ハッピーエンド~神様の君と生霊の僕~

桒原真弥

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四章 ムーンアタック

005 死

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 天戸温泉の二階にある二〇九号室――そこがナルの住処であった。
 家賃は無料だ。勿論、それには条件がある。毎日女湯の掃除をするという条件だ――逆に言えば、条件はそれだけ。『何でも屋』などという不安定な職に従事しているナルにとってこれ以上に有難い事は無い。
 八畳の部屋には何もない。箪笥も、ベッドも、鏡台もない。ナルが貧乏だから無いわけではない。いくらタダで住めるからと言って、自分の家になったわけではないと自分に言い聞かせているからだ。宿に家財道具を持ち込む者はいない――これはマナーであり、必要最低限の礼儀である。ナルはそれを常に心がけていた。
 なんとか二〇九号室に辿り着いたナルは蛍光灯のスイッチをオンにする。だが、何度押しても、蛍光灯が光る事はなかった。停電が起こっているのだろう。別段、驚く事はない。停電も、断水も、ガス漏れも、今や町のあちこちで起こっている事だから。
 諦めたナルは倒れるように万年床に横になった。
 そして目を瞑る。
 疲れ切っていたので、床に入ればすぐに眠ってしまうだろうと覚悟していた。しかし、一切そんな様子はなく――ただただ頭の中に市井の人々の噂話が木霊するばかりであった。

「町を滅茶苦茶にしたのは現世から流れ着いた妖怪だったらしいわよ」
「昼間、ソイツが町を下見してたのを目撃した奴が居るんだ」
「スパイだっんじゃねェのか?」
「この機に乗じて他国が攻め込んでくるって話もあるぜ」

 どれも、三流陰謀論以下の根も葉もない噂だ。そんな下らない事を言う奴は一列に並べて順番に殴って行ってやりたい。それが叶わなくても、せめて事実無根だと言ってやりたい。
 しかし、ナルはそうしなかった。
 いくら此方が正論を述べていたとしても、大きな混乱には勝てっこないからだ。それどころか、火に油を注ぐ行為となり、より混乱が大きくなる可能性もある。
 今の自分には――これ以上コトを大きくしないよう大人しくして居るしか出来ない。

「くそ……っ」

 遣る瀬無い気持ちばかりが心に広がる。
 せめて氷太朗にもう一度会えれば、少しは気分も変わるのだが――そう思った時である。ドアの方からノックの音がした。
 ナルは反射的に「開いてるわよ」と応答する。現在夜九時。こんな時間に二〇九号室を訪れる奴なぞ知れているからだ。しかし、「失礼します」という声は、思い当たる人物のどれもに該当しない。
 驚いたナルは身体を起こしてドアの方を向くと――そこには、見慣れない服装の見慣れた少年が立っていた。

「氷太朗……!」
「やぁ。夜分遅くにごめんね」

 氷太朗は微笑んだ。不安や動揺といった感情が一切混じっていない微笑みだ。
 ナルは慌てて立ち上がった。

「どうしてこんな所にいるのよ⁉」
「太三郎さんに教えて貰ったんだ。どうしても伝えたい事があって」
「伝えたいこと?」
「うん。今時間いい?」
「勿論! 座って座って! あ、今座布団出すわね!」

 ナルは布団を蹴とばすと、そこに押し入れから引っ張り出した座布団を置いた。氷太朗は腰に差していた脇差と太刀を抜いて、静かに正座した。ナルも、その前に座る。
 氷太朗は一拍置いてから「実はね」と全てを語った。
 公民館を出てすぐに魅流に頭を掴まれた直後、現世に戻った事。そこに氷華が居た事。結界術が切れかけたので一旦常夜に戻った事。そこで魄となった自分と対峙し、手ずから頭部を破壊した事。
 語ったのは身に起こった事だけではない。肉体を魄に昇華させ、狂暴化するプログラムを書き加えた人物は氷華である可能性が高い事。氷華の動機は、氷太朗の肉体と魂を使って常夜の位置を割り出し、保管されている顕明連ケンミョウレンを奪い取ることであると考えられる事。その動機から察するに、近いうちに氷華が直々に常夜に攻め込んでくると予想される事。
 全てを語った。
 飾り立てずに、ありのままを語った。
 それが氷太朗に出来る『最大限の義』であると思ったから――

「驚いた」

 全てを聞き終えたナルの感想は、それだけであった。
 氷太朗は思わず「まぁ、そうだよね」と言った。

「僕も最初、スケールが大きすぎてビックリした」
「そうじゃないわ。氷太朗が滅茶苦茶落ち着いてて驚いたの――アンタ、本当にビビりの氷太朗?」
「本当は僕も怖いよ。めっちゃビビってる。でも、もう逃げるのはやめた。死んでから後悔する生き方はやめたんだ――これからは、今出来る事を全力でやる」
「そっか。良い心がけね」
「うん。ナルのお陰だ」
「ニヒヒッ。私に感謝しなさいよー」

 言って、ナルは太陽のように明るい笑顔を向けた。
 氷太朗も、今出来る最大の笑顔を浮かべる。

「で? 伝えたい事って何? 近況報告だけしに来たってワケじゃないんでしょ?」
「うん。姉ちゃんの騒動が終わったら、僕、あの世に行くんだ」
「なんで? 常夜で暮らせばいいじゃん」
「肉体を失った僕は、今や生霊じゃない――死霊だ。死霊はあの世に行くのがルールだからね……それに従わないと」
「自力で行けるの?」
「神社の人が送ってくれるんだって」
「そうなんだ。じゃあまた変な所に迷い込む事はないわね。……あの世に行った後はどうすんの?」
「冥界の法廷で閻魔様に裁かれた後、天国か地獄に送られるらしい。大抵の人は地獄に行くんだって。たぶん、僕も地獄行きだろう。地獄で数百年過ごした後、転生するらしいよ」
「なるほど。それを伝えに来たの」

 氷太朗は目を伏せて「うん」と言った。

「ナル、今日はありがとう。人生最高の日だったよ。本当にありがとう。そして――」
「じゃあ、また会えるわね!」
「……え? 僕の話聞いてた?」

 氷太朗は思わず尋ねると、ナルは変わらない笑顔で答えた。

「転生するんでしょ? また人間になって、そんでまた肉体が剥がされたら、また常夜に迷い込むかもしれないんでしょ? そしたら、また会えるかもしれないじゃん――待てよ? 氷太朗が転生する前に私が死んだら、地獄で鉢合わせする可能性もあるのか」
「………」

 開いた口が塞がらない。
 その発想は無かった。常人には到底至らない発想だ。
 根拠薄弱な希望的推測の極みのような発言である――いつもならば「何馬鹿なこと言ってんの?」と真顔で突っ込んでいただろう。だが、今日この時ばかりは、その可能性を否定出来なかった。
 いや、正確に述べると――否定したくなかった。

「そうだね。うん、そうだ。その通りだ」
「でしょ? 楽しみだね、氷太朗」

 ナルは涙目になりながら言った。

「次会ったら、今度こそ一緒に酒を飲むわよ!」
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