋の空へ……」
「こいつもう出来上がってない?」
「いや、シラフだ。足立のこと覚えてないか? 一緒にビアガーデン行ったろ?」
「……あー! あの時の田儀さんのものまね超ウケたー!」
 思い出し笑いするのどかは腹を抱える。
「本日は上原さんと再会できて、大変嬉しいです」
 のどかは涙を拭う。
「ねぇ、オッサンの舎弟でしょ、なんとかしてよ」
「……舎弟ではないが、まあまあ座れ」
「へい!」
 のどかの隣に座ろうとする足立を、田儀は「お前はこっちだ」と呼ぶと、「私が移動しましょうか」と腰を上げるハル。のどかはハルのスーツを引っ張って引き止めた。
「波瀬さんはここにいて」

「おいおい、お前はもう飲むな」
 酔っぱらいを人一倍見てきた田儀は、自分の周りで悪酔いする人を出さないよう、飲みの席ではいつも酒をセーブさせる役目に回る。
「大丈夫っす、もう酔ってます、上原さんをこの目で見たときから……」
「マジでなんでこいつ呼んだんだよ」
「足立が女の子にフラれて慰めてほしいっていうから、じゃあ一緒に飲もうかって誘ったんだ……」
「女いたんじゃねーか」
「違いますよ! やだな~係長、そんな嘘ついちゃ~も~人が悪いんだから~、悪いのは人相だけにしといてくださいよ~、俺は、上原さん一筋です~……すんませんちょっと」
 一人で騒いで散らかした会話を片付けもせずトイレに立つ足立に、田儀は呆れ、顔をしかめるのどかは、足立の背に向かってベッと舌を出す。
「楽しい酒になると思ったんだが、まさかこうなるとは……」
 ぼやきながら焦げたもんじゃをこそげる田儀に目を向けたのどかは、田儀が頭にかけていたサングラスをヒョイと取り上げた。
「これちょーだい?」
「待て待て、簡単に言うな。結構高かったんだぞー?」
「いーじゃん似合わないんだし。はい、プレゼントこれに決めたー」
「似合わっ、似合わないだと!? ……似合わない……!?」
「だっていっつもオールバックじゃん。オールバックにサングラスにこのがたいだよ? メチャクチャ怖いよ。マジでかけない方がいいって」
「……高かったんだぞ!」
「これかけて歩いてみ? 職質されるだけで一日終わるよ? いいの?」
「そんなっ……高かったんだぞぉ……」
「背中に龍とか鯉入っててもおかしくない顔だし」
「……なあ似合わないかなあ!?」
 田儀は一人静かに飲み続けるハルに救いを求めた。
「警察のご厄介には、なるでしょうね」
「しゃあねぇ……にぃちゃん、こいつを俺だと思って大事にしてくれやぁ……」
 田儀はお猪口に注いだ日本酒をクイッと飲み込んだ。
「え、この人死ぬの?」

 ──バンッ!──

 いきなり戸が開けられ、全員が視線を向けた。慌てた様子でトイレから戻ってきた足立が、青ざめた顔で立っている。
 異様な沈黙が流れ、たまらず田儀が聞く。
「……どうした?」
 足立は戸の外をキョロキョロと見渡し、近くに誰もいないことを確認すると戸をソッと閉めて、もったいつけるようにゆっくり座った。そして前のめりに近づくと声を潜めて言う。
「ここの店、ヤクザいます……!」
 のどかは気だるく田儀を指差す。
「……面白いこと言うなぁ上原さんは~! 違いますよ~本物です。僕、個室にいたんですけどね、外から『半か丁、半か丁』って呟く声が聞こえてきたんです……」
 睡魔に襲われる足立は、話しながらゆっくりとテーブルに突っ伏した。
「トイレで博打?」
 のどかは固くなった四角い肉を口へ放り込む。
「これは田儀さん、黙ってらんないね」
「ん?」
「背中の桜吹雪が~?」
「俺ぁ遠山さんか」
「この顔に刺青ないと逆におかしいでしょ」
 田儀は、からかうのどかの顔をジッと見ると、鉄板の上のイカに伸ばしていた箸を叩きつけるように置き「脱いでやる」と、ワイシャツのボタンを外しはじめた。
「脱ぐな! 公然わいせつ!」
「ここに四人しかいないんだからいいだろ」
「うわー犯罪者のにおいがするわー」
「いいか、この汚れのない広背筋を、お前のその目でしっかり見やがれい!」
「お二人とも、その辺にしておきなさい」
 眉をひそめるのどかと、立ち上がって片肌脱ぐ田儀をハルが制する。
「水戸の御老公様が登場しちまったら終わりだな」
 田儀は座り直し、外したボタンを手早く留める。
「足立が聞いた『半か丁』はハンカチのことだろ。まあ俺に刺青はねぇけど、こいつ、腰の辺りにホクロがあってな、それがすげーセク……」
 謎の空気と間、一瞬の静寂。
 言いかけた田儀はハルへ目を向け、怪訝そうなのどかの顔と交互に見る。 
 田儀の「え?」に「え?」と、同じ言葉で聞き返すのどか。
「なんでそんなこと知ってんの」
「ん?」
「ん? え?」
「え?」
 オウム返しを繰り返し続ける田儀とのどか。らちが明かず、ハルは機転を利かせ答える。
「銭湯です」
「おおおおう、そうだ、銭湯だ。仲良くなるためには裸の付き合いが必要だからなあ」
「裸の付き合いってそういう意味じゃなくない?」
 のどかは首をかしげて、噛み切れない肉を薄いジントニックで流し込んだ。
「あたしそろそろ帰るわ」
「なんだよ、もう一杯飲んでけよ。お前の好きなブルドッグまだだろ」
「ごめん、明日早番だからまた今度」
 寝ていたはずの足立がいきなり手を挙げ「僕送ります!」と、よろけながら立ち上がった。
「この人大丈夫?」
 のどかは、目をつぶりながら敬礼する足立を親指で差し、田儀は足立のワイシャツをグンと引っ張り座らせた。
「こいつはひとりで平気だから、お前はまず水を飲め」
「いーえ! 女の子を守るのが男の役目です! このあだちしょおごにお任せくださぁーい!」
「頭沸いとんのか」
 呆れるのどか。田儀は頭をかいた。
「波瀬さん、これもらってい?」
 のどかは青と黄色のストラップを指に引っかける。
「すみません。その青い方は先約があるので、差し上げることができません」
「そっか。オッケー、じゃあこっちだけもらってく! じゃね!」
 二人に軽く挨拶して、のどかは個室を飛び出した。頼んでいないのに張り切って出ていった足立を追いかける。すぐに千鳥足の背中に追い付いた。声をかけようとしたが、気が引けた。
「のどかちゃん」
 田儀は、店を出ようとする二人を呼び止め、振り向くのどかの手を掴む。なにかと手元を見ると金が握らされていた。察したのどかはしぶしぶ「了解」と、それをポケットにしまった。
「悪いな」
 田儀は片手を顔の前に立てて苦笑いする。本当に思っているのか疑わしい。だが、この男の頼みはなぜか断れないのどかは、足を軽く蹴ってやった。そして奴はオーバーに痛がる。のどかは苦笑い。

「オェ……オェッ……あー……ぎもぢわるい……オゥフッ」
 ちょっとした段差に車体が上下し、足立はとっさに口を押さえた。
 隣でえづく足立にとことん嫌気がさす。
「大丈夫?」
 のどかは内心めんどくさいと思いつつも、人として一応心配してあげた。
「すいません、近くにトイレあったらちょっと止めてもらえます?」
 タクシーの運転手に頼んで、近くの公園に立ち寄る。運転手にトイレの場所を聞いて、急ぎ足で足立を連れていった。
 トイレに入っていく丸まった背中を見届け、一人になったのどかは空を見上げ、目をつむり、体を伸ばすようにグググウーッと両手を広げた。まだ暖かみが残っている優しい風が体を撫でる。気持ちがいい……。
 数十分後、トイレから出てくる足立の姿を見つけ、ベンチで待っていたのどかが腰を上げる。
「スッキリした?」
「いや~出ませんでしたぁ」
「出てねぇのかよ。あんなにえずいてたのに?」
「すんませ~ん……」
「治まったんなら行くよ」
 前を歩くのどかは、ヘラヘラと笑う足立に軽く舌打ちして、大きくため息を漏らした。
(なにが女を守るのが男の役目だよ。子守りしてんのこっちじゃねーか)
 ポケットから取り出したフィギュアストラップに向かって「絶対に詫びてもらう」と呟いた。
 フィギュアを握り、チラリとまた空を見た。端の方に雲の塊がある。心地よく感じていた風が強まり、風はあの雲の塊を月の方へと動かす。雲は時期にあの月を隠すだろう。その様子を眺めながら歩いていると、突然背後から抱きつかれ、反射的に体がビクンと大きく飛び跳ねた。その瞬間全身に鳥肌が立ち、のどかは動けなくなった。
(……なに?)
 首筋にヘビが這っているような感覚。視線は空へ向けたまま、固まってしまう。影で黒みがかった白い雲が速いスピードで迫ってきても月は動けない。動けないはずの体が反転する。肩を掴むこの手のせいだ。強く掴む手が体を無理やり反転させた。その痛みに顔が歪むと、唇に気色悪い感触がした。目の前には胸をムカつかせる男。たまらない。殴りたくてたまらない。
 のどかは男の腹に膝蹴りを喰らわせ、よろけた体を突き放し、キョトンとする顔を思いっきりひっぱたいた。
 強烈な三連打に体は崩れ落ち、地べたに這いつくばる足立は、赤くなった頬を押さえのどかを見上げる。
「ナメた真似すんな」
 なにを思ったか足立は改まった表情で片膝を立て、軽蔑の眼差しを向けるのどかへ手を差しのべた。
「結婚を前提に、僕と……僕と結婚してください!」
 突拍子もない言動に思わず白目をむきそうになる。
「好きです!」
「あたし、酒に呑まれる男、大嫌いだから」
「結婚しよう?」
 堪忍袋の緒が切れる音、初めて聞いた気がする。気づいたら足立の顔面をグリグリと踏みつけていた。
「キショイんじゃ。寝言は寝て言えっつーの。酔っぱらいはさっさと帰りやがれや」
 静かに淡々と罵声を浴びせ、足立の丸まった背中を蹴りまくりながら、タクシーの方へ追いやる。足立は逃げるようにタクシーへ乗り込んだ。
「上原さっ」
 近寄る体を一蹴り。ゴッという鈍い音がした。足立はどこかに頭をぶつけたらしく後頭部を押さえているがどうでもいい。ポケットに入れていた裸の金を放り投げた。
「早よぅ車出せやオラァ!」
 いきなり怒号を飛ばしてきたのどかに、運転手はビクゥッと肩を跳ね上げる。冷や汗をかきながら「あっあっしつっ失礼しましたあっ……!」と慌ててドアを閉め、そのままタクシーは走り去った。
 のどかは、苛立ちの混じる大きなため息を吐いた。
「男は一人残らず全員この世から滅びろ……」
 途端に汗が吹き出し、のどかはその場にへたり込んだ。
 肩を掴む手の力は、十数年前のあの痛みを思い出させた。唇に残っている感触が気持ち悪い。震える手で服の袖をひっぱり、何度も何度も口を擦った。
(悔しい)
 落ちた雫が街灯に照らされキラリと光る。
 なにが起きても、平然と生きていけると強く信じたのに、壊された。簡単に壊された。
 あの人に今すぐここにきてほしくて、急いでポケットから携帯電話を取り出し通話履歴を開く。そのままの勢いで押そうとする指を止めた。
(なにやってんだろ……)
 携帯電話を握る手がストンと落ちた。
 うなだれるのどかの目線の先には、地べたに寝そべるベンのフィギュアストラップ。ベンはこっちを向いてニコッと笑っている。
 その様子をただボーッと見ていたのどかの体が、ブルッと一回震えた。
 汗ばんでしまった体が風に吹かれる。さっきまでちょうどいい生ぬるさだったのに、今は寒い。でもこの冷たさも、今はちょうどいいのかもしれない。
 のどかは顔を上げる。
(どうして「女」なんだろう……)
 覆い隠された月は、雲の中で輝きを放っている。その光は、月の周りの雲まで明るく照らし「ここにいます」と証明する。月は動けないのではなく、動かなかったんだ。平気だから動かなかった。
「しゃーねー……」
 膝に手をあて立ち上がったのどかは、地面に転がるのんきなベンを拾い、襟に引っかけていたサングラスを頭にかける。
「よっしゃあ! こうなりゃカラオケ朝までコースじゃあ! ……ってここどこ!?」
 よく見りゃ知らない場所だった。
「似てる街しか作れねーのかよ」
 一度しまった携帯電話を取り出し、今度はためらうことなく電話をかけた。
(マスターまだ起きてるかな……)
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