林檎の蕾

八木反芻

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ご『“友だち”の有効活用/ふれる冬』

9 夢を駆ける少女

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 暗闇の中、遠くに見える光をめざして、サキは走った。そして、見慣れた空間に今日もたどり着く。
「こんばんは、ハルさん」
 サキはいつもどおり挨拶をして、ハルが座る机の隣の狭いベッドに腰かける。
 この部屋には壁がない。周りは暗く、卓上のライトが照らす明かりが届く範囲だけが、ここは部屋の中だと教えてくれる。
 サキはハルの横顔を眺める。
 相も変わらず、ハルは真っ白な手紙と向き合っている。
 どうにか振り向いてほしくて、その手紙を破いたこともあった。でも、ペンを持った手が止まることはなく、手紙も次の日の夜には復活。
「なに書いてるんだろ……」
 インクの出ないペン。
 壊れているのかと、サキはペンを取り上げて、試しに書いてみた。書けた。
「え」
 ハルの手に戻す。書けない。
「なんで?」
 もう一度奪って書くと、やっぱり書ける。
 サキは手紙に『おーい!』と書いて、またベッドの縁に座り直した。
 ハルが向かう机には引き出しがあって、前に中を覗いてみたが、なにも入っていなかった。ひとつだけ鍵付きの引き出しがあったが、鍵がかかっていて見られなかった。すごく気になったサキは、ハルが着ている服についている全てのポケットを探ってみたが、残念ながら鍵は持っていなかった。
 サキは意味のない左回りの時計を見る。
「今日はどれくらいで起きられるのかな……」
 毎日同じ夢を見ていたら、これが夢だと気づくのもはやくなる。
 サキは起きている間、“夢”について調べていた。そして、“明晰夢”というものを知った。夢の中で「自分は今、夢を見ているんだ」と認識することを、明晰夢というらしい。そして自覚すると、その夢を自分の好きなように、自由にコントロールできるらしい。
 というわけで、サキもやってみた。だが、うまくいかなかった。
 毎日色んな想像を膨らませてみたが、思い描いたようにならない。ずっと同じ景色が繰り返されている。
(誰の夢なんだろう……)
 この夢を見ているのは自分なのに、思いどおりにいかないということは、これは他人の夢なのではないかと、サキは考えた。そして、一番に思い浮かべた顔はもちろんハルだったが、
「ハルさん、夢見ないって言ってたしなぁ……」
 聞いたところによると、夢は随分と見ていないそうだ。
「ひまー!」
 サキは両手広げてベッドに倒れる。
 ふと、目の端に揺らめく二つの光を見た。
(え?)
 その方へ目を向けたが、なにもない。
(気のせい……?)
 体を起こし暗闇を見つめるサキは、ベッドから降りて、思いきって、その方へと走った。体はすぐに闇の色に包まれた。なにも見えない。部屋から遠ざかるほど、恐怖が迫ってくる。必死に全速力で走るサキだが、足が浮わついて、うまく走れない。

 得たいの知れぬ巨大な恐怖に、サキは大声で叫ぶと、突然視界が明るくなって、サキは壁にぶつかった。
「ガェッ!」
 顔面を打ち付け、反動で後ろへぶっ倒れた。
「なんだ!? おお、どしたどした!?」
 痛みで顔を押さえるサキを、上から覗き込む人がいた。
「大丈夫か?」
 聞き覚えのある声に、サキはしばしばする目を向ける。潤んだ瞳に映る大柄の男性。ぶつかったのは壁ではなく、この男性の体だと気づいた。
 サキは目元をぬぐったが、青空の下、逆光で顔が見えない。
「おいおい、鼻血出ちゃってるじゃねーか」と、男性は自分が着ているワイシャツの袖をビリビリと引きちぎる。
 座ったまま見上げるサキに近づき、しゃがんで、ただの布切れになった袖をサキの鼻へ当てた。
「田儀さん……?」
「おう。他に怪我してねーかい?」
 心配してキョロキョロと体を見渡す田儀。サキはホッとした。
「大丈夫です」
 サキが立ち上がると、場面が変わった。

 そこは薄暗い廊下で、サキが通う学校の廊下に似ていた。でも、床も壁も古めかしい木造で、天井はクモの巣だらけ。まるで、怪談話に出てきそうな旧校舎だ。
 窓の外の、西日が染める赤紫色の空。グラウンドには、影になった生徒がちらほら見えた。
「まだ帰ってなかったのか」
 後ろから声をかけられ、一瞬びくついたサキは振り向く。
「あ。先生」
 その人は担任の間尾だった。生徒たちからは裏で魔王と呼ばれている。
「下校時間はとっくに過ぎてますよ?」
「え? でも、まだ部活してる生徒が外に……」
 サキはふと疑問を抱く。
 間尾の背後に暗く伸びた廊下。その先にはおそらく音楽室があるはずだが、黒いモヤのようなものがかかっていて、よく見えない。
 じっと目を凝らすと、なにか、ぼやっとした緑色の光が見えてきた。
「はやく帰りなさい」
 間尾に視線を戻したサキ。よからぬ違和感に足がすくむ。
「どうした?」
 また後ろから声をかけられ、サキは振り向いた。
「キリシマ先生……!」
 サキがキリシマと呼んだその男の姿は田儀に似ていたが、直感的に社会科のキリシマ先生だと思った。通う学校には実在しない教師だが、確実に、そう感じた。
 キリシマを見てサキはまたホッとする。
 なにかに気づいたキリシマは、眉間にシワを寄せ、安堵の表情を浮かべるサキに向かって走り出した。
「へ?」
 ポカンとするサキの脇をそのまま通りすぎると、キリシマは間尾に跳び蹴りを食らわせた。そのとき、骨の折れる音がした。
 間尾は吹っ飛ぶ。
 サキは突然のことに驚いて、目を見開いたまま固まり、仰向けに倒れた間尾を、キリシマは注意深く睨み付ける。
 すると、間尾は体の骨をバキバキと鳴らしながら、ノッタリと上体を起こした。首はグタリと垂れている。
「せんせい……?」
 それを見たキリシマは、間尾を心配するサキへ向き直ると、腰を屈めてタックルするように前のめりに走り出し、サキの腹部に腕をあてがうと、そのままの勢いでサキの体をヒョイと担ぎ上げた。
「わっ!」
 キリシマは間尾から逃げるように走る。
 肩に担がれたサキは、上下に揺さぶられながら、遠ざかっていく間尾を見ていた。
「校則違反……」
 ぼそりとつぶやいた間尾が顔を上げる。
「お前ら……全員……反省文だぁああああ!」
 逃げる二人に向かって間尾は叫ぶ。
「今すぐ反省文書けぇ! 400字詰め原稿用紙50枚! 10分以内になぁ!」
「ああマジか、そりゃ最っ高だ!」
 全力で走るキリシマが顔をしかめて言った。
 反省文を書けと大声で、しつこく追いかけてくる間尾の異変に、サキは目をつぶり声を上げる。
「ヒィィィーッ!!」
「なんだ!?」
 サキの悲鳴に、キリシマはチラリと後ろを振り返った。
「……人体模型?」
 間尾の体半分の皮膚が腐れ、ドロドロと溶けていた。溶ける皮膚の下から赤い筋肉が現れ、腹部の辺りは内臓が丸見えになっている。
 サキはとっさに口を押さえた。
(吐きそう!)と思ったときにはすでに吐いてしまっていた。

 ──ビチャビチャビチャ──

 口から溢れる小さい魚は、メダカのようだが、鯉みたいな見た目。落ちた魚たちは廊下の上でビチビチと小刻みに跳ねている。
「ウゲゲェェ……」
 肩の上で気分を害するサキを気にも止めず、キリシマはとにかく走り続ける。
 どれだけ走っても、廊下は真っ直ぐと続き、全く出口が見えてこない。
「なんだよ……なんだよ!」
 いつまでも同じ景色が流れる中、サキはふと思い出す。
「せっ、せんせぇっ! 階段!」
 キリシマは横目に階段を発見すると、急ブレーキをかけて、その階段を一段飛ばしで駆け上がった。上りきると正面に教室が見え、一目散に飛び込む。

 そこは普通教室。キリシマはサキを下ろし、急いでドアの鍵を閉め、息つく間もなく机や椅子を、ドアの前まで運んで高く積み重ねた。
「我ながら傑作だ」
 できあがったバリケードを満足そうに眺め、キリシマは額の汗をぬぐう。
 サキは教室の窓から外を覗いた。変わらない赤紫色の空。グラウンドの人影は消えていた。サキは窓を開ける。風が吹いて、カーテンがフワリと揺れる。
 ふいにピアノの音が聴こえてきた。見れば、グランドピアノの前に座る少女がいた。サキと同じセーラー服を着た少女。
「……小山さん?」
 サキが呼ぶと、少女が顔をあげた。こちらへ微笑みかけるその顔は、同級生の小山仁花に似ていたが、彼女はもういない。
 教室はいつのまにか音楽室へ変わっていたが、誰も気にしなかった。
「小山さん、ピアノ弾けるんだね」
 サキは少女が奏でるピアノに耳を傾ける。緩やかで幻想的な曲。でもどこか儚げにも聴こえる。
「……ゆめ?」
「うん。夢。これは夢」
 少女が答える。
「夢……」
 サキは気づいた。
 キリシマが振り向く。
 教室に響く曲が変わる。
「この曲は知ってる。カノンでしょ?」
 サキが言うと、グランドピアノの陰から黒い子猫が現れ、サキが開けた窓の枠に、ピョンと飛び乗った。
 黒い子猫が大きなあくびをして、丸くなるのを見ていたサキは、こちらに近づいてくるキリシマに気づいた。
「……田儀さん」
 立ち止まったキリシマは、見上げるサキの頭に手を伸ばし、優しく撫でた。
 その心地よさにサキが目をつむると、キリシマは上体を屈め、サキの背にそっと腕をまわして、小さな体を抱きしめた。
(すごく、不思議な気持ち)
 サキも腕をのばして、キリシマの背に触れる。
(あったかい……)
 体を撫でる手のひら。
 感覚がとてもリアルで、体がよじれる。
(くすぐったいけど、気持ちいい……)
 その隣で微笑む少女は、ふたりのじゃれあいなどお構いなしに、ピアノを弾き続ける。
「卒業おめでとう」
 キリシマはサキの頬に手を添え、耳元に軽くキスした。
「せんせ……」
 また夢の世界に誘われそうになったとき、かすかに花の香りがした。
 サキは少し体を離して、キリシマの顔を見つめる。
「田儀さん」
「おう。元気にしてたか?」
 田儀が微笑むと、ピアノの音が止み、教室全体がグラグラと揺れ始めた。
 教室と廊下を仕切る壁が、ゴゴゴゴと音を立てて崩れ出す。
 窓辺の黒い子猫はのんきに背伸びをして、崩壊した瓦礫の隙間をヒョイとくぐり抜け、壁の向こう側へ行ってしまった。
「行くか」
 田儀が手を差し出す。
「出口を探そう」
 サキはうなずき、その手を握った。
 二人は瓦礫の山を登って、学校を脱出する。

 そこは遊園地だった。陽が落ち、薄暗くて見えにくいが、どの乗り物も錆びれ朽ちていて、遊園地は廃墟と化していた。
 見て回っていると、錆び付いた鈍い音が、どこからか聞こえてくる。

 ──ギギ……ギギギ……ギギギギギ……──

 近くのメリーゴーランドが、とても苦しそうな悲鳴をあげながら動き出した。

 ─キキキキキィーッ! ガゴンッ! ゴゥウウウウーン……─

 ロボットのようにぎこちなく回る馬の瞳。サキは思わず田儀の腕にしがみついた。

 ──バン! バン! バン!──

「うっ!」
 突然視界が明るくなり、二人は目を細める。
「紳士淑女のみなさん、ようこそおいでくださいました」
 その声に、眩しいながらも二人は見上げた。ライトアップされたメリーゴーランドの屋根の突起部分に誰か立っている。
「私はこのワンダー・ドリーム・ランドの支配人……」
「あ!」
 サキの声が、謎の人物の話を遮った。
「アクビさま!」
「知り合いか?」
 田儀は、謎の人物を指を差すサキに聞いた。
「ホノカ先生の『ネムリウム』という作品に出てくる悪者です。子供たちをアクビで眠らせて、夢の中に閉じ込めるんです。アクビさまに眠らされた子供は、一生眠り続けるんです」
 マントをなびかせるアクビさまは、深く被ったシルクハットを指でクッとあげる。
「まあ随分と詳しいねぇ君は。もしかして、新米田くんの仲間かな?」
 仮面の奥のギラついた瞳がサキを捉えた。
 背筋がゾクリとするサキ。その横で渋い顔をしている田儀が腕を組む。
「なんのこっちゃわからんが、悪者ならほっとけねぇなぁ」
 アクビさまはマントの隙間からスッと手を出して、その手のひらをサキへ向けた。
「わっ!」
 いきなりのことに驚いたサキは、後ろへすっ転び尻餅をついた。
 サキがうっすら目を開けると、目の前にかばう背中があった。その足元にボタリボタリと落ちる赤い滴。
「血が……!」
「なんのこれしき」
 田儀は背広を脱ぎ、勢いよく肩にかけた。
「俺がお前を守る」
 サキが見上げる。
「お前がなんと言おうと、俺はお前と共に戦う。いつだってお前は、俺の最高の相棒だからな」
 サキはそのセリフに聞き覚えがあった。
「……ベン……?」
 ニヤリと笑った田儀は、背中を丸め、猫が毛を逆立てるように唸り始めた。膨れ上がる背中に、ワイシャツが引っ張られ、バリバリとはち切れると、露になった肌を、輝く金色の毛が覆っていく。
「ふむ。黄金ゴリラとは面白い」
「ゴリラじゃねぇ……ベンガルネコだおるぁあああ!」
 叫んだ口元から鋭く尖った牙が見え、頭から獣の耳がピョコンと生えた。
 その姿は、人の形をした猫。サキが敬愛するミナトホノカの別の作品『ミィナ』に登場する“ベン”に似ているが、アニメ風ではなくリアルで、とても猫。
 筋肉隆々のベンになった田儀はこぶしをギュッと握り、足に力を込めてアクビさまに向かって高くジャンプした。
 アクビさまと戦うベンの姿を見つめていたサキはうつむく。その視線の先には、アスファルトの赤いシミ。
「わたしは……わたしにはなにができるの……?」
「立てるか?」
 突然声をかけられ、サキはハッと見上げた。
「ミィ……マイナ!」
 サキの真横には、あの憧れの存在であるミィナもとい、初恋相手のマイナが立っていた。
 美しい毛並みに凛々しい顔立ち。見惚れるサキは唐突に(気持ちを伝えなきゃ!)と思い、そのことで頭がいっぱい。
「好き! 大好き! あなたはわたしの憧れなの! 明日も明後日もずーっと好き!」
「あ、ありがとう……。まさか、ブルウがボクのことを、そんな風に思っていたなんて……。嬉しいけど、変な気分だ」
「……え、ブルウ?」
 ブルウとは、シアンが正体を隠して戦うときに名乗っている名前だ。
「わたしが……ブルウ……?」

 ──ドガシャーン!──

 激しい破壊音に、サキとマイナが顔を向ける。
「君の相棒が苦戦しているようだ」
 幼児向けのジェットコースターのレールがへし折れ、粉塵が舞っているその中に、傷ついたベンが倒れている。
 ベンはボロボロになりながらも必死に起き上がり、清々しい顔つきで見下ろすアクビさまに立ち向かった。
「どうして……」
 サキはベンの言葉を思い出す。

『いつだってお前は、俺の最高の相棒だからな』

「これはわたしの責任なのに……わたしが倒さなきゃいけないのに……!」
 シアンは、このニャンダーワールドの征服を目論む、悪の組織“デビル・キャット団”の親玉である父を倒すべく、一人で戦ってきた。そんなある日、突如現れた謎の美少年戦士“マイナ”。シアンは、下らない親子喧嘩に誰も巻き込みたくないと、デビル・キャット団と戦うマイナの邪魔をし、やめさせようとした。だが、マイナはいつも戦いの場に現れた。そして、シアンがデビル・キャット団と戦っていることが、アイドルユニットの一人であるベンにバレたとき、ベンは「俺も戦う」と言い出した。シアンは無論必死で止めたが、ベンは何度も加勢し、今日まで戦い続けている。
「……マイナは、どうして戦うの?」
「どうしてかな。考えるよりも先に体が動くんだ」
 サキは薄ら笑いを浮かべる。
「やっぱマイナはヒーローだ……。わたしなんて、全然ダメだ。力も強さも、勇気もなにもない。誰も傷つけたくないのに、傷つけてしまう。守りたいのに、いつも守られてばかり。誰かに助けを求めて、願うだけ。本当はわたしが救いたいのに。そう思うだけでなにもできない。ううん、なにもしないんだよ。本当にズルい人間だ……」
「誰かのために」
 マイナが言う。サキが顔をあげた。
「誰かのために。その気持ちがあれば、特別な力がなくても、ヒトはヒーローになれるんだよ」
 マイナはサキの顔を見つめる。
「例え特別な力があったとしても、使い方によって、悪にも善にもなる。一番大切なのは、君の気持ちだ」
「……わたしに、なにができるかな。やっぱり、今のわたしには、応援することくらいしかできないや」
「ありがとう。力になるよ」
 そう言ってマイナは笑った。とても美しい笑顔だった。
「さあ、行こうか」
 歩き出すマイナのマントがヒラリと揺れると、花の香りがした。さっき嗅いだ花とは違う香り。

『思い出して……』

 ふと聞こえた女性の声。
 遠ざかるマイナの背中を見ていると、黒い子猫がふらっと現れた。
 サキの目の前で立ち止まった子猫は、まん丸の瞳でじっとこちらを見つめ、フイと顔を背けると、またどこかへ走り出した。
「あ、待って!」
 サキは慌てて立ち上がり、子猫についていく。
 なぜか呼ばれているような気がした。

 子猫を追いかけ走っていると、赤と黄色の縞模様の大型テントが見えてきた。まるでサーカスのテントのよう。子猫は幕の隙間からテントの中へスルリと入り、サキも真似して潜り込んだ。
「ギャア!」
 思わず声を上げたサキは驚きのけ反った。
 そこには大きく口を開けた虎がいた。虎は檻に入っていたが、今にも飛びかかってきそう。
 腰を抜かしたサキは、怯える眼差しで虎を見つめた。虎は口を開けたままで、全く動かない。
「ニセモノ……?」
 サキは立ち上がり虎に近づいた。口の中がやたら赤い。よく観察していると、生臭いにおいが鼻をついた。
 動物が入っている檻は他にもあって、虎以外に象や熊、豚がいる。どれも剥製とはいえ、躍動感があり迫力が凄い。まるで、襲いかかる瞬間に時が止められたよう。
 動かない動物たちを見ていると、どこからかすって歩くような足音が聞こえ、サキはとっさに檻の陰に隠れた。

 ──ガチャガチャ、ガチャン──

 気になったサキはそっと顔を覗かせる。
 くたびれたつなぎを着た飼育員が見えた。赤い肉の塊を、檻の中の動物に与えている。もちろん剥製だから食べないが、飼育員は動物の口に詰めていく。
 どんどん、どんどん、ドンドン詰め込む。口から溢れ返った生肉が、ボタボタと地面に落ちて転がる。それでも飼育員は無表情のまま与え続けている。
 口を押さえるサキは、飼育員に気づかれないようこっそりと後退りし、幕で仕切られた隣の部屋へ移動した。

 見上げれば、空中ブランコが大きく揺れている。
 サキは、サーカステントの中央に設置してある、大きなステージの上に立っていた。
 空中ブランコの高さに感動していると、突然ピアノの音が鳴って、サキはびくついた。
 ダイナミックな序奏が鳴り響くテントの中で、肩をすくめるサキは見開いた目をキョロキョロと動かす。
 ステージの端の方で、青いドレスを着た知らない女性が弾いていた。とても優雅で豪快な、鍵盤をはじく指さばき。
『花のワルツ』は、とても華やかな音楽だ。
 サキはなぜか胸がざわついていた。
「シアン」
 不意に呼ばれ、サキは振り向いた。そこにはデビル・キャット団の親玉、“エルガー”がいた。
「エド……!」
「会いたかった、我が息子よ。さあ、そばへおいで」
 腕を広げるエルガーは、サキが知っている姿ではなく、人間で、知らない顔をしているが、この人は自分の父親だと、確かにそう思った。
 サキはエルガーに駆け寄り抱きついた。
「わたしは今まで、あなたを殺すことだけを考えて生きてきた。でもわたしは、本当は、あなたを救いたかった。ようやくわかったんだ。どうかわたしを許してほしいのです」
「もちろんだシアン。私の可愛い、たった一人の息子なのだから」
 エルガーはサキをぎゅっと抱きしめる。
「おとうさん、ありがとう……」
 腕の中で涙を浮かべるサキを、エルガーは押し倒した。
 突然のことに目を丸くするサキ。覆い被さるエルガーの瞳は暗く、さっきまでの優しさが消えていた。
「おとう、さん……?」
 エルガーは手を伸ばし、サキの揺れる瞳を隠す。
「頼む。私のために死んでくれ」
 大きな手のひらが首を包む。
 触れられた息苦しさに、額に汗をにじませるサキの呼吸が乱れ始めた。
 飛び跳ねるような軽快な音楽が響く中、喉を押し潰す力は次第に強まる。

 ──ギリギリギリギリ……──

 喉の骨がきしむ。気道が圧迫され、声が出ない。
 サキがエルガーの手首を掴み、抵抗しようとしたとき、視線の脇を黒い影が通った。横目で見れば、さっきの黒い子猫が寝そべりながら、また退屈そうに大きくあくびした。
(そうだよね……別に死んでもいいや……)
 そう思ったとき、締め付ける手がフッと緩み、サキは大きく息を吸い込んだ。

 ステージの真ん中で女の子の首を絞める男がいる。
 気づけばサキは誰もいない観客席にいて、それを傍観していた。
 絶えず流れていたピアノの音は、他の楽器と合わさり重厚感が増した。耳に届く音は、体の中に響き渡り、心臓を震わせる。
 もがく女の子は必死に手を伸ばし、男の腕をグッと掴む。
 男はその手を簡単に振り払い、背中に隠していた金属バットを、女の子の頭めがけて振り下ろした。
 何度も何度も殴り続ける。女の子の頭はもう原形をとどめていない。
 血と肉片が飛び散る中、花のワルツは盛り上がり、最骨頂の音色を奏でる。
 そして、オーケストラの演奏が終わったのと同時に、

 ──ワァッー!──

 観客が一斉に立ち上がり、サキの視界は遮られた。演奏者に拍手を送る人たちの歓声が、ただのBGMに聴こえる。
 それに釣られてサキが腰を浮かしたとき、誰かに手首を掴まれた。

 息を飲むと目の前の光景は、スクリーンの映像に変わっていた。
 そこは映画館内で、薄暗い中大勢の観客が、席を立とうとするサキを怪訝そうに見ていた。
 サキは気まずそうに座り直し、おとなしくスクリーンに目を向ける。昔のホームビデオのような、画質の荒さで映し出される星空。
「オリオン座だよ。そしてあれがアルデバラン」
 隣の子がサキに話しかけた。
 顔を向けると、少年がスクリーンに向かって指を差していた。その少年は、何度も繰り返し見ていた夢の中で流れ星を数えていた男の子だと、サキはわかった。
 少年が「こんばんは」と挨拶すると、また花の香りがした。
 サキは聞く。
「わたし、出口を探してるの」
「出口? そんなの簡単だよ。扉から出ればいいんだ」
「扉?」
「うん。部屋の扉だよ」
「でも、あの部屋に、扉なんてないよ?」
「見えないなら照らせばいい。簡単なことだよ」
 星空に雲がかかり、雨が降り出す。
「……部屋を出たらどうなるの?」
「どうにもならない。君がただ部屋を出るだけ。それだけだよ」
 劇場内の大型スピーカーから聴こえてくる雨音が徐々に強まる。
「じゃあハルさんは? わたしが部屋を出ても、あのままなの?」
「うん。君と関係ないから。あの部屋は変わらない」
 反響する雨音は、どんどん大きくなり、まるで砂嵐のよう。
「わたしはどうしたら……」
 サキを見つめる少年は、首をかしげて聞き返す。激しい雑音が、ふたりの会話の邪魔をする。
 サキは負けじと声を張る。
「わたし、助けたい! どうしたらいい!?」
「あのね、誰にも助けなんて求めていないよ」
 あんなにうるさかった雨音がパッと止んだ。少年はスッと立ち上がって、サキの手を掴む。
「君はここから出ることだけを考えるんだ。来て」
 暗い中、困惑するサキの手を引いて連れていく少年は、スクリーンの手前にある壇上に登った。投影する光を遮るふたりの影が、スクリーンに映る。
「人は眠っているときに、記憶を整理していてね。この夢はその途中なんだ。そして、この脳は君の記憶を消そうとしている」
「わたし、死ぬの?」
「死なない。忘れるんだよ。でも、」

 ──ガタンッ!──

 母親の怒鳴り声がして、泣きながら謝る男の子の声が耳に入ってきた。聞こえてくる会話によると、どうやらポップコーンを盛大に溢したらしい。
 その様子を苦い顔で見守るサキの手を、少年は引っ張る。
「こっち」
 少年は舞台袖にある扉まで走った。その扉の上には緑色に光る看板がついている。
「この光を目印にして。あの部屋まで続いてるから、ここを通れば戻れるよ」
 少年はポケットから取り出したカギを、サキへ渡した。
「……いいの?」
「うん。もう忘れないでね」
「え?」
 ふと顔を上げたサキは、少年の背後に迫る白い山に気づいた。その山はポロポロと崩れながら、大きくなっていく。
 そのときフワッとバターの香ばしいにおいがして、サキは気づいた。
「ポップコーン?」
 それはポコポコと沸き上がるように、どんどん増え続ける。
 山になっては雪崩落ちるポップコーンで埋め尽くされていく劇場内を背に、少年は「そろそろ時間だね」と言った。
 サキはドアノブに手をかけ、振り向いた。
「一緒に行こう?」
「僕は行けない。ここから出られない。夢のワンシーンだから、ここで終わりなんだ」
「……終わりって、どうなるの?」
「ただ消えるだけさ」
「ダメだよ! 消えちゃダメ!」
 サキは少年の手を握った。少年は、悲しげな表情を浮かべるサキを見つめる。
「でもさ、こうしてまた会えたじゃないか。今度は寄り道しないで戻るんだよ。忘れてしまうからね」
 少年の言葉で、いつかの記憶がサキの脳裏に浮かぶ。それは漠然としていて、うまく思い出せない。
「ミャア」
 下を見るとあの黒い子猫がいた。少年はしゃがみ、子猫の頭を撫でる。
「賢いね。黒色は暗闇の中に姿を隠せるからあざむける」
 ポップコーンが二人の足元に散らばった。
 少年から離れた子猫は、扉をカリカリと引っ掻く。
「もう時間がない」と少年が促し、サキが少しだけ扉を開けた瞬間、子猫はそのちょっとの隙間を素早くすり抜けていった。
「ねえ、最後に一つ聞いていい?」
「うん」
「どうして、“ハル”っていうの?」
「ツバメがそう呼んだから」
 少年は、ドアノブを掴んだまま止まっているサキの手に手のひらを添え、扉を大きく開けさせた。
 目の前に現れた廊下は、一直線にのびている。
「ほら、行って。目を覚ましたらまた、初めからやり直しになってしまう」
 サキは扉の向こう側に一歩踏み出し、すぐに振り向いた。
「ツバメって?」
 少年は立てた人差し指を自分の唇に当てる。
 押し寄せるポップコーンが、少年の体を飲み込んでいく。

「こんばんは、さようなら。サキ」
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