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第79話 本性

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 石碑にぴったりと吸い付いた手のひらは、どんなにちからを入れようにも離れない。椿の異常に気付き、助けようと駆け寄った白侍女シェロブも、壁際まで遠ざけられてしまった。

 椿と皆の間には魔王が立ち塞がっている。

『近づいてはならん、
 魔力を全部持っていかれるぞ』

 ええ、ええ、椿が今、まさにそうなっていますとも!
 ――って、えぇ? 注意喚起?

『ほれ、落ち着け。
 うまく陣に魔力を通さんと、地に奪われてしまう』

 先程まで一行をめつけ、声を荒げていた魔王が振り返る。その顔は締まりのない表情に戻っていた。

 あれか、迂闊に石碑に近づいたシェロブを叱りつけただけなのか。ってきり、本性を表したのかと思ったぞ。

 再び背後まで近づいてきたシェロブに、魔王は手を出さない。彼の位置までは近づいても大丈夫なのだろうか。シェロブが魔王越しに、心配で堪らないって表情でこちらを見ている。

 そうだね、まずこの状況を何とかしないと。

 えっと、陣に魔力を通す? この魔法陣にか?

 ――確かに、衛星都市フーリィパチの井戸が如く、椿の手のひらから吸い出された魔力は、勢いもそのままに地中へ散っていく。霊脈に引っ張られて、石碑に魔力が満ちない感じだ。

 だが、どうやって魔法陣に注げばいいのだ。陣に触れようとしても、左手は石の表面に吸い付いて離れない。右手を使ってもいいが、こっちまで吸い付いて離れなくなったら、文字通り手が出せなくなる。

 何より、右腕に逃して循環させている魔力が、そのまま石碑に注がれると、魔力の生産が追いつかない。肚から湧く魔力に、量を調整できるようなイメージなどない。

 どうだろう、石板と同じやり方だから不味いのだろうか。あれは、すでに溢れそうになっている魔力に、最後のひと押しをするようなものだった。結果として、石板は爆発してしまっている。

 この石碑は、そうやって押し込まれた魔力を受け流し、地に散らしている感じがする。そもそも、霊脈の裂け目から大量の魔力が溢れてきている。この石碑は、それを押し留める役目のはずだ。

 もっと石碑を観察してみよう。

 ……うむ、よく見ればこの陣や文字には、これまでがそうであった様に、彫り込みに魔石を溶かして埋めたような造りがない。まるで、表面に印刷されているような描き方だ。あの魔石が魔力を溜め込む工夫だと考えると、この印字はなんだろうか? 電子基板の配線か? なるほど、回路に電力ならぬ、陣に魔力を走らせるのが正解なのかも。

 それなら――

 押し付けたチューブの先から無理矢理中身を押し出すように、もしくは水の出るホースの先を押しつぶすように、石碑の表面へ魔力を散らし広げる。魔力は自ら入り口を探すように、石碑の表面をずるりと滑る。そして、円環の意匠の四隅から、染み込むように侵入していった。

 これが正解だろう、なんせ陣を描く黒い線が白色に変わっていくのだもの。

 まず中心の大きな円に魔力が満ちた。続いて、外側から中心に向かってゆっくり陣が完成していく。好きな人が見たら興奮を隠せなくなる演出だな。巨大ロボのコックピットで、コンソールに光が満ちていく演出にも似ている。

 そして魔法陣は、山頂の霊穴どころではない、とんでもない量の魔力を抱えていく。こんな厚みのない、薄く描かれた線に、どんな工夫がされているのやら。ひょっとしなくても、所謂いわゆる物《・》の魔法陣だったりするのだろうか?

 今回は石板の助けがないのだ。それどころか、その石板自体に魔力を満たす羽目になっている。だと言うのに、どこからともなく魔力は満ちていく。霊脈に押し返していたはずの魔力を吸い上げているのだろうか? 自分自身を癒やすために、力を貸してくれているのかもしれない。

 陣を進む白い侵食は、中心に近づくほどゆっくりと速度を落としていった。

 そして、どれくらいの時間が経っただろうか。肚から生み出す魔力を絶えず、陣へ散らし続ける。その疲れからか、ぼんやりとお茶の時間だなと考え始めた頃、誰かが腰に腕を回してきた。

 カザンだ。

 振り返って見ると、他の皆はそろって扉があった入り口の外まで下がっていた。

 ――ああ、そう言えば先ほど話に触れたが、石板って例外なく爆発していたよね。そろそろ石碑に魔力が満ちると言うことか。確かに、このサイズが爆発したら無事じゃ済まないかも。

『凪ぐような溜めがある、その瞬間だぞ』

『分かった』

 いつの間にか両者で相談が為されていたようだ、魔王のおっさんの指示に従いカザンが準備している。カザンは、椿のお腹に抱きつくような格好だ。どうも、爆発するまでの一瞬に、椿をかついで石碑から遠ざけるつもりらしい。

 陣を満たし終えたのか、魔力は石碑の表面に染み出すように溢れてきた。あふれる寸前のコップの縁に、表面張力で留まる水のように魔力が溜まっていく。可視化できるほどの魔力が、その白い輻射から感じとれる。

 とぷん―― と、椿の手のひらから波紋が広がった。同時に、吸い付いていた手のひらがふわりと離れる。

『今だ!』

 魔王があげた合図と同時に、飛ぶように景色が移動する。

「うグぅっ!」

 てっきり爆発に巻き込まれたのかと思ったが違う。カザンの運び方が雑なのだ、乱暴すぎる!

 腹から空気が押し出された音のような悲鳴が終わる間もなく、カザンは広場を横切ってみせた。凄いけど、凄いけれども、下手したら死ぬから、これ!

 2人が扉のあった入り口をくぐった瞬間に、魔王のおっさんがカザンの肩を蹴りつける。その反動で、それぞれが扉の左右に弾けるように飛び退いた。ほぼ、その瞬間に石碑が弾け飛んだ。



 ――――――――――――――――!



 音はなかった、いや感じなかった。ただただ、視界が白く染まる。目をつぶっていても容赦なく塗りつぶされるほどの強い光だ。広場の外に居てこれか、どんだけだよ。ぐああ、頭がクラクラする。

 しかしだ、まだ椿には仕事が残ってる。この魔力を使って傷を癒やさないと。霊穴を塞ぐのだ。これまでの注射の痕みたいに、傷であるかも定かではない穴じゃない。はっきりと、傷と分かる裂傷なのだ。

 ぐったりしているカザンの腕から逃れ、広場に舞い戻る。

 白濁する景色の中、石碑が立っていた場所を中心に、床がピカピカになっているのがかろうじて分かった。いや、ツルツルか? それは放射状に広がり、乱暴に絆創膏を幾重にも貼り重ねたような形を見せている。

 その中心に立ち、ドーム状の部屋に満ちた魔力に同調する。

 この絆創膏のおかげなのか、霊脈に魔力が引っ張られるような影響は、すでにない。椿を媒介に、魔力が場に還っていく。これまでの霊穴は、地に染み入るように魔力が還っていったが――

 ここでは、空間そのものを魔力が形造っていく。

 たくさんの映画のフィルムを乱雑に繋げたように、数拍おきに景色が現れては消える。たったひとつの記憶を探すように、目まぐるしく変わる景色たち。その景色の中には、常に女性がひとり居た。

 これは、誰かの記憶だろうか。

 ときに、不鮮明な景色の中に立つ。ときに、その握り合う手元が。ときに、その横顔を逆行の中で見る。せわしなく働く中で、こちらを振り返り微笑んで見せる。

 女性は、常に視線の主を意識している。

 その姿は、くせのある巻いた長い金髪をしている。肩で結って胸元へ垂らす髪型だ。その手に持った長い杖は、ぐねぐねと2匹の蛇が絡み合うような形をしている。深いスリットのあるスカートからは、膝まである編み上げブーツが覗いている。金髪が映える濃い緋色の外套の内側には、本や薬草、薬瓶まで吊るしてある。

 錬金術士かと思ったけど、もっと相応しい呼び方がある。

 魔女だ。



 ――ああ、この人が先代だ。



 そう思い至ったとき、目まぐるしく移り変わる景色がピタリと止まった。まるで初めからそうであったように、石碑の広場に部屋が出現した。そう、先代と思われる魔女ごと、今この瞬間と言う現実に嵌まったのだ。

「グラディス!」

 魔王のおっさんが叫び、その声に反応した女性が弾かれるように振り向いた。

「……!
 もんちゃん!」

 もんちゃん?

 お互いに駆け寄り、ひっしと抱き合う二人。なんだこの茶番は?

 このおっさん、これが目的だったのか? 大地の傷を癒やすのではなく、恋人との再会が目的だったのか? 霊穴を閉じた先にある、これを期待していたのか。ぐああああ、ぶん殴ってやりたい!

『なんだコレは』

 まだ少しふらつきながらも椿の隣に並んだカザンがぼやく。どうやらカザンも同じ感想らしい。椿たちの目の前で口づけを交わし、その先まで進んでしまいそうなほどに喜びを表している。他人の存在など目に入らない様子で、2人がイチャつき始めた。

『先に説明をして頂きたいですわ』

 半眼で2人を眺めるオリガ嬢も加わった。お貴族様は血筋が命、婚前交渉なぞ以ての外のご身分だ。人前でべっとりと絡み合う2人に、軽蔑を込めた目を向ける。

 シェロブなど、椅子と机を持ち出してお茶の準備を始める始末だ。どうやら、待たされる気はないらしい。

 ところで、シェロブがどうやって家具を持ち出してきたのかと観察すると、壁に掛けた巨大なタペストリーを使っているようだ。その白い布地には教会の壁にあった、扉の意匠がなされている。まるで持ち運び出来る壁のようだ。

 例の2人も話が尽きないらしく、英語らしき言葉でず~っと話を続けている。それこそ、お茶の準備が整ってもだ。

 ニジニ兵から選抜された魔力持ちの5人が、洞窟から拾い集めた岩で竈を組んでくれた。お茶と、昨晩作り置いたスープを食す。今のうちに、覗き魔女ポーシャに外の状況を聞いておこうか。

『ずっと犬頭が見え隠れしていた』

 幸い、近づいては来なかったらしい。高原の移動中と同じであったようだ。それも、先程になって状況が変わった。犬頭たちは崩れ落ちるように、消え去ってしまったそうだ。

 この霊穴が間違いなく閉じた証拠だろう。

 消えるって、物理的に崩れてしまうのか。なんだか哀れに思えるが、彼ら的には
役目を終えたはずだ。喜んでくれただろうか。

 さて、時刻はまだ、昼を過ぎたばかりの頃合いだ。しかしもう、今日これからの進軍は勘弁願いたい。軽食があったおかげか、やたらと眠くなってきた。先程の疲れもあるし、尚更だ。

 どうやら皆も同じ意見なようで、残りの時間は例の2人から情報収集を行って過ごす方針となった。最終決戦のつもりで挑んだ霊穴で、おっさんと美女のイチャつきを見せつけられたのだ、精神的にゲンナリもするさ。

 すでに外の兵たちには、野営の準備をするよう伝達が行われている。

 眠気も限界に近い。シェロブが持ち出したひざ掛けを肩まであげ、いざ寝ようかと考えていると、おっさんがこちらに近づいてきた。

『いや、済まぬ。
 なんせ150年振りなのだ、辛抱できなんだ』

 おっさんの腕を掴んで離さない金髪魔女も、続けて口を開いた。

『貴女が当世の聖女ね』

 うおぉ、間近で見ると、えらい美人だ。
 一瞬で眠気が興味に変わる程の美女が、当たり前のように机に加わってきた。
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