アンチ・リアル

岡田泰紀

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アンチ・リアル 18

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「アンチ・リアル」  18

22時を回っていた。

日出郎は、以前二人で行った八事のバーに行くつもりだったが、薫が行ってみたい店があるというので、車で彼女の後を付いていくことにした。

薫は金山に住んでいる。
店は、その帰り道の途中から近く、東別院より北東の千代田の、堀川の西詰辺りにあった。

二人は適当な場所に路駐すると、旧い民家を改装したボロボロの設備屋の隣にある、鰻の寝床のような、間口が狭く奥に長い店の前に立った。
隣の設備屋と同じで、旧い長屋を改装したその店は、シンプルなクラッシック調の、黒に近いチャコールグレーのファサードを介してカウンターが見える。
店内の仄暗い照明は、エドワード・ホッパーの絵画のような雰囲気があり、薫の好きなトム・ウェイツの曲にぴったりだなと、日出郎は思った。

「紺屋」というバーは、カウンターしかない店だった。
薫は、随分前に知人と一度だけ来たことがあると言っていた。

薫は、いつものようにマッカランのロックを、日出郎はラフロイグをオーダーした。

日出郎がモルトを飲むようになったきっかけは、薫と飲むようになったからだ。
それ以前はジンかウォッカしか飲まなかったのだが、薫が飲んでいるマッカランをたしなみ、いつの間にかアイラモルトを飲むようになっていた。

夜、バー、酒、それが揃えば、男は女と、そして、女は男と、いい感じになりたくなるものだ。
その一定の時間、スモーキーな空気、音楽と、できたらあまりうるさくない場所に流れるアトモスフィアは、まとわりつくような非日常を心の中に流し込む。

至福の時間だ。

薫は、ロックグラスの氷を指で転がしながら、やさしい笑顔でカウンターに視線を落としている。
日出郎は煙草を喫わないが、本当は、バーで飲む時は喫ってみたいと、いつも思う。

日出郎が煙草を喫わないのは、父親との嫌な記憶があるからだ。

母と離婚して、祖母と妹と暮らしていた頃、父親は自分の子供たちに一切感心を持たなかった。
御義理で育ててくれているような祖母と合わせ、肉親の愛情など不毛の環境しかそこには無かった。
父親は子供たちを放任していたが、子供たちの希望を汲むような心の持ち合わせも無かった。

肉体的にも、言葉の上でも暴力は無かったが、陰湿な虐待を日出郎に繰り返した。
それは、機嫌が悪い日に、まだ小学生の日出郎の顔に煙草を近付けて煙を吸わすのだ。

何かを言う訳でもなく、顔を背けようとすると、頭を左手で押さえつけられる。
親子は、言葉をかわすこともなく、小さな地獄を形づくる。
日出郎には、当たり前なのだが、ただ時が解放してくれることを待つ以外の選択肢は無かった。

バーで寛いでいても、必ず、この忘れ去りたい記憶がフラッシュバックする。
喫煙習慣がつかなかったことは、良かったなどと言えない。
あんな思い出と一生付き合うぐらいなら、肺が真っ黒になるまでベビースモーカーになった方がマシだと、日出郎は思うのだ。

横の薫を見た。
可愛い女だった。
いい感じにはなりたかったが、妻帯者の日出郎には、迷いを振り切るためには何かが足りない。

それが、日出郎を無口にした。

「ねぇ、日出さん、つまんないの?
だったら私を誘わなくてもいいんじゃないの?」

薫は、怒るというより、甘えて抗議するような口調で日出郎にいいながら、肩に手をかけて軽く揺さぶった。

「いや、つまんないんじゃないんだ。

言いたいことは一杯あるんだけど、言葉にできなくて…

ゴメンね」

日出郎は薫の手を握ったが、それはお断りよという悪戯な笑顔でもって、払われてしまった。
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