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***
二人とも照れからか、ぎくしゃくしながら久住に家の前まで送ってもらい、また明日、と別れた。
玄関扉を開ける前にひとつ大きく息を吐いて、勢いよく開ける。
「ただいま」
「…おかえり」
「うわあああああ!」
まさか玄関の靴箱に背中を預けるように座り込んでいる遥夏が居るとは思わず、驚いて飛び退る。
「大声出さないで、うるさい」
リビングの方から母から苦情が飛ぶ。
「だって姉ちゃんがビビらすし!」
上がり框で靴を脱ぎながら母に向けて答えると、すかさず遥夏がスリッパを投げつけた。
「いてっ!」
「ちょっと私の部屋に来な」
言うだけ言うと、先に二階にある遥夏の自室へと階段を上がり始めた。誉も黙ってついて上がる。
「あんた連絡くらいしなさいよ」
遥夏の自室の扉を閉めた途端、不機嫌な声が背中にかかる。言い訳でもしようかと思い振り返れば、遥夏は青い顔でベッドに腰掛けていた。
「電源切れてるお決まりのアナウンスを、私が何十回聞いたと思ってんの?」
下から怨念の籠った目つきで睨まれ、誉は反射的に謝った。
「ごめん。気が付くのが遅かったんだ。でも家の近くだったから早く帰ろうと思って…」
「そんなことは聞いてない。あんたが、あんたに何かあったら、私は」
「大丈夫だよ」
「何が大丈夫なのよ!」
いきなり怒鳴ると、ベッドにあった枕で力一杯打たれる。
「顔面!」
抗議の声を上げたが、余計に遥夏はヒートアップして最終的には馬乗りになって打たれた。お互い攻防をし尽くして、遥夏は唐突に枕を投げて立ち上がり、ベッドでふて寝し始めた。
「姉ちゃん…」
「うるさい」
誉は小さく息を吐いた。
同じ親から血をわけた姉弟なのに、同じようにお互いのことを思っているはずなのに、いつからこんなにお互いのことが分からなくなったのだろう。それとも分かっているふりでやり過ごしていたのか。
「そんなに俺が頼りない?」
「…もう出てって」
本当に勝手だなと思う。今も昔も遥夏は女王様だ。だけど、我が侭でも勝手でも、姉弟だ。分かりたいと思う。そしてこんなこと、もう止めさせなければいけない。
「姉ちゃんが背負うものは、もうないよ」
遥夏の背中に静かに語りかける。大きいと思っていた遥夏は、今は誉と変わらない。
「いじめられてた俺は、姉ちゃんと約束したあの日に消えたから」
どんなことがあっても気丈に前を向いて、進もうとする姿は格好良かった。あんな風になれたらと、密かに憧れていた。
「何でも一人でできるかって言われると無理なこともあるけどさ、でも、友だちはいるから大丈夫」
遥夏の肩が小さく震えている。
「守らなきゃいけないのは、…大事にしないといけないのは、俺じゃない。ちゃんと顔を上げて周りを見なよ」
誉は壁に投げつけられて転がっている枕を拾った。遥夏に対する感謝や後悔などがない交ぜになって手に余る。
「そんな姿、女王様には似合わないよ」
枕を遥夏に投げると、それをぎゅっと抱き込みゆっくりと起き上がった。こちらを向いた目は赤く充血していたけど、涙のあとはなかった。きっとあの日と同じように歯を食いしばり、溢れる涙を我慢したのだろう。
「偉そうに。私に指図するなんて十年早い」
「そうかも」
顔を見合わせ、同時に吹き出した。
***
空は冬型の気圧配置を示しており、夕方からぐっと冷え込んでくるでしょう、と駅ビルの大型液晶パネルが日々同じようなことを喋っている。それを横目でちら見して、誉は横断歩道の信号待ちをする。
襟元にはしっかりマフラー、両手には手袋がはめられ、防寒対策は抜かりない。朝出掛けに、遥夏がブランケットを巻いたままトイレに入るのも見慣れた光景だ。
先日、特別室終了テストを受けた。結果は期限最終日の今日、言い渡される。無事三人とも基準点に達していたら、すぐさま本来のクラスに戻ることになっている。
長いようで短かったな、と誉が感慨に耽っていると後ろから体当たりを喰らう。
「ぅわっ!」
思わず声を上げ、転びそうになる体を踏ん張りストップをかける。が、慣性の法則には逆らえずつんのめるように前方に傾いだ。
「…っぶねえ!」
一瞬既視感(デジャヴ)かと思うほど以前と同じようなことが起こり我が目を疑ったが、間一髪で後ろから抱えるように助けられた。
「あ、りがとう…」
詰まり気味に礼を述べ、振り返ればげんなりした顔の久住が見下ろしていた。地面に降ろすと誉の身だしなみを整え、怪我はないかと確認された。いくらなんでも公衆の面前でやりすぎだろう。母親か。
(恥ずかしいんですけど…)
とは言えず、誉は頬を染め視線を逸らす。
「朝から公共の場でいちゃいちゃするの、やめてくれますぅ」
加藤はわざとシナをつけてからかう。どうやら体当たりの犯人は加藤のようだ。小学生かと呆れる。
「おまえが原因だろうが」
「ははははは」
「自分のウェイト考えろ」
「ひとをデブみたいに! ひどい!」
「聞けよ」
「聞いてますー」
久住が加藤をじろりと睨んだが全く意に介していない。鋼の心臓の持ち主のようだ。それとも馬が合うのかもしれない。久住がこんなにフラットに話しているのを見たことがない。心なしか楽しそうだ。
「そうだ峰石。剣道部入って鍛えたらいいじゃん。少しは逞しくなるぞー」
加藤は誉の肩に腕を回し、まずは見学に来いよと入部の算段をしながら、久住を置いて学校へと歩き出す。
「ちょ、ちょっと加藤」
「なにー。久住が焼くって?」
「!?」
「はぁー。兄ちゃんは心配だよ。あんな男に引っ掛かって」
「あんな男って誰のことだよ」
言うなり、加藤を誉から無理矢理はがす。誉は体を震わせ、全身赤く染まっていく感覚を味わった。そんな誉をまじまじと二人は見入る。
「なに、図星だった? まじなの? このヤンキー崩れを?」
「おまえふざけんなよ。俺はヤンキーでもヤンキー崩れでもねえ」
「はあ?! おまえこそふざけんな。どっからどう見てもそうだろうが」
「知らねえよ。とりあえず、デリカシー無い奴はどっか行ってくれますー?」
久住は加藤の口調を真似てしっしと追い払う。ぐっと悔しそうに押し黙った加藤だったが、
「せいぜい残り少ない同クラ生活楽しむんだな!」
捨て台詞を吐いて先に学校へ行ってしまった。
「なんだあいつ。仲間外れに拗ねたのか。メンタル弱ぇな」
「いや、ちがうから」
誉は冷静に突っ込み、いまだ火照る顔を手団扇でぱたぱたあおぐ。防寒対策が仇になった。
「俺たちも行くか」
「うん」
誉と久住は、あれから少しずつぎこちなさがなくなり、たわいない話やお互いの家族のことなどを話せるほど、以前と変わりないくらいの距離感でいる。
ただ、お互いの気持ちや空き教室での一件に関しては、暗黙の了解のように触れないようにしていた。
「なあ、モデル、辞めることにしたのか?」
「うん。やっぱり俺には向いてないし、頼まれてた期間だけにする」
「そっか」
それだけ誉に訊くと、久住は何も追求してこなかった。モデルの仕事についてあまり興味はなさそうだとは思っていたが、ここまであっさりしていると少なからず寂しいと感じる。誉自身にあまり関心がないのと同意だと思うのは被害妄想だろうか。
「せっかくだし、最後に見学させろよ」
「はあ?!」
「なんだよ。別にちらっと見るくらいいいだろ」
「いやいやいやいや。何言ってんの? なんで自分より向いてそうな人に見せなきゃなんないわけ?! 無理だから。今だって限界振り切ってやってるからね?!」
混乱のあまり誉は早口で捲し立てる。勢いに飲まれて久住は思わず「お、おう…」と生返事をしていた。
モデルのバイトはしていると打ち明けていたが、久住だとてそれが女性ならぬ女装モデルだとは思わないだろう。
「じゃあ今度高瀬に雑誌見せてもらうわ。この間あいつが、おまえっぽいのが居るっつってたから」
「高瀬死ね」
「あ? 何か言ったか?」
「別に。それなら俺が家で雑誌探してみるから今度持ってくるよ」
殊更なんでもないことのように笑顔を貼付け、誉は久住を見上げる。満更でもない顔で、じゃあそうするわ、とすんなり納得してくれた。心の中で何度もガッツポーズをする。
(案外ちょろいな)
俯いて、久住から見えない角度でほくそ笑む。
誉が探しているふりをして、やっぱり無かったと言えばそこまで久住も食い下がらないだろう。そもそも雑誌など家にいちいち残していない。先週の資源ゴミの日に母がごっそりごみとして出している。証拠になるようなものは処分するのが一番だ。
「おっはよー。珍しい組み合せだねー」
後方から声をかけられ二人して振り返れば、誉にとって今一番会いたくない高瀬だった。うっかり舌打ちしそうになるのを押しとどめ、表情筋を使って薄く愛想笑いを浮かべる。
「おう。さっき会った」
「うん、同じクラスの加藤も一緒だったんだけど、先に行っちゃって」
「そうなんだー」
久住の言葉に説明を加えて、さり気なく二人だけではなかったことを伝えると、高瀬は気の無い返事でするりと猫のように誉の隣に並んだ。
「ねえ、さっきなんで笑ってたの?」
目をキラキラさせて高瀬は誉の答えを待っている。
「っ…気のせいじゃない? それより高瀬はいつもこの時間なの?」
一瞬詰まりながらも、素知らぬ顔で疑問を返す。面倒臭いやり取りだけど、相手を煙に巻くには疑問を投げかけられても、疑問で返してしまう方が手っ取り早く話題をすり替えられる。誉が他人から踏み込まれないように培った処世術だ。
「んんー。今日はたまたまこっち方面の子のところから来ただけ。いつもはもっと遅いよ」
「こっち方面の子?」
「そう。こっち方面の子」
高瀬は意味深に笑うだけで誉の疑問には答えない。それを見ていた久住が嫌そうな顔で会話を拾う。
「要するにどっかの女の家から来たってことだろ」
「せいかーい」
さすが久住、などと茶化しながら他人事のように高瀬は答えた。いつも飄々としてつかみ所がない高瀬がさらにつかみ所がなくなって、最早別人のようだ。
噂で高瀬は不純異性交遊の現場を教師に見つかったと聞いたことがある。が、十人が十人そんなことをしているような生徒には見えないと答えるだろう。誉も例にもれず同意見だ。
「おまえは見た目で誤摩化されてるけど、やってることはクソ以下だからな。そのうち刺されるぞ」
「ええーこわーい」
高瀬は久住に釘を刺されてもまったく反省の色がない。
「でもそんなクソに本気になる子なんていないから」
一瞬だけ寂しそうに目を伏せ、すぐにからからと笑って一蹴した。
「峰石には話はぐらかされるし、邪魔者は退散するかな」
「べつに邪魔とか…」
若干図星でもあったのでどうフォローしようかと口を開くが、それより先に二人の女子生徒が現れ高瀬の両側を陣取ってしまった。誉は仕方なく開いた口を閉じた。
「冗談だって。それじゃまた後で」
高瀬は首だけ振り返って、誉や久住には見せたことのない爽やかな笑顔で女子生徒たちと先に行ってしまった。
「…女子が居ると三割増に好青年だ…」
「ヤリチンだけどな」
久住が身も蓋もないことを言いながら目を眇める。
きっと久住と出会う前なら「リア充め!」と呪ったに違いない人種だけど、今は少しだけ高瀬の気持ちが分かる。
たくさんの好意より、本当に好きな人からの好意がほしいのだろう。誉も他の誰かでなく、久住の気持ちがほしい。
高瀬はただ、自分だけを見てほしい愛されたがりな気がする。
「たぶん、欲張りなだけだよ」
誉がそう言うと久住は目を丸くし、すぐまた目を眇めた。
「どんだけだよ」
「まあ、確かに」
誉は苦笑いしながら答えると、校門が見えてきた。途端、少し焦る。
今日は特別室には行かない。直接職員室の塚本のところで採点結果と今後の訓示を聞くことになっている。全員基準点を超えていたらそこで解散し、各々のクラスに戻るのだ。
この先のことを考えるとどんどん焦りが増す。
特別室を離れてしまったら誉と久住は接点がない。このままでは繋がりが自然消滅するのは時間の問題だ。やはり恥を忍んで雑誌を口実にしても、繋がりを断たないようにしようとかと考え直す。
あの夜感じた久住の想いがまだ生きているなら、ここで手放したくない。
緊張と不安と焦りとで吐きそうだが、久住を見上げる。
「あのさ、久住。これからも…こうやって話せる?」
「…は?」
勇気を出して誉の精一杯の気持ちを伝えると、何言ってんだこいつ、と訝しむ顔で久住に見られる。
なけなしの勇気がガラガラと崩れ、誉の心にブリザードが吹き抜けた。
(もしかして俺の独り相撲だった…?)
あの夜、明確に久住から気持ちを伝えられたわけではない。だけど、お互いの気持ちを共有した気がする。
(気がした…だけだったのか…)
「おまえ、俺のことなんだと思ってんだ」
追い討ちをかけるように久住に凄まれ、泣きたいのを通り越して力なく笑った。
「ごめん。やっぱ今の無かったことに」
「するわけねーだろ」
言うや否や久住が誉の肩をがっちり抱いて歩き出し、拗ねたように零す。
「なんでそんな他人行儀なんだよ」
「ごめん…」
そう素直に謝れば、久住に至近距離で覗き込まれ、恥ずかしさに目を逸らしてしまう。
「バカなことしたな」
え、と思わず久住を見上げると、久住は前方を見据えたまま続ける。
「おまえに酷いことして、やっと自分の気持ちに気付いた。最悪で最低で、自分が怖かった」
誉が口を開こうとすると久住が目で制し、肩に回していた腕を解いて向き合った。
「何でも罰は受ける。何でも望みも聞く。だから、リベンジさせてくれ。これと一緒に」
久住は胸ポケットから掌サイズの黒革のケースを取り出す。見覚えのあるそれを誉の手に乗せると、雑踏の音に紛れるほどの声で囁いた。
「好きなんだ」
正確には聞こえなかった。だけど唇の動きが誉に語った。
耳で聞き、目で知り、脳で理解すれば、身体中を喜びが駆け巡った。
全身が心臓みたいにどくどくと脈打ち、苦しいのに幸せを感じた。噛みしめれば泣きそうになった。
嬉しいと苦しいは隣り合わせだと、初めて知った。
誉は舞い上がる心を落ち着けようと、震える息を吐きながら、掌に乗せられた黒革のケースを眺めた。そっと中を確認すると、修理されたのか、疵一つないレンズの嵌ったスクエア型眼鏡が収まっていた。久住との出会いの切っ掛けともなった伊達眼鏡だ。
(覚えててくれたんだ)
だけど、これはもう必要のないものだ。
女装モデルをすることの変な劣等感や、自分の自信のなさから眼鏡を掛けていた。掛けることによって心を閉じ込め、周囲に関わらないよう、踏み込ませないようにしていた。
小学生のときに受けた心の痛みは、まだ完全に癒えたわけじゃない。手のひらを急に返されればまた傷付くだろう。
それでも踏み出そうと思った。
傷付くことは怖いけれど、人と関わる楽しさ、喜び、感謝、不満、怒り、哀しみ、すべてのことを享受してみたい。
誉はケースから眼鏡を手に取りじっくり眺め、ゆっくりとケースに仕舞い、見納めにしようと心に決めた。久住が何か言おうとして躊躇い、口を噤む。
「もうこれは、必要ないんだ。…ありがとう」
久住に礼を言いながら、過去の自分への別れを意識した。
「…しょうがねえな。貸せ」
言われるがまま久住に眼鏡ケースごと渡すと、ケースを開けてひっくり返される。あ、と声を漏らしたときには遅く、眼鏡は地面を跳ねて転がった。そしていつか見た光景と同じく、久住は足元の眼鏡を躊躇なく踏みつけた。ガリだかバリだか、地面とぶつかり割れる、嫌な音まで再現された。
久住の靴の下敷きになった眼鏡を誉は呆然と見つめる。
「やっぱこれ、良い感触じゃねーわ」
「当たり前だろ!」
眉間に皺を寄せながら変な感想を述べる久住にすかさず突っ込んだ。
「じゃあこの眼鏡どうするつもりだったよ? フレームはいいやつみたいだけどレンズに度は入ってねーし。後生大事に残しておくつもりか?」
「それは…分かんないけど、もう必要ないって決めたから」
「だったら眼鏡 (保険)なんか捨てろよ。どうしても必要な時が来たら、俺が何とかしてやるから」
何とかするとはどうやってするんだとか、必要なときが何年も先でもその約束は有効なのかとか、そもそもこの眼鏡の意味を分かっているのかとか、色々気になることはあるけれど、久住の言葉を真に受けてみようと思う。
先のことは誰にも分からない。ずっと今と変わらない関係かもしれないし、別々の道を歩んで縁が途切れるかもしれない。仲違いだってするかもしれない。
でも今なら、久住のことを信じて真に受けて、踊らされて、失敗や後悔をしても大丈夫だと思える。
それらすべてが峰石誉になっていくのだ。
悲しい過去もまだ見ぬ未来も、引っ括めて連れて行こう。その体験が〝あった〟という記憶だけ残して。
「…とりあえず、道端に残骸置いたままにはできないし、片付けよっか」
誉がしゃがみ込んで割れたレンズと拉げて歪な形になった眼鏡フレームをケースに仕舞うと、久住も細かな欠片を一緒に拾い集めだした。儀式のように粛々と片付けながら、ふと問いかける。
「…リベンジはもう終わり?」
あらかた拾い終わったのを確認して、二人して手を払い立ち上がる。ちらりと窺うように久住を見上げると、小さく口の片端だけ上げた。
「手始めに、うちの店のビーフシチュー食わせてやる」
「ホントに? やった!」
「気に入ってたみたいだしな」
「うん。好きなんだ」
「そりゃよかった」
久住は見たこともないくらい穏やかな表情で微笑むと、誉の頭を優しく撫でた。それだけで全身が満たされたように温かくなる。
(好きだな)
ただそう思った。
「好きだよ」
次の瞬間にはするりと口に出ていた。気負いも何もなく、唐突に気持ちを言葉にしていた。
久住は目を瞬かせ驚いている。
「俺も久住が好きなんだ」
じっと見つめ、だめ押しのように溢れる気持ちのまま告げると、久住は葛藤しているのか眉間に皺を寄せ唸りだした。
(あれっ? 失敗した?)
唐突すぎたかな、とじわじわ焦りだす。
恐る恐る小首を傾げて覗き込むように見上げると、反対に久住は仰け反るように一歩後ろに引いた。
しばしお互い見つめ合っていたが、久住は観念したように目を逸らすと、大きな溜め息と共に後悔を吐き出した。
「やっぱおまえ、眼鏡必須な」
ぼやく久住のその横顔はほんのり赤い。思わず目を見開いて見てしまう。
不覚にも久住を可愛く感じた。怒れば怖いし、見た目も厳ついそんな相手にときめいた。
「しょーがないなあ」
誉はおもむろに鞄から眼鏡ケースを取り出し、スペアの眼鏡を掛けた。不思議な庇護欲にかられ、ネタばらししてしまう。
「持ってんのかよ」
呆れ気味に突っ込まれ、照れ笑いする。
もう必要ないものだとしても、御守り代わりに持ち歩くにはいいだろうと鞄に入れたままにしていた。
頼ることはもうしない。
ただ、その存在を忘れたくないだけだ。
孤独を感じていたあの頃の自分を。
誉はそっと眼鏡を外し、胸ポケットに引っ掛けた。
「なんだ。もう掛けねーのか?」
「やっぱり決めたことだしね。それに…」
「それに?」
「久住の照れた顔ってレアだし」
「うるせえ」
真顔で告げると久住は誉の頬を片手で挟んで潰す。よほど不細工だったのか誉のつぶれた顔を見て吹き出した。久住は手を離すとさっさと先に歩き出した。
「ひどっ! 置いてかないでよ!」
慌てて追いかけ久住の隣に並ぶ。
文句をたくさん並べても足りない。足りない分は取り留めなく話す。今日のこと、明日のこと、それからのこと。
いつの間にか二人で笑い合っていた。
二人とも照れからか、ぎくしゃくしながら久住に家の前まで送ってもらい、また明日、と別れた。
玄関扉を開ける前にひとつ大きく息を吐いて、勢いよく開ける。
「ただいま」
「…おかえり」
「うわあああああ!」
まさか玄関の靴箱に背中を預けるように座り込んでいる遥夏が居るとは思わず、驚いて飛び退る。
「大声出さないで、うるさい」
リビングの方から母から苦情が飛ぶ。
「だって姉ちゃんがビビらすし!」
上がり框で靴を脱ぎながら母に向けて答えると、すかさず遥夏がスリッパを投げつけた。
「いてっ!」
「ちょっと私の部屋に来な」
言うだけ言うと、先に二階にある遥夏の自室へと階段を上がり始めた。誉も黙ってついて上がる。
「あんた連絡くらいしなさいよ」
遥夏の自室の扉を閉めた途端、不機嫌な声が背中にかかる。言い訳でもしようかと思い振り返れば、遥夏は青い顔でベッドに腰掛けていた。
「電源切れてるお決まりのアナウンスを、私が何十回聞いたと思ってんの?」
下から怨念の籠った目つきで睨まれ、誉は反射的に謝った。
「ごめん。気が付くのが遅かったんだ。でも家の近くだったから早く帰ろうと思って…」
「そんなことは聞いてない。あんたが、あんたに何かあったら、私は」
「大丈夫だよ」
「何が大丈夫なのよ!」
いきなり怒鳴ると、ベッドにあった枕で力一杯打たれる。
「顔面!」
抗議の声を上げたが、余計に遥夏はヒートアップして最終的には馬乗りになって打たれた。お互い攻防をし尽くして、遥夏は唐突に枕を投げて立ち上がり、ベッドでふて寝し始めた。
「姉ちゃん…」
「うるさい」
誉は小さく息を吐いた。
同じ親から血をわけた姉弟なのに、同じようにお互いのことを思っているはずなのに、いつからこんなにお互いのことが分からなくなったのだろう。それとも分かっているふりでやり過ごしていたのか。
「そんなに俺が頼りない?」
「…もう出てって」
本当に勝手だなと思う。今も昔も遥夏は女王様だ。だけど、我が侭でも勝手でも、姉弟だ。分かりたいと思う。そしてこんなこと、もう止めさせなければいけない。
「姉ちゃんが背負うものは、もうないよ」
遥夏の背中に静かに語りかける。大きいと思っていた遥夏は、今は誉と変わらない。
「いじめられてた俺は、姉ちゃんと約束したあの日に消えたから」
どんなことがあっても気丈に前を向いて、進もうとする姿は格好良かった。あんな風になれたらと、密かに憧れていた。
「何でも一人でできるかって言われると無理なこともあるけどさ、でも、友だちはいるから大丈夫」
遥夏の肩が小さく震えている。
「守らなきゃいけないのは、…大事にしないといけないのは、俺じゃない。ちゃんと顔を上げて周りを見なよ」
誉は壁に投げつけられて転がっている枕を拾った。遥夏に対する感謝や後悔などがない交ぜになって手に余る。
「そんな姿、女王様には似合わないよ」
枕を遥夏に投げると、それをぎゅっと抱き込みゆっくりと起き上がった。こちらを向いた目は赤く充血していたけど、涙のあとはなかった。きっとあの日と同じように歯を食いしばり、溢れる涙を我慢したのだろう。
「偉そうに。私に指図するなんて十年早い」
「そうかも」
顔を見合わせ、同時に吹き出した。
***
空は冬型の気圧配置を示しており、夕方からぐっと冷え込んでくるでしょう、と駅ビルの大型液晶パネルが日々同じようなことを喋っている。それを横目でちら見して、誉は横断歩道の信号待ちをする。
襟元にはしっかりマフラー、両手には手袋がはめられ、防寒対策は抜かりない。朝出掛けに、遥夏がブランケットを巻いたままトイレに入るのも見慣れた光景だ。
先日、特別室終了テストを受けた。結果は期限最終日の今日、言い渡される。無事三人とも基準点に達していたら、すぐさま本来のクラスに戻ることになっている。
長いようで短かったな、と誉が感慨に耽っていると後ろから体当たりを喰らう。
「ぅわっ!」
思わず声を上げ、転びそうになる体を踏ん張りストップをかける。が、慣性の法則には逆らえずつんのめるように前方に傾いだ。
「…っぶねえ!」
一瞬既視感(デジャヴ)かと思うほど以前と同じようなことが起こり我が目を疑ったが、間一髪で後ろから抱えるように助けられた。
「あ、りがとう…」
詰まり気味に礼を述べ、振り返ればげんなりした顔の久住が見下ろしていた。地面に降ろすと誉の身だしなみを整え、怪我はないかと確認された。いくらなんでも公衆の面前でやりすぎだろう。母親か。
(恥ずかしいんですけど…)
とは言えず、誉は頬を染め視線を逸らす。
「朝から公共の場でいちゃいちゃするの、やめてくれますぅ」
加藤はわざとシナをつけてからかう。どうやら体当たりの犯人は加藤のようだ。小学生かと呆れる。
「おまえが原因だろうが」
「ははははは」
「自分のウェイト考えろ」
「ひとをデブみたいに! ひどい!」
「聞けよ」
「聞いてますー」
久住が加藤をじろりと睨んだが全く意に介していない。鋼の心臓の持ち主のようだ。それとも馬が合うのかもしれない。久住がこんなにフラットに話しているのを見たことがない。心なしか楽しそうだ。
「そうだ峰石。剣道部入って鍛えたらいいじゃん。少しは逞しくなるぞー」
加藤は誉の肩に腕を回し、まずは見学に来いよと入部の算段をしながら、久住を置いて学校へと歩き出す。
「ちょ、ちょっと加藤」
「なにー。久住が焼くって?」
「!?」
「はぁー。兄ちゃんは心配だよ。あんな男に引っ掛かって」
「あんな男って誰のことだよ」
言うなり、加藤を誉から無理矢理はがす。誉は体を震わせ、全身赤く染まっていく感覚を味わった。そんな誉をまじまじと二人は見入る。
「なに、図星だった? まじなの? このヤンキー崩れを?」
「おまえふざけんなよ。俺はヤンキーでもヤンキー崩れでもねえ」
「はあ?! おまえこそふざけんな。どっからどう見てもそうだろうが」
「知らねえよ。とりあえず、デリカシー無い奴はどっか行ってくれますー?」
久住は加藤の口調を真似てしっしと追い払う。ぐっと悔しそうに押し黙った加藤だったが、
「せいぜい残り少ない同クラ生活楽しむんだな!」
捨て台詞を吐いて先に学校へ行ってしまった。
「なんだあいつ。仲間外れに拗ねたのか。メンタル弱ぇな」
「いや、ちがうから」
誉は冷静に突っ込み、いまだ火照る顔を手団扇でぱたぱたあおぐ。防寒対策が仇になった。
「俺たちも行くか」
「うん」
誉と久住は、あれから少しずつぎこちなさがなくなり、たわいない話やお互いの家族のことなどを話せるほど、以前と変わりないくらいの距離感でいる。
ただ、お互いの気持ちや空き教室での一件に関しては、暗黙の了解のように触れないようにしていた。
「なあ、モデル、辞めることにしたのか?」
「うん。やっぱり俺には向いてないし、頼まれてた期間だけにする」
「そっか」
それだけ誉に訊くと、久住は何も追求してこなかった。モデルの仕事についてあまり興味はなさそうだとは思っていたが、ここまであっさりしていると少なからず寂しいと感じる。誉自身にあまり関心がないのと同意だと思うのは被害妄想だろうか。
「せっかくだし、最後に見学させろよ」
「はあ?!」
「なんだよ。別にちらっと見るくらいいいだろ」
「いやいやいやいや。何言ってんの? なんで自分より向いてそうな人に見せなきゃなんないわけ?! 無理だから。今だって限界振り切ってやってるからね?!」
混乱のあまり誉は早口で捲し立てる。勢いに飲まれて久住は思わず「お、おう…」と生返事をしていた。
モデルのバイトはしていると打ち明けていたが、久住だとてそれが女性ならぬ女装モデルだとは思わないだろう。
「じゃあ今度高瀬に雑誌見せてもらうわ。この間あいつが、おまえっぽいのが居るっつってたから」
「高瀬死ね」
「あ? 何か言ったか?」
「別に。それなら俺が家で雑誌探してみるから今度持ってくるよ」
殊更なんでもないことのように笑顔を貼付け、誉は久住を見上げる。満更でもない顔で、じゃあそうするわ、とすんなり納得してくれた。心の中で何度もガッツポーズをする。
(案外ちょろいな)
俯いて、久住から見えない角度でほくそ笑む。
誉が探しているふりをして、やっぱり無かったと言えばそこまで久住も食い下がらないだろう。そもそも雑誌など家にいちいち残していない。先週の資源ゴミの日に母がごっそりごみとして出している。証拠になるようなものは処分するのが一番だ。
「おっはよー。珍しい組み合せだねー」
後方から声をかけられ二人して振り返れば、誉にとって今一番会いたくない高瀬だった。うっかり舌打ちしそうになるのを押しとどめ、表情筋を使って薄く愛想笑いを浮かべる。
「おう。さっき会った」
「うん、同じクラスの加藤も一緒だったんだけど、先に行っちゃって」
「そうなんだー」
久住の言葉に説明を加えて、さり気なく二人だけではなかったことを伝えると、高瀬は気の無い返事でするりと猫のように誉の隣に並んだ。
「ねえ、さっきなんで笑ってたの?」
目をキラキラさせて高瀬は誉の答えを待っている。
「っ…気のせいじゃない? それより高瀬はいつもこの時間なの?」
一瞬詰まりながらも、素知らぬ顔で疑問を返す。面倒臭いやり取りだけど、相手を煙に巻くには疑問を投げかけられても、疑問で返してしまう方が手っ取り早く話題をすり替えられる。誉が他人から踏み込まれないように培った処世術だ。
「んんー。今日はたまたまこっち方面の子のところから来ただけ。いつもはもっと遅いよ」
「こっち方面の子?」
「そう。こっち方面の子」
高瀬は意味深に笑うだけで誉の疑問には答えない。それを見ていた久住が嫌そうな顔で会話を拾う。
「要するにどっかの女の家から来たってことだろ」
「せいかーい」
さすが久住、などと茶化しながら他人事のように高瀬は答えた。いつも飄々としてつかみ所がない高瀬がさらにつかみ所がなくなって、最早別人のようだ。
噂で高瀬は不純異性交遊の現場を教師に見つかったと聞いたことがある。が、十人が十人そんなことをしているような生徒には見えないと答えるだろう。誉も例にもれず同意見だ。
「おまえは見た目で誤摩化されてるけど、やってることはクソ以下だからな。そのうち刺されるぞ」
「ええーこわーい」
高瀬は久住に釘を刺されてもまったく反省の色がない。
「でもそんなクソに本気になる子なんていないから」
一瞬だけ寂しそうに目を伏せ、すぐにからからと笑って一蹴した。
「峰石には話はぐらかされるし、邪魔者は退散するかな」
「べつに邪魔とか…」
若干図星でもあったのでどうフォローしようかと口を開くが、それより先に二人の女子生徒が現れ高瀬の両側を陣取ってしまった。誉は仕方なく開いた口を閉じた。
「冗談だって。それじゃまた後で」
高瀬は首だけ振り返って、誉や久住には見せたことのない爽やかな笑顔で女子生徒たちと先に行ってしまった。
「…女子が居ると三割増に好青年だ…」
「ヤリチンだけどな」
久住が身も蓋もないことを言いながら目を眇める。
きっと久住と出会う前なら「リア充め!」と呪ったに違いない人種だけど、今は少しだけ高瀬の気持ちが分かる。
たくさんの好意より、本当に好きな人からの好意がほしいのだろう。誉も他の誰かでなく、久住の気持ちがほしい。
高瀬はただ、自分だけを見てほしい愛されたがりな気がする。
「たぶん、欲張りなだけだよ」
誉がそう言うと久住は目を丸くし、すぐまた目を眇めた。
「どんだけだよ」
「まあ、確かに」
誉は苦笑いしながら答えると、校門が見えてきた。途端、少し焦る。
今日は特別室には行かない。直接職員室の塚本のところで採点結果と今後の訓示を聞くことになっている。全員基準点を超えていたらそこで解散し、各々のクラスに戻るのだ。
この先のことを考えるとどんどん焦りが増す。
特別室を離れてしまったら誉と久住は接点がない。このままでは繋がりが自然消滅するのは時間の問題だ。やはり恥を忍んで雑誌を口実にしても、繋がりを断たないようにしようとかと考え直す。
あの夜感じた久住の想いがまだ生きているなら、ここで手放したくない。
緊張と不安と焦りとで吐きそうだが、久住を見上げる。
「あのさ、久住。これからも…こうやって話せる?」
「…は?」
勇気を出して誉の精一杯の気持ちを伝えると、何言ってんだこいつ、と訝しむ顔で久住に見られる。
なけなしの勇気がガラガラと崩れ、誉の心にブリザードが吹き抜けた。
(もしかして俺の独り相撲だった…?)
あの夜、明確に久住から気持ちを伝えられたわけではない。だけど、お互いの気持ちを共有した気がする。
(気がした…だけだったのか…)
「おまえ、俺のことなんだと思ってんだ」
追い討ちをかけるように久住に凄まれ、泣きたいのを通り越して力なく笑った。
「ごめん。やっぱ今の無かったことに」
「するわけねーだろ」
言うや否や久住が誉の肩をがっちり抱いて歩き出し、拗ねたように零す。
「なんでそんな他人行儀なんだよ」
「ごめん…」
そう素直に謝れば、久住に至近距離で覗き込まれ、恥ずかしさに目を逸らしてしまう。
「バカなことしたな」
え、と思わず久住を見上げると、久住は前方を見据えたまま続ける。
「おまえに酷いことして、やっと自分の気持ちに気付いた。最悪で最低で、自分が怖かった」
誉が口を開こうとすると久住が目で制し、肩に回していた腕を解いて向き合った。
「何でも罰は受ける。何でも望みも聞く。だから、リベンジさせてくれ。これと一緒に」
久住は胸ポケットから掌サイズの黒革のケースを取り出す。見覚えのあるそれを誉の手に乗せると、雑踏の音に紛れるほどの声で囁いた。
「好きなんだ」
正確には聞こえなかった。だけど唇の動きが誉に語った。
耳で聞き、目で知り、脳で理解すれば、身体中を喜びが駆け巡った。
全身が心臓みたいにどくどくと脈打ち、苦しいのに幸せを感じた。噛みしめれば泣きそうになった。
嬉しいと苦しいは隣り合わせだと、初めて知った。
誉は舞い上がる心を落ち着けようと、震える息を吐きながら、掌に乗せられた黒革のケースを眺めた。そっと中を確認すると、修理されたのか、疵一つないレンズの嵌ったスクエア型眼鏡が収まっていた。久住との出会いの切っ掛けともなった伊達眼鏡だ。
(覚えててくれたんだ)
だけど、これはもう必要のないものだ。
女装モデルをすることの変な劣等感や、自分の自信のなさから眼鏡を掛けていた。掛けることによって心を閉じ込め、周囲に関わらないよう、踏み込ませないようにしていた。
小学生のときに受けた心の痛みは、まだ完全に癒えたわけじゃない。手のひらを急に返されればまた傷付くだろう。
それでも踏み出そうと思った。
傷付くことは怖いけれど、人と関わる楽しさ、喜び、感謝、不満、怒り、哀しみ、すべてのことを享受してみたい。
誉はケースから眼鏡を手に取りじっくり眺め、ゆっくりとケースに仕舞い、見納めにしようと心に決めた。久住が何か言おうとして躊躇い、口を噤む。
「もうこれは、必要ないんだ。…ありがとう」
久住に礼を言いながら、過去の自分への別れを意識した。
「…しょうがねえな。貸せ」
言われるがまま久住に眼鏡ケースごと渡すと、ケースを開けてひっくり返される。あ、と声を漏らしたときには遅く、眼鏡は地面を跳ねて転がった。そしていつか見た光景と同じく、久住は足元の眼鏡を躊躇なく踏みつけた。ガリだかバリだか、地面とぶつかり割れる、嫌な音まで再現された。
久住の靴の下敷きになった眼鏡を誉は呆然と見つめる。
「やっぱこれ、良い感触じゃねーわ」
「当たり前だろ!」
眉間に皺を寄せながら変な感想を述べる久住にすかさず突っ込んだ。
「じゃあこの眼鏡どうするつもりだったよ? フレームはいいやつみたいだけどレンズに度は入ってねーし。後生大事に残しておくつもりか?」
「それは…分かんないけど、もう必要ないって決めたから」
「だったら眼鏡 (保険)なんか捨てろよ。どうしても必要な時が来たら、俺が何とかしてやるから」
何とかするとはどうやってするんだとか、必要なときが何年も先でもその約束は有効なのかとか、そもそもこの眼鏡の意味を分かっているのかとか、色々気になることはあるけれど、久住の言葉を真に受けてみようと思う。
先のことは誰にも分からない。ずっと今と変わらない関係かもしれないし、別々の道を歩んで縁が途切れるかもしれない。仲違いだってするかもしれない。
でも今なら、久住のことを信じて真に受けて、踊らされて、失敗や後悔をしても大丈夫だと思える。
それらすべてが峰石誉になっていくのだ。
悲しい過去もまだ見ぬ未来も、引っ括めて連れて行こう。その体験が〝あった〟という記憶だけ残して。
「…とりあえず、道端に残骸置いたままにはできないし、片付けよっか」
誉がしゃがみ込んで割れたレンズと拉げて歪な形になった眼鏡フレームをケースに仕舞うと、久住も細かな欠片を一緒に拾い集めだした。儀式のように粛々と片付けながら、ふと問いかける。
「…リベンジはもう終わり?」
あらかた拾い終わったのを確認して、二人して手を払い立ち上がる。ちらりと窺うように久住を見上げると、小さく口の片端だけ上げた。
「手始めに、うちの店のビーフシチュー食わせてやる」
「ホントに? やった!」
「気に入ってたみたいだしな」
「うん。好きなんだ」
「そりゃよかった」
久住は見たこともないくらい穏やかな表情で微笑むと、誉の頭を優しく撫でた。それだけで全身が満たされたように温かくなる。
(好きだな)
ただそう思った。
「好きだよ」
次の瞬間にはするりと口に出ていた。気負いも何もなく、唐突に気持ちを言葉にしていた。
久住は目を瞬かせ驚いている。
「俺も久住が好きなんだ」
じっと見つめ、だめ押しのように溢れる気持ちのまま告げると、久住は葛藤しているのか眉間に皺を寄せ唸りだした。
(あれっ? 失敗した?)
唐突すぎたかな、とじわじわ焦りだす。
恐る恐る小首を傾げて覗き込むように見上げると、反対に久住は仰け反るように一歩後ろに引いた。
しばしお互い見つめ合っていたが、久住は観念したように目を逸らすと、大きな溜め息と共に後悔を吐き出した。
「やっぱおまえ、眼鏡必須な」
ぼやく久住のその横顔はほんのり赤い。思わず目を見開いて見てしまう。
不覚にも久住を可愛く感じた。怒れば怖いし、見た目も厳ついそんな相手にときめいた。
「しょーがないなあ」
誉はおもむろに鞄から眼鏡ケースを取り出し、スペアの眼鏡を掛けた。不思議な庇護欲にかられ、ネタばらししてしまう。
「持ってんのかよ」
呆れ気味に突っ込まれ、照れ笑いする。
もう必要ないものだとしても、御守り代わりに持ち歩くにはいいだろうと鞄に入れたままにしていた。
頼ることはもうしない。
ただ、その存在を忘れたくないだけだ。
孤独を感じていたあの頃の自分を。
誉はそっと眼鏡を外し、胸ポケットに引っ掛けた。
「なんだ。もう掛けねーのか?」
「やっぱり決めたことだしね。それに…」
「それに?」
「久住の照れた顔ってレアだし」
「うるせえ」
真顔で告げると久住は誉の頬を片手で挟んで潰す。よほど不細工だったのか誉のつぶれた顔を見て吹き出した。久住は手を離すとさっさと先に歩き出した。
「ひどっ! 置いてかないでよ!」
慌てて追いかけ久住の隣に並ぶ。
文句をたくさん並べても足りない。足りない分は取り留めなく話す。今日のこと、明日のこと、それからのこと。
いつの間にか二人で笑い合っていた。
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