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アンチ・リアル 9
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「アンチ・リアル」 9
日出郎は、先日、深田薫と行った半田の物件の確認に一人で向かった。
現地で拾い忘れた採寸と、デジカメで再度の現況写真を撮ると、時刻は昼近かった。
あまり食欲はなく、先日同様の晴れた空を眺めていると、ある記憶が甦った。
おそらく、人生で最も美しい思い出であるその出来事に、たまらない気持ちになった日出郎は、車のハンドルを取り、常滑方面に南下した。
愛知万博を控え、中部国際空港の工事に波及した常滑は、あちこちで工事の様相を見せている。
産業道路から、新舞子で旧道と分岐する155号線は、途中からの対面2車線を4車線に拡張中だ。
海岸線と、旧道と名鉄常滑線を西に見下ろすその先の、沿線にある集落が、生涯忘れることがないであろう場所だった。
海を見下ろす、頼子を捕らえた坂道。
…頼子とは、仕事先の保育園で知り合った。
改修工事の担当をしていた日出郎が、保育士だった頼子に声をかけたのがきっかけだった。
頼子が、現場の休憩の時に差し入れてくれたクッキーを、自分が焼いたものだから味は保証しないですと笑って差し出した、
その笑顔が、良かった。
付き合い出した二人は、直に埋めがたい性格の相違を知ることになる。
理屈っぽい日出郎と、思いの外気性が激しい頼子は、些細なことでぶつかることが重なっていった。
頼子は、日出郎に一方的に別れを告げると、連絡を断ったばかりか、保育園まで辞めてしまった。
日出郎は、そんな終わり方は、どうしても受け入れ難かった。
うまくいかなくても、仲違いしても、感情を分かち合えなくても、その葛藤をギリギリまで擦り合わせた末に、互いが納得の上に違う道を選ぶ。
笑顔で送り出せる別れでもって、二人の時を終わらしたかったのだ。
苦労の末に、頼子が常滑の保育園に転職したことを探り当てた日出郎は、これはストーカーではないのかと迷いながらも、ある日曜日に、その保育園に車を走らせた。
名古屋を引き払った頼子が、どこに住んでいるのかはわからない。
休園日に保育園に行ったところで、頼子に会える訳でもない。
それは、わかっている。
しかし、誰かを好きになるということは、わからない衝動に自分を委せるということなのかもしれない。
少なくともあの時、日出郎はそう思いながら車を走らせたのだ。
名鉄常滑線の西ノ口駅近くの、155号線沿いの保育園に着いたあの日の空は、美しく碧かった。
右折して、保育園の迎いの路肩に車を停めると、日出郎は大きく息をして車から降りた。
なだらかな坂道の向こうは、果てしない空が拡がっていて、それは、日出郎の心を締め付けた。
道の向かい側で、保育園の前をゆっくりと行き来する日出郎は、坂道の下を、一人の女性が通っていく姿を認めた。
二人は、その偶然に、同じように歩みを止めた。
頼子は、最初はゆっくり、そしてすぐに走り出した。
短い坂道を一気に駆け上がる。
立ちすくむ日出郎に飛び付いたのは、日出郎の前から姿を消したはずの、その頼子だった。
「お前のすべては俺のものだ」と、頼子の耳元で日出郎は言った。
二人は歩道の上で、激しくキスを交わした。
あの日、日出郎は頼子を、頼子は日出郎を、捕らえたのだ。
…日出郎は車から降りると、造成が進む沿線を背に、あの日のように保育園の前に立った。
二人は若かった。
それはすべてが美しかった。
そして、若いということは、すべてが間違いなのだ。
あの日、まるでドラマのワンシーンのように、僕らはここで、永遠のような一時を体験したのだ。
どうして自分が、頼子を捨てられようか…
日出郎は、先日、深田薫と行った半田の物件の確認に一人で向かった。
現地で拾い忘れた採寸と、デジカメで再度の現況写真を撮ると、時刻は昼近かった。
あまり食欲はなく、先日同様の晴れた空を眺めていると、ある記憶が甦った。
おそらく、人生で最も美しい思い出であるその出来事に、たまらない気持ちになった日出郎は、車のハンドルを取り、常滑方面に南下した。
愛知万博を控え、中部国際空港の工事に波及した常滑は、あちこちで工事の様相を見せている。
産業道路から、新舞子で旧道と分岐する155号線は、途中からの対面2車線を4車線に拡張中だ。
海岸線と、旧道と名鉄常滑線を西に見下ろすその先の、沿線にある集落が、生涯忘れることがないであろう場所だった。
海を見下ろす、頼子を捕らえた坂道。
…頼子とは、仕事先の保育園で知り合った。
改修工事の担当をしていた日出郎が、保育士だった頼子に声をかけたのがきっかけだった。
頼子が、現場の休憩の時に差し入れてくれたクッキーを、自分が焼いたものだから味は保証しないですと笑って差し出した、
その笑顔が、良かった。
付き合い出した二人は、直に埋めがたい性格の相違を知ることになる。
理屈っぽい日出郎と、思いの外気性が激しい頼子は、些細なことでぶつかることが重なっていった。
頼子は、日出郎に一方的に別れを告げると、連絡を断ったばかりか、保育園まで辞めてしまった。
日出郎は、そんな終わり方は、どうしても受け入れ難かった。
うまくいかなくても、仲違いしても、感情を分かち合えなくても、その葛藤をギリギリまで擦り合わせた末に、互いが納得の上に違う道を選ぶ。
笑顔で送り出せる別れでもって、二人の時を終わらしたかったのだ。
苦労の末に、頼子が常滑の保育園に転職したことを探り当てた日出郎は、これはストーカーではないのかと迷いながらも、ある日曜日に、その保育園に車を走らせた。
名古屋を引き払った頼子が、どこに住んでいるのかはわからない。
休園日に保育園に行ったところで、頼子に会える訳でもない。
それは、わかっている。
しかし、誰かを好きになるということは、わからない衝動に自分を委せるということなのかもしれない。
少なくともあの時、日出郎はそう思いながら車を走らせたのだ。
名鉄常滑線の西ノ口駅近くの、155号線沿いの保育園に着いたあの日の空は、美しく碧かった。
右折して、保育園の迎いの路肩に車を停めると、日出郎は大きく息をして車から降りた。
なだらかな坂道の向こうは、果てしない空が拡がっていて、それは、日出郎の心を締め付けた。
道の向かい側で、保育園の前をゆっくりと行き来する日出郎は、坂道の下を、一人の女性が通っていく姿を認めた。
二人は、その偶然に、同じように歩みを止めた。
頼子は、最初はゆっくり、そしてすぐに走り出した。
短い坂道を一気に駆け上がる。
立ちすくむ日出郎に飛び付いたのは、日出郎の前から姿を消したはずの、その頼子だった。
「お前のすべては俺のものだ」と、頼子の耳元で日出郎は言った。
二人は歩道の上で、激しくキスを交わした。
あの日、日出郎は頼子を、頼子は日出郎を、捕らえたのだ。
…日出郎は車から降りると、造成が進む沿線を背に、あの日のように保育園の前に立った。
二人は若かった。
それはすべてが美しかった。
そして、若いということは、すべてが間違いなのだ。
あの日、まるでドラマのワンシーンのように、僕らはここで、永遠のような一時を体験したのだ。
どうして自分が、頼子を捨てられようか…
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