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Lady steady go! 9
しおりを挟む仕事を終えて部屋に戻った時は20時を過ぎていた。
未環は、買い物をして帰ってきた。
1DKの部屋の小さなキッチンでは心もとないが、スーツから普段着に着替えると冷蔵室からビールを取り出し、キッチンに立った。
毎日作る訳ではないが、時折料理をする。
しかし今の部署が立ち上がってからは、日々の業務に心を削られているような気分になり、あまり料理をすることはなかった。
鞄に入れていた、伯母の早苗忘れ形見となったレシピノートを取り出す。
今日は何を思ったのか、ぶりの竜田揚げを作ろうと思ったのだ。
「ああ、やっぱり面倒くさいな…」
ビールの栓を抜き、まずは一杯口につける。
早苗の臨床には立ち会えなかった。
亡くなる二日前から医者に「覚悟してください」と言われ、母の佳苗と病室に詰めた。
もう意識はほとんどなかった。
佳苗を置いて病室から出勤したあと、正午に眠るように早苗は息を引き取った。
未環はそれを悔いている。
あの時、一日ぐらい休んでしまえばよかったのだ。
私はどこか薄情だった。
わかっていながら…
ステンレスのボウルに、酒と味醂、醤油、砂糖、刻み生姜と大蒜をレシピに合わせて入れ、白ごま、それに隠し味で僅かな赤味噌、オイスターソースを加えたたれに刻んだぶりの切り身を浸ける。
30分ほどねかしてから、片栗粉をまぶして、小さな鍋で揚げた。
「竜田揚げを作るのは何年ぶりだろうか。
いや、そんな気になっていただけで、はたして私はぶりの竜田揚げを作ったことがあるのだろうか?
なんだか可笑しくなってきたけど、美味しくできました」
レシピの最後に色鉛筆の挿し絵と共に添えらたコメントを見る。
「絶望していられるほど柔な心臓の持ち合わせはないんで」
今日、坂口は私にそう言った。
伯母は、どんな気持ちで最期を迎えたのだろう。
辛さを隠しはしなかった。
見るからに憔悴していく姿はあまりに残酷だ。
しかし、病のことを口にすることは一切なかった。
風に揺れる蝋燭の炎のように頼りなく、やがてそれは消えてしまった。
何も言い残さず。
「ありがとう」とか「さようなら」とか、そんな言葉はなかった。
母にも私にも、衰弱していく日々の中でもいつも通りを貫いた。
絶望すら、無縁のように。
いただきますと手を合わせる。
一人の部屋で取る食事に、未環はそんな当たり前のことすらずっと忘れていたことを知る。
早苗のレシピは、懐かしい味がした。
そしてこうも思うのだ。
懐かしいも何も、はたして私はぶりの竜田揚げを食べたことがあったのだろうか?
「ごちそうさまでした」
未環は食事を終えると手を合わせた。
伯母が残してくれたのものは、もしかしたらこうした繰り返しの中にあるのかもと思ったが、それはわからない。
そうやって簡単にわかったような気になりたくなかった。
未環が時計を見上げると、既に22時を過ぎていた。
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