誘惑コンプレックス

七福 さゆり

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1巻

1-3

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「どうしたの?」

 ハンカチ持ち歩いてるって知られたら、女の子っぽいって思われるかな?

「すみません。えーっと、呑みすぎてまた尿意がっ! ちょーっともう一回トイレに行ってきますね」
「ああ、そうなんだ。早く戻ってきてね」
「は、はい……」

 うう、早く帰りたい……そんなことを考えながらトイレのドアに手をかけると、

「ね、杉村はどうだった? いつも私が愚痴ぐちってる通り最悪でしょ?」

 と、さっき男性達と話してた時とは比べ物にならないほど低い目黒さんの声が聞こえてきた。
 二人でトイレに来たのは、悪口タイムのためだったようだ。
 自分の間の悪さに、心底嫌気がさす。
 しかもさっきまで『莉々花ちゃん』だったのに、友達の前では『さん』もなしの苗字呼び捨て……っ!

「ホント顔だけの女って感じだったー。男にコビコビだったしぃ~……」
「でしょう?」

 え、あれのどこが!? 下品とか言ってませんでした!?

「まあ、今回の男は狙ってないから別にいいんだけど。今日集めてくれたメンツ、全員ヤリチンだし、あいつらのうちの誰かがあの女を落として付き合うまでもっていけば、あんたのとこの社長も奴に幻滅げんめつするでしょ」

 はあああああ!? 

「そうね。そうすればパルファムの仕事からも外されるはずだわ。実力のないあの子のやった仕事を途中からやらされるなんてプライドが許さないし、そうなったら全部最初からやり直すわ。私の方がセンスもいいし、納期は少し押しちゃうかもしれないけど、まあ先方もデザインを見せれば納得してくれるでしょうしね」

 この人、嫌がらせをしたくて言ってるのかと思ったけど、本気で私が色仕掛けして、パルファムの仕事をもらったと思ってるの……!?
 頭に血が上って、思わずドアを開いてしまう。

「あのっ……!」

 突然勢いよく開いたドアから、悪口を言っていた相手が登場して、二人は驚いている。目黒さんは吊り目がちな目を大きく見開いた。
 オヤジっぽくてサバサバした性格の仮面をかぶっているのだから、キャラ的には聞き流さないといけないところなのに……ああ、ダメだ。止まらない。

「わ、私……そんなことしてません! 何度も説明しているように、あの仕事はコンペで正当に決まったことで……」

 止まらなかった割には、いざ面と向かうと、言葉がのどに詰まって上手く話せなくなる。目黒さんは驚いているようだけど、本人に悪口を聞かれたことに対しては少しもひるんでいない。

「あら、なんのこと?」
「え……?」

 し、しらばっくれる気……っ!

「それよりもどうしたの? またトイレ?」
「あ、いえ、忘れ物を……」

 あ、いけない。動揺しちゃって、つい本当のこと言っちゃった!

「忘れ物? ああ、もしかしてこのハンカチ? ちゃんと持ち歩いてえらいのね。はい、どうぞ」

 受け取ろうと手を伸ばすと、そのまま床に落とされた。

「ちょっ……なにを……」
「ああ、ごめんなさい。手渡すつもりが落としちゃったわ。うふ、酔っちゃったのかしら? 私、杉村さんと違ってお酒に弱いから」

 彼女の目付きは酔っているとは思えないほどしっかりしているし、口調もハキハキしているし、顔も赤くない。すっごい腹立つ。でも、本当に酔ってる可能性もあるし……
 とりあえずしゃがんで拾おうとしたら、床に落ちているハンカチを踏みつけられた。

「あら、ふらついちゃって足が……ふふ、ごめんなさいね」

 ハンカチには足跡がくっきり付いている。思い入れのある特別なハンカチではないけれど、その行為は私の心まで踏みつけたように思えた。
 こんの、腹黒……っ!
 これだけ確かな足取りで踏んだのなら、絶対に酔っていない。そう確信した私は、ハンカチを回収して立ち上がり、腕を組んで小馬鹿にしたような笑みを浮かべる目黒さんをにらむ。

「い、いい加減にして下さい……っ」
「はぁ!? 酔って足元がふらついただけなのに、先輩に向かってそんな言い方はないんじゃないのっ!? あんた、礼儀ってもんを知らないわけ!?」

 目黒さんが言い返す前に、酒井さんが口を出してきた。あまりの気迫で一瞬ひるんでしまう。

「さっきの発言といい、わざととしか思えませんっ! それにぎぬを着せられてることも納得いきません!」 

 いつもなら完全に引くだろうけれど、お酒が入っているせいかの自分が出てきてしまう。
 これ以上はダメ! 二度と会わない人ならまだしも、職場で毎日顔を合わせる人とめたら、今後にさわる!

「なんのこと?」

 目黒さんはクスッと笑って、悠々ゆうゆうと化粧直しを始める。

「仕事のことです!」
「仕事のことなんて一言も話してないわよ?」
「とぼけないで下さいっ!」
「勝手に盗み聞きして勘違いするなんて迷惑なんだけど」

 そう言われると、なにも言い返せない。
 確かに会話を最初から聞いていたわけじゃないし、盗み聞きと言われればそうなるだろう。

「酔っぱらってるからってなんでも許されると思わないでよね。由美子に謝んなよ」

 それはこっちの台詞せりふだと言ってやりたい。
 ああ、この追い詰められ方、中学生時代をすごく思い出す。高校に入って仮面をかぶるようになってからは波風を立てないように生きてきたから、こういった状況は久しぶりだ。
 言い返してやりたいことはたくさんあるのに、心臓がバクバク激しく音を立てて、指先が震えてしまう。
 ここで本格的な喧嘩けんかをすれば、仕事がし辛くなる。かといって悪くもないのに謝るなんて、プライドが許さない。

「ほら、謝んなよ。可愛いってだけでなにも言わずに許してくれるのは男だけだし」

 目黒さんは酔っていないようだけど、酒井さんは大分酔っているようだ。すごく顔が赤い。だからこそ攻撃的なのかもしれない。

「……っ」

 心臓の音が、とても近く聞こえる。左胸からじゃなくて、耳のすぐそばから聞こえてるみたいだ。


『なにも悪いことなんてしてないのに謝りたくありません! 謝るのはそっちの方じゃない!』

 頭の中で、自分の声がグルグル回る。
 でも早く謝らないと、会社でもっと気まずくなってしまう。
 目黒さんには以前まで私が手掛けていた仕事の後任も引き受けてもらっているし、彼女とはなにかと話す機会が多い。気まずくなったせいで、もし仕事に影響が出てしまったら……

「なに黙ってんの? 由美子に早く謝んなさいよ!」

 なんのために仮面をかぶっているの? 仮面を傷付けられても、痛くもかゆくもないんじゃなかったの!?

「……すみませんでした」
「まあ、お酒の場ってことで今日のところは許してあげるわ」

 勝ち誇ったように笑う目黒さんの顔を見ていると、はらわたが煮えくり返りそうになる。
 あれ、おかしいな……
 仮面を傷付けられただけなのに、辛くてたまらない。これ以上この場にいたら、泣いてしまいそうだ。
 この人たちに涙を見られるのは絶対に嫌……!

「私、酔って気持ち悪いので、途中ですみませんがこれで失礼します」
「は!? なに言ってんの? 途中でなんて……」

 酒井さんが、慌てて立ち去ろうとする私の手をつかんだ。私はそれを咄嗟とっさに振り払った。

「すみません、すみません! もう吐きそうなんです! 楽しい合コンを一瞬にして悪夢の場に早変わりさせちゃいますからっ! 失礼します!」

 それらしいことをベラベラ並べてトイレから出て、置いたままのカバンを取りに個室へ戻る。

「あ、おかえり。待ってたよ~!」
「あの、すみません。私、酔って気持ちが悪くなったのでこれで失礼します……!」

 おごってくれると言ったけれど、借りを作りたくない。カバンから財布さいふを取り出し、中を開くと万札しか入っていなかった。
 うう、両替えなんてしてたら、目黒さんたちが帰ってきて押しとどめられちゃうかも……!
 かなり辛かったけど諭吉を一枚取り出して、テーブルに置いた。

「いやいや、大分多いし! っていうか、おごるからいいよ」
「それよりも大丈夫? 俺が家まで送っていってあげるよ」
「いや、俺が……」

 男性陣が腰を上げようとする。酒井さんがヤリチンだと言っていたことを思い出し、慌てて首を左右に振った。

「だ、大丈夫です! 本当に大丈夫なので……し、失礼しますっ!」

 すぐに居酒屋を出た私は、エレベーターを待たずに階段を一気に駆け下りた。居酒屋の入っていたビルから出た瞬間、涙がボロボロこぼれた。
 バカじゃないの? 本心で謝ったんじゃないのに。仮面をかぶったいつわりの私が形式上謝っただけだ。それなのにどうして泣いてるの? どうしてくやしいと感じるの?

「……っ……」

 仕事でトラブルになるより、素直に謝っておいた方がずっといいじゃない! 本心じゃないんだし!
 自分の中で先ほどの行為を正当化しようとしたけれど、涙はなかなか止まらなかった。


   ◆◇◆


 居酒屋を出た後、私は家に帰ることなく一人会社に戻ってきていた。
 こんな顔で家に帰ったら、両親を心配させてしまう。私はまだ実家暮らしなのだ。正確に言うと就職してからすぐに一人暮らしを始めたものの、隣人がストーカーになって数々の恐ろしい行為を始めたので二か月で出戻るはめになった。
 うう、嫌なことを思い出してしまった。とにかくこの泣きらした顔をなんとかしなければ……

「あった。よかった」

 それからもう一つ、防犯ブザーを会社に忘れたことを思い出したのだ。
 駅から我が家までは、少し薄暗い道を歩かなくてはならない。繁華街が近いこともあり、夜遅くに歩いていると高確率で変質者がうしろから付いてくる。だから危害を加えられそうになった時は躊躇ためらわずにブザーを鳴らすことにしている。
 なにかあってからじゃ遅い。自分の身は自分で守らなければ!
 着ていたジャケットのポケットに防犯ブザーをしまって、自販機で買ってきたお茶のペットボトルをまぶたの上にあてる。

「冷たっ」

 ハンカチに包んでからあてた方がいいかも……って、そうだ。今日持ってきたハンカチは殉職じゅんしょくしたんだった……
 今日は金曜日だし、みんな早めに退社したようだ。いつもならまだ人がいる時間なのに、今日は一人も残っていない。誰もいなくて助かったけど、鍵が開いていたのは不用心だ。
 業務の都合上、退社時間がまばらなため、『この時間には施錠せじょうしますよ』と言っても無理なので、一人一本事務所の鍵が支給されている。それで、最後に退社する人間は鍵をかけていくのがルールなのだ。
 作業に夢中だと誰かが退社しても気付かない時があるし、誰か残ってるだろうと思って開けっ放しで帰ったのかもしれない。
 お茶がぬるくなるまでやっていたおかげで、白目は赤いけどまぶたれは引いてきたような気がする。
 でも、まだ『泣いてきました』って顔だなぁ……
 二十一時……まだ両親が起きてる時間だ。事務所で時間をつぶさせてもらって、寝静まった頃に帰ろう。

『今日も仕事で遅くなるので、先に寝てて下さい』

 母にメールを送ると、すぐに『わかりました』と返ってきた。よし、これで遅くなっても心配させずに済む。
 ぬるくなったお茶を冷蔵庫にしまって、新たに買ってきたお茶をまぶたにあてていると、ドアが開く音が聞こえた。
 えっ! 鍵の閉め忘れじゃなくて、誰か残ってたの!? でも、真っ暗だったよ!?
 まさか目黒さん!? ……はないか。まだあの男の人達と呑んでる最中か、酒井さんと私の悪口大会をしているはずだ。
 誰だろう。うちの会社の人じゃなくて、警備員って可能性もあるかな。どっちにしろ気まずいなぁ……
 足音と煙草たばこの香りが近付いてくる。お茶をそぉっとけて周囲をうかがったら、社長が不思議そうな顔をして立っていた。

「杉村、どうしたんだ? お前、定時に退社してなかったか?」
「しゃ、社長……お、お疲れ様です。あの、忘れ物しちゃって……」

 よりによって社長――……!

「忘れ物?」

 失礼だとはわかっていても、顔を見られないようにうつむいてしまう。

「はい、あの……防犯ブザーを」

 ポケットにしまった防犯ブザーを取り出して見せると、社長がまじまじとながめ出す。
 え、なに? まさか泣いてるの……バレた!?

「それが防犯ブザーなのか?」
「え? あ、はい」
「とても防犯ブザーに見えない形だな」

 私が持っている防犯ブザーは、ドーナッツ型の可愛らしいものだ。

「そうなんです。昔は『防犯ブザーです!』って主張しているようなデザインが多かったんですけど、最近はこんな可愛らしいデザインのものも売ってるんですよ」

 ……しまった! 誰にも見せないと思って、可愛いの買っちゃったんだった! 見せてどうするの! こんなことなら、もっとシンプルなものにしておけばよかった!

「あー……っと、えーっと、最近だと普通のデザインのを見つけるのが難しいぐらいで、私も仕方なく可愛いのを買った感じで……は、はは……」

 早くしまいたいのに、まじまじと見られているせいでなかなかひっこめられない。

「そんなので、ちゃんと音が鳴るのか?」
「はい、こう見えて結構大きな音が出るので、痴漢ちかんも不審者も一目散いちもくさんに逃げていくんですよ」

 思わず顔を上げてしまった瞬間、社長の視線が防犯ブザーから私の顔へと移る。切れ長の目が、少しだけ大きくなったのがわかった。
 しまった。泣いてるのに気付かれた……!

「試したことがあるのか?」

 あれ? 気付かれてない? 今驚いた表情をしたのは、防犯ブザーを実際に使ったことがあるのに対して?

「あ、はい。週に何度かは……」
「今までの人生で何度かではなくて、週に!?」

 あ、やば……っ!
 動揺してたから、つい正直に言ってしまった。
 女性同士だと痴漢ちかんや不審者にあったという被害報告でも、そんな被害にあっちゃうほど自分は可愛い、異性から見て魅力的な女性なのだと自慢をしていると思われる可能性があるのだ。
 まあ、実際に自慢している子がいるから、そういう風に思う人がいるわけで……どれだけ自衛しても被害にあう私からしたら『ふざけんな!』と一喝いっかつしてやりたくなる。
 ……と、話がれたけれど、私は普段、痴漢ちかんや不審者に一度もあったことがない、という設定で通している。

「そうか。可愛いと大変だな……」

 容姿について言われたことに過剰反応してしまい、私は慌てて首を左右に振る。

「ち、違うんですっ! 可愛いとかそういうのじゃなくて、奴らは女性なら誰でもいいんですっ!」
「しかし週に何度もあうというのは、普通の女性ではありえないだろう」

 友人の報告と比べて、自分が被害にあう回数は確かに尋常じんじょうではないとわかっていた。でも、否定しないわけにはいかない。否定しなければ、容姿が優れているから被害にあうのだと認めることになってしまう。

「や、いやいやいや! ち、違うんです。本当に……あの……」

 でも上手い言い訳が思いつかない。早くなにか言わなければと考えるほど、頭が真っ白になっていきまったく思いつかない。
 チラリと社長の顔を見ると、みるみるうちに顔色が悪くなっていく。

「防犯ブザーを会社に忘れたせいで、不審者になにかされたのか?」
「へ?」
「だからそんなに泣きらした目をしているのか?」

 や、やっぱり泣いてたことバレてた……!
 というよりも、とんでもない誤解を生んでしまっている。

「違っ……違います! 違うんです!」
「大丈夫だ。このことは誰にも言わない。辛いかもしれないが、泣き寝入りはよくない。俺が付き添うからすぐに警察へ……」
「いえいえいえ! 本当に違います! 違うんです。これはその、そう! 眼精疲労です! 疲れ目なだけです! 年を取った証拠ですかねっ!? いやいや、困った、困った!」
「年って……まだ、若いだろう」

 泣くはめになった原因を追及されたくなくて誤魔化ごまかしたものの、苦しい……かな!?

「それでそのー……目を押さえてたら、コンタクトがずれてしまって。あーいたたたっ」

 目頭を押さえながらそれらしい言い訳をしてみる。これでどうだ!?

誤魔化ごまかさなくていい。立てるか?」

 ああ、ダメだった。誤魔化ごまかせてないっ! このままだと本当に警察まで付き添われちゃう!

「ち、違うんです。本当に違うんです。泣いてたのは、その、認めます……! でもこれは不審者になにかされたからじゃなくて、嫌なことがあっただけですっ! このままの顔で帰ったら両親を心配させると思って、忘れた防犯ブザーを取りにくるついでに休ませてもらってました。仕事でもないのに長々と残ってすみませんでした」
「ああ、そうだったのか。……何事もなくてよかった。いや、泣くほど嫌なことがあったのはよくないが……」

 プライベートなことで事務所を使うなと怒られてもおかしくなかったのに、社長は心底ホッとしたような表情を浮かべる。

「あの、今から仕事ですか?」
「今からというか、今までずっとしていたが」
「えっ! 今までこんな暗闇で仕事してたんですか!? 私、てっきり誰かが施錠せじょうし忘れたのかと思ってました」
「ああ、暗い方がなんとなく落ち着くからな。一人の時は電気を消して、パソコンの明かりだけで仕事をしてる」
「目、悪くしますよ?」
「もう悪いから別に構わない」

 社長は閉じていたノートパソコンを開いて、キーボードに指を走らせる。
 そういえば、さっき社長が近付いてきた時、煙草たばこの香りがした。席を立っていたのは、喫煙所で煙草たばこを吸っていたからだろう。だから私が入ってきた時はフロアに誰もいなくて、残業してる人はいないと思い込んだに違いない。

「あの、じゃあ私……お先に失礼します。今日は本当にすみませんでした。あ、これおつまみ昆布です。よかったら小腹の足しにして下さい」

 買い置きしておいたおつまみ昆布を社長に手渡して、そそくさと席を立つ。

「待て、まだ目のれは引いていない」
「え? あ、はい」
「……後は帰宅するだけだと言っていたな。ということは、特に用事はないということか?」

 なぜこんな質問をされるのだろう。まだれぼったくて空気に触れるだけでヒリヒリする目をまたたかせながら、「はい」と短く返事をする。

「体調はどうだ?」
「えっと、普通ですが……」
「じゃあ、呑みに行くぞ。付き合え」
「……へ!?」

 耳を疑った。社長がプライベートで社員を呑みに誘った!?

「後十五分ほどで退社できる。目を冷やして待っていろ」
「え? で、でも」
「なんだ。なにか問題でもあるのか?」

 色々大ありですよ! 社長と呑みに行ったなんてこと誰かに知られたら、目黒さんに『ほら、やっぱり色仕掛けで仕事取ってるんじゃない』なんて言われかねない。
 でも自分からそんなことを言えば、なにを自意識過剰になっているんだと思われてしまうだろう。
 き、きつい……それはきついし、恥ずかしい。
 二度と会うことのない他人に思われるならまだしも、毎日顔を合わせなくてはいけない上司に思われるのは辛い!

「呑んでいる間に目のれも引くだろう。週末だし、呑みすぎたところで明日にさわることもない」

 あ……そっか。私が嫌なことがあったって言ったから、気遣ってくれてるんだ。
 ささくれ立っていた心が、少し穏やかになっていく。
 やっぱり社長は優しいな……
 誰かに知られるのは怖いけど、社長と会社の行事以外で呑むなんて初めてだし、まさかそんな機会が来るとも思っていなかったから好奇心が芽生えてしまう。

「帰りは防犯ブザーを鳴らすはめにならないよう、タクシーで送るから心配しなくていい」

 社長の気遣いに、ずっとへの字になっていた口元がほころぶ。

「はい、ありがとうございます。じゃあ、よろしくお願いします」

   ◆◇◆


 社長が連れてきてくれたのは、落ち着いた雰囲気のダイニングバーだった。
 普通のところでよかった……
 私の中の社長はドラマで見るようなオシャレなバーとかで呑んでるイメージ。でも、そんなところに連れて行かれたら場違いすぎて挙動不審きょどうふしんになっていたところだ。それに個室というのもありがたい。会社近くだから不安だったけど、これで誰かに見られてトラブルになる可能性は減った。
 店員に灰皿を使うか確認されて、てっきり受け取ると思ったのに社長は「いえ、結構です」と断った。
 あれ……?

「社長、煙草たばこやめたんですか?」

 でも、さっき煙草たばこ吸ってきてたよね? 煙草たばこの匂いしたし……

「いや、やめてはいないが……煙草たばこは苦手じゃないか?」

 もしかして、私に気を遣ってくれてる?

「大丈夫です。あの、すみません。灰皿下さい」
「かしこまりました」
「本当にいいのか?」
「はい、大丈夫です。私のことは気にしないで、吸いたい時に吸っちゃって下さい!」
「ああ、ありがとう」

 実は煙たいから苦手だけど、煙を嫌がると可愛い女性を演じているように見えそうで、本当のことは言えない。それに他の人の煙は嫌だけど、社長が吸う煙の匂いならいくらでも耐えられそうだ。

「そういえば、食事はとったか?」

 そうだ。私、ご飯まだだった。

「いえ、まだです」
「じゃあ、適当に色々頼むか。好きなものを頼むといい」

 合コンの時に色々料理は出たけどはしが進まなかったし、さっきまでは泣いていてそれどころじゃなかったけれど、今になって少しお腹がいてきた。
 えーっと、いつも通りに女性らしくないものを頼まないと! なにがいいかな。

「……と、先に飲み物だな。なににする?」
「あ、じゃあ……」

 メニューに写っているお酒の写真は、果物を飾ったフローズンカクテルやグラスの上部を生クリームやチョコレートソースで彩ったパフェのようなもの――なにからなにまで可愛くて、美味おいしそうで、口の中が唾液でいっぱいになり、思わずごくりとのどを鳴らしてしまう。
 うう、そんな可愛らしいメニューを頼むなんてダメダメ……! ビールにしなきゃ!

「ビールで……社長はなににしますか?」

 あまりに無念すぎて、少しつぶれた声になった。


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