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***
特別室で一日を終え、重い身体を引きずるようにしてモデル事務所まで辿り着いた。今日は撮影があるわけでも遥夏の使いで訪れたわけでもない。意を決して、社長に学校での誉の置かれた状況を報告しにきたのだ。外聞の良くない話なので自分から話すのも億劫だが、優先すべきは学業である。放置するわけにもいかない。
誉たちの所属するモデル事務所は、繁華街の中でも大通りに面したとりわけ目につきやすい五階建てビルの二階の一室にある。一室といってもほぼワンフロアを借り切っているので、室内は広々としていて他社と顔をあわせることも滅多になかった。
一階はコンビニ、二階より上の階は英会話教室やパソコン教室といった老若男女問わない習い事、他にはベンチャーのような会社が数社入っているだけだった。そのため誰からも怪しまれることなく、気兼ねなく制服のまま行き来することができていたのだ。
モデルの仕事のために目立たないよう、わざわざどこかで着替えてという手間がないのは唯一よかったことと言える。
なかばなし崩しのように始めたことなので、どうしても手を抜けるところはしっかり手を抜いていきたい、そう思うのも致し方ないことだろう。
社長室の前で誉は、ひとつ息を吐いて扉をノックした。
こんこんと響いた音に何も返答が返って来ず、どうしたものかとしばらくぼんやりと立ち尽くす。気を取り直して腕を上げたところで背後から声をかけられた。
「アンタ何してんの?」
高圧的な物言いに、振り返らなくても分かるその声の主は遥夏だった。
タイミングの悪さに舌打ちしそうになった誉は、悪態を押しとどめながら振り返る。
「姉ちゃんこそ何してんだよ。今日は仕事入ってないとか言ってなかった?」
「マイが風邪引いて寝込んでるから代打。で、アンタは社長室に何の用があんの?」
遥夏は胸の前で腕を組み、仁王立ちしている。誉に面識はないが、内容からしてマイというのは遥夏のモデル仲間なようだ。
手短に自分の状況を説明しつつも、なおも誉に訊いてくるのは、ペーペーのお前が社長に何の用があるんだ、と言いたいのだろう。むしろでかでかと顔に描いてある。
遥夏は早く言えとばかりに誉の向こう脛を軽く蹴り、二、三人殴ったあとのような人相の悪さで見下ろしていた。二人にあまり身長差がないため、遥夏がヒールのある靴を履くと自然と誉を見下ろす形になるのだが、普通の人なら萎縮するところだ。この姉の元で育って十七年の誉にとって、何の自慢にもならないけれど通常営業すぎて慣れたものだった。
「別に関係ないじゃん。代打で仕事出てんだろ。早く撮影もど」
れ、と最後まで言い切る前に、遥夏が無言で掌を縦にして振り下ろした。鈍い衝撃とともに誉の頭に手の側面がめり込む。チョップだ。とびきり、ヘビー級の。
「いだあっ!」
あまりの痛みに反射的に声を上げ、頭を抱えて蹲った。容赦のない鉄拳制裁に、誉は涙目になりながら下から睨みつけ、抗議の声をあげる。
「何するんだよ! 馬鹿じゃねえの?! ひとが気ぃ使って言ってんのに!」
「誰が馬鹿だ、誰が。馬鹿はアンタでしょうが」
遥夏もしゃがみ込むと、ぎゅむと誉の頬を容赦なくつねり、勢いよく引き離した。
「いっだあッ!」
(鬼か! 鬼なのか! 知ってたけど!)
「社長に何話すつもりよ。どうせアンタのことだから、往生際悪く辞めさせてくれとか言うんでしょ。無理だっつーの」
誉の悲痛な叫びを聞き流し吐き捨てる。
遥夏は決めつけのように言ったが、あながち間違いではない。現に今でも辞められるのなら辞めたいと思っているのだ。
契約書にサインし、押印してしまったので、それが覆ることがないとは分かってはいる。子供ではないからそれくらいは理解できる。しかし理解は出来、諦めてはいても愚痴はこぼしたくなる程度には子供だった。
「だってしょうがないだろ。学校にバレたんだぞ? いくらバイトしてもいいつっても限度があるって言われて……。もしまたバレたら、今度は停学になるかもしれない。こんなの続けて何の意味があるんだよ。学生の本分は学校行って勉強することじゃねーの? こんなことやってて意味あんの? ……俺は姉ちゃんとは違う。地味で平凡で普通の生活がしたいんだ」
誉は拳を握りしめ、苛立ちのままにぶちまける。誰にぶつければいいのか分からない不満、漠然とした将来への不安を、今日起こった様々なことが引き金になり一気に溢れ出した。
黙って聞いていた遥夏は、ふうと息を吐き誉の頭に手を置くと、
「アンタの言いたいことはだいたい分かった。でも仕事として受けた以上、途中で投げ出すことはできない。それは分かってるでしょ?───だから、終わればアンタの自由にしな。それまでは私が、学校の方はなんとかするから」
力強くそう言い残し、メイク室へと消えて行った。
誉は遥夏が言った言葉をゆっくりと咀嚼すると、ふっと肩の力が抜けていった。
少しだけ楽になった気がする。ずっともやもやと胸の中でわだかまっていたことが、外に吐き出したことで軽くなったようだ。
不思議である。常日頃ことあるごとに嫌だ嫌だと思っていたこの仕事が、遥夏に思っていることすべて話しただけで、僅かながらも前向きになれた。
吐き出せばよかったのか、とようやく気付いた。ただ心の中で嫌だと訴えても、誰にも伝わらないのなんて当たり前だ。上手く言葉が選べなくても、考えていることを言わなければ伝わらない。そんな単純なことにも気が付かなかったのは、家族だから、姉弟だからと胡座をかいていたのだ。
途端に過去の自分が腹立たしくなった。あのときちゃんと周りに考えを伝えていれば、今こんな状況にならなかったはずだ。根源はそこにある。
たられば想像をしてもどうにもならないのは学習した。
(とりあえず)
この仕事が終われば自由になれる。学校への対応も一人で抱え込まなくていい、そう思えば乗り越えられそうな気がした。少なくとも遥夏の援護があるのだ。これ以上の味方はそうそういない。
思い返せば、昔から誉が本気で困っていたり辛い目に合っていると、いつも一番に駆けつけるのは遥夏だった。
誉がまだ小学生の低学年だったころ、同じクラスの男子から謂れのない暴言を吐かれたことがある。内容こそ忘れてしまったが、当時は体も小さく内向的だった誉ははね除ける術をもちあわせておらず、また逃げることもできなかった。ただじっと嵐が過ぎ去るのを待っているだけだった。
それをたまたま見かけた遥夏が何やら怒って追い払ってくれたのは一番古い記憶だ。
誉に対して一番の壁でもある姉は、同時に頼もしいヒーローでもあったと思い出す。
普段は誉のことを体よく使う遥夏だが、いざ弟が窮地に立てば庇うように矢面に立つ。きっと学校のことも誉の気持ちを汲み取って、何らかの手を打ってくれるにちがいないだろう。
この年齢になっても自分で自分のことを解決できないのは情けないと思うが、弟という立場に甘えられるなら甘えておこうと打算が働くのも正直な気持ちだ。
きっと自分は狡い人間なのだろう。
誉は無理やり思考を打ち切るように頭を振ると、立ち上がり、何も考えず遥夏にまかせればいいと思い直した。
些か軽くなった足取りでビルの階段を降りると、辺りはすっかり暗くなっていた。飲食店やコンビニ、様々な店の灯りが街灯がわりに明るく路を照らしている。
ひんやりとした空気に誉は身をすくませ、いつものように立ち並ぶ店を眺めながら家路へ急いでいると、ビルの一階のテナントとして入っている飲食店の扉が勢いよく開いた。まだ誉のだいぶ前方だったためぶつかる事はなかったが、驚いて一瞬立ち止まる。すぐに歩き出そうとして誉は凍りついた。
何故こんなところに。
そんな言葉を思い浮かべたら、扉から出てきた人物に思いきり顔を顰められた。店の外観からは何を専門にした店かは分からないが、白のシャツを肘まで捲って黒のタブリエに黒のパンツの出で立ちは、さながらギャルソンのようだ。長身でスタイルも良く、見た目だけなら誉などよりよほどモデルのような姿なのに──誉は女装モデルだが──、醸し出す雰囲気が接客業には似つかわしくないほど尖っている。
誉だとて会いたくて会ったわけではない。偶然だ。たまたま運悪く鉢合わせてしまっただけである。出来ることなら顔など合わせたくはなかった。久住となど。
そんな心情が表情にだだ漏れていた誉をじっと見つめ、久住はこれ見よがしに『はあ』と大きく息を吐いた。
「ちょっと来い」
誉の返事を待たず、久住は言い捨てるとさっさと店の中に入ってしまう。
呆気にとられ立ち尽くしていると、久住は入口のガラス戸から顔だけ出して顎をしゃくった。中へ入れと促しているらしい。誉はわけも分からず久住の後を追うように、慌てて店の中へ駆け込んだ。
暗い茶色の板張りの床、同系色の壁、暖色の照明。総じて落ち着いた雰囲気なのに、店内中央に位置するアイランド型の調理場は、スポットライトを当てたように明るかった。
調理場を奥に引っ込めるのではなく、前面に出すスタイルは今や珍しくもないが、まだ高校生の誉が気軽に入れる店ではないということはすぐさま理解できた。
店の奥側の壁にずらりと並ぶ和洋の酒瓶。調理場からの訝しむような視線。客の年齢層の高さ。おまけに店員──久住啓太──の眼光の鋭さがとどめを刺している。
久住の方から招き入れておいて睨むとは何事だろうかと、誉は理不尽さに目眩を覚えた。
制服で入店してしまった場違いさと久住の威圧感に居た堪れず、入って来た扉へと視線を泳がせる。
「出よう…」
万がいち補導をされたらたまったものではない。ただでさえ特別室でペナルティを受けているというのに、さらに問題を起こせば停学か謹慎か、両親に否が応でも今回の処分が明るみになってしまう。放任主義の峰石家でも見過ごすことのできない問題だ。それに放任ではあっても無責任なことをしない両親だから、心を痛めてしまうのではと思うと誉自身が嫌だった。
一緒に店に入ったはずの久住が調理場にいるのをさいわいに、そっと店を出ようと扉に右手を掛けた。
「お客様、お掛けになってお待ちいただけますか?」
いつの間に戻ってきたのか、背後から誉の掌ごと強く握り、久住は耳元で低く落ち着いた声で尋ねてきた。驚きのあまり叫びそうになり、寸でのところで堪える。疑問系なのに拒否できない、ただならぬ精神的圧力を感じて恐る恐る振り返えると、丁寧な接客口調とは裏腹に、久住は不機嫌な顔で見下ろしていた。顔の近さに心臓が早鐘を打ち始める。
昔、遥夏の元カレに迫られて以来、人と必要以上に距離をつめられるのが苦手になったのだ。そんな自分を悟られまいと意味のない愛想笑いを浮かべる。
誉はゆっくり扉に向き直り、深呼吸して掛けた手を外した。
「こちらへどうぞ」
久住は何事もなかったかのように誉から離れて元の席へ案内すると、四人掛けのテーブル席の一脚を引き、目線で座れと促した。諦めて誉が椅子に腰掛ける途中、久住は腰を折り顔を近づけ小声で囁く。
「何度も逃げんな。とって食いやしねーよ」
誉は中腰のまま固まり、瞬間的にカッと顔に血液がが集まるのが分かった。幸か不幸かその顔を見られることなく久住はすぐに席を離れ、何一つ取り乱すことなく仕事に戻って行った。誉はカクカクとぎこちない動きで着席し、ひとまず顔の火照りを落ち着けようと両手で顔を覆う。
自分でも理解し難い羞恥心が襲ってくる。『何度も逃げんな』は、おそらく初めて言葉を交わしたあの日のことを指しているのだろう。しかしなぜだか、後に続く『とって食いやしねーよ』という言葉に異常に反応してしまった。まるでいかがわしいことでもされるような錯覚に陥ってしまったのだ。
耳元で囁かれた声は妙に艶があり、変に意識してしまった。男が男に感じる感覚ではないとは思うものの、体は言うことを聞かない。
他にもっと言いようがないのかと、久住に対して赤い顔で自分勝手に腹を立てる。
体が触れ合いそうな近い距離で逃げ道を断たれ、プレッシャーに押し潰されまいと平静を装ってみても、頭の中はパニックだった。
勝手に焦り、勝手に羞恥に襲われ、勝手に腹を立てている自分は、なんて滑稽で情けない人間なのだろう。同性に襲われた経験が仇となって、こんなおかしな意味に取ってしまうほど、他人に慣れていなかったのだ。
気落ちしていくとともに、恥ずかしさで染めていた頬から熱が引いていく。
人との関わりが少ないから、距離感も、意味のないことでも、大げさに捉えてしまうだけなのだろう。きっと。
冷静に自己分析して、いまだ久住の感触の残る右手をじっと見つめていた。
***
結局久住とはあの後ほとんど会話をすることもなく帰った。店に客が立て続けに入ってきて、ウェイターの仕事でそれどころではなくなったのだ。
誉は混んできたことを幸いに、頃合いを見計らってこっそり帰ろうと身支度をした。四人掛けのテーブル席に一人で座っているのはどうにも気が引けてしまう。ましてやアルコールの並ぶ店内で制服でいるのも居心地が悪い。
久住の様子を見ようと振り向くと、別のウェイターが誉のテーブルに「お待たせしました」と料理を持ってきた。
驚きつつも静かに置かれた皿の中身を見れば、ふんわりと湯気を立てたビーフシチューだった。疑問を貼付けた顔のままウェイターに振り返る。
「あの、注文してませんが…」
「久住からこちらのテーブルへと頼まれましたので、お召し上がりください」
男の誉でも見惚れるような微笑みで勧めると、お会計も気にしないで、と内緒話でもするように口元に人差し指を立てた。ウェイターは軽く頭を下げて踵を返すと、何事もなかったように他のテーブル席の注文を取り始めた。
誉はしばらく目の前に置かれたビーフシチューを眺めていたが、立ち上る湯気とデミグラスソースの濃厚なにおいに思わず生唾をごくりと飲み込んだ。今日はモデル事務所に立ち寄ったおかげで夕飯はまだだ。料理を振る舞われた理由が気になりつつも食欲には勝てず、カトラリーの入ったケースからスプーンを取り出し、心の中でいただきますと手を合わせた。
口の中で広がるデミグラスソースの旨味に玉ねぎの甘みとコク、ほろりと煮崩れる牛肉の柔らかさに誉は打ち震え、静かに感動する。
母親の作る家庭的なビーフシチューしか知らなかった誉にとって、こんなに美味しいものが世の中にはあるのかと、驚きで思わず久住を探した。いち早くこの感動を伝え、わがままにも共有してほしいと思ったのだ。
忙しなくホールを行き来する彼を見つけると目が合い、声に出さず「うまい」と言えば、久住は口を片端だけ持ち上げ笑った。ほんの少し、誉だけしか気付かないくらいの笑みだったけれど、心臓がキュッとしまる。痛いような苦しいような、でも嬉しいような。
不思議な感覚を抱きながらも、誉は空腹も相まって、皿を空にするまで休むことなくスプーンを口に運んだ。
久住に対して素直に格好良いと思った。給仕する立ち振る舞いも、フロアに目を配りながら歩く後ろ姿も、自分だけに見せた、あの一瞬の笑顔も。
あのままずっと笑顔で見つめられたら、確実に赤面していたに違いない。そのくらい格好良いと思ったのだ。だが杞憂だ。久住はそんなことをするはずがない。特別室で繋がっているだけの人間に。
食事を終えると久住の姿は見えなくなっていた。このまま帰ってしまってもいいのだろうかと辺りを見回す。レジに先ほど料理を運んでくれたウェイターの彼がいたので、これ幸いとばかりに久住はいないのか尋ねてみた。
「申し訳ありません。彼はいま所用で出てまして」
「そうですか…」
御馳走されたお礼と、理由を後で尋ねるつもりだったのでがっくりと肩を落とす。別に気落ちするほどのことではないのに、もう少し久住と話してみたいと思ったのだ。明日ではなく今、この高揚感と勢いで。
あからさまに気落ちした誉を見て、ウェイターは小さく笑う。
「久住とは、お友達ですか?」
「えっ、あ…いえ、その…何なんですかね…?」
質問にどう答えていいのか分からず、しどろもどろに言葉を濁す。誉と久住の関係は特別室で繋がっているだけで、知人というには濃い出会い方をしたものの、友人というにはかかわりがなさすぎる。学校では挨拶を交わすことはおろか、目を合わせることさえないのだ。その関係を説明するには、誉の経験則に基づいても答えは出てこなかった。
ふと我に返ると、ウェイターは誉の困りっぷりをきょとんととした顔で見ていた。
「あっ!えっと、友達ではないですけど、一応(期間限定の)クラスメート、です…」
誉は変な空気にしてしまったと、慌てて前言をフォローするよう付け足した。尻蕾みな話し方になったのは自信のなさのあらわれだ。 そんな誉を余すところなく見ていた目の前のウェイターは、拳を口元に当てると遠慮なく吹き出した。何がツボに入ったのか肩を震わせ笑っている。
「ごめん。気を悪くしないで。さっき彼にも同じこと聞いたんだけど、同じようなこと言ってたから」
眦に溜まる涙を拭いながら、彼は落ち着こうと大きく息を吐いた。
「御崎です」
「え?」
唐突に、御崎と名乗ったウェイターは、自分を指差す。
「久住…啓太とは従兄弟なんだ。あいつ、見た目いかついから、みんな遠巻きにしてるだろ。あまり友達いないんじゃないかな? だから店に呼ぶような子がいるのに驚いて」
御崎は接客用の敬語からフランクな言葉遣いに変え、ふっと口唇を小さく笑みの形にした。
誉はどうリアクションしていいか分からず、片頬を引きつらせ乾いた笑いをこぼした。
久住と誉は友達ではない。だから御崎の言う、自分が働いてる店に呼ぶ=友達、という図式は当てはまらない。そもそも誉自身、なぜこんなところに連れて来られ、食事を振る舞われたたのか皆目見当もつかなかった。何か意図があるのだろうけど、生憎昨日今日知り合ったような関係だ。まったくもって意味不明である。
難しい顔をして黙り込んだ誉の眉間を、御崎は人差し指でぐりぐり円を描きながらほぐす。誉は驚いて御崎を見上げると、
「可愛い顔が台無しだよ」
本気か冗談か分からない言葉を吐きながらそっと指を離した。
誉はその言葉にぴくりと反応し、ちいさな声で反論する。
「男に可愛いはない、です」
「それもそうだね」
初対面なのに生意気だったろうか、と気に病む間もなく御崎はあっけらかんと答えた。
「じゃあ、きれいな顔に訂正ね」
無駄に良い笑顔でそう付け足すと、よしよしと誉の頭を撫でた。完全にからかわれているなと悟り、がっくりと肩を落とした。
自分の方がよほど整った顔をしているだろ、と口の中でぼやいていると、背後のテーブル席からわらわらと客が立ち上がった。会計しに誉たちの方へとやって来る。これ幸いにと誉は切り出した。
「あの、シチュー美味しかったです。久住にごちそうさまでしたと伝えてください」
「うん。伝えとくよ。またおいで」
御崎はひらひらと誉に手を振ると、やって来た客の伝票を受け取り、会計をし始めた。誉は見ていないだろうと思いつつも律儀に御崎に向かって頭を下げた。
そっとガラス戸を抜けて店から出ると、街はスーツ姿の社会人や暇を持て余した大学生たちが行き交っていた。誉は店の前の通りを右左と振り返り、溜め息を吐く。
(久住にちゃんとお礼が言いたかったな)
せめて帰り道にでも出くわしたら直接言えるのに、そう思うものの、結局出会うことは叶わなかった。
特別室で一日を終え、重い身体を引きずるようにしてモデル事務所まで辿り着いた。今日は撮影があるわけでも遥夏の使いで訪れたわけでもない。意を決して、社長に学校での誉の置かれた状況を報告しにきたのだ。外聞の良くない話なので自分から話すのも億劫だが、優先すべきは学業である。放置するわけにもいかない。
誉たちの所属するモデル事務所は、繁華街の中でも大通りに面したとりわけ目につきやすい五階建てビルの二階の一室にある。一室といってもほぼワンフロアを借り切っているので、室内は広々としていて他社と顔をあわせることも滅多になかった。
一階はコンビニ、二階より上の階は英会話教室やパソコン教室といった老若男女問わない習い事、他にはベンチャーのような会社が数社入っているだけだった。そのため誰からも怪しまれることなく、気兼ねなく制服のまま行き来することができていたのだ。
モデルの仕事のために目立たないよう、わざわざどこかで着替えてという手間がないのは唯一よかったことと言える。
なかばなし崩しのように始めたことなので、どうしても手を抜けるところはしっかり手を抜いていきたい、そう思うのも致し方ないことだろう。
社長室の前で誉は、ひとつ息を吐いて扉をノックした。
こんこんと響いた音に何も返答が返って来ず、どうしたものかとしばらくぼんやりと立ち尽くす。気を取り直して腕を上げたところで背後から声をかけられた。
「アンタ何してんの?」
高圧的な物言いに、振り返らなくても分かるその声の主は遥夏だった。
タイミングの悪さに舌打ちしそうになった誉は、悪態を押しとどめながら振り返る。
「姉ちゃんこそ何してんだよ。今日は仕事入ってないとか言ってなかった?」
「マイが風邪引いて寝込んでるから代打。で、アンタは社長室に何の用があんの?」
遥夏は胸の前で腕を組み、仁王立ちしている。誉に面識はないが、内容からしてマイというのは遥夏のモデル仲間なようだ。
手短に自分の状況を説明しつつも、なおも誉に訊いてくるのは、ペーペーのお前が社長に何の用があるんだ、と言いたいのだろう。むしろでかでかと顔に描いてある。
遥夏は早く言えとばかりに誉の向こう脛を軽く蹴り、二、三人殴ったあとのような人相の悪さで見下ろしていた。二人にあまり身長差がないため、遥夏がヒールのある靴を履くと自然と誉を見下ろす形になるのだが、普通の人なら萎縮するところだ。この姉の元で育って十七年の誉にとって、何の自慢にもならないけれど通常営業すぎて慣れたものだった。
「別に関係ないじゃん。代打で仕事出てんだろ。早く撮影もど」
れ、と最後まで言い切る前に、遥夏が無言で掌を縦にして振り下ろした。鈍い衝撃とともに誉の頭に手の側面がめり込む。チョップだ。とびきり、ヘビー級の。
「いだあっ!」
あまりの痛みに反射的に声を上げ、頭を抱えて蹲った。容赦のない鉄拳制裁に、誉は涙目になりながら下から睨みつけ、抗議の声をあげる。
「何するんだよ! 馬鹿じゃねえの?! ひとが気ぃ使って言ってんのに!」
「誰が馬鹿だ、誰が。馬鹿はアンタでしょうが」
遥夏もしゃがみ込むと、ぎゅむと誉の頬を容赦なくつねり、勢いよく引き離した。
「いっだあッ!」
(鬼か! 鬼なのか! 知ってたけど!)
「社長に何話すつもりよ。どうせアンタのことだから、往生際悪く辞めさせてくれとか言うんでしょ。無理だっつーの」
誉の悲痛な叫びを聞き流し吐き捨てる。
遥夏は決めつけのように言ったが、あながち間違いではない。現に今でも辞められるのなら辞めたいと思っているのだ。
契約書にサインし、押印してしまったので、それが覆ることがないとは分かってはいる。子供ではないからそれくらいは理解できる。しかし理解は出来、諦めてはいても愚痴はこぼしたくなる程度には子供だった。
「だってしょうがないだろ。学校にバレたんだぞ? いくらバイトしてもいいつっても限度があるって言われて……。もしまたバレたら、今度は停学になるかもしれない。こんなの続けて何の意味があるんだよ。学生の本分は学校行って勉強することじゃねーの? こんなことやってて意味あんの? ……俺は姉ちゃんとは違う。地味で平凡で普通の生活がしたいんだ」
誉は拳を握りしめ、苛立ちのままにぶちまける。誰にぶつければいいのか分からない不満、漠然とした将来への不安を、今日起こった様々なことが引き金になり一気に溢れ出した。
黙って聞いていた遥夏は、ふうと息を吐き誉の頭に手を置くと、
「アンタの言いたいことはだいたい分かった。でも仕事として受けた以上、途中で投げ出すことはできない。それは分かってるでしょ?───だから、終わればアンタの自由にしな。それまでは私が、学校の方はなんとかするから」
力強くそう言い残し、メイク室へと消えて行った。
誉は遥夏が言った言葉をゆっくりと咀嚼すると、ふっと肩の力が抜けていった。
少しだけ楽になった気がする。ずっともやもやと胸の中でわだかまっていたことが、外に吐き出したことで軽くなったようだ。
不思議である。常日頃ことあるごとに嫌だ嫌だと思っていたこの仕事が、遥夏に思っていることすべて話しただけで、僅かながらも前向きになれた。
吐き出せばよかったのか、とようやく気付いた。ただ心の中で嫌だと訴えても、誰にも伝わらないのなんて当たり前だ。上手く言葉が選べなくても、考えていることを言わなければ伝わらない。そんな単純なことにも気が付かなかったのは、家族だから、姉弟だからと胡座をかいていたのだ。
途端に過去の自分が腹立たしくなった。あのときちゃんと周りに考えを伝えていれば、今こんな状況にならなかったはずだ。根源はそこにある。
たられば想像をしてもどうにもならないのは学習した。
(とりあえず)
この仕事が終われば自由になれる。学校への対応も一人で抱え込まなくていい、そう思えば乗り越えられそうな気がした。少なくとも遥夏の援護があるのだ。これ以上の味方はそうそういない。
思い返せば、昔から誉が本気で困っていたり辛い目に合っていると、いつも一番に駆けつけるのは遥夏だった。
誉がまだ小学生の低学年だったころ、同じクラスの男子から謂れのない暴言を吐かれたことがある。内容こそ忘れてしまったが、当時は体も小さく内向的だった誉ははね除ける術をもちあわせておらず、また逃げることもできなかった。ただじっと嵐が過ぎ去るのを待っているだけだった。
それをたまたま見かけた遥夏が何やら怒って追い払ってくれたのは一番古い記憶だ。
誉に対して一番の壁でもある姉は、同時に頼もしいヒーローでもあったと思い出す。
普段は誉のことを体よく使う遥夏だが、いざ弟が窮地に立てば庇うように矢面に立つ。きっと学校のことも誉の気持ちを汲み取って、何らかの手を打ってくれるにちがいないだろう。
この年齢になっても自分で自分のことを解決できないのは情けないと思うが、弟という立場に甘えられるなら甘えておこうと打算が働くのも正直な気持ちだ。
きっと自分は狡い人間なのだろう。
誉は無理やり思考を打ち切るように頭を振ると、立ち上がり、何も考えず遥夏にまかせればいいと思い直した。
些か軽くなった足取りでビルの階段を降りると、辺りはすっかり暗くなっていた。飲食店やコンビニ、様々な店の灯りが街灯がわりに明るく路を照らしている。
ひんやりとした空気に誉は身をすくませ、いつものように立ち並ぶ店を眺めながら家路へ急いでいると、ビルの一階のテナントとして入っている飲食店の扉が勢いよく開いた。まだ誉のだいぶ前方だったためぶつかる事はなかったが、驚いて一瞬立ち止まる。すぐに歩き出そうとして誉は凍りついた。
何故こんなところに。
そんな言葉を思い浮かべたら、扉から出てきた人物に思いきり顔を顰められた。店の外観からは何を専門にした店かは分からないが、白のシャツを肘まで捲って黒のタブリエに黒のパンツの出で立ちは、さながらギャルソンのようだ。長身でスタイルも良く、見た目だけなら誉などよりよほどモデルのような姿なのに──誉は女装モデルだが──、醸し出す雰囲気が接客業には似つかわしくないほど尖っている。
誉だとて会いたくて会ったわけではない。偶然だ。たまたま運悪く鉢合わせてしまっただけである。出来ることなら顔など合わせたくはなかった。久住となど。
そんな心情が表情にだだ漏れていた誉をじっと見つめ、久住はこれ見よがしに『はあ』と大きく息を吐いた。
「ちょっと来い」
誉の返事を待たず、久住は言い捨てるとさっさと店の中に入ってしまう。
呆気にとられ立ち尽くしていると、久住は入口のガラス戸から顔だけ出して顎をしゃくった。中へ入れと促しているらしい。誉はわけも分からず久住の後を追うように、慌てて店の中へ駆け込んだ。
暗い茶色の板張りの床、同系色の壁、暖色の照明。総じて落ち着いた雰囲気なのに、店内中央に位置するアイランド型の調理場は、スポットライトを当てたように明るかった。
調理場を奥に引っ込めるのではなく、前面に出すスタイルは今や珍しくもないが、まだ高校生の誉が気軽に入れる店ではないということはすぐさま理解できた。
店の奥側の壁にずらりと並ぶ和洋の酒瓶。調理場からの訝しむような視線。客の年齢層の高さ。おまけに店員──久住啓太──の眼光の鋭さがとどめを刺している。
久住の方から招き入れておいて睨むとは何事だろうかと、誉は理不尽さに目眩を覚えた。
制服で入店してしまった場違いさと久住の威圧感に居た堪れず、入って来た扉へと視線を泳がせる。
「出よう…」
万がいち補導をされたらたまったものではない。ただでさえ特別室でペナルティを受けているというのに、さらに問題を起こせば停学か謹慎か、両親に否が応でも今回の処分が明るみになってしまう。放任主義の峰石家でも見過ごすことのできない問題だ。それに放任ではあっても無責任なことをしない両親だから、心を痛めてしまうのではと思うと誉自身が嫌だった。
一緒に店に入ったはずの久住が調理場にいるのをさいわいに、そっと店を出ようと扉に右手を掛けた。
「お客様、お掛けになってお待ちいただけますか?」
いつの間に戻ってきたのか、背後から誉の掌ごと強く握り、久住は耳元で低く落ち着いた声で尋ねてきた。驚きのあまり叫びそうになり、寸でのところで堪える。疑問系なのに拒否できない、ただならぬ精神的圧力を感じて恐る恐る振り返えると、丁寧な接客口調とは裏腹に、久住は不機嫌な顔で見下ろしていた。顔の近さに心臓が早鐘を打ち始める。
昔、遥夏の元カレに迫られて以来、人と必要以上に距離をつめられるのが苦手になったのだ。そんな自分を悟られまいと意味のない愛想笑いを浮かべる。
誉はゆっくり扉に向き直り、深呼吸して掛けた手を外した。
「こちらへどうぞ」
久住は何事もなかったかのように誉から離れて元の席へ案内すると、四人掛けのテーブル席の一脚を引き、目線で座れと促した。諦めて誉が椅子に腰掛ける途中、久住は腰を折り顔を近づけ小声で囁く。
「何度も逃げんな。とって食いやしねーよ」
誉は中腰のまま固まり、瞬間的にカッと顔に血液がが集まるのが分かった。幸か不幸かその顔を見られることなく久住はすぐに席を離れ、何一つ取り乱すことなく仕事に戻って行った。誉はカクカクとぎこちない動きで着席し、ひとまず顔の火照りを落ち着けようと両手で顔を覆う。
自分でも理解し難い羞恥心が襲ってくる。『何度も逃げんな』は、おそらく初めて言葉を交わしたあの日のことを指しているのだろう。しかしなぜだか、後に続く『とって食いやしねーよ』という言葉に異常に反応してしまった。まるでいかがわしいことでもされるような錯覚に陥ってしまったのだ。
耳元で囁かれた声は妙に艶があり、変に意識してしまった。男が男に感じる感覚ではないとは思うものの、体は言うことを聞かない。
他にもっと言いようがないのかと、久住に対して赤い顔で自分勝手に腹を立てる。
体が触れ合いそうな近い距離で逃げ道を断たれ、プレッシャーに押し潰されまいと平静を装ってみても、頭の中はパニックだった。
勝手に焦り、勝手に羞恥に襲われ、勝手に腹を立てている自分は、なんて滑稽で情けない人間なのだろう。同性に襲われた経験が仇となって、こんなおかしな意味に取ってしまうほど、他人に慣れていなかったのだ。
気落ちしていくとともに、恥ずかしさで染めていた頬から熱が引いていく。
人との関わりが少ないから、距離感も、意味のないことでも、大げさに捉えてしまうだけなのだろう。きっと。
冷静に自己分析して、いまだ久住の感触の残る右手をじっと見つめていた。
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結局久住とはあの後ほとんど会話をすることもなく帰った。店に客が立て続けに入ってきて、ウェイターの仕事でそれどころではなくなったのだ。
誉は混んできたことを幸いに、頃合いを見計らってこっそり帰ろうと身支度をした。四人掛けのテーブル席に一人で座っているのはどうにも気が引けてしまう。ましてやアルコールの並ぶ店内で制服でいるのも居心地が悪い。
久住の様子を見ようと振り向くと、別のウェイターが誉のテーブルに「お待たせしました」と料理を持ってきた。
驚きつつも静かに置かれた皿の中身を見れば、ふんわりと湯気を立てたビーフシチューだった。疑問を貼付けた顔のままウェイターに振り返る。
「あの、注文してませんが…」
「久住からこちらのテーブルへと頼まれましたので、お召し上がりください」
男の誉でも見惚れるような微笑みで勧めると、お会計も気にしないで、と内緒話でもするように口元に人差し指を立てた。ウェイターは軽く頭を下げて踵を返すと、何事もなかったように他のテーブル席の注文を取り始めた。
誉はしばらく目の前に置かれたビーフシチューを眺めていたが、立ち上る湯気とデミグラスソースの濃厚なにおいに思わず生唾をごくりと飲み込んだ。今日はモデル事務所に立ち寄ったおかげで夕飯はまだだ。料理を振る舞われた理由が気になりつつも食欲には勝てず、カトラリーの入ったケースからスプーンを取り出し、心の中でいただきますと手を合わせた。
口の中で広がるデミグラスソースの旨味に玉ねぎの甘みとコク、ほろりと煮崩れる牛肉の柔らかさに誉は打ち震え、静かに感動する。
母親の作る家庭的なビーフシチューしか知らなかった誉にとって、こんなに美味しいものが世の中にはあるのかと、驚きで思わず久住を探した。いち早くこの感動を伝え、わがままにも共有してほしいと思ったのだ。
忙しなくホールを行き来する彼を見つけると目が合い、声に出さず「うまい」と言えば、久住は口を片端だけ持ち上げ笑った。ほんの少し、誉だけしか気付かないくらいの笑みだったけれど、心臓がキュッとしまる。痛いような苦しいような、でも嬉しいような。
不思議な感覚を抱きながらも、誉は空腹も相まって、皿を空にするまで休むことなくスプーンを口に運んだ。
久住に対して素直に格好良いと思った。給仕する立ち振る舞いも、フロアに目を配りながら歩く後ろ姿も、自分だけに見せた、あの一瞬の笑顔も。
あのままずっと笑顔で見つめられたら、確実に赤面していたに違いない。そのくらい格好良いと思ったのだ。だが杞憂だ。久住はそんなことをするはずがない。特別室で繋がっているだけの人間に。
食事を終えると久住の姿は見えなくなっていた。このまま帰ってしまってもいいのだろうかと辺りを見回す。レジに先ほど料理を運んでくれたウェイターの彼がいたので、これ幸いとばかりに久住はいないのか尋ねてみた。
「申し訳ありません。彼はいま所用で出てまして」
「そうですか…」
御馳走されたお礼と、理由を後で尋ねるつもりだったのでがっくりと肩を落とす。別に気落ちするほどのことではないのに、もう少し久住と話してみたいと思ったのだ。明日ではなく今、この高揚感と勢いで。
あからさまに気落ちした誉を見て、ウェイターは小さく笑う。
「久住とは、お友達ですか?」
「えっ、あ…いえ、その…何なんですかね…?」
質問にどう答えていいのか分からず、しどろもどろに言葉を濁す。誉と久住の関係は特別室で繋がっているだけで、知人というには濃い出会い方をしたものの、友人というにはかかわりがなさすぎる。学校では挨拶を交わすことはおろか、目を合わせることさえないのだ。その関係を説明するには、誉の経験則に基づいても答えは出てこなかった。
ふと我に返ると、ウェイターは誉の困りっぷりをきょとんととした顔で見ていた。
「あっ!えっと、友達ではないですけど、一応(期間限定の)クラスメート、です…」
誉は変な空気にしてしまったと、慌てて前言をフォローするよう付け足した。尻蕾みな話し方になったのは自信のなさのあらわれだ。 そんな誉を余すところなく見ていた目の前のウェイターは、拳を口元に当てると遠慮なく吹き出した。何がツボに入ったのか肩を震わせ笑っている。
「ごめん。気を悪くしないで。さっき彼にも同じこと聞いたんだけど、同じようなこと言ってたから」
眦に溜まる涙を拭いながら、彼は落ち着こうと大きく息を吐いた。
「御崎です」
「え?」
唐突に、御崎と名乗ったウェイターは、自分を指差す。
「久住…啓太とは従兄弟なんだ。あいつ、見た目いかついから、みんな遠巻きにしてるだろ。あまり友達いないんじゃないかな? だから店に呼ぶような子がいるのに驚いて」
御崎は接客用の敬語からフランクな言葉遣いに変え、ふっと口唇を小さく笑みの形にした。
誉はどうリアクションしていいか分からず、片頬を引きつらせ乾いた笑いをこぼした。
久住と誉は友達ではない。だから御崎の言う、自分が働いてる店に呼ぶ=友達、という図式は当てはまらない。そもそも誉自身、なぜこんなところに連れて来られ、食事を振る舞われたたのか皆目見当もつかなかった。何か意図があるのだろうけど、生憎昨日今日知り合ったような関係だ。まったくもって意味不明である。
難しい顔をして黙り込んだ誉の眉間を、御崎は人差し指でぐりぐり円を描きながらほぐす。誉は驚いて御崎を見上げると、
「可愛い顔が台無しだよ」
本気か冗談か分からない言葉を吐きながらそっと指を離した。
誉はその言葉にぴくりと反応し、ちいさな声で反論する。
「男に可愛いはない、です」
「それもそうだね」
初対面なのに生意気だったろうか、と気に病む間もなく御崎はあっけらかんと答えた。
「じゃあ、きれいな顔に訂正ね」
無駄に良い笑顔でそう付け足すと、よしよしと誉の頭を撫でた。完全にからかわれているなと悟り、がっくりと肩を落とした。
自分の方がよほど整った顔をしているだろ、と口の中でぼやいていると、背後のテーブル席からわらわらと客が立ち上がった。会計しに誉たちの方へとやって来る。これ幸いにと誉は切り出した。
「あの、シチュー美味しかったです。久住にごちそうさまでしたと伝えてください」
「うん。伝えとくよ。またおいで」
御崎はひらひらと誉に手を振ると、やって来た客の伝票を受け取り、会計をし始めた。誉は見ていないだろうと思いつつも律儀に御崎に向かって頭を下げた。
そっとガラス戸を抜けて店から出ると、街はスーツ姿の社会人や暇を持て余した大学生たちが行き交っていた。誉は店の前の通りを右左と振り返り、溜め息を吐く。
(久住にちゃんとお礼が言いたかったな)
せめて帰り道にでも出くわしたら直接言えるのに、そう思うものの、結局出会うことは叶わなかった。
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