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***
次に目を覚ましたときには昼も過ぎて午後の授業が大方終わっている頃だった。保健医が気を利かせて、気持ちよく眠る誉を無理には起こさなかったのだ。昼に一度声をかけられた記憶がうっすらとあるが、それよりも強い睡魔に抗えなかった。
誉はそろそろとベッドから抜け出すと、ちょうど六時間目終了のチャイムが鳴った。半日保健室で過ごしたのは、特別室的にはセーフなのだろうかと考える。
(一応出席してるし、早退したわけでもないし、期間延長はないよ、な? 大丈夫だよな? 大丈夫なはず)
そう自分に言い聞かせ、不安を押しとどめた。
授業も終わってしまったので教室に戻ろうと挨拶をすると、保健医は書類整理をしていた手を止めてやって来る。顔色と熱などのチェックと簡単な問診をし、誉の肩をぽんぽんと叩いた。
「寝不足と疲労が溜まってたのかな。勉強も大変だけどほどほどにね」
おだやかな微笑みで労られ、誉は微笑み返す頬が引きつる。
「はい。気を付けます…」
そう言って保健室を後にした。
すかさず、いつ寝不足になるほど勉強したんだと半目になりながら己に突っ込む。
寝不足になる心当たりはある。
久住といる時間が増えた分だけ思い返す出来事が増えた。なんてことはない日常のひとこまひとこまを切り取って、自分なりに頭の中で再編集する。ちょっと嬉しかったことをリピート再生して、たまに脚色したりもする。そのうち切り取ったひとこまから、映画のように一大ストーリーが完成されたりもした。
(我ながら、どーしようもないな)
そんなソロプレイのごとく妄想しながら布団に入るものだから、なかなか寝付けやしなかった。
目が冴えて本当にどうしようもなくなったとき、久住を想いながら本物のソロプレイに興じたこともあった。自分の昂ったものから精を吐き出した途端、さらに罪悪感に打ちひしがれて明け方近くまで眠れないこともあった。
久住と一緒にいられる時間をカウントダウンすると焦りばかりが先立って、四六時中彼を想うことを止められなくなる。気が付けば目で追い、想えば想うほど心は埋め尽くされて眠れなくなる。眠れなくなれば強制的に身体に疲労を与えようと、久住を想いながら昂る下腹に手を伸ばす。また翌日も繰り返す。
そうした悪循環から今回の寝不足で倒れるということに繋がったのだ。迷惑も心配もかけたことは反省してもしきれない。
(それに、あんまり久住と顔見て話せなくなったし…)
久住には自業自得の罪悪感から些か感じ悪い態度をとってしまい、先ほどの気遣いが心にしみた。
特別優しくされたわけではない。ただ、自分との些細な会話を覚えていてくれたことが特別なのだ。久住にしてみれば軽い気持ちでしたことだとしても、誉にはそれが胸が苦しくなるほど特別な出来事だった。
だから、大切にしなければと思う。
この気持ちは自分だけが大事にしていけばいい。
久住にも、誰にも知られないようにひっそりと抱えていこうと、改めて気持ちを固める。そうしなければ、またあの頃のように大切なものがなくなってしまう。
それだけはだめだ、と誉はきゅっと唇を引き結んだ。
「峰石!」
気を引き締めたところで廊下の後方から声が飛んできて、誉はびくりと肩を竦ませた。そろそろと振り返ると、加藤が屈託ない笑顔で駆け寄って来るところだった。
「やっと会えた!元気だったか?なかなか会えないから心配してたんだ」
「あー…、うん。でもあと一週間くらいだから…」
言いながら、久住と居られる時間の短さに気持ちが沈んでいく。それを見て加藤はどう思ったのかうんうんと頷き誉の頭を撫でた。
「あんな厳ついのが居たら気も滅入るよな。悪いヤツじゃねーんだけど分かり辛いし。あ、しかもこの間なんてアイツ、峰石に会わせてくれなかったんだけど」
門番かっつーの、そう言うと加藤は苦笑いしたのだが、誉にとっては寝耳に水な話に首を捻る。
「ごめん、それどういうこと?」
「なんか分かんねーけど〝用のないヤツは来るな〟の一点張りで。アドレス知ってるならそれで連絡取れとか言われてさ。でも俺、峰石のアドレス知らねーからどーしよーもねぇじゃん?」
誉が尋ねると、加藤はズボンのポケットに手を突っ込み少し不貞腐れ気味に答えた。
そうだった、と思い出す。
小学生のときの一件以来、不必要に他人とかかわるまいとしてきたため、よほど必要にかられない限りのらりくらりとアドレス交換することを避けてきたのだ。
加藤も初めは社交辞令的に誉に訊いてきたことがある。誉が話を躱すとあっさり身を引き、以降アドレス交換の話は出なかった。だからすっかり忘れていた。
「てことで……そろそろアドレス交換しませんか?」
加藤はポケットに突っ込んでいた手を出して、にやりと笑ってスマートフォンを掲げて見せた。
その仕草に誉はふっと力が抜けて、思わず笑みが溢れた。
たしか以前、誉は「アドレスを新しいものにしようと思って」と曖昧な断り方をしたはずだ。
「そうだね…。遅くなってごめん。やっと新しいアドレスができたんだ」
「なっが!時間かかりすぎだろー。俺聞いたの春だぜ?もう冬だっつの」
「あー、季節を跨いだね」
「…ちょっと文学的な言い回しして、うやむやにしようとしてるだろ」
「文学的…」
「あ、バカにしてる。俺が現代文苦手だからって」
「じゃあ古文得意なの?」
「もっと無理」
二人で顔を見合わせ同時に吹き出した。久しぶりに何も考えず笑えたことがとても嬉しい。そしてとてもリラックスしている。
「そうだ。女子が寂しがってたぞー。〝峰石くん居ないと華がなーい〟とか言って」
加藤はことさら強調して女子の口まねをする。
「華なんかないし。地味だし。女子とまともに話したこともないのに」
「はいはい。おまえは隠してるつもりだろうけど見る人が見れば分かるんだよ」
加藤はそう言うや否や、誉の眼鏡を自分の胸ポケットに引っかけ前髪を持ち上げた。
「あっ! 何するんだよ!」
「ほら、鏡見てみろ。女子に負けてねーぞー」
「もう…やめろって!」
加藤は誉の抵抗もなんのそのの馬鹿力で、脇に抱えて引きずりながらすぐ傍の壁にある姿見まで連れて行く。
「抵抗しろ抵抗しろ。剣道部の体力なめんなー」
完全に子供扱いされて悔しいが、怨むべきは己の体力の無さだった。
あっという間に姿見の前に立たされて、誉は膨れっ面になる。
「ははっ。峰石の怒った顔はじめて見たわ」
鏡越しに加藤に不満をぶつけようと目線を合わせると、思いがけず真面目な顔をしていて口をつぐむ。
「周りに気ぃ遣わず、もっと素を出してこうぜ。絶対おまえなら大丈夫だから」
優しい言葉とは裏腹に、加藤は少し乱暴に誉の髪をかき混ぜる。瞬間、心までかき混ぜられたようにさざ波が立った。喜怒哀楽のどれだか分からない。加藤の励ましに素直に感謝する喜びも、よく知りもしないのに勝手なことを言うなという苛立ちも、今まで耐えてきた孤独も、色んな感情が混ざりあって滲んでいく。もしかしたら明確な感情ではないのかもしれない。
鏡越しの加藤の表情は穏やかなのに力強くて、誉はただ黙って頷くのが精一杯だった。
何かを言葉にしたら洪水のように気持ちが溢れ出しそうだ。
「じゃあ俺、そろそろ部活行くわ。なんかおっかねーの来たし」
黙って頷くだけの誉に奪っていた眼鏡を掛け直すと、加藤は含み笑いをしながら廊下の先を見る。つられて誉も顔を上げれば、機嫌の悪い顔で歩いてくる久住が見えた。
加藤に急かされスマホにお互いのアドレスを登録すれば、ちょうど久住が誉の傍らに辿り着いた。
「用が済んだなら、戻るぞ」
誉の腕を掴み、久住は強引に特別室へ連行する。加藤が「二人とも仲良くしろよー」と場違いに呑気な声をかけ、誉が驚いて振り向けば、久住が心底嫌そうな顔をしてチッと舌打ちして立ち止まった。
久住を怒らせた…と焦り、反射的に何か言わなければと口を開く。
「ご、ごめん!加藤に悪気はないと思うから、怒らないでやって!」
こんなところで乱闘になってはまずいと、必死に宥めようと両腕で久住にしがみついた。「…とりあえず手を離せ」
溜め息まじりにそう言われ、誉は慌てて久住から離れた。
久住に暴力沙汰を起こさせるわけにはいけないと思わずしがみついたが、男にそんなことされるのは不快だったかもしれない。しかも端から見れば誉が一方的に抱きついたようにしか見えない格好だ。幸いここには加藤しか居らずそんな誤解を受けることはないけれど、加藤自身が久住を面白がっている節がある。
誉は羞恥で頬がじわじわ熱を持つのが分かった。
ちらりと伺えば、案の定、加藤はにやにや事の成り行きを楽しんでいるようだった。そのことに久住も気付き、何か口を開きかけたので誉は畳み掛けるように言葉を連ねた。
「加藤、ちょっと俺と久住に接点あるってことがすごく珍しいみたいで、おちょくってるわけじゃなくて、その、心配されてるというか、俺、あんまり友だちいないし…えっと、何というか親心?的な!たぶん!それに近い感じだと思う!分かんないけど…」
誉がべらべら捲し立てていると「もういいか」と言うや否や、久住は誉を抱え上げ歩き出した。
「ちょっ…と!なに?!なんで?!」
「もう黙ってろ」
「黙ってられるわけないだろ!お、降ろせよ!」
「耳元で喚くな」
聞く耳持たないといった態度で歩調を緩めず歩く久住に、どうしたらいいんだと泣きそうになる。頬は益々赤くなり、目は涙目で、助けを求め加藤を振り返れば腹を抱えて笑っていた。
誉はなんて友だち甲斐のないやつだと憤慨したものの、相反してそんな風に思えたことが心を温かくした。
***
「恥ずかしいから、そろそろ降ろして…」
そう言いつつも、恥ずかしいのを通り越して久住が何を考えて誉を抱えて歩いているのか分からず、顔を覆って得体の知れない恐ろしさにわなないていた。
(怒られる。絶対何か怒ってる。どうしよう。怖い。久住が離れて行ったら──…)
加藤と別れて以来久住は一言も話さなくなった。てっきり教室へ戻るのかと思ったら、全く違うところへ足が向かっている。道中ちらほら生徒に出くわし、好奇の目で見られるたり揶揄が飛んできても久住は眼中にないようで、ひたすら無言で歩き続けていた。
ようやく目的地に到着したのか名前のないプレートを掲げてある教室の扉を開いた。室内はカーテンも閉められ薄暗く、おまけにいつから清掃をしていないのか埃っぽかった。
机と椅子が積み上げられ、広々とはしているものの、教室として機能していないことはありありと感じた。
「降ろすぞ」
興味深く室内を見回していると、久住にそっと降ろされる。
「ここ…空き教室だろ。勝手に入っていいのか?」
恐る恐る尋ねれば、久住は扉を閉めて振り返った。そしてその背を扉に預け腕組みすると口の片端を上げた。
「だめだろうな」
「だめだろうなって…」
困惑しながらそう呟くと、久住はズボンのポケットからスマホを取り出し操作し始める。すぐさま裏返して見えるように掲げ、誉をまっすぐ見据えた。
「今から三分やる。その間に隠してること全部言え」
「え…? 隠してること?」
「はい、スタート」
「えええ! ちょっと待って! 意味分からないんだけど! 何? どういうこと? 何言えばいいわけ?!」
「十秒経過ー」
「もーっ! なんだよそれ! 言わなかったらどうなるの、俺?!」
「酷い目に、あう?」
「なんで疑問系っ?!」
どうしてこうなった、と頭を抱えながら蹲る。久住が怒っている理由がそこにあるのだろうかと必死で考えてみるが、答えが出ない。そもそも久住はいつから怒っているのか。いつから不機嫌になったのか。隠し事とは一体何を指しているのか。
誉は最近の出来事から順に思い返していき、一つだけ引っ掛かりを覚えた。
「もしかして…最近俺の態度が変だったから、そのこと?」
「…俺は、隠してることを言えと言ったよな」
久住は無表情のまま凭れていた扉から背を離し、一歩、また一歩と誉との距離を詰めてくる。
どうやら地雷を掘り当ててしまったらしい。肉食動物の中でも猛獣類のような獰猛さが久住に垣間見えて、草食動物だと自負している誉はその場で竦み上がった。
久住との距離が近づくにつれ、精神的圧迫感で押し潰されそうになる。
「それは…」
苦し紛れに口を開いたものの、言えるわけがなかった。久住が好きで、寝ても覚めても久住のことを考えて、挙げ句にオカズにしているなどと。
いくら脅されようが何されようが、言ったら久住との蜘蛛の糸ほどの繋がりだって切れてしまう。それだけは絶対に嫌だった。
一度床に視線を落とし、誉は意を決して顔を上げると、久住も同じようにしゃがみ込んでいた。顔の近さに驚いて仰け反れば、誉はバランスを崩して床に尻もちをつく。
「なにやってんだ」
久住は誉に手を貸しながら引き起こせば、ちらりとスマホに目を向けた。
「もう一分切ってんぞ」
「え、待って。ちょっと頭の中整理するから。ほんと待って! すぐだし!」
下手な時間稼ぎをする誉自身が一番信じられない。こんなセリフでは子供すら騙されないだろう。
どうしようどうしようとそれだけが頭の中をぐるぐる回る。そして久住のスマホから独特な電子音が流れ、時間切れになったことを悟った。久住はアラーム音を止めるのに一瞬誉から目を離した。その隙を待っていたわけではない。だけど誉は反射的に立ち上がり駆け出した。
「!」
ぶつかるように扉を開けて抜け出ようとする寸でのところで、背後から力強い腕に身体を巻き取られた。そのまま引き倒すように教室に戻され、誉の上には久住が覆い被さっていた。逃げる最中、後ろを振り返る余裕などなかったにもかかわらず、確実に後ろに気配を感じていた。
誉は乱れる息を整えながら、息も乱さないで上から見下ろす男から目を逸らさなかった。
「時間切れだ」
「……」
抑揚のない無慈悲な言葉はどんな暴力よりも誉を打ちのめす、地獄の宣告だった。
次に目を覚ましたときには昼も過ぎて午後の授業が大方終わっている頃だった。保健医が気を利かせて、気持ちよく眠る誉を無理には起こさなかったのだ。昼に一度声をかけられた記憶がうっすらとあるが、それよりも強い睡魔に抗えなかった。
誉はそろそろとベッドから抜け出すと、ちょうど六時間目終了のチャイムが鳴った。半日保健室で過ごしたのは、特別室的にはセーフなのだろうかと考える。
(一応出席してるし、早退したわけでもないし、期間延長はないよ、な? 大丈夫だよな? 大丈夫なはず)
そう自分に言い聞かせ、不安を押しとどめた。
授業も終わってしまったので教室に戻ろうと挨拶をすると、保健医は書類整理をしていた手を止めてやって来る。顔色と熱などのチェックと簡単な問診をし、誉の肩をぽんぽんと叩いた。
「寝不足と疲労が溜まってたのかな。勉強も大変だけどほどほどにね」
おだやかな微笑みで労られ、誉は微笑み返す頬が引きつる。
「はい。気を付けます…」
そう言って保健室を後にした。
すかさず、いつ寝不足になるほど勉強したんだと半目になりながら己に突っ込む。
寝不足になる心当たりはある。
久住といる時間が増えた分だけ思い返す出来事が増えた。なんてことはない日常のひとこまひとこまを切り取って、自分なりに頭の中で再編集する。ちょっと嬉しかったことをリピート再生して、たまに脚色したりもする。そのうち切り取ったひとこまから、映画のように一大ストーリーが完成されたりもした。
(我ながら、どーしようもないな)
そんなソロプレイのごとく妄想しながら布団に入るものだから、なかなか寝付けやしなかった。
目が冴えて本当にどうしようもなくなったとき、久住を想いながら本物のソロプレイに興じたこともあった。自分の昂ったものから精を吐き出した途端、さらに罪悪感に打ちひしがれて明け方近くまで眠れないこともあった。
久住と一緒にいられる時間をカウントダウンすると焦りばかりが先立って、四六時中彼を想うことを止められなくなる。気が付けば目で追い、想えば想うほど心は埋め尽くされて眠れなくなる。眠れなくなれば強制的に身体に疲労を与えようと、久住を想いながら昂る下腹に手を伸ばす。また翌日も繰り返す。
そうした悪循環から今回の寝不足で倒れるということに繋がったのだ。迷惑も心配もかけたことは反省してもしきれない。
(それに、あんまり久住と顔見て話せなくなったし…)
久住には自業自得の罪悪感から些か感じ悪い態度をとってしまい、先ほどの気遣いが心にしみた。
特別優しくされたわけではない。ただ、自分との些細な会話を覚えていてくれたことが特別なのだ。久住にしてみれば軽い気持ちでしたことだとしても、誉にはそれが胸が苦しくなるほど特別な出来事だった。
だから、大切にしなければと思う。
この気持ちは自分だけが大事にしていけばいい。
久住にも、誰にも知られないようにひっそりと抱えていこうと、改めて気持ちを固める。そうしなければ、またあの頃のように大切なものがなくなってしまう。
それだけはだめだ、と誉はきゅっと唇を引き結んだ。
「峰石!」
気を引き締めたところで廊下の後方から声が飛んできて、誉はびくりと肩を竦ませた。そろそろと振り返ると、加藤が屈託ない笑顔で駆け寄って来るところだった。
「やっと会えた!元気だったか?なかなか会えないから心配してたんだ」
「あー…、うん。でもあと一週間くらいだから…」
言いながら、久住と居られる時間の短さに気持ちが沈んでいく。それを見て加藤はどう思ったのかうんうんと頷き誉の頭を撫でた。
「あんな厳ついのが居たら気も滅入るよな。悪いヤツじゃねーんだけど分かり辛いし。あ、しかもこの間なんてアイツ、峰石に会わせてくれなかったんだけど」
門番かっつーの、そう言うと加藤は苦笑いしたのだが、誉にとっては寝耳に水な話に首を捻る。
「ごめん、それどういうこと?」
「なんか分かんねーけど〝用のないヤツは来るな〟の一点張りで。アドレス知ってるならそれで連絡取れとか言われてさ。でも俺、峰石のアドレス知らねーからどーしよーもねぇじゃん?」
誉が尋ねると、加藤はズボンのポケットに手を突っ込み少し不貞腐れ気味に答えた。
そうだった、と思い出す。
小学生のときの一件以来、不必要に他人とかかわるまいとしてきたため、よほど必要にかられない限りのらりくらりとアドレス交換することを避けてきたのだ。
加藤も初めは社交辞令的に誉に訊いてきたことがある。誉が話を躱すとあっさり身を引き、以降アドレス交換の話は出なかった。だからすっかり忘れていた。
「てことで……そろそろアドレス交換しませんか?」
加藤はポケットに突っ込んでいた手を出して、にやりと笑ってスマートフォンを掲げて見せた。
その仕草に誉はふっと力が抜けて、思わず笑みが溢れた。
たしか以前、誉は「アドレスを新しいものにしようと思って」と曖昧な断り方をしたはずだ。
「そうだね…。遅くなってごめん。やっと新しいアドレスができたんだ」
「なっが!時間かかりすぎだろー。俺聞いたの春だぜ?もう冬だっつの」
「あー、季節を跨いだね」
「…ちょっと文学的な言い回しして、うやむやにしようとしてるだろ」
「文学的…」
「あ、バカにしてる。俺が現代文苦手だからって」
「じゃあ古文得意なの?」
「もっと無理」
二人で顔を見合わせ同時に吹き出した。久しぶりに何も考えず笑えたことがとても嬉しい。そしてとてもリラックスしている。
「そうだ。女子が寂しがってたぞー。〝峰石くん居ないと華がなーい〟とか言って」
加藤はことさら強調して女子の口まねをする。
「華なんかないし。地味だし。女子とまともに話したこともないのに」
「はいはい。おまえは隠してるつもりだろうけど見る人が見れば分かるんだよ」
加藤はそう言うや否や、誉の眼鏡を自分の胸ポケットに引っかけ前髪を持ち上げた。
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加藤は誉の抵抗もなんのそのの馬鹿力で、脇に抱えて引きずりながらすぐ傍の壁にある姿見まで連れて行く。
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鏡越しの加藤の表情は穏やかなのに力強くて、誉はただ黙って頷くのが精一杯だった。
何かを言葉にしたら洪水のように気持ちが溢れ出しそうだ。
「じゃあ俺、そろそろ部活行くわ。なんかおっかねーの来たし」
黙って頷くだけの誉に奪っていた眼鏡を掛け直すと、加藤は含み笑いをしながら廊下の先を見る。つられて誉も顔を上げれば、機嫌の悪い顔で歩いてくる久住が見えた。
加藤に急かされスマホにお互いのアドレスを登録すれば、ちょうど久住が誉の傍らに辿り着いた。
「用が済んだなら、戻るぞ」
誉の腕を掴み、久住は強引に特別室へ連行する。加藤が「二人とも仲良くしろよー」と場違いに呑気な声をかけ、誉が驚いて振り向けば、久住が心底嫌そうな顔をしてチッと舌打ちして立ち止まった。
久住を怒らせた…と焦り、反射的に何か言わなければと口を開く。
「ご、ごめん!加藤に悪気はないと思うから、怒らないでやって!」
こんなところで乱闘になってはまずいと、必死に宥めようと両腕で久住にしがみついた。「…とりあえず手を離せ」
溜め息まじりにそう言われ、誉は慌てて久住から離れた。
久住に暴力沙汰を起こさせるわけにはいけないと思わずしがみついたが、男にそんなことされるのは不快だったかもしれない。しかも端から見れば誉が一方的に抱きついたようにしか見えない格好だ。幸いここには加藤しか居らずそんな誤解を受けることはないけれど、加藤自身が久住を面白がっている節がある。
誉は羞恥で頬がじわじわ熱を持つのが分かった。
ちらりと伺えば、案の定、加藤はにやにや事の成り行きを楽しんでいるようだった。そのことに久住も気付き、何か口を開きかけたので誉は畳み掛けるように言葉を連ねた。
「加藤、ちょっと俺と久住に接点あるってことがすごく珍しいみたいで、おちょくってるわけじゃなくて、その、心配されてるというか、俺、あんまり友だちいないし…えっと、何というか親心?的な!たぶん!それに近い感じだと思う!分かんないけど…」
誉がべらべら捲し立てていると「もういいか」と言うや否や、久住は誉を抱え上げ歩き出した。
「ちょっ…と!なに?!なんで?!」
「もう黙ってろ」
「黙ってられるわけないだろ!お、降ろせよ!」
「耳元で喚くな」
聞く耳持たないといった態度で歩調を緩めず歩く久住に、どうしたらいいんだと泣きそうになる。頬は益々赤くなり、目は涙目で、助けを求め加藤を振り返れば腹を抱えて笑っていた。
誉はなんて友だち甲斐のないやつだと憤慨したものの、相反してそんな風に思えたことが心を温かくした。
***
「恥ずかしいから、そろそろ降ろして…」
そう言いつつも、恥ずかしいのを通り越して久住が何を考えて誉を抱えて歩いているのか分からず、顔を覆って得体の知れない恐ろしさにわなないていた。
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加藤と別れて以来久住は一言も話さなくなった。てっきり教室へ戻るのかと思ったら、全く違うところへ足が向かっている。道中ちらほら生徒に出くわし、好奇の目で見られるたり揶揄が飛んできても久住は眼中にないようで、ひたすら無言で歩き続けていた。
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机と椅子が積み上げられ、広々とはしているものの、教室として機能していないことはありありと感じた。
「降ろすぞ」
興味深く室内を見回していると、久住にそっと降ろされる。
「ここ…空き教室だろ。勝手に入っていいのか?」
恐る恐る尋ねれば、久住は扉を閉めて振り返った。そしてその背を扉に預け腕組みすると口の片端を上げた。
「だめだろうな」
「だめだろうなって…」
困惑しながらそう呟くと、久住はズボンのポケットからスマホを取り出し操作し始める。すぐさま裏返して見えるように掲げ、誉をまっすぐ見据えた。
「今から三分やる。その間に隠してること全部言え」
「え…? 隠してること?」
「はい、スタート」
「えええ! ちょっと待って! 意味分からないんだけど! 何? どういうこと? 何言えばいいわけ?!」
「十秒経過ー」
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「酷い目に、あう?」
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「それは…」
苦し紛れに口を開いたものの、言えるわけがなかった。久住が好きで、寝ても覚めても久住のことを考えて、挙げ句にオカズにしているなどと。
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久住は誉に手を貸しながら引き起こせば、ちらりとスマホに目を向けた。
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「!」
ぶつかるように扉を開けて抜け出ようとする寸でのところで、背後から力強い腕に身体を巻き取られた。そのまま引き倒すように教室に戻され、誉の上には久住が覆い被さっていた。逃げる最中、後ろを振り返る余裕などなかったにもかかわらず、確実に後ろに気配を感じていた。
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だけどボクには親友の彼がいた。
明るく、優しい彼がいたからこそ、ボクは学校へ行けた。
彼のことを心から信じていたけれど…。
はじまりの朝
さくら乃
BL
子どもの頃は仲が良かった幼なじみ。
ある出来事をきっかけに離れてしまう。
中学は別の学校へ、そして、高校で再会するが、あの頃の彼とはいろいろ違いすぎて……。
これから始まる恋物語の、それは、“はじまりの朝”。
✳『番外編〜はじまりの裏側で』
『はじまりの朝』はナナ目線。しかし、その裏側では他キャラもいろいろ思っているはず。そんな彼ら目線のエピソード。
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